梅雨は好きではない。
水分を含み、泥濘んだ地面。せっかく花を開いた植物たちも、雨に打たれ花弁を落とすのだ。可哀想だと言えば笑われるだろう。それでも、泥の上に散らばる花弁を見てると、この花たちはなんのために蕾をつけたのだろうかと考えてしまう。
そこに、自分を重ねてしまえば、余計。

昇降口前、大量の雨を排出する濁った空を見上げていると、不意に頭上に傘が差される。驚いて振り返れば、そこにはよく知った人がいた。


「……こんなところにいたら濡れるぞ。それとも、傘を忘れたのか?」


会長は、丁度今から帰るところだったようだ。
ぼんやりと外を見上げて突っ立ってる俺が不思議だったのだろう。尋ねられ、俺は「すみません」と謝る。
……傘は、鞄の中に常に折り畳み傘を常備していた。けれど、肯定するタイミングを逃してしまう。


「君が良ければ学生寮まで送るが」


傘はある。けれど、会長の誘いは純粋に嬉しかった。それに、今は誰かと一緒にいたい気分だったのも事実だ。少しだけ迷って、俺は「お願いします」と頭を下げる。

芳川会長とは、便宜上付き合っていることになっている。
だから、こうして相合い傘をしていても、『恋人』同士ならばおかしくはない。……それが俺と会長となると、また話は変わってくるのかもしれないが。


「……今日は、生徒会活動はないんですね」

「ああ、今日は少し用事があってな、他の連中なら集まってるかもしれんが俺は抜けることになってる」

「……用事、ですか?」


「すみません、俺、忙しいところに」と慌てて頭を下げれば、会長は「別に構わない」と即答する。
それから、大した用事でもないんだとも付け足した。

会長は、あまり自分のことを話したがらない。
だからだろうか、俺は会長のことを何も知らない。皆から頼られる生徒会長であることと、それから、実は甘いものが大好きなところ……あと、真面目で頑固なところくらいか。
会長の用事ってなんだろうなんだろう。気にはなったが、踏み込んでいいのか迷ってしまう。付き合っていることになってるとはいえ、俺と会長はただの先輩後輩だ。……距離感を履き違え、会長に嫌がられることはしたくなかった。


「……すみません、お忙しいのに……ありがとうございます」


最初からちゃんと傘を持っていると伝えておけばよかった。今更になってチクチクと罪悪感に蝕まれる。項垂れれば、隣でふ、と笑う気配がした。


「……何か勘違いしてるようだが、俺は君に頼られることを嬉しく思っている。……俺が好きでしていることだ、むしろ、こちらこそ付き合ってくれて感謝する」


……会長らしい、と思った。俺が気を遣わないようにフォローしてくれる。会長の優しさが身に染みる。……こういうところがあるから、勘違いしそうになるのだ。
まるで、本当に会長の恋人になったみたいな甘い熱が心臓にじわりじわりと広がる。
……この感情は、良くない。わかっていた、けれど、会長もずるいと思うのだ。


「……雨、止みそうにないな」

「……そうですね」

「早く梅雨が明ければいいのだが……入ったばかりだからな、これから先が思いやられる。今年の降水量は昨年よりも増してるようだ」


雨は嫌いだ、と会長はため息を吐いた。
ぴちゃりと足元の水溜まりが跳ねた。会長も雨が嫌いなのだと聞くと、少しだけ親近感を覚える。
数メートルしか歩いていないというのに既に靴は水分を含み、足元、スラックスの裾すらも濡れていた。足が重い。けれど、不思議と気分は悪くなかった。理由はわかってる。会長と肩を並べることができているからだ。傘の下、周りからは見えない。俺たちの会話も声も、雨に掻き消されて他の人間には聞こえないだろう。傘の下。確かにそこは俺たちだけの空間だった。
肩と肩が触れ合う。会長は「すまない」と口にする。俺が、あ、いえ、こちらこそ、と慌てて離れようとしたとし、伸びてきた手に肩を抱き寄せられた。
驚いて会長の方を向けば、至近距離、目が合う。


「……傘から出たら濡れるだろう、もっと入れ」


有無を言わせないその言葉に、ドクリと心臓が大きく脈打った。しとしとと降り注ぐ雨の中、俺は少しだけ迷って、「はい」と会長の方へと体を寄せた。
肩の手はすぐに離れたが、触れられた箇所が火傷のように熱を持ち始める。
学生寮までの間、そんなに距離はないはずだ。けれど、会長と一緒にいる時間は酷く長く感じた。緊張して、息が浅くなる。周りから自分たちがどんな風に見えてるのだろうかとか、そんなことを考えてしまうのだ。
ちゃんと恋人同士に、見えるのだろうか。それとも。


「……ついたな」


学生寮前。雨のこともあってか、皆早々に屋内へと移動してるようだ。人気はないそこで足を止める会長に、ハッとする。もうついてしまった。
……名残惜しい、と思うのはワガママなのだろうか。せっかく二人きりでいれたのに、その時間が終わってしまったことが酷く寂しく、同時に、物足りなさを覚えた。
会長に優しくされる度に、特別扱いされる度に、どんどん自分が欲深くなっていくようで嫌だった。だから、俺は、心の底のそれらを押し殺し、「ありがとうございました」と会長の傘から出ようとした。
そのときだった。


「齋藤君」


学生寮へと移動しようとして、呼び止められる。振り返ったとき、傘が俺の上へと動く。陰る視界の中、唇に触れる感触、その熱に、一瞬雨の音が遠退いた。俺たちの周りだけ時間が止まったような錯覚を覚える。
ゆっくりと離れる唇。真正面、レンズ越しにこちらを捉えるその瞳に見つめられ、息が止まる。俺は、一瞬自分が何をされたのかわからなかった。そして、それを理解したとき、全身の血液が一気に顔に集まる。


「……あ、あの……」

「……それじゃあ、体を冷まさないように」

「ぇ、あ、は、はい……気をつけます……」


声が、震える。会長はそれだけを言えば、こちらを振り返りもせずに校門へ向かって歩きだす。本当に、俺を送り届けるためだけに相合い傘してくれたようだ。
……じゃなくて、今の、夢じゃないよな。
そっと唇に触れる。柔らかいその感触は確かに残っていた。トクトクと、心地よい脈が全身に広がる。顔が、熱い。
……会長はずるい。今のも、恋人を演じるための演出なのだろうか。だとしたら、とんだ役者だ。
けれど、そう思う方がいい。……でなければ、動悸のあまりどうにかやってしまいそうだ。


梅雨は好きではない。

水分を含み、泥濘んだ地面。そこに足を取られてしまえば、立ち上がるのは難しい。
好きになってはいけないとあれほど理解していたはずなのに、雨は無差別に降り注ぐのだ。


おしまい

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