前回っぽいもの(阿佐美視点)


阿佐美のことは、嫌いではない。
変わり者だけど、優しくて、少しだらしないけど、俺にとっては数少ない友人の一人だった。


「……っ、ん、ぅ……」


どうしてこうなったのか、どこで踏み違えたのか、分からない。けれど、重ねられる唇も、優しく髪を掬う指先も、他のやつらとの行為には感じなかった居心地の良さを覚えるのだ。
色恋のいの字も分からない俺は、必死に阿佐美にしがみつくことで精一杯だった。


「……ゆうき君、嫌だったら、嫌って言ってね」


最初は俺の言葉も聞いてくれなかった阿佐美は、そう一応は俺に聞くようになった。
けれど、その言い方はずるいと思う。
俺が阿佐美を拒めるわけがないと分かってて、その癖、拒まれることを恐れてる阿佐美は、俺が口を開くよりも先に唇を塞ぐのだ。

合図もなく、重なるだけのキスを繰り返す。
部屋の中、布の擦れる音と微かなリップ音だけが響いた。


「っ、……っ、ん、んん……」


舌が熱い。そっと、啄まれる唇を舐められればくすぐったさに耐えられず、身を捩る。
肩を掴まれ、抱き寄せられ、何度もキスをした。
身体に触れる阿佐美の手は焼けるように熱くて、こちらにまでその熱が伝染るみたいに全身が火照っていく。


「っ、ゆうき君……」


時間感覚もあやふやになっていた。
随分と長い間、阿佐美に唇をしゃぶられていたような気がする。
舌を離した阿佐美は、こちらをそっと覗き込んだ。
その舌先と自分の唇が糸を引いてるのを見て酷く恥ずかしくなったが、それ以上に、微かに濡れた阿佐美の瞳が前髪の下で揺らぐのが見えて、動揺する自分がいた。
もっとしたい、そう言うかのようなその目に、心臓が跳ね上がる。
前みたいに、俺のことを無視して好き勝手してくれればいいのに。それでもまだ俺の意志を尊重してくれる阿佐美が逆に憎たらしくて、嬉しくて、居た堪れなくなる。


「……っ」


阿佐美から目を逸らした俺は、そのまま、阿佐美の手を取って、握り締める。熱い掌。それにそっと指を絡めれば、みるみるうちに阿佐美の頬が赤くなった。


「ゆ、うき君……っ」


阿佐美の喉仏が、上下する。そのまま視線を上げようとしたのと、阿佐美が首元に首を埋めてきたのはほぼ同時だった。
押し倒されそうになって、辛うじて体勢を保つことに成功したが、それでも、覆い被さってくる阿佐美に押し潰されそうになる。


「詩織、待って、詩織……っあの、電気……消して……」


阿佐美を止められるはずがないと分かっていても、せめて、視界を暗くしたかった。
阿佐美は少しだけ迷ったあと、「分かった」と言って部屋の照明を暗くする。
完全に視界が奪われたわけではないが、言うことを聞いてくれた阿佐美に少しだけ安堵した。
それも束の間、暗くなった視界の隅、阿佐美の影が動く。優しく撫でるように脇腹に触れる手に、喉の奥が震えた。

阿佐美に触られるのは、好きだった。優しく、労るように指先で撫でられるとくすぐったくて、愛しさが込み上げてくるのだ。
けれど、それ以上に、阿佐美の影と、あいつの影が重なるのだ。
全部忘れて、阿佐美に触れられていたいのにいつだって思考の片隅には阿賀松伊織がいて、俺に囁きかけてくるのだ。『妥協のつもりか?』と、厭らしく、絡みつくように。

阿佐美と一緒にいれば、余計なことを考えずに済むと思っていた。ただ純粋な愛しさで満たせば、それでいいと。
けれど、阿佐美に抱かれる度、触れられる度、影は濃さを増していく。
阿賀松の亡霊が、いつだってこちらを見て笑っているのだ。お前が本当に求めているのはなんだ、と。


「……っ、ゆうき君……?」


声を掛けられ、ハッとする。
どうやら、いつの間にかに気を失っていたようだ。ベッドの上、慌てて起き上がろうとすれば鈍痛が下腹部に走る。


「無理しない方がいいよ。きっと、負担掛かってるだろうから。……喉、乾いてない?俺、用意してくるよ」


そう言って、申し訳なさそう項垂れた阿佐美はそのまま立ち上がり、部屋の冷蔵庫の元まで歩いていく。

きっと、阿佐美が身体を拭いてくれたのだろう。肌にべたつく嫌な感じはない。それに、今回も痕を残してはいないようだ。
……阿賀松とは大違いだ。
主張するかのように皮膚に爪を突き立て、歯を食い込ませ、唇を這わせる。俺の痛みになんて関係なく、皮膚に自分の印を残したがる阿賀松とは対照的に、阿佐美は自分との行為の形跡を跡形もなく消すのだ。
それが少し寂しかったが、阿佐美のその対応は間違っていないのだろう。


俺は、阿賀松伊織の恋人である。
そして、阿佐美は、阿賀松の弟だ。
俺達の関係は、純粋と言えるようなものではなかった。

阿賀松の目を盗んで、隠れて抱き締められるだけでよかった。それ以上は望んでいなかった。
少なくとも、俺は。
阿佐美の気持ちに薄々気付いていながらも俺は自分が楽な道を選んでいたのだ。
阿賀松を裏切り、阿佐美を蔑ろにする。
それが、俺の過失だ。

だから。こんなことになってしまったのだろう。


某日。
放課後になり、部屋に戻ってきた俺を出迎えたのは阿佐美ではなく、阿賀松だった。


「よぉ、随分と遅かったな。ユウキ君」


阿佐美のベッドの上、足を組んだ阿賀松に驚きのあまり俺は持っていた鞄を落とした。
どうして阿賀松がここに。
それよりも、どうして阿佐美がいないんだ。


「どうしたんだよ、そんなとこで突っ立ってねーでこっちに来いよ。……それとも、自分じゃ歩けねえのか?」


喉を鳴らし、下品に笑う。
阿賀松の意図が読めず、身構えるなという方が無理だった。それでも、阿賀松の機嫌が悪いのは見て分かった。いつも以上に、目が笑っていないのだ。


「来いよ、こっちに」


そう、阿賀松は自分の隣を叩く。
舐めるような視線に、全身が竦んだ。
なんのつもりなのか、全く分からない。それでも、逆らうことはできなかった。
覚束無い足で、阿賀松の元へと歩く。一歩、また一歩と足を進め、ベッドまでやってきたとき、「座れよ」と阿賀松は俺を見上げたまま、笑った。


「……」


緊張で、息が出来なくなる。
それでも、平然を装わなければならない。阿賀松に、動揺を悟られてはいけない。そう思い、恐る恐る阿賀松の隣に腰を下ろしたときだった。
伸びてきた腕に、腰を抱き寄せられる。


「……っ、せんぱ……んんッ」


驚いて、離れようとするのも束の間。躊躇いもなく唇を重ねられ、肉厚な舌が捩じ込まれる。
驚いて、思わず舌を噛みそうになったがなんとか寸でのところで耐えられた。


「ん゛ぅ、ッぐ、んんッ」


噛み付くように唇を貪られ、喉奥まで差し込まれる舌に粘膜を擦られ、腰が震える。
昨夜、阿佐美と身体を重ねていた場所で、阿賀松とキスをする。それは俺にとって耐えられるようなものではなかった。
混乱する頭。咥内いっぱいに響く濡れた音に頭の中まで掻き回されているようなそんな錯覚を覚える。


「っ、ぐ、ぅ……っん、ぅう……ッ」


舌を抜き差しされ、何度も上顎を擦られる。その度にやつの舌ピアスが擦れ、身体の芯が蕩けそうな程熱くなる。
背徳感、なんてものではない。
こんな所を、阿佐美に見られたらと思うと気が気でなくて、それなのに、逆らえない。


「口を開けて、舌を出せ。……今度は自分からキスを強請るんだよ」


囁かれるその声に、言葉に、全身が粟立つようだった。
そんな真似、出来るわけがない。考えただけでも恥ずかしいのに、阿賀松の目で見詰められると、無意識の内に舌を突き出してしまう。
できない、無理だ、こんな厭らしい真似。できない。
そう思う反面、震える舌を突き出したまま、阿賀松の胸元にしがみつく。恐る恐る、そのピアスがぶら下がった赤い唇に舌先を近付ける。
すぐ傍に阿賀松の顔があって、至近距離では阿賀松から目を逸らすことも出来なかった。
そっと、その唇の薄皮を舌の先で舐める。
キスと呼ぶにはお粗末で、それでも、他人にそんなものを強請る方法が分からない俺にとってこれが精一杯だった。
阿賀松の表情から笑みが消える。冷めた目に見据えられ、胸の奥が凍りつくようだった。


「……なんだ?これで終わりか?ガキじゃねえんだからさぁ……もっと、あるだろ。……詩織にしたみたいに、顔、舐めてもいいんだぜ」


その一言に、今度こそ、心臓が停まりそうになる。
阿賀松から飛び退こうとしたが次の瞬間、ネクタイを掴まれ、引き戻される。
締められる首に息が詰まりそうになって、慌てて阿賀松を突き飛ばそうとするがすぐに頬を殴られ、全身が硬直した。
動揺のせいもあってか、痛みよりも先に恐怖が、緊張が、全身を支配する。


「っ、ど、して……それを……」

「……さぁな、どうしてだと思う?……ま、どうせテメェの頭じゃわかんねーだろうからヒントやるよ」


「俺は、鼻が良いんだ」そう、阿賀松はにっこりと笑い、ばたつく俺の腹を殴った。瞬間、腹の中の臓器ごと潰すような衝撃が走り、堪らずえずく。
苦しい、とかよりも、阿賀松にバレていた。その事実が何よりも恐ろしくて、顔を上げられない俺の前髪を掴み、やつは力づくで上を向かせてくる。
阿賀松は、こちらを見下ろし、笑っていた。
それは、笑みと言うには残忍で、歪で、まるで罪人か何かを見るかのようなその目に俺は無意識の内に固唾を飲む。


「俺の可愛い詩織ちゃんまで誑かしてまで、そんなに寂しかったのか?……ユウキ君」

「……ッ、……ごめん、なさ……ッ」

「なぁに謝ってんだ?俺は聞いてんだよ。寂しかったのかって、なぁ。ユウキ君」


髪を引き千切られそうな程の強い力。
細められたその目は笑っていない。俺が答え倦ねていると、阿賀松に頬を掴まれ、無理矢理阿賀松の方を向かされた。


「寂しくて、詩織に手を出したのか」


背筋が凍るほどの冷徹な声に、目に、俺は、目を逸らすことが出来なかった。
俺が、きっかけがどうであれ阿佐美を利用していたのも事実だ。阿佐美に阿賀松を重ねて、優しく触れられるごとに満たされていたのも嘘ではない。
阿佐美は、悪くない。悪いのは、阿佐美の気持ちを知っておきながらちゃんと拒まなかった俺だ。
俺が、俺の、全部、俺が。


「……っ、はい……」


震える声を振り絞り、そう言葉にした瞬間、阿賀松の目の色が変わった。
殴られる、と身構えた時、阿賀松は俺から手を離した。
そして、阿賀松は自分の背後に目を向けた。


「だってよ。……聞こえてたかよ、詩織」


洗面室に繋がる扉の前、いつからそこにいたのか、佇む阿佐美は無表情でこちらを見ていた。
どうして、どこから見ていたのか、そして、自分が口にした言葉を思い出し、血の気が引く。


「し、おり……っ」


今のは違う、なんて弁解する頭も余裕もなかった。
阿佐美は、微かに目を伏せ、そして俺の頬に触れた。


「……ごめんね」


ハンカチをそっと押し当て、申し訳なさそうに阿佐美は笑った。その傷付いた笑顔に、胸が抉られるように痛む。
俺から阿賀松へとゆっくりと視線を向けた阿佐美は、その口元を引き締めた。阿賀松とよく似た、冷めた目で。


「それで?満足したか?……ゆうき君は、お前のことが大切なんだよ。……分かっただろ」

「お前はそれでいいのかよ、詩織」

「言ってるはずだけど。俺は最初からお前の代わりになれるなんて思ってなかったって」


本心か、嘘か、分からなかった。
二人の会話が、ただ淡々と耳から耳へと通り抜けていく。
けれどただ、阿佐美の声がいつもの優しいものではなく取り繕ったときの態度だということに気付いてしまい、余計、胸が苦しくなる。俺は、俺の曖昧な態度のせいで阿佐美は自分で自分の首を締めていくのだ。
それが、一番穏便に済む方法だと分かっているから。


「……そうかよ」


それなのに、阿賀松はつまらなさそうに吐き捨てた。
俺には分からなかった。全ては阿賀松を中心に回っていて、それを望んでいるのだと思っていただけに。
「行くぞ、ユウキ君」と一言、阿賀松は俺の腕を掴み、そのまま部屋を出ていこうとする。
阿佐美は何も言わずに俺たちを見送った。
後になって、その時の阿佐美の心中を考えること申し訳無さでいっぱいになる。

結局、阿佐美の言葉もあってか、阿賀松にはそれ以上何かをされることはなかった。
殴られた傷は何日かに渡って響いたが、それも珍しいことではなく傷が癒えかけた時にはまた別の新しい傷が増えていく。そんな日々をただ繰り返すのだ。

それでも一つ、変わったことがある。


「……ゆうき君、湿布。新しいのもらってきたんだけど……貼ろうか?」


自室、風呂上がり。
こわごわと尋ねてくる阿佐美に、俺は小さく頷き返す。

あの日以来、阿佐美との関係は変わった。
以前のように肌を重ねることがなくなった、わけではなく、阿賀松に知られてしまった今、以前のような後ろめたさがなくなったのだ。
Tシャツを脱げば、そっと背筋を撫でられる。貼る位置を確認しているのだろうが、ただくすぐったい。


「……大分、痕が消えてきたね」

「そうかな。……こっからは何も見えないからわかんないんだけど……」

「うん、これならもう人前で着替えても大丈夫だよ。……もしかしたら、ゆうき君は色が白いから余計目立つのかもしれないね」


笑う阿佐美につられて、頬が綻ぶ。

俺たちにとって、一番恐れていたのはお互いがお互いの一番になってしまうことだ。一番手を恐れ、二番目で燻ぶる。それがお互いにとって楽で、丁度良かった。
俺にとっても阿佐美にとっても、阿賀松が一番でなければならない。それを確かめ合うことが出来たあの日以来、俺たちの距離はより近付いた。
俺達の一番の大切な人間である阿賀松は、何も言ってこない。呆れられたのかもしれない。それでも、俺は構わないと思う。
こうして、以前のように阿賀松の影に怯えることがなくなったからだ。


「っ、詩織……あの、触りすぎ……」

「あ、ごっ、ごめん!……痛かった?」


「すぐに貼るね」と焦った阿佐美はわたわたと俺の背中に湿布を貼ってくれる。ひやりとした感触につい「う」と声を漏らしてしまい、阿佐美が申し訳なさそうに項垂れる。


「……い、痛くしちゃったかな……?」

「う、ううん、大丈夫……少し沁みるけど……これならきっと明日にはもう湿布はいらなくなるかもそれない」

「……そっか、それなら良かった」


そう言うものの、俺の背中に触れたまま阿佐美は動かない。
どうしたのだろうか、と後ろを振り返ろうとしたときだった。
背中の、肩甲骨の辺りに、柔らかな感触が落ちる。
毛先の当たる感触。どうやら、柔らかいそれは阿佐美の唇のようだ。


「ぁ、あの、詩織……」

「……正直、こんなこと言ったらゆうき君に嫌がられるかもしれないだろうけど……寂しいんだ。お風呂上がり、ゆうき君の手当は俺しか出来ないって思ってたから」


ちゅ、ちゅ、と傷跡をなぞるようにキスをされる。
くすぐったさよりも恥ずかしさが勝り、自然と前屈みになってしまう俺の背中にくっついた阿佐美は、更に腰を抱き寄せ、俺を捕まえた。


「……ごめんね、不謹慎だね。……けど、ゆうき君のこの背中に傷を付けれたらって思うんだ、そんな真似できないけど……。ゆうき君が、俺を信じて無防備に背中を晒してくる度にそんなことを考えてしまうんだ」

「……っ、詩織……」


脇腹から脇の下、上半身の形を確かめるように皮膚の上を滑る阿佐美の指に、背中に吹き掛かる息に、体温が上昇する。
それが阿佐美にも直接伝わってしまっているのだと思うと余計、いても立ってもいられなかった。


「……いいよ、つけても」


喉がヒリつく。言葉にしてみるとやけにぶっきらぼうになってしまったが、震えを堪えるので必死だったのだ。
俺の言葉に、阿佐美の手の動きが止まる。
そしてすぐに、背後で困ったように阿佐美が笑うのが分かった。


「……ごめんね、気を遣わせて。俺の戯れ言だよ。あっちゃんの大切な君に、そんな真似は出来ないよ」


「俺にはその資格はないから」と、阿佐美は俺から手を離した。
そんな阿佐美に、酷くガッカリしている自分がいた。

あの時、阿佐美の態度につまらさそうにしていた阿賀松の気持ちがほんの僅かだが、分かったような気がした。
俺は、阿佐美に痕を残してもらいたかった。阿賀松のものだろうが、関係ないと。阿賀松の手を振り払って、奪って欲しかったのかもしれない。
それに気付いてしまった俺の中にはただ、ぽっかりと穴が空いていた。
阿佐美から逃げたのは俺だ。本気になるのを恐れて、この状況に甘んじたのも俺だ。本気で愛してもらおうだなんて考えが厚かましいと分かっていても、俺は、阿佐美に壊してもらいたかった。何もかも。全部。

もう遅いと分かっているからこそ、余計、泣きたくなる。
俺は、「ごめんなさい」と口にした。
何に対して謝ってるのか分からない。
けれど、そう口にした瞬間、泣きそうになる阿佐美を見て、俺は、余計、逃げ出したくなった。


おしまい

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