自分のやったことが少なからず他人のためになっている。
それだけで十分だった。十分だったのに。


「止めろってっ言ってんだろ!」


寝室の中、響く志摩の声に全身が強張った。
それは阿賀松も同じで、驚いたかのようにゆっくりとその視線を声のする方、部屋の隅に向ける。
志摩が。
青い顔をした志摩がそこにはいた。


「なんだよ、うるせーな」

「……するよ、したらいいんだろ」

「は?」

「俺のこと、焼くなり煮るなり好きにしろ。……その代わり、齋藤に手を出すなよ」


「……え?」


一瞬、志摩が何を言っているのかわからなかった。
だって、そんなこと言ったら志摩が酷い目に遭わされるかもしれないのに。
どうしてそんなことを、と呆れる俺に、志摩は笑う。


「……自分だけ格好決めようだなんて、齋藤には十万年早いよ」


いつもと変わらない笑顔。
それでも、その顔色は悪く、傍から見ても志摩が無理しているのは一目瞭然で。


「志摩……ッ」


そんな志摩を放っておくわけにはいかない。
そんなこと、させるわけにはいけない。

慌てて止めようとするけど、背後から伸びてきた阿賀松に口を塞がれ、その言葉は強引に遮られた。


「亮太、お前さぁー……自分の言ってる意味わかってる?」

「何度も言わせないでよ。俺は……」

「敬語」

「……は?」

「俺には様付敬語」

「……ッ!」

「ユウキ君に手を出すなっつったのはお前だよなぁ、亮太」


下卑た笑みに、志摩の笑みが凍り付く。
志摩が阿賀松のことを嫌っているのは知っていた。
だからこそ、志摩がそんな相手を様付するなんて出来るわけないだろう。
そう、思ったのに。


「……ッ、す……みません……阿賀松、様……っ」


圧し殺したようなその声に、俺は目を見張る。
苦虫を噛み潰したような苦悶の表情を浮かべる志摩に、阿賀松の目が益々愉快そうに細められた。 


「お前、まじかよ。まじでお前、こいつのこと……」


そう言い掛けて、「ま、いいか」と阿賀松は笑う。
そして、俺から手を離した。


「丁度新しい玩具が欲しかったんだよなぁ、おい亮太。お前、三日坊主でもいいけどよ」


ベッドから降りる阿賀松はゆっくりと柱に歩み寄り、縛られた志摩の膝の皿を踏み付ける。
小さな声が漏れるのを聞き、その痛みを想像し、全身から血の気が引いた。
それでも、志摩は弱音も吐くことなく、ただ真っ直ぐ阿賀松を睨み付ける。


「そん時はお前で遊ぶつもりだった分全部こいつに被せっから」


「うっかり死んでも文句言うなよ」と、そう、一言。
その言葉に、背筋にぞっと寒気が走った。
解かれる志摩を拘束する縄、これで志摩の拘束は解かれたはずなのに、俺には見えない首輪を嵌められてるように見えた。
そしてそれはとても重く、少しでも逃げ出そうとすれば志摩の首を締めて上げていきそうで。


「……志摩」


どうして、俺なんかを。
全部俺が悪いのに、どうして、わざわざ自分から大嫌いな阿賀松に。
理解できないというわけではなかった、俺が志摩と同じ立場でもそうしていたかもそれない。けれど、俺は、こんな風に志摩にまで迷惑を掛けたくなかった。
ありがとうともごめんなさいともいうことが出来ず、それでも、ベッドへ歩み寄ってくる志摩に、泣きそうになって。


「志摩……っ、どうして……」

「それは、俺の台詞だよ。齋藤」

「……」

「言ったよね、俺を頼ってくれって」

「……し、ま……」

「俺、少なくとも齋藤よりは頑丈だし、平気だよ」


そんなことを言ってるんじゃない。
そう言いたいのに、志摩の笑顔を見ると何も言えなくなってしまって、嗚咽が漏れる。
阿賀松に関わったら、逃げられない。
そう教えてくれたのは志摩なのに、なんで。
歯痒くて、悲しくて、それでも俺のことを庇ってくれたことが嬉しくて、ムカついて、どうしようもなく泣きたくなる。


「……齋藤……」


不意に、頬を撫でられそうになった時だった。


「おい亮太」

「ッ!」


伸ばされた指先が、止まる。


「分かってんだろうけど、それ、俺のだから。今後勝手に障ったらその指へし折るぞ」

「……ッ、わかり……ました」


引っ込められる志摩の指に、自分が酷くショックを受けていることに気付く。
改めて阿賀松の元にいるということがどういうことなのか知らされたような気がして、苦笑する志摩の寂しそうな目に、遠のいていく指に、離れる背中に、手を伸ばす。
けれど。

『その指、へし折るぞ』

蘇る阿賀松の言葉に、思わずその手を引っ込める。
志摩に、これ以上迷惑を掛けられない。


「ユウキ君」


そんな中、不意に名前を呼ばれ、全身が凍り付いた。


「これからお前の居場所はそのベッドの上だ。……勝手に動くなよ」

「……ッ」

「返事は」

「……は、い……」


慌てて志摩の後についていこうと思ったのだが、それすら釘を刺されてしまう。
唇を噛む志摩に、居た堪れなくなった俺はそのまま動けなくなってしまって。


「……齋藤」


志摩が何かを言い掛けた時、阿賀松は乱暴に志摩の髪を掴んだ。


「志摩……っ!」

「亮太、お前はこっちな」

「……ッ」

「俺の可愛い恋人を得体の知れねえ豚と一緒に出来ねーからなぁ、お前はまずは一から俺への態度を教えてやるよ」


力任せに髪を引っ張り、無理矢理部屋から引き摺り出そうとする阿賀松にこっちまで胸が痛くなる。
それなのに、一番悔しいはずだろうに、志摩は文句一つ言わなくて。
それどころか、ちらりと俺の方を見て、小さく唇を動かした。

『また後で』

そう、志摩の唇が動いたような気がした。
それから半ば強引に部屋を出て行かされた志摩、そして阿賀松。
一人残された俺はベッドの上から降りることもできず、一人、二人が去ったあとの扉を見つめていた。

こんなの、ダメだ。ダメだ。俺はこんなことを望んでいたわけではない。


「志摩……っ、志摩……」


早く、志摩を助けないと。
そう思うのに、体が動かない。
動けなかった。
俺が下手なことをしたら志摩の身に何かあるんじゃないかと思ったら、恐ろしくて。


「志摩……っ」


こんなことを望んでいたはずではなかったのに。
見えない枷が四肢に重く絡み付いてきてるようで、それは以前よりも非にならない程の重さなのは恐らく志摩の存在があるからか。

今はただ、志摩の『また後で』を信じて待つしかなかった。
けれど、いつまで経ってもそのときがくることはなかった。

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