現在の体温三十七度八分。
完全に風邪を引いた。

「佑樹君大丈夫?お医者さん呼んで来ようか?」


ベッドに横たわる俺の顔を覗き込みながら、阿佐美は心配そうに聞いてくる。
「……だ、大丈夫だから」俺はマスク越しに阿佐美に答えた。
喉が痛くて声を出すことも苦痛で、俺は「伝染るといけないからあっちに行っときなよ」と阿佐美に軽く手を振る。
そう言われるとなにも言えないのか、阿佐美は少しだけしょんぼりしながら「わかった」と言ってベッドから離れた。

異様に体が熱い。
もうそろそろ死ぬんじゃないかと覚悟すら覚えてしまう。
先ほど医者に薬を処方してもらったから後は大人しく熱が引くのを待つだけだ。
幸い、今日は授業がない。
どうせやることもないし、寝るか。
布団を被り直しながら寝返りを打ったとき、自室の扉が数回ノックされる。
誰か来たようだ。
つい反射で体を起こす俺に、阿佐美は「佑樹君は寝てなよ」と制止をいれる。
パタパタと玄関まで歩いていく阿佐美を視線で見送りながら、俺は渋々布団の中へ戻った。


「齋籐は?部屋にいるの?」

「うわ……っ、ちょっと、勝手に上がらないでよ」

「見舞いぐらいいいでしょ。ケチ」


扉の開く音がして、なにか揉めているような声がする。
バタバタと足音が近付いてきて、両手に買い物袋を抱えた志摩が顔を出した。


「齋籐、大丈夫?風邪引いたってホントなの?」


心配そうな顔をする志摩は言いながら俺のベッドに近付いてくる。
「ちょっと志摩……」寝込んでいる俺に気を遣ってくれているのか、阿佐美は志摩の肩を掴みベッドから離させた。


「あ、そうだ。これ、齋籐にお見舞い。氷枕と冷却シートとのど飴」


言いながら志摩はそれを阿佐美に渡す。
いきなり志摩に押し付けられた阿佐美は少し驚いていたが、遠回しに『開封しろ』と言われているのがわかったのか面白くなさそうな顔で買い物袋の中から中身を取り出した。


「あ……ありがとう」


どこから俺が風邪を引いたという情報が漏れたのか気になったが、純粋に心配してくれているみたいだったから敢えて何も聞かないことにする。


「他になにか欲しいものある?なんでも買ってくるよ」


そういう志摩に、俺は慌てて首を横に振って断った。
流石にクラスメートをパシりに使う趣味はない。
「そう?」俺の答えに納得いかなそうな顔をする志摩に、氷枕を取り出していた阿佐美は「じゃあ食堂からご飯貰ってきて」と指図する。


「なんで俺が」


阿佐美に命令されるのが気に入らなかったのか、浮かべていた笑みが若干引きつった。


「佑樹君、まだご飯食べてないから、お腹空いてるんじゃないかな……」


そんなことを言いながらベッドの上の俺に顔を向ける阿佐美。
おいおいそこで俺に振るのかよ。
とっさに俺は布団を頭で被り眠ったフリをした。
「……わかったよ」諦めたようにそう溜め息をつく志摩は、布団の上をぽんと叩き「なにか食べたいのある?」と問い掛けてくる。


「……なんでもいい」


特に思い付かなかった俺はそう適当な返事をした。
阿佐美は「胃に優しいのにしてね」と志摩に釘を刺す。


「わかってるから」


阿佐美の言葉に志摩は少しムッと顔をしかめ、打って変わって「すぐに料理持ってこさせるからね」と俺に微笑みかけてきた。
正直食欲はなかったが、今更断りにくくなってきて俺は黙って頷く。
志摩の足音がベッドから離れて行き、やがて玄関の扉が開く音が聞こえた。


「佑樹君、頭のそろそろ換えようか?」


先ほど志摩が持ってきてくれた冷却シートを片手に、阿佐美はそう俺に聞いてくる。
俺は小さく頷き、すでに額に貼ってあるシートを接がした。
妙にぬくもりのあるそれを丸め、部屋にあるゴミ箱に向かって投げる。
外れた。
無言で床に落ちたシートをゴミ箱に入れ直してくれる阿佐美に「ごめん」と謝罪する。面目ない。


「じゃあ、ちょっと触るからね」


ベッドの側に戻ってきた阿佐美は、ベッドの横に腰を屈め横たわる俺の額に手を伸ばす。
同級生から看護を受けるというのはなんとも気まずいが、体を動かすのもダルいのでかなり有難かった。
阿佐美の手に前髪を掻き上げられ、なんとなく恥ずかしくなった俺は視線を逸らす。
火照った額に冷たいシートが触れたとき、再び玄関の方から扉が開く音がした。
もしかしてもう志摩が帰ってきたのだろうか。
流石に早すぎるような気がする。
思いながら玄関の方に視線を向けたとき、足音がバタバタと近付いてきた。


「お、詩織ちゃん見っけたー。あれ、なにやってんの?もしかして子守り?」


阿賀松だ。
どうやら安久たちは一緒じゃないようだ。
慌てて俺は布団を頭まで被り、二人から身を守るように隠れる。
冷却シートの冷たさが際立って感じられた。

近付いてくる足音とともに、腹部に嫌な重さを感じる。
軋むベッドに、阿佐美は「あっちゃん」と怒ったように阿賀松の名前を呼んだ。


「え?なに?ここ誰か寝てんの?」


真上から声が聞こえる。
どうやらいま俺は阿賀松の尻に敷かれている状態らしい。
言いながら、いきなり頭に被っていた掛け布団を引き剥がされる。


「あ、ユウキ君も見っけ」


びっくりして目を丸くする俺に、阿賀松は口許に笑みを浮かべた。
「あっちゃん、座るならあっちに座ってよ」ぷりぷりと怒る阿佐美に腕を引っ張られ、仕方なしに阿賀松は腰を持ち上げる。
「いや、そんな長居しねえから安心しろよ」言いながら、阿賀松はベッドに眠る俺の首筋に手を当てた。
ヒヤリとした阿賀松の手に驚いて、俺は慌てて身を竦める。


「風邪ってまじだったんだ。すっげー熱い」


そう言うと、阿賀松は俺の上にかけ布団をかけ直してくれる。
妙に優しい阿賀松に一種の恐怖心を覚えながら俺は顔を逸らした。

「さっさと治せよ」


それだけを言えば、阿賀松はくるりと俺に背中を向け阿佐美の方を向く。
「あ、そうだ。詩織ちゃん、これ貰っていくね」ベッドから離れた阿賀松は先ほど志摩が持ってきてくれたのど飴を一粒手にし、そのまま玄関の方に歩いていった。
一体なんだったんだ……。
始終ハラハラしていた俺は、阿賀松の姿が見えなくなったのを確かめようやく肩の力を抜く。
阿佐美に用があったんじゃないのだろうかとか色々言いたいことはあったが、ちょっと疲れたから俺は目を閉じた。
玄関の方から扉が開く音がする。
恐らく阿賀松が部屋から出ていったのだろう。
そう思ったが、すぐに足音が近付いてきた。
なんとなく、俺は目を開く。


「部屋まで届けるよう言ってきたよ」


志摩だ。
少しだけ得意気な顔をしてみせる志摩に、俺は「ありがとう」と答える。
「どういたしまして」志摩は目を細め、嬉しそうに微笑んだ。


「ていうか、いま阿賀松と擦れ違ったんだけど」


「なにしに来てたの?」怪訝そうな顔をする志摩に、阿佐美は「さあ」と投げやりな返事をする。
その返答が気に入らなかったのか面白くなさそうな顔をしてみせる志摩だったが、「まあいいけど」と言いながらテーブルの側のソファーに腰を下ろした。


「齋籐、もう一回熱測ってみたら?なんなら手伝うけど」


テーブルの上に置いてある体温計を見つけた志摩は、それを片手に俺に持ち掛けてくる。
俺の代わりに、側にいた阿佐美が「さっき測ったばかりだからいい」と切り捨てた。
「そういう考え方が風邪を悪化させたりするんだよ」阿佐美が気に入らないのか食って掛かる志摩。
なにも言えなくなった俺は、些細なことで言い争いを始める二人から視線を逸らし、もう一度眠りにつこうかと目を閉じる。
すると、玄関の方から扉を叩く音が聞こえた。
なんで今日に限って訪問者が多いんだ。
つい反射で目を開く俺に、阿佐美は無言で玄関まで歩いて行く。


「……佑樹君ですか?あー、まあ、部屋にいますけど……あの、上がりますか?」


玄関の方から阿佐美の声が聞こえてきた。
どうやら自分に用があるようだ。
「人気者だね」ソファーに座っていた志摩は、そう言いながら笑って見せる。
どう反応すればいいのかわからなくて、俺は苦笑を浮かべた。


「佑樹君、お見舞いだって」


そう言う阿佐美が連れてきたのは、フルーツバスケットを手にした芳川会長だった。
まさか芳川会長まで来てくれるとは思ってもなくて、驚いた俺は慌てて上半身を起こそうとする「そのままでいい」と言う会長に止められ再び枕に頭を埋める。


「悪いな、勝手に来たりして。風邪って聞いたから……これ、お見舞い品」


「皆でわけて食べてくれ」そう言いながら、芳川会長はテーブルの上にバスケットを置いた。
「あ、ありがとうございます……」俺はそうお礼を口にする。
「俺が勝手にしたことだから気にしなくていい」芳川会長はそう笑みを浮かべた。


「ああ、邪魔して悪かったな。……お大事に」


芳川会長は、そう一言言い残しそのまま玄関へと戻っていく。
もう少しゆっくりして言ってくれたらいいのに、と思ったが会長も会長で忙しいのかもしれない。
芳川会長を視線で見送りながら、そう自分を納得させる。


「ほんっと、人気者だねー」


妙に刺々しい志摩の言葉に、俺は乾いた笑い声を漏らすだけだった。


「そういや、佑樹君のご飯は?」


不意に、思い出したように志摩に問いかける阿佐美。
「……さあ、そろそろなんじゃないかな」阿佐美が強引に話題を変えたのに気付いたのだろう。なんとなく素っ気ない。
そんな会話をしていると、廊下の方からガラガラとワゴンを押すような音が聞こえてくる。


「来たみたい」


そうソファーから立ち上がる志摩は、玄関の方へと歩いて向かった。
その後ろについていくように、阿佐美も玄関に向かう。
どうやら料理を取りに行ってくれているようだ。
二人になにからなにまで面倒をかけている事実に申し訳なくなりながら、俺は上半身を起こす。

暫くして、玄関の方から揉めるような声が聞こえてきた。


「病人に鍋とかなに考えてるの?普通に悪化するから」

「そういうのは齋籐に判断させればいいでしょ。さっきから阿佐美うるさい」


どうやら二人が揉めているのは志摩の選んだ料理が原因のようだ。
部屋の中にまでワゴンを引き摺って持ってくる二人に、俺は少し驚いてみせる。
ワゴンには大きな鍋の器が入っていて、志摩はその取っ手を掴みそのままテーブルの上に置いた。


「はい、召し上がれ」


ニコニコと笑いながらそういう志摩。
先ほどの志摩と阿佐美の口論を耳にしていた俺はどう反応すればいいのか困り、取り敢えずソファーへと移動する。
鍋の蓋を開いた阿佐美は、それをテーブルの上に置いた。


「……多いね」


マスクをずらした俺は、鍋の中身を見ながらそう呟く。
どう考えても一人用には思えないそれに、阿佐美は「ほら」となにか言いたそうに志摩の方を見た。


「病人なんだからいっぱい食べて早く元気にならないとね」


遠回しに俺に全部食べろと勧めてくる志摩は、言いながら取り皿を俺の前に置いた。
「おかわりもあるから」言いながら、志摩はワゴンに目を向ける。
嫌な汗が額に滲む。


「佑樹君は少食なんだよ」

「うるさいなあ、もう」


鍋を前に再び口喧嘩を始める二人に、俺は酷い頭痛を覚えた。
二人の声が頭にガンガンと響き、堪えられなくなった俺は「そうだ」と思い付いたように声を上げる。


「皆で鍋を食べたらいいんじゃ……ないかな……」


その日、俺たちは鍋パーティーなるものを催した。

翌日、全員欠席になったのは言うまでもない。

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