「ハルちゃん」


なに?


「ハルちゃん、あのね、俺」


ゆう君、どうしたの、そんな不細工な顔して。


「ハルちゃんのこと、嫌いなんだ」


は?


「ずっと、ずっと、ハルちゃんのこと、嫌いだった」


ゆう君、何言ってんの。
ねえ。


「今も、こうしてハルちゃんと一緒にいるだけで息苦しくて堪らないんだ。……正直重いんだよね」


ゆう君。


「だからね、壱畝君。


もう二度と、俺に関わらないで」


◆ ◆ ◆


どくん、と大きく痙攣する心臓。
反射に目を見開いた俺は、そのまま飛び起きた。


「……っ!!」


寝間着代わりのTシャツは汗でぐっしょり濡れていて、引っ掛けていた布団はいつの間にか落ちていて。


「……夢かよ」


ピチュンピチュンと窓の外から聞こえてくる小鳥の囀りに、全身から力が抜け落ちた。
枕元の時計を確認すれば、アラームをかけていた時間よりもまだ早い時間帯だった。


◆ ◆ ◆


早起きしたのはいいものの、夢見は罪悪だ。
なんであんな夢を見たのだろうか、自分でも不思議でならない。
ゆう君が俺を嫌いになるはずなんてない。
いつも控えめながらも斜め後ろからついてくる友人の姿を思いながら、学校への支度を済ませる。

夢は潜在的なものが関係していると、なにかの本で読んだ気がする。
ならば、さっきの夢は俺の中に潜んでいるなにかが具現化したということなのか。
考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しくなってきて、俺は思考を振り払ってリビングへと向かうことにした。


◆ ◆ ◆


リビングには父親と母親が揃っていて、静まり返ったそこに足を踏み入れた俺は質素な食卓が並ぶ食卓についた。
無言で朝食に口をつければ、新聞を読んでいた父親はじとりと俺に目を向ける。


「遥香、お前まだ準備できてないそうだな」


また、この話題か。
朝以外会うことのない父親には特になにも報告していなかったというのに、俺の状況を知っているということはどうせまた母親が告げ口したのだろう。
面倒くさい。
舌打ちしそうになるのを堪え、ポタージュに口を付けた俺は一口だけそれを喉奥に流し込んでカップをテーブルに戻した。


「わかってる。こっちはこっちでちゃんと間に合うようにするから心配しなくていいから」

「貴方、そう言っていつもギリギリになって慌てるじゃない。お父さんの言うとおり早めに支度しなさい。こっちはいつでも出ていいんだから」


俺の言葉を覆い被さるようにキンキンの金切り声で反論してくる母親に、つい「うるさいな」と零す。
母親の目が吊り上がるのを無視して、俺は続けた。


「わかってるって言ってるだろ。どっちにしろ今学期中は俺こっちにいなきゃいけないんだから一緒だから」

「まぁ……この子親に対してなんて口の聞き方なの」


そこかよ、といちいち突っ込む気にもなれなくて、グラスに注がれた牛乳を一気に飲み干した俺は料理をほとんど残したまま席を立った。
朝食だけは、と心がけていたが、これ以上この空気を吸っていたら気分が悪くなる。


「……」

「遥香、待ちなさい!まだ話は終わってないわよ!」

「……」


終わってるよ、とっくに。

なにも答えず、床に置いていた鞄を拾った俺は逃げるようにその場を後にした。


◆ ◆ ◆


ここにやってきて半月。
元々父親は転勤族というやつらしく、小さい頃からそのときの仕事が一段落するたびにまた次の出張先へと家族揃って引越ししていた。
一つの場所に三年も留まることができたならいい方だ。酷い時は半月も経たずに引っ越すときもある。
そのお陰で友達という友達は出来なかった。
最初から別れるとわかっている人間に入り込めること気にもなれなくて、だけど、他の人間は違うらしい。
俺がずっといると思って、なんの考えもなく当たり前のように仲良くなろうとしてくる。
最初は面倒だったけど、今はそれを適当にあしらうことも覚えた。
どうせバラバラになる。
そう最初から割り切って相手と接すると酷く肩の荷が降りたようで、上辺だけは充実した時間を過ごせるようにはなったがその反面中身は空っぽのままで。

そしてまた、俺はこの街を離れなきゃならなくなる。
別に周りの人間と別れることには慣れている。
愛着なんていちいち沸かない。
沸かないように、日々を適当に過ごしている。
だから、今回も感傷的になることはないだろう。

そう、思っていた。


「あ……おはよう、ハルちゃん」


不意に、声を掛けられる。
まだ朝早い時間帯。
通学路にある公園で、コンビニで買ったおにぎりを食べていた俺はゆっくりと顔を顔を上げる。


「……ゆう君」


そこには、控えめに微笑むゆう君がいた。
その力が抜けるような笑顔に、なんとなく胸が締め付けられる。


「……ハルちゃん?」


そんな俺を察したのか、歯切れの悪い俺にゆう君は僅かに不安そうな顔をした。
ハッとして、慌てて俺は笑顔を浮かべる。


「おはよう、ゆう君。今日も元気そうじゃん、寝癖」

「えっ、うそ、ホントっ?」


食べかすを袋に詰め込み、立ち上がる。
近くのゴミ箱にそれを詰め込んだ俺は、真っ赤になって「ちゃんと直してきたはずなのに」と髪を押さえつけるゆう君に噴き出した。
本当、ゆう君はバカだなぁ。嘘に決まってるのに。俺の言葉を一々真に受けるのだから。


「ほら、ここ」


そっと手を伸ばし、癖のない黒い髪を撫でる。
さらりとした髪は、すぐに指から擦り抜けた。
ゆう君の髪は、触り心地がいい。許されるのならばずっと触っていたくなるくらい、俺はゆう君の黒い髪は好きだった。
きっと、自分の髪が染め過ぎて痛んでしまっているからだろう。余計。
つい、指先でゆう君の髪を弄んでいるときょとんと目を丸くしたゆう君と目があった。
じわじわと顔を赤くしたゆう君が、ふるふると小さく震えながら唇を開く。


「……ハルちゃ……」


「おーい、壱畝ー!おはよー!」


ゆう君がなにかを言いかけたときだ。
それを遮るように、公園前を通りすがった同級生たちがこちらに向かって大きく手を振ってくる。
びくりと震え上がるゆう君。


「そんなデカイ声出さなくても聞こえてるって。……おはよ」


ぽんとゆう君の肩を叩き、「行こう」と小さく促した俺はそのまま同級生たちの元へ歩き出した。
そのとき、ゆう君がどんな顔をして俺を見ていたかなんて、知る由もないわけで。


◆ ◆ ◆


「だから、これはこうして……」

「……」


授業は、つまらない。
勉強は嫌いじゃない。けれど、好きというわけでもない。
教科書と黒板の文字を適当に解釈し、ノートにそれを書き写せば勝手に大人は評価してくれる。
本当、楽だと思う。
これくらいのことでびーびー騒ぐやつらの気がしれない。
だけど、それも少し飽きてきて、ぼんやりと窓の外を眺めているとき。

ぽん、と、頭になにか飛んできた。
なにかと思い辺りを振り返れば、斜め後ろの席に座るゆう君が泣きそうな顔して『ごめん』と謝罪のジェスチャーをする。
どうしたのかと足元を見れば、小さな紙屑が落ちていた。
それを拾い上げ、折りたたまれた紙を広げてみればそれはゆう君からの手紙だった。

『なにかあった?』

たった一言。
直球すぎるその文面の後ろ、何度も消しゴムで消した跡が残ってて、ゆう君が必死にあまり賢いとはいえない頭を捻って書いてくれたと思ったら酷く胸が暖かくなって。
俺はその紙に返事を書こうとしたが、やっぱり止め、ノートの切れ端を破って新しく返事を書く。


『早く休み時間になって欲しい』


ゆう君へ返事を返し、ゆう君からの手紙をペンケースの奥に仕舞っていると、丁寧に折りたたまれたノートの切れ端が新たな文面を抱えて俺の元へと戻ってきた。


『俺も』


その一言でこんなにも嬉しくなってしまうのは相当末期ということか。
その時間、にやけそうに顔を必死に堪えることでいっぱいいっぱいだった。


◆ ◆ ◆


昼休み。
いつものように誘ってほしそうに弁当抱えて自席についていたゆう君を引っ張り出した俺は屋上へとやってきていた。


「ゆう君はさ、」

「うん?」

「もし俺がいなくなったらどうする?」

「……え?」


まあ、確かにいきなりこんな質問されて即答できるやつはいないだろう。
俺みたいなやつはともかく、だ。

そして、そんな俺の問いかけを深読みしたらしくじわじわと目を潤ませて行くゆう君に慌てて「あ、もしだから、もしね」と付け足す。
ゆう君の中でとはいえ、自殺願望者と勘違いされるのはたまったものではない。


「そ……それは、どういう意味で?」

「なんでもいいけど、そうだな……例えば俺がどっか遠くに行くとか」


できるだけ冗談だと分かるように笑いながら答えるが、ゆう君の表情は和らぐどころか益々引き攣っていくばかりで。


「……嫌だ」


そう、ぽつりと呟くゆう君に、浮かべていた笑みが引き攣った。
冗談だと言っているのに、どうしたものだろうか。この頭でっかちは。
今にも泣きそうな顔をするゆう君に、冗談だと笑うことすら馬鹿馬鹿しくなって、俺は。


「……ならさ、ゆう君も一緒に来る?」


なんて、言っちゃったりして。

「え?」とゆう君が目を丸くしたと同時に、遠くからチャイムの音が響く。
午後の授業の予鈴だろう。


「ああ、もうそんな時間か」


そう、立ち上がる俺。
「ハルちゃん」と困惑するゆう君に名前を呼ばれたけど、顔を見ることができなくて。


「ごめん、気にしなくていいから。例えばの話だし」


そっぽ向いた俺は、笑う。


「でも、ゆう君がその気になってくれたら……」


他の誰が反対してでも、ゆう君を無理やりにでも連れていけることができたなら、きっと楽しいだろう。
中学生の戯言だとわかっている。
わかっているけど、そんな馬鹿なことを考えさせてくれるゆう君のことが、やっぱり俺は。


「……」


目だけを動かし、ゆう君を見る。
狼狽えるゆう君は目が合うとすぐに目を逸らした。
うん、まあ、そうだよな。
なんて納得する反面、なにも堪えてくれないゆう君に酷く傷ついている自分を見なかったことにし、俺は気を取り直す。


「じゃ、そろそろ戻ろ。次移動教室だし」


何事もなかったかのように扉へと歩き出す俺のうしろ。
「うん」と頷くゆう君は慌てて俺の後を追い掛けてくるのを感じながら、俺はさっきのやり取りを思い出していた。


誰もいないところへ、ゆう君を連れ去ることが出来ればどれくらいいいだろうか。

きっとゆう君は怖がるだろうけれど、それでもゆう君なら。

ゆう君なら、俺を…………。


おしまい

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