次に目を覚ましたとき、背後に阿賀松の姿はなかった。
鉛のように重い体を起こし、ベッドから降りる。よく見ると、見慣れない服を着ていた。もしかしなくても阿賀松の服だろう。
わざわざ着替えさせてくれたのだろうかと内心驚きながら、俺は寝室を出ようとした。
が、扉が開かない。
何度かガチャガチャとドアノブを捻ってみるが、ただ金属が擦れる音がするばかりだった。
なんで開かないんだ。次第に焦ってくる俺は、ふと足元に目を向ける。扉の隙間に紙が挟まっていたのだ。
腰を曲げ、それを拾い上げた俺は紙に目を向ける。
『寝顔可愛かったです』
いやいやいやいや。
それ以外になんかあるだろ、書くこと。
他にもなにか阿賀松からのメッセージがないか探してみるが、見当たらない。
咄嗟に寝室の中を見渡す。
冷蔵庫に、バスルーム。あとトイレ。それ以外は悪趣味な家具しか見当たらない。
因みに、冷蔵庫には律儀に三食分の食料と飲み物が入れられていた。
もしかしてこれはあれか、閉じ込められたってことか。
唯一外へ繋がる扉が塞がっていることに脱力した俺は、扉の前で座り込んだ。
これが、阿賀松の言っていた可愛がり方というのだろうか。
ただの軟禁じゃねーかと一人突っ込みそうになる。
というか、恋人をペットかなんかと勘違いしてんじゃないのか、あの人は。
いや、待てよ。
確か阿賀松は一言も俺を恋人として愛でるとか言ってない。
もしかして、まじでまじなんじゃないか。
自分で言ってて訳がわからなくなってくる。
とにかく、阿賀松がこの扉を開かない限り俺は出れないということには間違い無さそうだ。
取り敢えず腹が減ったので冷蔵庫から一食分の食料を頂戴することにする。
◆ ◆ ◆
いくらか経ってから、遠くから扉が開く音が聞こえた。足音が近付いてくる。やがて、足音は寝室の前で止まった。
阿賀松だ。直感でそうわかった。というか阿賀松の部屋なんだから阿賀松じゃない可能性のが稀なのだが。
ガチャリと鍵が外れる音がして、扉が開く。
阿賀松だ。薄暗い寝室内に居間の灯りが漏れ、俺はその眩しさに目を細める。
「一人で大人しくできてたか?」
ぺたぺたと扉に近付いてくる俺に、阿賀松は笑いながら頭を撫でてきた。
文句言おうと思ったのに、なんだか出鼻挫かれた気分だ。
「あ、あの、先輩なんで鍵……」
「鍵?ああ、便利だろ?あれ」
「特注なんだよね」と笑いながら言い足す阿賀松に、俺は呆れてなにも言えなくなる。
「良くないですよ。そんな、授業出ないと怒られるじゃないですか」
あまりにも身勝手な阿賀松に、流石の俺も限界だった。そう強い口調で阿賀松を咎めれば、阿賀松は冷笑を浮かべる。
「ああ、あれな。安心しろよ、俺がじいちゃんに頼んで授業免除にしてやったから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
ああ言えばこう言う阿賀松に言い返そうとして、思考回路が停止する。
「………………はい?」
今、なんて言ったこいつ。
さらりととんでもないこと口走ったぞ。
「卒業証書は俺から手渡ししてやるよ。嬉しいだろ?」
「は?いや、あの、ちょっと待ってくださいって。授業免除って……」
「本当は退学させようかと思ったんだけどな、流石に周りが煩くなるだろ?だから授業免除」
目を丸くしたまま硬直する俺に構わず、阿賀松は「俺ってすっげー優しい」なんて言い出した。
授業免除って、成績優秀な生徒だけが貰える権利じゃないか。
いいのか、並みの俺がそんな大層な権利を貰って。
あまりにも混乱しているせいか突っ込み所がおかしくなってくる。
「だから、ユウキ君はあっちの心配なんて余計なことすんなって話。わかった?」
「わ、わかりませんよ。そんなの」
「物分かり悪いやつは嫌いなんだけどな、まあいいや。わかりませんじゃなくてわかれよ」
狼狽える俺の髪に指を絡める阿賀松は、無理矢理髪を引っ張り顔を上げさせる。
「わかった?」にこりと微笑んで再確認。
こんなのいじめだ。
「……わかりました」
そして軽い暴力で折れてしまう俺も俺だ。
見下ろされて見据えられ、つい俺はそのまま頷いてしまう。
「流石ユウキ君」
そう嬉しそうに笑う阿賀松は、髪を引っ張っていた手を緩めそのまま頬に唇を寄せた。
小さなリップ音がして、顔が熱くなる。
「でも、あの、どうしてこんなこと……」
「どうしてって、お前が言い出したんだろ。セフレは嫌だって」
「ええ、はい、言いました」
昨日のことを思い出してしまいちょっと照れながらも、俺は阿賀松の言葉に頷いた。
「ん、まぁ……だから一緒に生活することにした」
ちょっと阿賀松は考えて、そう躊躇いがちに続ける。
セフレからただのヒモにレベルが上がっただけのようにしか思えないが、もしかしたら阿賀松なりにこれは考えた結果なのかもしれない。
「だけど、なんで鍵かけるんですか。暇じゃないですか」
「戸締まりは大切だろ」
「まあ」
「だからだ」
まさかそんなもっともな理由で軟禁されるハメになるとは。うっかり納得してしまっただろ。
「ってことで、わざわざ俺がお前の相手をしてやるってことだ。嬉しいだろ?」
「……でも、あの、いいんですか?」
「あ?」
「俺のために、そこまでして」
やっていることはあまり良いこととは思えなかったが、全て俺のためだと思うと全否定できなかった。
逆に、部屋に置いてまで面倒を見てやるような価値が自分にあるのかどうか不安になってくる。
そう恐る恐る尋ねれば、阿賀松は「ばーか」と可笑しそうに笑った。
「自惚れんな。お前のためなわけねえだろ、俺のためだ」
それはあれか、遠回しにこれは口説かれているのか。
恥ずかしげもなく自信たっぷりに即答する阿賀松に、なんだかこっちが恥ずかしくなってくる。
「耳真っ赤」
「……言わないでください」
「可愛い」
「だ、だから……っ」
言いかけて、阿賀松の顔が近付く。真正面からじっと見据えられ、俺は言葉を詰まらせた。
なんだ、この空気。これがセフレから階級上がったことの変化か。
じわじわと顔が熱くなり、金縛りに遭ったかのように俺はそのまま動けなくなった。
「ユウキ君」
「……はい」
「キスしろ」
普通なら自分からしないはずなのに、なんでだろうか。
周りの目もなんもないからだろうか。
なんとなく、ヤケクソになっていた俺は少し躊躇い、おずおずと阿賀松の唇に軽いキスをした。
触れるだけで色気も糞もないようなものだったが、それでも阿賀松は満足だったようだ。
小さく笑って、俺に深い口付けをする。
一年経って阿賀松が卒業した。
阿賀松の部屋だった場所は空き部屋になり、使う人はいなくなる。
それでもたまに、阿賀松は俺に会いに来てくれた。
怒鳴られたりキレられたり泣かされたりしたが、阿賀松と一緒にいる時間は楽しかった。
とは言っても、阿賀松以外と顔を合わせなかったので楽しいの基準があやふやになっていたのも事実だ。
食料は予め阿賀松が用意してくれるから大して困らなかった。
他にも暇潰しになるように本などもプレゼントしてもらったが、それでもやはり阿賀松が来なかった日は寂しかった。部屋から出ようとは思わなかった。理由はない。なんとなくだ。なんとなく、居心地がよかった。それだけだった。
それからまた阿賀松と会う日が続いた。
寝室には時計はあったがカレンダーがなかったし窓もなかった。
時計の針を見ても朝か夜かもわからなくなった俺は、阿賀松に会うことだけを考え毎日を過ごしていた。
ある日、いつものように阿賀松が寝室にやってくる。
「ユウキ君、ほら」
「……?」
「卒業証書。約束してただろ?」
やけに豪華な仕様の筒を阿賀松から受け取った俺は、その言葉に目を丸くする。
もう、そんなに経ったのか。
いつの日かの約束を思いだし、なんだかひどく懐かしい気分になる。
「卒業おめでとう、ユウキ君」
スーツを着ているからだろうか。
そう言って笑いかけてくる阿賀松がなんだか教師みたいで、思わず俺は笑ってしまう。
「……ありがとうございます」
卒業証書を受け取った俺は、そう阿賀松に一礼した。
もう卒業か。なんとなく実感が湧かない。それもそうだ。この学校に転校してから数ヵ月、欠席しているのだから。
本当なら、同級生に囲まれて体育館でこれを受け取ってたんだろうな。
華もない、味気のもない、二人きりの卒業式。それでも俺は幸せだった。
途中で飽きられ、このまま一人で死ぬんじゃないかと毎日怯える必要もなくなったのだ。でもやっぱり、少し寂しい。ここを出たら、もう阿賀松と会えなくなるのだ。
そう思ったら自然と鼻がつんと痛み、目頭が熱くなる。
「青春だなぁ、卒業くらいで泣くなよ」
「だって、だって、もう先輩と……ッ」
「俺となんだって?」
じわじわと涙を滲ませる俺に、阿賀松は可笑しそうに涙で濡れる目元を指先で拭った。
「……先輩と、離ればなれになっちゃう」
「ホント、お前は進歩しねーな」
ぐすぐすと鼻を啜る俺に、阿賀松は「泣くなって」と笑いながらわしわしと頭を撫でた。
「誰がお前を自由にしてやるっつった?」
そして、笑う。
一年前、初めてあったときと変わらない笑みを浮かべた阿賀松は、そう冷たい口調で続けた。
もしかしたら、変わったのは俺だけかもしれない。
嫌っていたはずの横暴な阿賀松の言葉が、こんなにも嬉しく思える日が来るなんて。
おしまい
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