「齋藤、おはよう」

「……おはよう」

「うん、今日も元気そうだね」

「……志摩も、調子いいみたいだね」

「そうだね、結構慣れてきたら案外イケるものだよ。これも」


これも、と志摩は自分の両目を覆う包帯に触れる。
志摩が怪我をし、視力を失ってからどれくらい経ったのだろうか。
最初は道に迷っていたのに、もうこの簡素な病室への道順も覚えてしまった。


「足音でさ、誰が来たか分かるんだよね。齋藤は少し引きずったような歩き方をするからすぐ分かる」

「今日は誰か来たの?」

「来ないよ。来るわけ無いでしょ、物好きな齋藤以外」

「……そっか」


その言葉を聞いて安堵した。
もし、阿賀松や会長が来たらと思うと生きた心地がしなかったから。
とにかく大怪我を負った志摩をあの二人から遠ざけたくて、俺は都心から離れた病院を紹介した。
志摩の視力が戻ることは絶望に等しいが、それでも、少しでも平穏に暮らして欲しかったからだ。


「齋藤」


ベッドの上、上半身を起こした志摩は確かにこちらを向いて笑う。


「そんなに遠くじゃなくてさ、こっちにおいでよ」


そう言って、軽くベッドを叩く志摩。
志摩なりに甘えているのだろう。
俺は言われるがまま志摩のベッドに近づいた。


「齋藤、髪、伸びたね」


伸びてきた志摩の手が髪に触れる。
「そうだね」と応えるようにその手を握り締めれば、志摩はまた笑った。


「切らないの?髪」

「……切る暇、ないから……」

「齋藤は短い髪も似合うと思うよ」


見えないくせに、と喉元まで出かかって、その言葉を飲み込んだ。
見えないからこそ、見えるのだろう。鮮明に。
そう思うとぎゅうっと胸の奥が苦しくなる。
押し黙る俺に何かを悟ったのか、髪を撫でていた志摩の指先が俺の頬を撫でた。


「……痩せたね、齋藤」

「変わらないよ、別に」

「嘘つき。……俺には分かるんだよ」


ほら、と頬の肉をぐにっと摘まれた。
痛みはないが、「摘み心地悪くなってるし」と笑う志摩に心臓が痛くなった。


「志摩」

「もしかしてまだ気にしてんの?」

「……ごめん」

「別にいいけどね。齋藤が俺のこと考えてくれてるってことだし……嬉しいよ」


また、志摩は笑う。
見えないけれど、志摩はいつものように目を細めているのだろう。
けれど、俺は笑えなかった。
廃材の下、目を切り夥しい量の血を流して蹲る志摩の姿が焼き付いて離れないのだ。
運が悪かった、そう医師たちは口にした。

けれど、それでも俺は。


「齋藤」


志摩の指先が唇に触れる。
見つけた、とでも言うかのように小さく笑んだ志摩はそのまま体を動かし、俺の唇に自分の唇を押し付ける。
それは探るようなキスだった。


「……ん、……っ」


確かめるように、唇をなぞる舌がこそばゆい。
小さく唇を開けば、志摩はそのまま深く口付けてきた。

志摩は、あの学園から離れて穏やかになった。
視力を失ったと知った日、志摩は狂ったように暴れた。
ものも自分も壊して、壊して、壊して。
最初は大変だったけれど、それでも俺が毎日病室に通い、志摩の側で過ごすようになると次第に落ち着いていった。
今ではもう、ここに来るのが日課になっていた。
俺にとっても志摩にとっても、ここで会って話して、触れ合うことが唯一の楽しみで。


「今度、外に出ない?」

「……え?」

「外って言っても、街とかじゃないよ。病院の敷地内になるだろうけど、リハビリも兼ねてさ。……風に当たりたいんだ」

「そんなの……もちろん付き合うよ」

「そっか、それなら良かった」


志摩のリハビリ。
そういえば、とベッドの側に立て掛けられている杖を見る。
もしかして、看護師たちに手伝わせているのだろうか。
そう考えると、少しだけ胸の奥がざわついたが、それ以上に志摩に誘われたことが嬉しかった。


「もう……リハビリはしてるの?」

「した方がいいって言われたんだけどする気になれなくてね」

「……俺でいいのかな、リハビリの相手」

「何言ってんの?……もしかして、嫌だってわけ?」

「そうじゃないけど、俺、ちゃんとできる自信ないよ」

「ホント変なところで頭でっかちだよね、齋藤って。やるのは俺だよ、齋藤はいてくれるだけでいいから」


自分の言葉が誘導だと分かっていた。
それでもやっぱり、その言葉が嬉しくて。


「分かった、頑張るよ」

「だから頑張るのも俺だって。……まあ、精々よろしくね」


結局、その日はリハビリをしない代わりに志摩とたくさんのことを話した。
と言っても俺たちの共通の話題は限られていて、それでも、志摩と話す時間は充実していた。

志摩のリハビリに付き合うために、リハビリのこと勉強しないといけないな。
病院の帰り、俺は志摩と繋いだ手を握り締めながら歩く。

せっかく、ここまでしたのだ。
心の痛むのを我慢して、志摩の上に廃材を落としたあの日。
それでも、これしかなかった。志摩が幸せになるには、あそこにいてはダメだったのだ。


「……志摩」


志摩は視力を失った。
けれど、それでも俺はそれで良かったと思う。
志摩が、俺を頼ってくれるから。
志摩には、俺しかいないのだ。
俺が、しっかりしないといけない。

俺が……。


おしまい

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