【阿賀松伊織の場合】


梅雨も空け、鬱陶しい季節がやってくる。
季節感狂った蝉が泣き叫ぶ中、「伊織さーん!」と元気な声が聞こえてきた。
振り返ればそこには紙切れを手にした安久がいた。


「伊織さん、見てください、今度のテスト満点取れました!」

「へぇーよくやったな、頑張ったじゃねえの」


猫っ毛気味なその頭を撫でてやれば、「えへ、えへへへ」と安久は表情を崩していく。

その時だった。

『なんだこの点数、お前、毎日授業出ててこれとか何やってんだよ』

不意に、脳裏に声が響いた。
それは自分の呆れたような声で。
靄がかったような映像の中、俺は誰かに向ってその用紙を叩き付けていた。
なんだろうか、この記憶は。


「……」

「……?伊織さん?」

「ん?どうした?」

「いえ、僕は……その、少しだけ、伊織さんが不思議そうな顔をしていたので」

「考え過ぎだ」


そう、考え過ぎだ。
気のせい、デジャヴ、そんなものいくらでも理由付けられる。
けれど、何故だろうか。
異様にその記憶が気になって、それは安久と別れたあとでも俺に付き纏ってくる。

『ここの授業はレベル高いんですよ、……俺が前居た所よりも』

靄がかったそいつは、俺にそう笑い掛けてくる。
自嘲的な目、卑屈な物言い。それらには見覚えがあった。
なのに、思い出すのは断片的なものばかりで、それらはどれ一つとして何者にもならなくて。

誰だ。あいつは、誰なんだ。


「おっ伊織じゃん、今日も行く?俺、あれ練習したから今度は負けねーぜ!」

「パス」

「ええっ!」


縁を無視して、歩く。目的もなかった。
ただ、こうしてたらいつの間にかに思い出せるんじゃないかと、そんな気がしていたから。

学生寮一階通路。
人気のないそこに、あいつの影はない。
なのに。

『大体、先輩が頭良すぎるんですよ……!』

蘇る。一つ一つ、記憶の、更にその奥深くから溢れてくるのが分かった。
それなのに、肝心のそいつのことが何も思い出せない。


「……」


思い出せないのだ。
こんなこと、あったのだろうか。それに、そんな事実どこにもないはずなのに、まるで実際にあったことのように思い返してきまう俺の脳の異常。
思い出せそうなのに思い出せない。
それは気持ち悪い以外の何者でもない。


「……あっちゃん」


気が付いたら、詩織ちゃんがいた。
窓の外、眺めていた俺は振り返る。


「……詩織ちゃん」

「理事長、探してたよ」

「……俺を?」

「なんか、転校生来るからって」


転校生。
その単語に、固く閉じていた記憶の底のなにかが反応するのが分かった。
転校生。……転校生。


『先輩みたいな人、初めてです。俺』

『それ、告白してんの?』

『ち、ちっ、違います……!でも、もっと早く出会えてたら……って考えちゃって』


早く会えてたら、何かが違っていたとでも言うのだろうか。


「……転校生ねぇ」


季節外れの転校生。
訳ありなやつらが多いこの学園で時期外れの転校生は少なくない。
けれど、じんわりと暑くなり始めるこの季節の転校生と聞いて、確かに胸の奥がざわめき始めるのを感じた。

理事長室まで移動し、扉をノックするが無反応。
扉を開けば、開けっ放しの窓から生ぬるい風が前髪を揺らしてくる。


「あのジジイ、いねーし……」


机の上、置きっぱなしになってる書類を何気なく手に取る。
それは転校生の書類のようで。

壱畝遥香。
そこにはそう、書かれていた。
壱畝遥香、ひとせはるか。


「ーー……」


『俺は、先輩の玩具じゃ、ありません……っ』

『じゃ、下僕か』

『違います……っ!』


ユウキ君じゃ、ないのかよ。
違う、誰だ。ユウキ君って、誰だ。
頭の奥が割れるように痛み始める。
必死に蓋閉めていた記憶を無理矢理抉じ開けられるような、そんな激痛に、堪らず机の上に手をついた。


『俺は、阿賀松先輩の恋人です』


「……ユウキ君……」


ああ、と、思った。
せっかく、気付かないようにしていたのに、忘れようとしていたのに。俺は。


「……本当に、俺を飽きさせねえな、お前は」


窓から吹き込む暖かい風がやけに気持ち良い。
これから俺にどうしろと言っているのだろうか、あいつは。
考えただけで、楽しみすぎてどうにかなりそうだ。

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