しっかりとした足取りで歩いていたつもりでも、ちょっとした障害物で簡単にバランスは崩される。

「本当、どんくせー」

 冷めきった声に向けられた鋭利な視線が背中に突き刺さる。
 転ばされた体を動かすのには時間がかかった。
 バランスを取り直そうと四肢に力を込めるが、隠していた古傷が疼きだし、顔が歪む。

「誰かに媚びてねえと一人じゃ何にもできねえのな」

 誰が発したのかもわからない。
 静まり返った廊下。複数人の冷え切った視線を浴びながら、俺は。
 ……俺は。

「齋藤、なにこれ」

 制服を着込み、いつものように日々を過ごしていた。
 過ごしていたつもりだが、志摩の目にはいつものようには映らなかったらしい。
 呼び止められ、振り返ろうとした拍子に手首を取られ、驚いた。
 掌。この間転ばされたとき、手をついた拍子に出来たらしい擦り傷に志摩は目を付ける。

「あ……や、別に、大したことないよ」

 内心、ぎくりとした。
 目立たないとは言えないその大きな擦り傷を隠して生活していただけに、余計。
 慌てて志摩の手を振り払おうとするが、手首を掴んだ手は離れなくて。
 それどころか、締め付ける力は増すばかりで。
 骨が、軋む。

「じゃあなんで隠すの」
「だって、見たって面白くないだろ」

 そう即答する自分がどんな顔をしていたのかわからない。
 その代わり、無表情の志摩は俺の手首をぐっと引っ張った。

「……」
「い……っ」
「ジッとして」

 囁かれる。
 何事かと志摩を見上げた時、制服の内ポケットから絆創膏を取り出した志摩は口で器用にそれを剥がし、擦り傷に貼る。

「あ……」

 肌色のそれに隠された掌の傷は先程よりも随分と目立たなくなっていた。
 すぐに離れる志摩の手に、つられるように視線を向ければ、冷めた目をした志摩と視線がぶつかる。

「俺、一応委員長だからクラスの風紀とかそういうのにも気使わなきゃいけないんだよね」

「別に特別な意味なんてないから」と、念を押すように呟く志摩に思わず俺は笑ってしまった。
 そんなわかりきったこと、わざわざ言わなくても理解しているつもりだ。
 志摩も俺の性格を嫌というほど知っているだろうに、そんな無駄なことを言うからなんとなく可笑しかった。

「……でも、ありがとう」
「こんくらいでお礼なんて言わないでよ。齋藤のありがとうって安すぎて全然嬉しくないし」

 刺々しい志摩の言葉がちくちくと刺さる。
 もう慣れたと思っていたが、擦り切れていた俺の心にはその微弱な針の感触すら鋭利な刃物同然で。

「ごめんね」

 そう口にした瞬間、糸が切れたように目から涙が溢れた。
 ぽろぽろと顎へと落ちる涙は止まらない。

「……」
「ごめ……ッ」

 喉が痙攣し、しゃっくりが漏れた。
 涙を見られたくなくて、慌てて目元を腕で覆おうとしたとき、志摩に腕を掴まれ、それを阻まれる。

「煩いよ」

 どうして、と顔を上げたとき、唇になにかが触れた。
 目を見開けば、すぐそばには志摩の顔があって。

「簡単に泣かないでよ。鬱陶しいから」

 動けなくなる俺の背中に伸びた手にぽんぽんと背中を撫でられ、壊れた蛇口のようにどんどん涙が溢れてくる。

「う……っ、ひぐ……ッ」

 抱き締められ、密着した上半身から流れ込んでくる体温が暖かくて、緊張した筋肉が緩くなる。
 それでも、相手の背中に手を回すことができなかった。
 受け入れることもできない、求めることもできない。
 中途半端を嫌がる志摩にとって自分がどれだけ億劫な存在か、そんなこと、重々承知している。
 だからこそ、全てを彼に任せることができなかった。
 志摩に凭れ掛かることも出来ず、動かなくなる俺に志摩が耳もとで小さく笑う。
 それはどこか悲しそうな自嘲染みた笑みで。

「……俺はね、齋藤、誰彼尻尾振る犬が死ぬほど嫌いなんだよ」
「……っ、うん」
「嫌いなんだ」

 まるで自分に言い聞かせるように何度も呟く志摩に、俺は応えるように何度も頷いた。
 わかってる。意味なんてない。志摩は俺が嫌いなんだから。こうして背中を撫でてくれるのも、絆創膏くれるのも、話しかけてくれるのも、全部、意味なんて無い。だから、自惚れるな。
 わかってる。
 わかってるよ。
 だって、そう思わないと、俺には、今更志摩に縋り付く資格はない。

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