「齋籐、勉強教えてよ」

 そう志摩に頼まれ、頼られたことが嬉しかった俺はつい調子に乗って承諾してしまう。
 放課後、志摩と勉強をする約束を交わし、自分が他人に勉強を教えることができるほどの頭をしていないことを思いだした俺は、自分よりも勉強が出来るルームメイトに頭を下げることにした。

「ってことだから、一緒に勉強見て欲しいんだけど……」
「え?俺?」

 部屋に戻ってくるなにすがり付く俺に驚く阿佐美だったが、事情を聞いて益々不愉快そうな顔をする。
 無理もない。
 阿佐美と志摩の仲が良くないことは俺だって知っている。が、あくまでも目的は勉強だ。志摩だって勉強が出来る阿佐美がいてくれた方が心強いはずだ。
 問題は、阿佐美の気持ちだ。

「……だめかな」
「え、いや、俺は別にいいけど……」
「ほんと?ありがとう詩織、助かるよ」
「……佑樹くんが喜んでくれるんだったら、全然構わないよ」

 そう言って、阿佐美は頬を綻ばせた。
 もしかしたら断られるかもと覚悟していただけに、俺は阿佐美の一言にほっとする。
 これで志摩の勉強もどうにかなるはずだろう。
 後は、志摩を待つだけだ。


 ◆ ◆ ◆


「あれ、なんで阿佐美がいるの?」

 部屋にやってくるなり、志摩は自室にいた阿佐美を見て浮かべた笑みを引きつらせる。
 志摩のこの反応も想定内だ。

「ほら、勉強するんだったら勉強出来る人がいた方がいいんじゃないかなって思って」

 志摩を部屋に招き入れながら、俺はそう素直に伝えることにした。
 玄関口で靴を脱ぐ志摩は、「ふーん」と興味なさそうに呟きながら部屋に上がる。

「俺は齋籐と二人きりで勉強したかったんだけど」

「まあ、いいか」そう諦めたように呟いた志摩は、そのままテーブルに近付いた。
 勉強しに来たはずなのにものの見事に手ぶらだ。
 大丈夫だろうか。
 ソファーに腰をかける阿佐美に近付く志摩を眺める俺は、なんだか今から心配になってくる。


 ◆ ◆ ◆


「だから、これはこうなってこうなるんだって」
「あ、本当だ。なった」
「なってないよ!それ間違ってるだけだから!」

「今のやつもう一回書き直して」とテーブルを挟んで向かい側のソファーに腰を下ろす志摩に消ゴムを渡す阿佐美。
 教科書と睨み合っていた志摩だったが、どうやら飽きたようだ。

「もういいや。休憩しよ、休憩。阿佐美、俺なんか喉渇いた。お茶ない?お茶」

 シャーペンをテーブルの上に投げて置いた志摩は、言いながらソファーの背凭れにぐったりともたれ掛かる。因みにまだ開始して五分も経っていない。

「休憩って、まだ五分しか経ってないけど」
「気のせいだよ」
「本当にやる気あるわけ?」
「あるって。ね、齋籐」

 このタイミングで俺に振るか、普通。
 ニコニコと笑う志摩に返事を促され、つい俺は言葉に詰まってしまう。
 それに、志摩のやる気の無さは俺の目から見てもわかるくらいのものだ。
 不満そうな阿佐美だったが、やがて諦めたように溜め息を吐く。

「佑樹くんもなにか飲む?」

 ソファーから立ち上がる阿佐美は、そう俺に尋ねてきた。
 どうやらこのまま続行してもまともに志摩が聞かないと判断したらしい。
 阿佐美に尋ねられ、俺は首を縦に振った。そんな俺を一瞥した阿佐美は、そのまま冷蔵庫へと歩いていく。

「……ジュースでいい?」

 冷蔵庫の中身を覗いた阿佐美は、そうソファーの志摩に尋ねる。
「やだ」即答だった。

「我が儘言わないでよ」
「齋籐もお茶飲みたいってよ」
「え?……いや、俺は別に」

 渋る阿佐美に、志摩はそう俺をダシに使う。
 慌てて「なんでもいい」と言い足そうとして、志摩に口を塞がれた。
 どうやら余計なことを言うなということらしい。

「……わかったよ。すぐ戻ってくるから、参考書でも読んで待ってて」

 志摩の言葉を鵜呑みにしたようだ。
 本人は心底不本意そうだったが、渋々承諾してくれる。
「すぐ戻ってくるから」と念を押す阿佐美は、そのまま玄関口へと向かった。

「いってらっしゃーい」

 部屋から出ていこうとする阿佐美を笑顔で見送る志摩。
 またなんか企んでいるんじゃないだろうな。
 そう疑ってしまいたくなるほどのいい笑顔だった。


 ◆ ◆ ◆


 阿佐美が出ていった後の自室にて。
 阿佐美がいなくなったのを確かめ、よくやく志摩は俺の口許から手を離した。

「あんまり、阿佐美困らせちゃだめだって」

 小さく噎せた俺は、そう志摩に声をかける。
 志摩は少しだけ意外そうに、横目で隣に腰をかける俺を見た。

「どうしよっかなー」

 困ったような顔をする俺に、志摩は楽しそうに笑いながらテーブルの上で頬杖をつく。
 また人の反応を見てからかっている。
「せっかく教えてくれてるんだから、ちゃんと聞かないと」あまりにもやる気のない態度に、俺はむっとした。

「阿佐美が教えてくれてるのはわかってるけど、俺は齋籐に頼んだんだよ。それなのに、なんか可笑しくない?」
「そ、それは……」
「齋籐は見てるばっかだしさ、楽そうでいいよね」
「……ごめんなさい」

 ニコニコと笑う志摩に指摘され、なんだか良い様に言いくるめられそうになる俺。
 しっかりしろ俺、話聞いてないのもやる気がないのも志摩に非がある。弱気になるな、俺。
 このままじゃいけないと慌てて思考を振り払う。

「でも、だからってさっきの態度は酷いよ」
「やけに阿佐美の肩持つんだ」
「だから、別にそういう……話逸らすなよ」
「ああ、ごめんごめん。齋籐見てるといっぱいお話したくなってつい脱線しちゃうんだよね」

 言いながらも脱線する志摩。
 なんだかわざと話を逸らされてるような気がしてならない。
「で、なんだっけ?」俺に目を向けた志摩は、そう笑いながら尋ねてくる。

「ちゃんと勉強しなきゃ、また赤点取っちゃうよ」
「うん、そうだね」
「そうだねって……そんな他人事な……」
「じゃあ齋籐も手伝ってよ」

 あまりにも飄々とした志摩にこっちが狼狽えそうになった。
 そう思い付いたように提案を持ち掛けてくる志摩に、少し考えて「俺に出来ることならなんでも手伝うよ」と頷く。
 嘘ではない。
 確かに、このまま阿佐美に頼りっぱなしの任せっぱなしな役立たず認定されるのもあれだ。
 首を縦に振る俺に、志摩は口許に笑みを浮かべる。

「阿佐美ほど教え方上手くないけど、教科書くらいなら読めるし……どこかわからないところとかある?」
「わからないところ?うーん、そうだねー」

 念のため阿佐美ほどではないと釘を刺す俺に、志摩はそう考え込んだ。
 出来るだけ難しいところ言われませんようにと願ってしまう俺はもしかしなくてもこういうのに向いていないらしい。そのくせ、「なんでもいいよ」と見栄まで張ってしまう。自分でも呆れた。

「そうだ」

 隣から、思い付いたような明るい志摩の声が聞こえてくる。
「なに?」そう尋ねようと志摩の方に顔を向けたとき、伸びてきた志摩の手に手首を掴まれた。

「う、え……ちょっなに」

 体ごと強く手首を引っ張ってくる志摩は、そのまま人の手を自分の下腹部まで持っていく。
 いきなりの志摩の行動に俺は慌てて逃げようとするが、強い力に引っ張られ前のめりになった体はなかなか起き上がらなかった。
 衣服越しに膨らんだ嫌な感触を無理矢理触らされ、なんだかもう俺は絶句する。

「志摩、ちょっと手!手……っ!」
「さっきから齋籐見てるとムラムラしちゃって集中力なくなるんだけど、勿論コレ治めるの手伝ってくれるよね?」

 涼しい顔して人の手を自分の下半身に持ってくる志摩は、そう言って俺に笑いかけてきた。
「煩悩が無くならないと、俺も勉強が身に付かないし、そうなると阿佐美に申し訳なくなっちゃう」言葉通りそう申し訳なさそうな顔をする志摩だったが、その下は煩悩そのものだ。

「そ、そんなこと言われても……っていうか手離せって」
「じゃあ口でもいいよ」

「一発抜いたら治まると思うから」そう言ってにこりと笑う志摩に青ざめた俺は慌てて手を振り払う。
 さっきからまともに阿佐美の話を聞いてなかったと思えば、まさかここまで煩悩にまみれたやつとは思わなかった。

「嫌?」
「当たり前じゃん。なんで俺がそんなの……」
「じゃあ俺が留年しちゃってもいいの?もう二度と授業中一緒にお喋りできなくなっちゃうよ?」

 そこまで話をでかくするか。というか元々授業中は話す場所ではない気がする。それに、どっからいまの発言で俺が揺るぐと思う自信が沸いてくるんだ。

 あまりにも突っ込みどころがありすぎる自信たっぷりな志摩の言葉に、少なからず狼狽してしまう自分が情けない。
 志摩のいない教室――考えたことがなかった。常に視界の隅にちょろちょろ映っていたから尚更だ。

「……阿佐美の授業ボイコットしちゃおうかなー」

 押し黙る俺に、志摩はそうトドメを刺すように呟く。
 なるべく第三者に迷惑をかけたくないという俺の性格を知った上で引っ掻けようとしているのだろう。
 なかなか食えないやつだ。

「……わかったよ、わかったから阿佐美に迷惑かけないで」
「流石齋籐、話分かるね」
「……」

 苦渋の決断を下す俺に、志摩はそうにやにやと満足そうに笑う。
 嫌な笑い方だと思った。

「テーブルの下、行きなよ。そこでやって」
「えっ?今?」
「なに寝惚けてるの?当たり前でしょ」
「いや、だって」

 阿佐美が戻ってきたらどうするんだ。
 平然とした様子で言ってのける志摩に俺は狼狽える。
 あまりにもとんでもない提案に不安になる俺に、なにをどう思ったのか志摩は「大丈夫」と笑いながら続けた。

「阿佐美無駄にでかいからテーブルの下まで見えないって。ほら、早く来てよ」

 志摩はそう言いながら俺の腕を掴み、無理矢理ソファーから下ろしテーブルの下へ移動させる。
 確かに志摩の言葉には一理あったが、だからと言ってどうなんだ。これは。

「適当にイったらまた阿佐美外に出させるから良いでしょ?」
「絶対、誰にも言うなよ」
「言わないよ。俺の一生の思い出に刻んで墓場まで持っていく」

 なんかそっちの方が嫌だ。
 照明の明かりが行き届いていないテーブルの下は影になっており、志摩がどこにいるかがようやくぼんやりと分かるくらいで。
 なんか悪いことしてるみたいだ。いや、実際良いことをしているわけではないから間違いじゃないんだけど。
 思いながら、志摩の膝に手を置きおずおずと顔を近付ければ、頭上から可笑しそうな志摩の笑い声が聞こえてくる。

「やけに積極的だね」
「……は?っじ、自分がやれって言ったんだろ」
「うん、そうだけどね。いや、阿佐美効果すごいなあって思って」

 恐らく上では志摩がにやにや笑っているだろう。
 水を差され、思わず動きを止める俺に志摩は「続けて」と呟いた。
 伸びてきた手に頭を撫でられ、ひどくいたたまれない気分になる。
 とにかく、志摩の煩悩をどうにかするしかない。
 そのまま志摩のスラックスに手伸ばそうとして、不意に手首を掴まれた。

「え、なに?」
「口でやってよ」
「うん、わかってるけど、その……手掴まれたら脱がせられないって」
「だから、口で」
「は?」
「手ぇ使っちゃだめだよ」

 阿佐美に見付からないようにするというだけでも緊張するというのに、これ以上ハードルを上げる気か。
 手首を掴んだまま「返事は?」と尋ねてくる志摩に、俺は諦めたように「わかった」と頷いた。
 頭上げた拍子にテーブル裏に後頭部を打ち付けたのは言うまでもない。



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