PROLOGUE
目を覚ましたら見覚えのない場所にいた。
そもそも、見覚えもなにもよく考えてみるとなにも思い出せない状況で、ここがどこなのかは勿論、どうしてここに居るのか、そして自分が何者かのか。全て思い出せない状況で。
だけど、違和感だけは異様なほど感じた。
それが何に対するものなのか分からないまま、辺りを見渡す。
簡易ベッドの上、寝かされていた俺の躯には無数のチューブが繋がれていて。
その先には袋の中に入った透明の液体が吊るされるようにしてぶら下がっている。
瞬間、全身に震えるような寒気が走る。
自分の中に得体の知れないものが現在進行形で流し込まれていると思っただけで虫唾が走り、堪らず腕や肩に刺さったチューブを引き抜いた。それと同時に、部屋の扉が開く。そこには、数人の白衣の男たちが入ってくる。
「おお、ようやくお目覚めか。……長がったなぁ?」
白衣たちの先頭に立つ茶髪の男は、白衣を羽織ってはいるものの医者のようにも科学者のようにも見えない。ただ、こちらを見る垂れ目がちなその視線がひたすら不快だった。
――逃げろ。
心の奥、声が聞こえてくる。本能か、それとも別のなにかか。考えることも儘らない頭の中、その声に従って俺はベッドから起き上がり、そして走りだす。
白衣たちの正面。向かってくる俺に驚いた顔をする目の前の白衣たちを薙ぎ払い、唯一の扉へと走り抜ける。
不思議と躊躇はなかった。簡単に倒れる白衣たちを目尻に、俺は部屋から飛び出した。
「あっ、おい!」
「追いかけろ!絶対に逃すんじゃねえぞ!」
背後から聞こえてくる慌てた男たちの怒号はどんどん遠くなっていく。
質素で無駄のない通路は酷く絡み合うように複雑な作りになっているようだ。
随分と長い間眠っていたような気がするが、それすらも錯覚だと思わせるくらい体は軽かった。
寧ろ、この時を待ち望んでいたかのような。
そんな気すらする。
鼓膜を劈くのは天井のスピーカーから流れる警報。
見渡す限りの無機質な灰色の壁は迷路のようで。
後方、大勢の足音が近付いてくるのが聞こえてきた。
とにかく、逃げよう。
どこか、遠くへ。
取り敢えず、この薬品臭い場所から脱出しないと。
そう思った矢先、行き止まり。
「ありゃりゃ……」
思わず足を止め、背後を振り返る。
人影はないが、近付いてくる足音からして追い付かれるのは時間の問題だろう。
視線を泳がせたとき、天井近く、小さな格子を見付けた。
恐らく通気口かなにかだろう。
あそこを辿れば、外へ……。
考えるより先に、格子の下へとそこら辺にあった棚や机を積み上げる。
その物音まで気遣っている暇はない。
どんどんと積み上げ、なんとか天井の格子まで辿り着けるであろう歪な階段を作くりあげたときだった。
「おいっ!見つけたぞ!」
「早く捕まえろ!」
背後から聞こえてきた声にビックリしたが、構わず俺は階段を駆け上がる。
格子を掴むが、しっかりと嵌め込まれたそれはちょっとやそっとじゃ外れるわけがなくて。
格子を掴み、無機物相手に奮闘する俺に構わず、数人の白衣を着た男たちが後に続いてくる。
背後から伸びてくる無数の手を避けるように足を払い、格子にぶら下がった。
腕に全体重を掛けた瞬間、ガコリという音とともに手の中のそれは軽くなっていて。
――外れた。
そう喜ぶのも束の間。
格子以外支えを持っていなかった俺の視界は大きく揺れ、体が、頭が、後方へと傾いていく。
崩れる階段。
下から白衣達の悲鳴が聞こえてきた。
「おい、崩れてるぞ!」
ガラガラと足元から崩れていく感覚に目が回りそうだった。
でも、ああ、なんかこれ、この感覚、嫌いではない。
ガラガラと積み上げた階段だったものが崩れていく。
間一髪、近くにあった机の足を掴み、そのまま飛び乗る。
だけど、だからといって雪崩を止められるはずもなく。
「うわあああっ!」
どうやら下の白衣たちは今の階段崩壊に巻き込まれたらしい。
下方から聞こえていた複数の悲鳴は物を叩きつけるような音に掻き消される。
そして、ようやく雪崩が止んだ時。立ち上がった俺は、机や棚の下敷きになって白目剥いてる白衣たちに心の中で合掌し、崩れた階段の上にまた階段を作り上げる。それが崩れる前に今度こそ通気口へと飛び込んだ。
PROLOGUE.
『逃走劇は合図もなく開始される』
出口かと思って飛び込んだ先に、更なる迷宮が控えているなんて誰が思っていたのだろうか。
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