馬鹿ばっか


 07

 やってしまったと後悔したところで何もかも遅い。大体後悔とはそういうものだと割り切ってるつもりだったが、今回は後からくるものが大きかった。

「おい、立てるか」

 こいつ、出すだけ出してさっさと自分だけシャワー浴びて着替えたと思えばそんなことを言い出した。
 立てないことはない、けどもだ。

「見て分かんねえのか」
「抱き抱えてほしいのか」
「……ちげえよ。立てるって意味だから」

 デリカシーがないのか。情緒もねえし。
 つかなんなんだよ、と思いながらも立ち上がれば五十嵐にこっちに来いと手を掴まれる。

「五十嵐……」
「帰るから見送れ」
「あ?」
「あ?じゃねえよ、お前なんのためにここまでやったんだよ」

 言われてからハッとする。
 あまりにも五十嵐との行為が抜けきれずいっぱいいっぱいになっていたようだ、指摘され、呆けている自分にはっとする。

「……最初からそのつもりだったっての」
「ベッドから動けなくなってたやつが何言ってんだ」

 正直頭から抜けていたけれどもだ。文句の一つ二つ言ってやりたかったが、今この状態では何言っても言い負かされてしまいそうだったのでやめた。
 俺はそのまま五十嵐を見送るために玄関口へと身体を引きずる。くそ、まだ腹ん中に感触が残っている。

 扉を開けた五十嵐は辺りを確認してこちらを振り返る。
「なんだよ」と見上げれば、やつは自分の唇をとんとんと指差した。

「…………っ」

 なんで俺が、と喉先まで出かかって言葉を飲み込んだ。恋人のフリを頼んでいたのだ、落ち着け。そうだ冷静にならないといけない。
 いくらその場のノリに流されて五十嵐に抱いてほしいなんて言ってしまったかといってもだ。
 五十嵐の胸元を掴み、顔を寄せる。風呂上がりのシャンプーの匂いが余計生々しくて嫌だったが、ええいと半ばやけくそに俺は五十嵐にさよならのキスをした。色気も技巧もクソもない、触れるだけの口付けだ。
 そして唇を離し、「じゃあな」と離れようとした矢先。そのまま伸びてきた手に背中を抱き寄せられた。

「……んな、ん……ッむ……っ」

 なんで、お前。唇を重ねられ、執拗に舐られる。挨拶のキスなんて可愛らしいものではない、先程の行為を彷彿させるようなそれに堪らず五十嵐の胸ぐらを掴むが、引き離すことはできなかった。
 いつもの俺だったら、どう返すだろうか。冷静になれ。そう繰り返し、俺は引き離そうとしていた胸ぐらを掴んでいた手を一旦離し、そのまま五十嵐の肩に触れる。

「っ、ふ、……ぅ……ッ、」

 舌を絡め返し、五十嵐の後頭部を撫で付ける。ああ、くそ、まだか。顔が、全身が熱くなるのを感じながらも俺は五十嵐を受け入れ、応えた。五十嵐の目は細められ、満足するどころか更に執拗に唇を重ねられた。

「っ、は、……んなに、名残惜しいかよ……っ」

 唇が離れた隙にそう煽れば、五十嵐は僅かに目を細めた。そして、「少しな」と俺にだけ聞こえる声で呟くのだ。それもフリなのか。こいつの場合は特にわかりにくかったが、五十嵐は最後に音を立ててキスをし、それから俺から離れた。

「“また”な」

 こういうときばかりこの男は笑うのだ。
 お前、本当は楽しんでるだろう。俺は五十嵐を睨み「ああ」とだけ笑い返した。

 五十嵐の背中が見えなくなる前に部屋へと戻り、扉を開いた。唇に皮膚にと、まだ五十嵐の感触が至るところに残っているようだった。
 一人になってようやく自分のやってしまったことについて後悔したが、ここで悩んでも仕方ない。とにかく、俺はやれることをやるだけだ。そう言い聞かせることが精一杯だった。

 ……取り敢えず、一先ずシャワーだな。


 五十嵐と別れたあと、速攻風呂に入って熱湯を頭から被る。普段ならこうすると幾分か気分がマシになったのだが、今回はどうだ。
 油断をすればするほど思考に蘇る五十嵐とのあれやこれに頭を抱える。
 自分が決めたことだ、分かっていたが……。

 思いっきり叫びたい気分のまま、俺は身体を洗う。ケツの穴がムズムズする。なるべく意識しないようにケツの穴を洗った。
 イライラとはまた違う、なんだこれは。確かに、確かに挿れてほしいとは言ったかもしれないがまだ違う。そうじゃない。俺は言わされたようなものだ。なんて頭の中で繰り返しても事実は変わらない。
『お前、俺とセックスしてからハマったんじゃないのか?』なんて頭の中に岩片の腹立つ顔が浮かんではかき消す。そんなはずがない。
 ……そんなはずが。

「………………あっつ」

 これ以上は逆上せそうだ。シャワーのお湯を止め、俺は水浸しのまま風呂を出た。
 身体の火照りが取れるまで下着とタオル一枚で部屋で過ごす。
 携帯を手に取れば政岡から電話がかかってきていた。
 いちいち電話掛けずともメッセージでも送ればいいのに、と思いながら俺は暫く画面を眺め、そしてテーブルへと戻す。
 今はまだあの男と話す気にはなれなかったのだ。緊急の用事ならば窓からでも飛び込んでくるだろう、政岡は。思いながら冷蔵庫を開き、炭酸水を手に取る。
 飯時だか腹いっぱいだし、全身が気怠い。火照りも取れないまま、俺はソファーに寝転がった。

 取り敢えず、神楽に伝わってりゃいいのだ。憎まれ役には慣れている。……その代償が些かデカすぎる気もするが、俺も俺で意地になっていた。
 何が何でもあの男を負かすと。

 暫くぼーっとしていると、部屋の扉が叩かれる。
 扉を拳で殴るようなこのやかましいノックの音は政岡だろうか。念の為携帯を手に取り確認すれば、丁度政岡から再び着信があったところだった。
 脱ぎ捨てられたままになってたTシャツを拾い、適当に頭から被ってジャージの下を探す。それはすぐに見つかった。それをズルズルと履きながら、そのまま玄関口へと向かう。そして、そのまま扉を開いたとき。

「……っ、尾張……」
「……政岡?」

 予想的中。そこには暑苦しい顔があった。それも、なんだか様子がおかしい。なにか焦っているようなそんな表情だ。
 けれど、俺の顔を見ると政岡はほっとしたように息を吐く。

「尾張……良かった、連絡なかったから俺、またなんかあったんじゃねえかと……」
「あー……悪いな。風呂入ってたんだよ」

『風呂』と言ったとき、ぴくりと政岡の表情が強張ったことに気付いた。なんでそこに反応するんだよ、と思ったが敢えて気付かないフリをする。

「用、あったんだろ。上がれよ」

 なんとなく面倒な気配もしたが、それ以前にせっかく政岡とは不仲ということにしたいのにこんなころを誰かに見られたら面倒だ。
 招き入れれば、政岡は「ああ」と低く呟き部屋の中に入ってきた。落ち込んでる、というよりもなんとなく威勢がない。
 そもそもこの男の場合は普段から感情を顔に出しすぎなのだ。
 政岡が部屋に入ったのを確認して扉を閉めた。
 先程まで五十嵐がいた上換気を忘れていただけに残り香が気になったが、もう遅い。

「それで、用って……」

 なんだよ、と言いかけたとき。
 いきなり伸びてきた手に肩を掴まれ、そのまま背後の扉に背中を押し付けられた。

「いっ……てぇな、なんだよ……っ!」
「……っ、尾張……なんで、風呂に入ってんだよ」
「はあ……?」

 震えた声。
 肩口に食い込む指はがっちりと身体を離さない。覆いかぶさってくる影。その距離の近さに息を飲む。
 そもそも、政岡の言葉の意味が分からなかった。

「なんでって、別に……入りたくなったから入っただけだっての……そもそも、なんなんだよお前」

 なんで怒ってるんだよ、と政岡を睨んだとき。
 なぜだか政岡の顔が悲しそうな、ショックを受けたような顔をするのだ。なにが言いたいんだ、はっきりと言え。そう喉元まで出かかって、一つの可能性が頭を過ぎった。
 まさか、こいつ。

「……五十嵐と、なんかあったのか」

 神楽から何か聞いたのか。それとも、五十嵐本人からか。
 どちらにせよ、面倒臭いことには変わりないが。
 神楽本人だけ引っかければいい話なのになんでこいつがいちいち引っかかってんだよ、と思ったが、そうだ。最初からこういうやつなのだ、政岡は。

「おい、尾張……」
「別に、なんもねえよ。それとも、誰かから何か聞いたのか?」

 そう聞き返せば、政岡がぐっと唾を飲む。相変わらず隠し事ができない男だ。

「……五十嵐か?」
「っ、違う……」
「じゃあ、神楽か?」
「…………」

 無言で政岡は視線を逸らす。それが答えになっているということを政岡は気付いてるのだろうか。

「尾張……」
「そうか、あいつか。なら良かった、作戦成功ってことだな」

 そう、なるべく明るく返せば政岡の目が見開かれる。

「作戦……?」
「ああ、屋上でも言っただろ。……あいつには俺から手を回しておくって」

「神楽は俺のことを勘違いしてる。それで、あんたにつくはずだ」そう続ければ、次第に政岡の表情が和らいだ。

「そ、……そっか、そういうことだったんだな」
「ああ。……あれだろ? 俺が五十嵐を部屋に連れ込んだとでも聞いてたんだろ、どうせ」
「っ、ああ、それで……俺、……」
「安心しろ、全部神楽を誤解させるためにやったことだ。……五十嵐に協力してもらってな」

 ああ、自分でもよく回る舌だと思う。今更嘘を吐くことに躊躇いもクソもない。案の定、政岡は安心しきった顔をしてる。
 ……かと思いきや「でも」だとか言い出すのだ。まだやにかあるのか。

「別に、あいつじゃなくたっていいだろ……っ、よりによってなんで……」
「言っただろ。あいつと俺たちは一応利害は一致してるしそこらのやつよりは信憑性が増す。……お前が勘違いしたみたいにな」
「……っ、それは、そうだけど……もし、あいつが本気でお前に妙な気でも起こしたら……」

 そうもごもごと反論してくる政岡。もうとっくに遅いんだよ、なんて喉元まで出かかって飲み込んだ。そして、俺は政岡の肩をやんわりと掴む。
 肩に触れた瞬間、指の下で筋肉が反応するのがわかった。見開かれた目がこちらを食い入るように見据える。穴が開きそうだな、と思いながらも俺はその視線を真正面から受け止めてやることにした。

「……っお、わり……」
「政岡、余計なこと気にしなくていいんだからな。……そもそも本気で俺相手にするようなもの好き、お前くらいしかいねえんだから」

 ごくりとその喉仏が上下する。肩を掴んでいた政岡の手に腕を撫でられそうになり、俺はそのままその胸を押し返した。政岡の腕から抜け出せば、やつは露骨にがっかりしたような顔をするのだ。

「お、尾張……俺は……」
「あんま長いするとまた勘違いされるかもしんねえだろ。……廊下、人気がねえうちに戻れよ」
「お前はこれからどうすんだ?」
「どうしようかな、……少し仮眠してから飯でも食いに行くかな」
「だったら、一緒に……」
「政岡」

 お前、人の話聞いていたのか。
 そう言おうとしていた俺に気付いたのだろう、しゅんとした政岡は「わかったよ」と口にするのだ。形式上、俺の言うことも聞いてくれる不満がないわけではないのだ。このままではまた爆発するのも近いだろう。

「……」

 人をコントロールするというのは面倒だな。
 俺はそのまま政岡の頬に手を這わせる。瞬間、掌の下で政岡はぎょっとこちらを見た。その顔は赤い。

「お、尾張……っ?!」
「……落ち着いたら、また飯食いに行こうな」
「……っ、……ああ」

 そう頷く政岡に自然と口元が緩む。
 ……こんなことで喜ぶなんて、本当にめでたいやつだな。そう思う反面、そんな政岡のことを心のどこかで羨ましくも思っている自分がいることを認めたくなかった。


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