天国か地獄


 10

 灘とともに303号室を後にした俺は自室へと帰ってきた。
 帰ってきてませんように。そう祈りながら扉を開けば、そこには部屋を後にしたとき同様薄暗い室内が広がっていた。
 壱畝の姿はない。
 安堵し、灘を部屋の外で待機したまま玄関へ上がった俺は部屋の明かりを付け、そのままクローゼットまで歩いていく。さっさと着替えだけ持って出ていこう。
 必要最低限の着替えをまとめ、これくらいでいいかなと一息ついたときだった。
 ガチャリと静かな音を立て、玄関の扉が開いた。
 もしかして灘だろうか。そう思いながら玄関を振り返った俺はそこに立っていた青年の姿に硬直する。

「なにやってんの、ゆう君」
「は……っ、はるちゃん……」

 丁度今帰宅したようだ。
 買い物をしたのか、腕に買い物袋をぶら下げた壱畝遥香は狼狽える俺に構わずこちらへと近付いてくる。冷や汗が滲み、緊張した全身の筋肉が震え始める。
 やばい。どうしよう。

「えっと、その、着替えを」
「着替え?」
「お風呂、入ろうかと……」

 とにかく、どうにかして壱畝の注意を逸らさなければ。
 そう、重ねた着替えを庇いながら口にすれば僅かに目を細めた壱畝は「へえ、お風呂」と興味深そうに呟いた。

「確かここって一部屋ごとにユニットバスがついてるんだっけ。それとも大浴場の方に入るの?」

 どうして壱畝遥香がそんなことを聞いてくるのかがわからなかったが、どちらにしろこの部屋を出るつもりだ。大浴場って言っておこう。

「その、大浴場に……」
「なんで?部屋に風呂ついてるのになんで大浴場にいくの?」

「ダメだなゆう君、ゆう君が大浴場なんか行っちゃったらお湯が汚れて次入る人たちが可哀想じゃん。もっと考えてあげないと」どうやら俺の選択肢は間違っていたようだ。
 あくまでも人良さそうな笑みを浮かべたままゆっくりと歩み寄ってくる壱畝はそう軽薄な口調で続ける。
 いつもの嫌味だと聞き流そうとするが、ここ最近疲れていたせいか余計その言葉が胸にきた。

「ご……ごめんなさい」
「うん、そうだね。ちゃんとごめんなさいしなきゃ。ゆう君みたいなのが周りと同じような待遇を受けようとするだけでもおかしいんだから。でも偉いね、ゆう君。ちゃんと自覚したんだもんね自分が汚物同然だって」

 壱畝の嫌事には慣れたつもりだが、ブランクもあってかかなりきつい。
 肩を掴まれ、耳元に唇を近付けてくる壱畝は青ざめたまま硬直する俺に囁く。

「だからほら、お風呂入るならユニットバス使ったら?」

 耳障りのいい涼しい声。意味がわからなくて近くの壱畝の顔を見れば、至近距離で目があった。
 そして、壱畝遥香はにこりと笑む。

「俺が汚いゆう君の体を洗ってあげる」

 薄く形のいい唇を動かし壱畝は笑った。
 一瞬、意味がわからなかった。

「え?」

 そう困惑する俺に構わず「ほら、早くおいで」と言いながら背中を押してくる壱畝。
 その進む足の先にはユニットバスに繋がる脱衣室の扉があって、そこでようやく壱畝が本気だと言うことに気付いた俺はサアッと青ざめた。

「いい、いいって、いらない」
「いらないじゃないって。『ありがとうございます』」

 言いながら、慌てて逃げようとする俺の腕を掴んだ壱畝はそのまま強引に引っ張る。
 無理な体勢に腕の関節が悲鳴を上げた。鈍い痛みと恐怖心で涙が滲む。

「っ、や、ぁ……っ痛い、痛いよ、壱畝君……っ」
「はるちゃん、だろ?」

「何回言えばいいのかな、お馬鹿なゆう君には」そう呆れたように笑う壱畝遥香は脱衣室の扉を開き、そのまま突き進んで浴室の扉を開いた。
 水が溜まった浴槽に、漂うのはヒンヤリとした空気。嫌な予感がした。そして、俺の嫌な予感はよく当たる。
 狭くはない浴室の中。浴槽の前で足を止めた壱畝遥香はそのまま俺の腕を引っ張り、浴槽へ放り込もうとした。

「ひぃっ」

 バランスが崩れ、浴槽に落ちそうになって俺は浴槽のフチを掴み寸でのところで冷水に飛び込むなんてことにならずに済んだ。が、安心するのはまだ早い。
 背後の壱畝に背中を蹴られ、視界が大きく傾く。水滴で濡れていたフチで手が滑り、俺の体はそのまま浴槽に放り込まれた。バシャンと遠くで音がし、瞬間、全身を包む冷水に筋肉が縮む。
 穴という穴から水が入ってきて、息苦しさと肌寒さに目の前が真っ暗になった。

「あれ、これ昨日の湯じゃん。ははは、バカだなゆう君は。冷たいよね?暖めなきゃ風邪引いちゃうじゃん」

 頭上から楽しそうな壱畝の笑い声が聞こえる。
 なにを言っているか理解する余裕なんてなくて、浴槽のフチを掴んだ俺は水分を含み重さを増した服を肌に張り付けたまま湯船から這い出ようとした。
 頭を出し、口を開いた俺はゲホゲホと噎せながら器官に入った水を吐き出そうとしながらそのまま上半身を湯船から上げたときだった。
 額に張り付く前髪を掻き上げ、顔を上げたとき、シャワーを手にして微笑む壱畝と目が合う。
 そのもう片方の手は蛇口へと伸びていて、そのシャワーの温度が高温に設定されているのに気付いたときには遅かった。
 次の瞬間、蛇口を大きく開いた壱畝が手にしたシャワーヘッドから熱湯が勢いよく噴出する。

「っ、ぁ゙っ、ひぃ……ッ!!」

 頭から降り注ぐ肌を焼くような大量の滴。叩き付けてくる大量の小粒は冷えきった俺の体にとっては加熱した鉛のように酷なもので。
 慌てて腕で頭を庇えば、今度は腕の皮膚が焼けるようにヒリつき、痛みが走った。

「どう?ゆう君暖かい?」
「やっ、熱い、熱いよっ、はるちゃん!やめて!やめてってば!」

 のたうち回るにも狭い浴槽では逃げることが出来ず、声を上げ懇願する俺は慌てて浴槽から上がろうとするが、瞬間、伸びてきた壱畝の手に後頭部を掴まれ、そのまま冷たい水面へと押し付けられる。

「んぐッ」
「ああ、ダメだってゆう君。お風呂なんだからちゃんと浸かんなきゃ」

 ごぼりと口や鼻に残った空気が泡になって逃げていく。
 息苦しさに堪えれず顔を上げようとするが壱畝遥香はそれを許さない。

「んんっ、ぅ゙、んうぅッ!」

 もがけばもがくほど体内に残された酸素はなくなり、死に者狂いでフチを掴むが敵わない。
 水の冷たいとかそいうのがどっかに飛んでいって、やばいまじで死にそうなんだけどと焦るがどうしようも出来ず、頭が真っ白になる。

「ほら、お風呂浸かるときは百秒数えるって言うしさ。あと百秒、我慢出来るかな」

 冗談じゃない。こいつ、頭可笑しいんじゃないのか。
 酸欠を起こし、朦朧する意識の中水中に響く壱畝遥香の声を聞きながら俺はなんだかもう焦りを通り越して逆に冷静になってくる。
 酸素がなくなり、頭に血が昇る。息が詰まり、本格的にやばくなってきたときだった。
 ぴんぽーん。そう、気の抜けた音が浴室に響いた。インターホン。誰かが来たようだ。
 微かに聞こえたその音に、脳裏に部屋の前で待たせていた灘を思い出す。
 そのときだった。頭を押さえ付けていた壱畝遥香の手が離れる。
 その瞬間を逃さなかった俺は慌てて水面から顔を出し、新鮮な空気を取り込む。

「っげほッ、ぅ゙う……っ」

 激しく咳き込んだ俺を一瞥した壱畝遥香の意識はどうやら真夜中の客人に向いたようだ。
「はいはーい」なんて軽い声を上げながら壱畝遥香は浴室を出て玄関へ向かう。
 その後を追う元気なんて俺に残ってなくて、ぜぇぜぇと肩で息をしながら浴槽から這い上がった俺はそのままタイルの上に座り込んだ。濡れた服の重さもあってか体が動かない。そして、外気の寒さに晒されたずぶ濡れの全身がぶるりと震えた。奥歯がガチガチと鳴る。
 今はただ、恐怖に震える自分自身を落ち着かせるのが精一杯だった。

『あぁ灘君、どうかしたのかな、こんな時間に』

 不意に、声が聞こえた。壱畝遥香の声だ。やはり、インターホンを鳴らしたのは灘だったようだ。
 壱畝が灘を知っていることも意外だったが驚く余裕はない。

『齋籐君は』

 玄関から高揚のない灘の声が聞こえた。その声に安堵すると同時に、今すぐ助けを求めたかったのに足がすくんで動けなかった。その場に壱畝遥香がいると思えば、尚更。

『ゆう君なら今ちょっと手が離せないみたいだけど……それがどうかしたの?』
『そうですか』
『ちょっと時間掛かりそうだからまた後で来たらどうかな。汚い部屋で待たせるわけにもいかないしさ』
『お構いなく』

『用意ができたら声をかけていただくようお願いできますか。外の方で待ってますので』行かないでくれ、入ってきてくれ、こいつと二人きりにしないでくれ。
 叫びたいのに、声が出ない。本当にこの喉は役立たずだ。肝心なときに役に立たない。
『うん、わかった』という壱畝の返事に、なんだかもう俺は泣きそうになった。
 助けを求めるだけではどうしようもならないことだとはわかっている。わかっているからこそ、まともに助けすら求められない自分が歯痒くて堪らない。
 ずぶ濡れになったまま、その場を動けずにいた俺はぎゅっと膝を掴んだ。寒い。そんな俺を知ってか知らずか、壱畝遥香は尋ねる。

『それで、ゆう君になんの用なのかな』

 そんな今さらな壱畝の問い掛けに対し、間を置いて灘は『機密事項です』と続けた。
 その気遣いにまた泣きそうになる。本当に自分が嫌になる。壱畝遥香に逆らえない自分が。
 水分を含み、肌に張り付く服から携帯を取り出した俺は故障していないか試しに操作し、ちゃんと動くのを確認して安堵する。
 ちゃんと防水してくれたようだ。今はただ、使いもしないのに上等の携帯を用意してくれた両親のお節介が有りがたかった。

 自室にて。
 メール機能を開いた俺は文字を打つ。

『ごめん、やっぱり今日はやめとく』

 指の動きに合わせて編集画面に表示された謝罪の言葉。
 そのメールの送信先はクラスメート、志摩亮太のアドレス。
 躊躇いがちに送信ボタンを押す。そして、返事はすぐに返ってきた。

『なんで』

 その一言だけが記入された本文に、なんとなく志摩の機嫌がよくないのを察した。
 問い掛けられたら答えるしかない。
『あんまり邪魔しちゃ悪いし』と返事をすればまたすぐに返事が来た。

『部屋の持ち主がいいって言ってるのに?』

 いつも思うが志摩のメールの返事早すぎるような気がする。もしかして携帯に張り付いているのだろうか、なんて思いながら『ごめんね』とだけ本文に記入した。
 本当は、志摩に助けてもらいたかった。しかし、一日だ。今日我慢すれば、明日、部屋を換わる手続きが出来る。
 志摩が壱畝と鉢合わせになれば志摩がなに言い出すかわからない。
 壱畝遥香にはルームメイト変更のことはギリギリまで知られたくなかった。下手したら、阿佐美まで迷惑がかかる。
 濡れた肌を滴る滴を拭い、小さく息を吐いた俺はそのまま携帯を閉じた。そのときだった。手に持っていた携帯電話がぶるぶると震え始め、俺は肩を跳ねらせる。志摩だ。
 いつ壱畝がやってくるかわからない今、電話に出ることはできなかった。
 暫くして着信は切れ、今度は志摩からメールを受信する。

『電話出ろよ』
『ごめん、ちょっと無理』
『壱畝がそっちにいるの?』
「……」

 まるでこちらが見えているかのような鋭い指摘。
 勘繰るような志摩のメールに胸を締め付けられるような息苦しさを覚えながらも俺は『いない』と返事を打つ。
 いると言ったら志摩がここに来ることは間違えないだろう。それだけは、避けたい。
 携帯電話を自分から避け、俺は自分の股に目を向ける。
 俺の膝の上に頭を乗せ、小さな寝息を立てる壱畝を見下ろしたまま俺は何度目かもわからない溜め息をついた。
 膝枕。これほどまでに精神的にも肉体的にも苦痛になる行為は知らない。
 暫く灘と揉めたあと、苛ついた様子で部屋へ戻ってきたと思えばこれだ。動くに動けず、ベッドの上に腰を下ろしたまま俺は灘への謝罪の言葉を思い浮かべながら、夜を過ごす。


 気付いたら眠っていたようだ。
 ふと瞼越しに陰が動いたのに気付き、薄く目を開こうとしたときだった。腹部に抉るような激痛が走る。

「っ、ぁ゙ぐッ」

 寝起きの不意打ちに目を見開けば、目の前には壱畝の顔。そして自分の腹部には壱畝の腕が伸びているのを見て、俺は壱畝に殴られたのだと理解する。殴られた箇所はドクンドクンと鈍痛で疼き、腹部を押さえたまま何事かと壱畝を見上げた。

「はる、ちゃん……」
「おはようゆう君、朝だよ」

 どうやら壱畝は起こしてくれたのだろう。壱畝に好意なんてものが存在しているのかわからないが壱畝にとって暴力は挨拶同然だ。俺の上から退く壱畝は薄く微笑み、いまだ寝惚けている俺の前に立つ。

「ほら、見てこれ。ゆう君とお揃いの制服。似合う?」

 言いながら着ていた制服の裾を引っ張る壱畝。
 見慣れた真新しいそれはこの学園指定のブレザーで、眠気の抜けきれていない俺の脳味噌だったが本格的に壱畝が転入してきたという事実に絶望する。
 極力それを顔に出さないように「うん」と頷けば、ぱあっと表情を明るくした壱畝は「わあ、ありがとう」と微笑んだ。相変わらず嘘臭い笑顔。

「なんかさ、先生たちから色々説明とかあるみたいなんだよね。それで早めに出なきゃいけないみたいで……ホントはゆう君と一緒にご飯食べようと思ったけどゆう君待ってたら遅れちゃいそうだし、先に行くね?」

 寧ろ俺のことなど気にせずどうぞお好きに好きなところに飛んでいっていただきたい。
 申し訳なさそうに続ける壱畝は珍しく機嫌がいいようだ。

「同じクラスになれるといいね」
「……そうだね」
「ははっ、嫌そうな顔」

 言いながら、ぎゅむっと頬を摘まんでくる壱畝はぐにぐにと頬を引っ張り「もっと可愛く笑えよ」と強要してきた。
 頬を引っ張られた状態で笑うことが出来るほど頬の筋肉を鍛えていない俺が笑っても勿論強張るだけで、そんなぎこちない俺の笑みを見た壱畝は「ああ、不細工なゆう君には無理だったかな」と笑う。
 その然り気無い一言に心が軋む。
 そして、言いたいことだけを言い部屋を後にした壱畝遥香。やつがいなくなり、一人になってようやく全身の緊張を緩めた俺は学校の用意をする。

 制服に身を包み、壱畝が散らかした後を片付けていたときだ。
 部屋の扉がノックされ、慌てて開けばそこには見慣れた青年の姿があった。
 見上げるほどの長身に、着崩れした制服。相変わらず無造作に跳ねた長めの黒髪は彼の目元を隠す。
 それでも、覗いたその口許には確かに嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

「佑樹くん、おはよう」
「おはよう」
「……」
「……なに?」
「なんか、顔色悪いね」
「……そうかな。多分隈のせいだと思う」

 言われて、鏡で見た自分の顔を思い出す。
 一日での多大な疲労感で生気を失いかけた顔はやはり端から見ても酷いらしい。
「寝不足?大丈夫?」そう心配そうに尋ねてくる阿佐美の気遣いが嬉しくて、強張っていた顔面の筋肉がいくらか弛む。

「詩織の方こそ眠たくないのか」
「ん……ちょっとだけ」

 言いながら、いつも日陰で過ごしているお陰か生白い顔をした阿佐美は眠たそうに小さなアクビをした。
 相変わらずの阿佐美につられて俺は微笑んだ。

「朝、食べてないんだよね。なにか食べよう」

 そして、そう阿佐美に問い掛ければ阿佐美はこくりと大きく頷いた。

 ◆ ◆ ◆

 食堂で朝食を済ませ、俺は阿佐美と並んで教室に向かった。
 懐かしくてやけに久しい感覚に自然と緊張が弛んでいたようだ。

「齋籐」

 教室の扉を開こうとしたとき、不意に背後から名前を呼ばれた。
 志摩だ。いつもと変わらない薄い笑みを浮かべて歩み寄ってくる志摩にギクリと緊張するが、慌てて平静を装う。

「あ、おはよう、し……」

 そう、笑顔で挨拶しようとしたときだった。伸びてきた手に肩を掴まれ、それは制止させられる。
 変わらない笑みを浮かべた志摩。しかしその指先には力がこもり、皮膚に食い込む。
 肩の痛みに全身が緊張し、冷や汗が滲んだ。

「どうして阿佐美と一緒にいるの?」
「たまたまそこで会っただけだって。……同じ教室なんだから一緒になるのは仕方ないじゃん」

 いきなり手を出してくる志摩に呆れたような顔をした阿佐美は「ちょっと、志摩」と慌てて仲裁に入ろうとするがそれをやんわりと止め、あくまでしらを切る俺は「別に、志摩が気にするようなことはないよ」と志摩に続けた。

「昨日はごめんね。メール、嬉しかった」

「また今度泊まりに行くからそのときは……いいかな」そう控えめに志摩に畳み掛ければ、なにか言いたそうな顔をしていた志摩はほだされたように小さく息を吐き、そして俺から手を離した。

「いつでも来たらいいよ」

 敢えて流されたのか、諦めたのか、はたまた呆れたのか。強く言ってこない志摩に内心ほっと安堵する。
 そんな俺たちのやり取りを目の当たりにしていた阿佐美は困惑したような顔をしてこちらを見た。
 目があって、俺は苦笑する。都合のいいことばかりを口にして他人を誘導している姿なんて、見られて気持ちよくはない。
 志摩の目がある手前、教室入りをした俺は阿佐美と別れそのまま席についた。
 阿佐美も察してくれたようだ。椅子に腰を下ろし、なにやら本を読み始める。後から阿佐美には志摩のことちゃんと説明しなきゃならないな。
 予鈴がなり、疎らに生徒たちが席につき始めたときだった。勢いよく扉が開く。担任の喜多山だ。

「全員席につけ!今日から新しい友達が増えてるぞー!」

 現れた担任の姿に安堵し、駆け寄ろうとした矢先のことだった。その一言に、俺は動きを止める。
 ……新しい、友達?まさか。
 嫌な予感が背筋に走り、俺は凍り付いた。全身から血の気が引いていく。

「遥香、入ってこい」

 ああ、やっぱまあ、どうせ、こうなるんだろうという気は薄々していた。
 担任の呼び掛けに開いた扉から現れた見覚えのある元同級生の姿に恐怖を通り越して言い表し難い脱力感に落胆する。

「壱畝遥香です。皆、よろしくね」

 教壇の上に立つ壱畝遥香はこちらに目を向け、そういつもと変わらない涼しい笑みを浮かべた。
 隣の席から小さな舌打ちが聞こえたのを俺は聞き逃さなかった。

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