天国か地獄


 04

 やばい。やばい。どうしよう。
 壱畝の目がゆっくりとこちらを捉え、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく全身が緊張した。
 爆発するように跳ね上がる鼓動はすぐ耳元でバクバクと鳴り響き、一瞬、時間が止まったような錯覚にさえ陥ってしまう。

「……いや、あの、別に」
「ふーん、まあいいや」

 そう恐る恐る、震える喉奥から声を絞り出したときだった。
 さも興味ないとでも言うかのような涼しい顔をした壱畝はすぐに俺から目を逸らし、段ボールまみれになった部屋の隅に取り付けられた冷蔵庫に目を向ける。
 そして、

「ゆう君、俺喉渇いちゃった」
「え?」
「飲み物」

 再びこちらへと目を向けた壱畝は「早く持ってこいよ」と冷蔵庫を軽く顎でしゃくった。
 どうやら、壱畝に布団下に隠したこの資料のことがバレずに済んだようだ。そう安堵するが、壱畝がいる今安心出来る場所なんてないと言っても過言ではない。

「……わっ、わかったよ」

 立ち上がる拍子にそっと布団を軽く引っ張り資料を奥へと隠した俺はそのまま冷蔵庫まで小走りで向かった。
 召し使いかパシりのような扱いはあまりいい気がしないが、逆らって痛い目に遭わされるのはもう懲り懲りだ。だから俺はなにも言わず、壱畝の言われた通りにペットボトルのお茶をグラスに注いだ。
 そしてペットボトルを冷蔵庫に戻し、それを壱畝に運ぼうと振り向いたときだった。
 先程まで俺が座っていたベッドのすぐ傍、紙の束片手に立つ壱畝が視界に入る。
 大きく捲られたベッドの布団。壱畝が持っているその紙は間違いなく俺が隠した一人部屋についての資料で。それをそれだと確認した瞬間、全身からさあっと血の気が引いていくのがわかった。

「それは……っ!」
「なにこれ、一人部屋?」

 裏表を確認する壱畝は変わらないゆったりとした口調で続ける。それが不気味で、慌てて取り返そうと近付いた俺は立ち竦んだ。
 ルームメイト変えたいだなんて気付かれたら絶対不機嫌になる。
 それを理解しているからこそ、本来ならば内容を確認される前に取り返さなければならないものを躊躇ってしまった。足が、動かない。
 そんな壱畝はやっぱりいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべたまま、近付くことも出来ず、呆然と立ち竦む俺に目を向ける。目が合い、そして壱畝は蛇のように目を細めた。

「へえ、ゆう君一人部屋にでもするつもりなんだ?」

 そして、一言。怒気すら感じられない他愛ないその言葉がずんと全身に重くのしかかった。
 やばいやばいやばい。嫌な汗が滲み、あまりの動揺で思考回路はこんがらがる。

「ちが、違う、違うよ。ひ……ハルちゃんが、俺と一緒の部屋なの嫌なんじゃないかって思って……だから、その」

 なんとかしてこの状況を回避しなければならない。
 ぐちゃぐちゃに混乱する思考の中、その命令だけが俺の脳味噌を動かした。
 顔を青くし、そうしどろもどろと言い訳を並べる俺に壱畝は「俺が?」と意外そうに目を丸くした。
「あの鈍臭いゆう君が気を利かせてくるなんて珍しいね」そして、優しい笑みを浮かべた壱畝はそう朗らかな口調で続ける。

「俺と一緒の部屋が嫌なのはゆう君の方だったりして」

 何気ない調子で言葉を紡ぐ壱畝は、笑いながら持っていた資料を丸めミニサイズのゴミ箱に捨てた。
 当たり前のような仕草で、何でもないように捨てられたその資料を愕然と眺める俺に構わず壱畝遥香は続ける。

「でも、ゆう君が余計な心配しなくていいよ。役立たずは役立たずらしく大人しくしとかないとね」

 本人なりに気を遣ってくれているのだろうか。そんなわけがない。
「ゆう君がなにかしようとしたってどうせ周りに迷惑しかかけないんだから」そしてトドメ。
 悪意しか感じない壱畝の言葉に、今さら悲しいだとかどうとかは思わなかった。ただ、酷く億劫な気分になる。
 ゴミ箱に入った資料を眺めたまま、俺は壱畝の言葉を聞き流す。別に、そんなこと壱畝に言われなくても理解しているつもりだ。だからこそ、酷く煩く感じた。
 そして、無反応の俺が詰まらなくなったのか軽く関節を鳴らした壱畝はこちらを見る。

「ゆう君、枕になってよ」
「え?」
「だから枕。膝枕」

 本当、壱畝は俺を困らせるのが好きなようだ。
 どこかとろんとした顔をして携帯電話を確認する壱畝は言いながらベッドを指差した。どうやら、ベッドの上で正座して壱畝を寝かせろといっているようだ。
 相変わらず意味不明理解不能な提案してくる壱畝に「いや、あの」と戸惑う俺だが、壱畝は「早く」と急かしてくるばかりで、慌てて俺はベッドに座ろうとする。が、壱畝にとってそれだけで充分だったようだ。

「ははっ、嘘に決まってんじゃん。なに?もしかして本気で俺が君の膝に寝るって思った?やだな、するわけないじゃん。バカだなあゆう君は」

 携帯電話を閉じ、そう楽しそうに笑う壱畝は同様ベッドへと上がってくる。
 そして、意味がわからず硬直する俺に構わずベッドの上に寝転がる壱畝は「俺ちょっと寝るからその間その段ボール開けて荷物部屋に置いててよ。ああ、もちろん段ボールは捨てといてね」と一方的に命令してくる。

「四時くらいになったら起こしてよ」

 そして、自分勝手なことを言い付けてくる壱畝は布団を被り「じゃあ、おやすみ」と呟けばそのまま深い眠りについた。俺が口を挟む暇すらなかった。

「……」

 なんなんだもう。しかもそっちは俺のベッドだし。
 前々から強引なやつだとは思っていたが、こいつは本気で俺をなんだと思ってるんだ。
 どうせ動いて喋る目覚まし時計にしか思っていないのだろう。
 甚だ腹立たしかったが、それ以上に慌てて現在時刻を確認する自分が嘆かわしい。

 現在昼過ぎ。
 壱畝が指定した時間までまだ余裕があるようだが、部屋に積まれた段ボールの山に目を向けた俺はヒクリとこめかみをひくつかせた。普通に無理がある。人数がいればなんとかなるだろうが、一人は無理だ。
 それでも、やらなければまた壱畝にどんないちゃもん吹っ掛けられるかわからない。小さく溜め息をついた俺は、壱畝に言われた通り段ボールを処分することにした。
 壱畝遥香に指定された四時ちょっと前。
 段ボールから荷物を出し、言い付け通り段ボールを処分し終えた俺は時計から視線を逸らし、ベッドの上で丸まるように眠る壱畝に近付いた。

「あの、ハルちゃん……四時に……いっ」

 そう、覗き込むようにして相手に手を伸ばし、恐る恐る体を揺すったときだった。
 もぞりと身動ぎさせたと思った瞬間、伸びてきた手に腕を掴まれる。そのままぐっと引っ張られ、訳がわからぬままベッドに引っ張り困れた。

「っ、はるちゃ……ッ」

 慌ててベッドに手を付き、眠る壱畝の上に倒れ込まずに済む。が、顔が近い。
 寝惚けているのだろう。構わず引っ張ってくる壱畝に内心酷く狼狽えながらそう名前を呼んだときだった。長い睫毛に覆われた目がパチリと開き、至近距離で目が合う。
 どうやら目を覚ましたようだ。寝惚けたような目をした壱畝にそう安堵した矢先だった。
 パンッと乾いた音とともに、左頬に激痛が走る。

「っつぅ……っ」

 いきなり強烈なビンタを喰らい、なにがなんだかわからずキョトンと目を丸くさせた俺は壱畝を見た。
 壱畝も壱畝で驚いたような顔をしていて、「……なんだ、ゆう君か。ビックリした」と笑う。
 どうやら寝惚けてなにか勘違いしていたようだ。
 それはこっちの台詞だ。そう言いたかったが、言葉にならない。
 未だ整理が付かず、絶句したままじんじんと疼くように痺れる頬を押さえる俺を一瞥した壱畝はゆっくりと上半身を起こし、そのままさっさと退けとでも言うかのようにこちらを振り払った。バランスが取れず、床に尻餅つく。

「あ、四時前だね。愚図のわりにはちゃんと起こしてくれたじゃん、よく出来たね」

 そんな俺を無視して、枕元に置いていた携帯電話を手に取った壱畝はそう淡々とした口調で続ける。
 勘違いでビンタしたことに対しての謝罪はない。
 期待していないが、やはり腑に落ちない。が、わざわざ掘り返して壱畝に二発目を食らうほど俺はアグレッシブな性格はしていない。

「……どこか行くの?」
「別に?今日昼間会った子と夕食食べる約束してるんだよ。ここ最近バタバタしてたからゆっくり休めなくてさ、一旦別れて寝たんだけど……」

 尋ねれば、普通に答えてくれる壱畝はベッドから立ち上がる。そして、同様ゆっくり起き上がる俺に目を向けた。

「なに?ゆう君も来たいの?」
「いや、別に……」
「ははっ、ゆう君を連れて行くわけがないけどね。君にそう言われるのはムカつくな、そこは喜んで『僕も行きたいです』だろ」
「っご、……ごめんなさい」

 特に当たり障りのない返事をしたつもりなのだが、その些細な違いですら壱畝は気に入らないようだ。
 呑気な口調と柔らかい表情とは裏腹に棘を孕んだその言葉にギクリと緊張した俺は咄嗟に謝罪を口にした。が、一度不機嫌になった壱畝は止まらない。

「あーせっかく昼寝したのにイライラしてきた。ゆう君って人を苛つかせる天才だね、でも、時間だ。俺、君と違って暇じゃないからさ、いくら構ってほしいからって邪魔しないでよ」

「ほら、通行の邪魔だよ?只でさえ視界でチョロチョロされたらムカつくんだから極力俺の邪魔にならないよう配慮してほしいなあ」そして、そのままこちらへと歩いてきた壱畝に反射で道を避けようとするが、間に合わなかった。

「っ、ぁぐッ」

 擦れ違い様に、思いっきり腹を殴られる。
 無駄に、壱畝の力は強い。重い一撃を喰らい、四肢から力が抜け、俺はその場に踞った。呻き声とともに腹の底から嫌な感触が込み上げ、咄嗟に口許と腹を押さえる。
 そんな俺をうっとりと満足そうな顔をして眺める壱畝はそのまま目の前を通りすぎ、玄関へと歩いていった。いつもなら二発三発と殴る蹴るしてくるはずなのに、用事があるというのは本当のようだ。

「じゃ、行ってきます」
「……っ」
「行ってきます」
「ッ行って、……らっしゃい……っ」

 強要され、そう必死に吐き気を堪えながら引きつった笑みを浮かべれば、壱畝はにこりと嬉しそうに微笑み、そしてそのまま自室を出た。
 扉が閉まり、外側からガチャガチャと鍵を掛けられる。
 それを睨むように見ていた俺は、ずくずくと疼くように痛む腹部を押さえその場に丸まった。

「はっ、んぅ゙……ッ」

 思いっきり鳩尾殴られた。
 だらだらと滲む脂汗に顔を歪めた俺は深呼吸をして全身の筋肉を弛めることでなんとか痛みを和らげ、そしてゆっくりと這いずるように立ち上がる。
 丁度そのときだった。自室内のどこかから無機質な音が聞こえてくる。
 確か、俺の携帯に初期設定されていたメールの着信音だ。
 気になって辺りを見渡せば、テーブルのその上、置きっぱなしになっていた携帯電話がチカチカと点灯している。滲む汗を拭い、そのままよたよたとテーブルまで歩いていった俺は携帯電話を手に取った。
 新着メール、一件。宛先は志摩亮太。
 内容は『夕飯食べた?』と簡素なもので、こいつ電話番号だけではなくメールアドレスまで登録していたのかと内心呆れながら『まだ』とだけ返信をしておく。
 本当はどこかで少食を取るつもりだったのだが、壱畝にとんでもない命令されたお陰でそれどころではなくなってしまっていた。
 ようやく落ち着いたせいか、自分が酷く腹を空かせているのがわかった。
 そう言えば、昼間もまともに食べていない。
 思いながら携帯を閉じたとき、再び静まり返った室内に再び無機質な音が鳴り響いた。
 今度は着信音だった。慌てて開けば画面には志摩の名前が表示されており、随分反応が早いなと戸惑いながらも俺は電話に出ることにする。

「……なに?」
『一緒に夕食食べない?』

 単刀直入だった。分かりやすくて嫌いではないが、少しだけ戸惑う。
「今から?」そう恐る恐る尋ねれば、受話器からは『うん』と短い返事が聞こえてきた。
 正直、志摩からこうして誘いの電話が来ることに驚いた。
 てっきり、壱畝が四時に約束している相手が志摩だと思い込んでいただけに、なおさら。

「ハルちゃ……壱畝君と食べるんじゃなかったの?」

 もしかしたら、壱畝が隣にいてからかうために電話をしてるのかもしれない。
 そんな疑念すら覚えたが、不安になる俺の問い掛けに対して返ってきたのは『は?なんで?』という志摩の素っ頓狂な声だった。

「……だって」
『壱畝がいるなら齋籐誘うわけないじゃん。絶対来なさそうだし』

 だって、壱畝と仲良さそうだったから。そう口を開こうとしたとき、志摩の言葉に遮られる。
 一瞬、軽薄な志摩の言葉の意味がわからずそのまま言葉に詰まった。
 そして、次の瞬間“まさか壱畝のやつ志摩になにか吹き込んでないだろうか”という不安が膨れ上がる。
 が、そんな俺の気を知ってか知らずか、反応の薄い俺を不思議に思ったらしい志摩は『うわ、すごいテンション低いね、齋籐』と笑う。

『まあいいや、今から迎えに行こうか』
「……部屋に?」
『もちろん。っていうか、本当はもう部屋の前なんだけど』
「え?」
『壱畝出ていくの待ってたんだ』

『ねえ、扉開けてよ』そう、ねだるような志摩の声が耳元から鼓膜へと響く。
 いきなりそんなこと言われても。というか誰も一緒に夕食を取るなんて言ってないのに。
 なにもかもがいきなりで気紛れな志摩に戸惑えば、ふとコンコンと玄関の扉が叩かれる。
 同時に、受話器からもノックの音が聞こえた。どうやら、志摩が部屋まで来ているのは本当のようだ。

『ご飯冷めちゃう』

 どうやら、夕食まで用意してくれているようだ。
 あまりの準備のよさにますます断りにくくなってしまう。どうせ、それが狙いなのだろう。

「わ、わかった……すぐ開けるから待ってて」

 このままでは開けるまで扉の前で待ち伏せされそうだ。
 あまり気は進まなかったが、こうしてまた志摩が来てくれるとは思わなかっただけについ予想外の訪問者を出迎えてしまう。
 扉を開けばそこには昼間と変わらない志摩が立っていて、目が合うと志摩は「こんにちは」と柔らかく微笑み、持っていた携帯を閉じた。
 もしかしたら。まだ志摩の言葉を信じきれず、そう扉の外に目を向けるがそこに壱畝らしき姿はなく、どうやら志摩は一人で間違いないようだ。

「んじゃ、お邪魔します」

 周りを警戒する俺に構わず、言いながら扉を掴みそのまま大きく開いた志摩は強引に玄関へと上がり込んでくる。
「あ……っ」玄関でスリッパを脱ぐ志摩はそのまま俺の脇をすり抜け部屋へと上がった。相変わらずの遠慮のなさに戸惑わずにはいられない。


 学生寮、自室内。

「へえ、あの転校生が同室になったって本当なんだ」

 ソファーに腰を下ろす志摩は中身の詰まったビニール袋をテーブルの上へと乗せ、手際よく中身を取り出す。どうやら購買で買ってきたようだ。おにぎりと惣菜パック、それから緑茶の入ったペットボトル。
 並べられる二人分の夕食を一瞥した俺は、適当な椅子を引きテーブルの傍に座る。
「……壱畝君から聞いたの?」そう尋ねれば、志摩はなんでもない調子で「うん」と頷いて見せた。

「って言っても、同室になったことしか聞いてないんだけど」

 そして、志摩は「随分仲がいいみたいだね」と笑う。
 志摩特有の皮肉だろう。毎度のことながら笑えないその冗談に愛想笑いを浮かべる余裕もなく、俺は無言で志摩を見据えた。

「うわ、すごい嫌そうな顔。気をつけた方がいいよ、齋籐すぐ顔にでるから」
「……」

 志摩に言われたくない。
「はいどうぞ」と夕食を寄越してくる志摩に「ありがとう」とだけ呟きそれを受けとる。仄かに暖かい。

「珍しいね、齋籐がここまでご機嫌斜めだなんて。他人にへつらうことだけが取り柄だと思ってたんだけど」

 こいつもこいつで普通に人が傷付くようなことを口にする。
 確かに、間違いではないかもしれない。無難に生きたいと願う以上、人間関係に荒波を立てないのは常識だろう。
 しかし、今となってはその俺の行動や気遣いや心掛けはあまり意味があるように感じなかった。なにをしたところで多少なりとも波は立つのだ。
 例えば、今も。

「壱畝遥香ってなんなの?初対面だったようには見えなかったんだけど」

 詰問。自分の手元の夕食に手をつけるわけでもなく、詰るような視線をこちらに向けてくる志摩は押し黙る俺に「齋籐」と低く名前を呼ぶ。
 無意識なのか、自然と怒ったような声音に緊張した。条件反射と言うのだろうか。壱畝のお陰で人の動作言動の些細な変化が目について、神経が敏感に尖るのがわかった。
 怒鳴られるのも、睨まれるのも好きではない。

「……前に、ちょっと話したことがあるだけだよ」

 せっかく来てくれた志摩の機嫌を損ねたくなくて、俺はそう当たり障りのない言葉を並べた。
 いくら睨まれても詰られても、やはり隅から隅まで説明する気にはなれなかった。見栄だ。ゆっくりと志摩から視線を逸らせば、志摩は「ふうん」と意味ありげに呟く。

「それがこんな時期に転校してくるなりいきなり同室ってすごいね。運命じゃない?」
「……」
「本当、酷い顔。なんか俺が虐めてるみたいで気分悪いな」

 まるで自分は虐めてないとでも言うような口調が気になったが、実際、今自分の気分が悪いのは壱畝遥香のせいなのだから志摩の言葉はあながち間違っていない。
 が、やはりなんて答えればいいのかわからず言葉に詰まった俺は無言で視線を泳がせた。

「まあいいや。冷えたら美味しくなくなるし、先に食べちゃおうか。……はい、おにぎり」

 気を遣ってくれているのか、それともただ暖かい内に夕食を済ませたいのか、包装されたおにぎりを手に取った志摩は「これ、すごい人気でいつもすぐ売り切れになるんだから」と言いながら笑いかけてくる。
 相変わらず気紛れで、コロコロと変わる志摩の表情に戸惑わずにはいられなかったが今はその気紛れな性格がありがたかった。
「うん」と小さく頷いた俺は、促されるがまま手元にあったおにぎりを手に取る。

「本当はさ、今夜、ここに泊めてもらおうと思ったんだけど」
「なんで?」
「部屋で打ち上げするからだとか言って、生徒会の連中が来るんだよ」

 食後。一通り食べ終え、そのゴミを袋に纏める志摩はそううんざりしたような顔をして肩を竦める。
 打ち上げということは、やはり文化祭のだろう。
 その言葉に四月頃、志摩たちの部屋に行ったとき十勝たちが騒いでいたことを思い出す。
 会長たち、仲直りしたのだろうか。なんとなく気になって「全員?」と尋ねれば「さあ?」と小首傾げた。

「ま、いつもごちゃごちゃ入り乱れてるからわざわざ人数確かめないけど今回は文化祭の打ち上げだもんね。結構来るんじゃない?」

「他行くか外行けばいいのにわざわざこっち来るんだもん、おまけに散らかすし」よっぽど嫌なのか、志摩はそう愚痴る。まあ、一緒になって騒げば違うのだろうが、志摩みたいな関わりのない第三者からして見れば煩わしくて堪らないのだろう。

「会長の部屋でやればいいのに」
「それは……」

 そう呟く志摩に、どう答えればいいのかわからず俺は苦笑した。
 確かに、それもそうだ。しかし、生徒会のメンバーを見る限りやはり十勝が自分から言い出したような感じがする。
 夕食を済ませ、空腹を満たしたお陰かギスギスとしていた神経は棘を無くし、大分余裕が出てきた。
 正直物足りなかったが、取り敢えず飢えは免れた。
 そう思いながら視線を泳がせれば、不意に志摩と目があう。

「その調子じゃ、齋籐は誘われてないみたいだね」
「え?あ、うん……まぁ」
「意外だな、会長のことだから齋籐誘うかと思ったんだけど」

 また、この話題か。よっぽど芳川会長を目の敵にしているのか、まるで挑発するかのような白々しい口調と言葉に俺は素直に困惑する。
「一応……俺は部外者だし」打ち上げのことを知ったのは今が初めてだ。
 会長と会ってもそんなこと聞かなかったし、それに今回の文化祭には全く関わっていないのだから仕方がない。
 疎外感を感じないと言えば嘘になるが、もし役員たちの不仲が直り皆でわいわい楽しむのだろうと思えば悪い気はしなかった。寧ろ、部外者の俺が行ってまた空気を悪くする方が申し訳ない。
 それが本心なのだが、志摩も志摩で思うところがあるようだ。

「でも付き合ってるんだよね」
「……だから、それとこれとは」
「馬鹿だなあ、会長は。俺なら一分一秒でも離れないよう捕まえて連れ回すんだけど」

 変なところに粘着な志摩の性格は今に始まったことではないが、やはりあまりいい気はしない。
 揶揄するような言葉と含んだ声がねっとりと全身に絡み付き、鬱陶しく感じずにはいられなかった。

「……なにか飲みたいのある?」
「はははっ、話逸らした。いいよ、別に気遣わなくても。飲み物も買ってきてるから」

 あからさまな俺の態度に嫌な顔をするわけもなく、寧ろ可笑しそうに笑う志摩はテーブルの上に置いていたペットボトルを手に取り「はい、齋籐」とこちらに手渡してくる。
「……ありがと」そして、そう水滴が滲んだそれを手に取れば志摩は「どういたしまして」と笑った。
 節穴な自分の目に恥ずかしくなったが、志摩の気を逸らせただけでもいい方だろう。
 気を紛らすようにペットボトルの緑茶を一口流し込んだとき、「ねえ」と志摩に声をかけられた。

「ゴミ箱取ってもらっていい?」
「あ、はい。……どうぞ」

 ペットボトルの口を閉めながら、俺の足元に置いてあったミニサイズのゴミ箱を志摩の足元に寄越せる。
 それ受け取った志摩は「どうも」と朗らかに笑い、ゴミの入った袋をゴミ箱に入れようと中身を覗き込んだ。そして、動きを止めた。

「……ん?なにこれ?」

 そう不思議そうな顔をしていきなりゴミ箱に手を突っ込む志摩にぎょっとした俺は、その手によって取り出されたものを見て更に目を丸くした。
 志摩が手にしていたのは先ほど壱畝がゴミ箱に突っ込んだ一人部屋についての資料で、ぐしゃくじゃになったそれに思わず「あっ」と声が漏れる。
 壱畝がいない間にこっそり回収するつもりだったが、バタバタしていたせいかすっかり忘れていた。

「一人部屋……?」

 そう、記載された見出しをなぞるように口にした志摩に全身に冷や汗が滲み、慌てて椅子から立ち上がる。
 そして、手を伸ばして志摩の手からその資料を取り上げた。

「ごめん、それは、その……」
「齋籐の、これ?齋籐、一人部屋にするの?」
「……」

 なんでどいつもこいつもこう、勘が良いんだ。俺があれなだけなのか。
 思いながら、こちらをじっと見据えてくる志摩にたじろぐ。
 ここは、素直に伝えた方がいいのだろうか。でもわざわざ伝えるメリットがないし、万が一壱畝に伝わる可能性もある。が、黙れば黙るほど志摩の顔が怖くなっていって、竦む俺は無意識に小さく頷き返していた。つくづく弱い。

「お願い、壱畝君には内緒にしてて」

 自分でも愚かだとは思ったが、バレてしまったものはどうしようもない。
 多少問題があるものの、頼られればなんだかんだ真面目に応えてくれる志摩の性格は把握しているつもりだ。
 ここは開き直った方がいいだろう。俺のその判断はどうやら間違いではなかったようだ。

「わざわざ言わないよ。でも、どういうこと、それ。前から用意してたってわけじゃないよね」

「もしかして、壱畝と相部屋嫌なの?」相変わらず妙なところで聡い志摩は、そう顔を強張らせる。
 まるで心配してくれているような声が今は酷く頼もしく聞こえてしまう。
 我ながら現金なやつだな、なんて思いながらこくりと小さく頷き返した。

「その紙は?齋籐が自分で用意したの?」
「今日、先生に頼んで……」
「ふうん……で、どうだった?部屋見つかった?」

 あくまでも、壱畝のことは深く尋ねてこない志摩は代わりに一人部屋という言葉に食い付いてくる。
 尋ねられ、小さく首を横に振った俺は「一人部屋の人に頼んで相部屋にしてもらうしかないって」と続けた。すると、

「一人部屋?」

 僅かに、志摩の顔が引きつった。
 目を丸くし、こちらを見詰めてくる志摩はどうやら『一人部屋の人』という言葉に反応したようだ。

「……志摩?」
「……いや、ごめん。なんでもない。……で、その相手はもう決まったの?」
「まだ決まってないけど、一応、今から先生に頼みに行こうと思う。……そうしたら、先生が一人部屋の生徒に声かけてくれるらしいから」
「その一人部屋の生徒の中から齋籐を引き取るって申し出た生徒と相部屋になるってこと?」

 確認するように尋ねてくる志摩に、俺は「だと思う」と曖昧に頷く。すると、志摩の表情は不穏なものになるばかりで。

「……面倒だな」

 そう、膝に肘をつくように背を丸めた志摩はふうと浅い溜め息をついた。
 志摩の言葉の意味がわからず「え?」と聞き返せば、志摩は顔を上げてこちらを見る。

「ようするに齋籐に拒否権がなくなるわけでしょ、それって」
「そうなの?」
「もし引き取る相手が一人しかいない場合は意見一致で即決定だし、まずないだろうけど、引き取りたいと申し出る人が複数人いる場合も抽選で一人決まって意見一致」

「あくまで齋籐の願いは『相部屋の相手』を見つけることだからね、相部屋でも構わないって人が出たらそれで叶うわけだから文句言えなくなるんじゃない?」そう、一頻り言葉を並べる志摩は一息吐き「そもそも、自分から一人部屋になった生徒に相部屋を頼む方が異例だよ」と困ったような顔をしてポリポリと頭を掻いた。
 確かに、そうかもしれない。なんたって、パンフレットにも一人部屋についての資料にもこんな方法載っていなかった。
 特例、というやつだろうか。響きだけはいいが、今さらになってこんなことして大丈夫かと不安になってくるが、自分のしようとしていることを理解しても諦めようとしない自分がなんだか可笑しくて堪らない。

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