天国か地獄


 03

 こいつ、まさか志摩にまで手を出すつもりか。
 壱畝の言葉に、背中にじんわりと嫌な汗が滲む。鼓動が加速するのがわかった。
 社交的で、誰にでも優しくて、明るくて、気が利く。それが普段の壱畝遥香の性格だ。悔しいが、壱畝と関わったやつは皆、壱畝のことを気に入っていた。それは俺自身がよく知っている。
 皆。こいつはその皆の中に志摩を入れるつもりなんだ。志摩が俺の友達だから、自分の味方につけるために。

「へえ、俺が?」

 またか。ここに来てまでこいつは周りを味方で固めたいのか。行ってほしくない。
 壱畝に対する対抗心からか、それとも志摩への独占欲か。どう声を掛ければいいのかわからず、それでも我慢出来なくて、俺は咄嗟に志摩の制服を掴む。
 不意に、志摩がこちらを振り返った。関わっちゃダメだ。そう訴えかけるように小さく首を横に振れば、志摩は暫くこちらを見据え、無言で顔を逸らす。
 そして、

「いいよ、別に」

 変わらない笑みを浮かべたまま、志摩はそう壱畝に向き直る。
 その一言に、まるで鈍器で後頭部を殴られたような衝撃が走った。
 なんで。さっきまで、壱畝を不審がっていたのに。
 いつも、なにがあっても後ろからついてくる志摩を知っているだけに今回もまた断って普段と変わらない口の悪さで壱畝をあしらってくれる。
 そう決め付け、胸のどこかで他力本願に期待していた俺はまるで裏切られたような気分だった。
 自惚れ、そう言われても仕方がないだろう。しかし、俺を自惚れさせるくらいの態度を志摩がとっていたことも事実だ。だから、余計志摩のことがわからなくなった。

「ここ無駄に広いから一人じゃ大変だろうしね」
「ありがとう、助かるよ。じゃあ早速案内よろしく」

 志摩の気の変わりようを気にするわけでもなく、相変わらず涼しい顔をした壱畝はそう志摩に笑いかけた。
 一瞬、目の前が真っ暗になる。

「し、ま……っ」

 まだ意味がわからなくて、咄嗟に俺は志摩に声をかけようとするが俺に背中を向けた志摩はそのまま壱畝の側へ歩いていった。
 伸ばしかけた手が空振り、なにも掴むことが出来なかった手の代わりに胸の奥から焦燥感がどっと溢れる。
 目を丸くしたままどうすることも出来ず突っ立ったまま動けなくなる俺に、にこりと笑んだ壱畝は「ああ、ゆう君」と声を掛けてきた。

「後は志摩君に頼むから君は好きにしてていいよ」

 着いてくるな、お前に用はない。つまり、壱畝はそう言ってるのだろう。
 着いて行く気なんか更々ないのにわざわざ釘を刺してくる壱畝が憎たらしくて、俺がなにかを言う前に壱畝は「じゃあ、また後で」と笑いながら俺に背を向けた。
 そして、そのまま壱畝は志摩となにか楽しそうに話しながら俺の目の前から立ち去る。最後まで志摩はこちらを見ようとしなかった。
 確か前にもこういうことがあった。いつもくっついてきていた志摩にあからさまに避けられ、俺から離れる。あれはいつだっただろうか。ああそうだ、確か五月。縁に絡まれていたときだ。
 確か、あのとき志摩は俺から縁を引き離すために代わりに自分が縁についていった。
 もしかして、今回も俺のことを庇ってくれたんじゃないだろうか。

 二人が立ち去った後の店舗前廊下。
 そんな都合のいい思考を働かせる俺だったが、正直まだどこか夢を見ているような気分だった。
 志摩が助けてくれたとしても、それは俺にとって逆効果で。
 もしかしたら、志摩が壱畝に取り込まれるかもしれない。
 そのことばかりが気掛かりで、だけど後を追って志摩と壱畝を離そうともしない自分が可笑しくて堪らない反面、良くも悪くも自分にとって志摩が大きい存在だということを再確認し、なんとも言えない気分になる。
 志摩と壱畝が一緒にいるのは心配で堪らないが、わざわざ自分から壱畝に絡むような真似はしたくなかった。保身に走る自分に今さら嫌悪はしない。
 せっかく壱畝から解放されたんだ。今のうちに、やれることをしよう。そう強引に思考を切り替えた俺は頭の中で志摩にお礼をしながら三階にある自室へと戻った。

 志摩が壱畝遥香を引き離している間にすること。それは大切なものをまとめて隠し、いつでも部屋を出れるようにすることだ。
 あまり部屋に持ち込んでいないので少ない私物をまとめるのに然程時間はかからなかった。まるで夜逃げするみたいで滑稽だったが、まあ似たようなものかもしれない。
 壱畝遥香と一夜を共にする気はない。生憎、この寮は無駄に設備が整っているので何日かくらいラウンジで寝泊まりして大体は大浴場で済ませることが出来るはずだ。しかし、もしものことがある。長い間自室に帰らず公共の場を私物化して迷惑を掛けるのも気が引ける。
 だとしたら、荷物まとめの次にやらなければいけないことがあるはずだ。

 入寮当日、実家から持ってきた鞄に必要最低限の私物を詰め込んだ俺はそれをベッドの下にしまい、小さく息を吐く。まさか、壱畝遥香と同室になるなんてついてないを通り過ぎて逆に冷静になってきた。
 壁に掛かった時計に目を向け現在の時刻を確認する。そして、そのまま俺は自室を後にした。

 校舎内、職員室前。荷物をまとめ終えた俺は寮を出て校舎にやってきていた。
 目的はただ一つ。担任に一人部屋のことについて相談するためだ。
 が、

「一人部屋?あー、今丁度空いてる部屋がないんだよな」

 いつもと変わらないどこか暑苦しい担任はそう言って申し訳なさそうにはにかんだ。
 もしかしたら。そう抱いていた淡い期待はあっさりと断ち切られ、やはりそう上手くはいかないかと俺は落胆する。
 常に最悪の状況を想定して動いているつもりだが、やはりガッカリ感が拭えない。
「そう……ですか」脱力する俺はそう辛うじて担任の言葉に応える。

「でもルームメイトができたとたん一人部屋だなんて、まさかもう喧嘩でもしたのか?」

 あまりにも落ち込む俺に違和感を抱いたようだ。
 そんなことを尋ねてくる担任に、なるべくいじめのことカミングアウトしたくなかった俺は「いえ、あのそういうわけではないんですが……」と慌てて語尾を濁す。

「すみません、ありがとうございます」

 担任にいじめられていることを察しられたら、確実に親まで連絡が行き渡るだろう。
 それだけはなんとしても避けたい俺は、あまり長話をしてるとボロが出るかもしれない。そう心配して適当に話を切り上げ、そのまま職員室前を後にしようとした。丁度その時だ。

「あ、おいちょっと待て!」

 不意に、担任がなにか思い付いたように声を上げる。
 その大きな声にびくりと反応した俺は慌てて足を止め、何事かと担任を見た。

「佑樹は部屋を変えたいのか?一人部屋になりたいのか?」

 尋ねられ、いきなりの問いに目を丸くした俺は「えっと……」と口ごもる。
 担任は戸惑う俺からなにか察したようだ。
「ああ、悪い。言葉が足りなかったな」そう一頻り笑い、担任は俺を見る。

「一人部屋にはならないが、今一人部屋のやつに声をかけて相部屋を頼み込むことなら出来るぞ」
「……それって、つまり」
「まあ、ルームメイトが変わるだけってことだな」

 今現在一人部屋の生徒の部屋に押し掛け、相部屋にしてもらう。
 結果的に壱畝から逃げられるのならそれが有り難い。が、一人部屋の生徒か。
 基本相部屋が当たり前のこの学生寮で一人部屋の生徒なんてそういないんじゃないだろうか。そう思考を働かせたとき、ふと脳裏に数人の生徒の顔が過る。
 芳川会長。阿賀松伊織。阿佐美詩織。
 確か、記憶によれば三人は一人部屋だったはずだ。

「佑樹が本気で部屋を変えたいっていうならこちらから一人部屋のやつに声をかけることも出来るぞ」

 三人の内の誰かと同室になるその可能性を考え付いたとき、担任はそう付け足す。
 やはり、相手の意思を無視して一方的に押し掛けることは出来ないようだ。
 まあ、それは仕方ないだろう。噂では一般生徒は申し込みすら受け付けられない一人部屋に選ばれた生徒なのだからそれを無視してまで一般生徒である俺が相部屋を強要する資格はない。つまり、一人部屋の生徒が全員断ればもう部屋が空くのをひたすら待つしかないわけだ。

「あ、ちょっと待ってろ。確か資料あったから取ってきてやる」

 そして、担任はそう言って職員室に引っ込んだ。恐らく、担任がここまで積極的に俺の話を聞いてくれるのは前の学校のことを知ってるからだろう。そう考えると気を使わせてしまい申し訳なくなるが、教師が味方になってくれるものほど心強いものはなかった。
 例えば、こういうときとか。
 なんて思いながら、資料探すために職員室へ入った担任が帰ってくるのを待つ。
 ルームメイトを変える、か。候補者の中に見知った生徒の名前があるのは安心した。が、快く一人部屋を受け入れてくれるかどうかは別の問題だ。
 まず、阿賀松は無理だろう。下手したら壱畝より面倒な目に遭わせられる可能性が大きい。
 阿佐美は……わからない。志摩のことを説明したら納得してくれるかもしれない。が、だからと言って阿佐美が相部屋を引き受けてくれるかどうかはわからない。
 そして芳川会長。お願いしたら聞き入れてくれるかも知れないが、今まで何度も迷惑掛けているだけにこれ以上迷惑掛けてしまうと思ったら頭が上がらなくなる。
 もし三人の中からルームメイトを選ぶなら、阿佐美が一番好ましい。
 同い年である阿佐美は前同室だったお陰で三人の中では一緒にいて力入れずに済む。
 ギクシャクしてしまった今、前のように接することが出来るかわからなかったが、やはり阿佐美がよかった。
 まあ、三人の中から決めるわけではないので他の全く知らない生徒になる可能性もあるわけだからなにも言えないのだが。
 しかしここ数ヵ月の間で校内新聞やら阿賀松やら櫻田やらのお陰で悪い意味で目立ってしまった今、知らない生徒が俺を受け入れてくれるかすら不安になってくる。

「齋籐君?」

 担任が戻ってくる間、そんなことを悶々考えているときだった。
 不意に、背後から聞き覚えのある声がした。

「っ!」

 咄嗟に振り返れば、そこには休日にも関わらず制服を着た芳川会長が立っていて。
 まさかこんなところで会うとは思ってもいなかった俺はいままさに考えていた相手の登場に内心狼狽しながらも「こっこんにちは」と慌てて頭を下げる。
「ああ、こんにちは」そんな俺に小さく笑い返してくれる会長。

「こんなところで会うとは奇遇だな。職員室になにか用か?」

 私服で、しかも休日にこんなところに来ている俺を不思議に思ったようだ。
 変わらない調子で尋ねられ、思わず俺は「いえ、ちょっと……」と口ごもる。丁度その時だった。

「ああ、待たせたな。ほら、これ」

 職員室の扉が開き、担任が戻ってきた。ぺこりと頭を下げ、差し出された資料を受け取る。
 そこには自室変更など寮のことについて一通り書かれていた。

「……って、おお、芳川じゃないか」

 そして、資料を俺に渡した担任は側にいた芳川会長に目を丸くする。それに対し、芳川会長は「どうも」と会釈を返した。
 そんな芳川会長に笑い返す担任だったが、なにか思い出したようだ。
 ふと真顔になった担任は「そう言えば確かお前も一人部屋だったな」と芳川会長に尋ねる。
 まさかこの場でその話題を口に出されると思ってなくて、俺はぎょっと目を丸くさせた。

「ええ、そうですが……それがどうかしたんですか?」
「いや、今なこいつが部屋を変えたいって言ってたから一人部屋の新しいルームメイト探してたんだよ」
「ルームメイトを?」

 口が軽い担任にハラハラする反面、確かに良い機会かもしれないと思わずにはいられない。
 もしこの場で会長が承諾してくれれば今すぐにでも部屋を変えることが出来る。

「どうだ芳川」

 胸の鼓動が高鳴り、無意識に全身が緊張した。
 促すように尋ねる担任の声がやけに大きく聞こえ、小さく俯いた俺はドキドキしながら恐る恐る会長の反応を伺う。その場に短い沈黙が流れた。

「……すみません、ちょっと考えさせてもらってもいいですか」

 芳川会長はそう静かに続けた。
 当たり前だ。いきなり言われて快く受け入れられるはずがない。そんなこと、わかりきっていたはずだ。
 はずなのに、さっき志摩のことがあったせいか酷くショックを受けている自分がいた。

「まあこっちもまだ相談段階だから本格的に決まったらはまたそのときよろしく頼むな」
「ええ、わかりました」

 担任にそう微笑み返した芳川会長は「では俺はこれで」とぺこりと頭を下げ、そのまま職員室前の廊下を通りすぎていった。その後ろ姿を見送る担任は「おお、勉強頑張れよ」と笑いながら手を振る。
 よっぽど急いでいたのか、その後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

「文化祭終わってすぐに試験だもんなあ。生徒会長だと尚更大変なんだろ」

 周りに人気がなくなり、そんな譫言のような担任の声が廊下に響いた。
 言わずもがな、芳川会長のことだろう。
「……ですよね」芳川会長のいなくなった後を眺める俺は、そう担任に小さく頷き返した。
 そうだ、別にハッキリと断られたわけではない。即決できないと言われただけだ。なにを俺は裏切られたみたいな感傷に浸っているんだ。
 壱畝が現れてから、自分の精神状態が中学の頃に戻ってしまったのかもしれない。
 気付いたら悪い方にばかり考えてしまい、なんだか酷く不安になってくる。だからといって今考えたところで仕方がない。

「あの、先生、資料ありがとうございました」

 資料を両手でしっかりと持ち、担任に向き直った俺はそう頭を下げお礼を言う。

「ああ、また考えが固まったらいつでも言いに来てくれて良いんだからな。先生も一応用意待ってるから」

 恐らくまたすぐに担任にはお世話になることになるだろう。思いながら、俺は担任に小さく笑い返した。
 取り敢えず、一度この書類を確認した方が良いだろう。そう考えた俺は担任と別れ、一度学生寮へと戻ることにした。

 ◆ ◆ ◆

 学生寮自室。壱畝はまだ帰ってきていない。
 部屋に鍵を掛け、ベッドに腰を掛けた俺は担任からもらった資料に目を通す。

 やはり、一人部屋から相部屋になってもらうのは特例中の特例のようだ。
 ルームメイト変更や一人部屋になるための条件などが書かれているばかりであまり参考になるようなものはない。担任に任せて一人部屋の生徒にお願いしてもらうのが最善だろう。
 全ページに目を走らせた俺は一息つき、それを膝の上に乗せた。
 今すぐ担任にお願いしに行こうかと思ったが今さっき会ったばっかりだし、もう少し間を空けた方がいいかもしれない。いや、でも壱畝がいつ帰ってくるかわからないし出来ることならなるべく早くに済ませた方が良いだろう。そう、俺が決断したときだった。
 不意に、玄関の扉の方からガチャリと音が聞こえてきた。
 嘘だろ、もう少し粘れると思ったのに。慌てて持っていた資料を布団の下に隠したとき、解錠された扉が開き壱畝が現れた。

「ただいま、ゆう君」

 その声に、全身が強張った。慌てて布団を手で押さえ、反射で背筋を伸ばした俺は恐る恐る扉に目を向ける。
 そこには別れたときと変わらない壱畝が立っていて、ベッドの上に座る俺の姿を見付ければ壱畝はにこりと微笑んだ。

「あれ?今なにか隠さなかった?」

 その一言に、一瞬心臓が停まった。

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