02
荷物を運び終え、最後の段ボールを空いたスペースに置こうとしたときだった。
「これで、最後だよね……って、いッ」
そう壱畝に声をかけようと振り返った瞬間、いつの間にかに背後に立っていた壱畝に肩を掴まれる。
指が食い込み、その痛みに何事かと目を丸くした俺は咄嗟に後ずさろうとし、荷物に躓きそうになった。
が、壱畝に掴まれた肩のお陰でなんとか尻餅をつくハメにはならなかったが、いっそのこと派手に転倒してでも壱畝を振り払った方がましだったのかもしれない。
「ははっ、まさか本当に手伝ってくれるなんて思わなかったよ」
壱畝は言いながらこちらの顔を覗き込んでくる。目が合えば、壱畝は嬉しそうに微笑んだ。その笑みに悪寒が走る。
ただの、スキンシップだよな。だって壱畝遥香は俺のことを覚えていなかったはずだ。
そう思いたかったが、いつの日との光景と目の前が重なり自然と背筋に嫌な汗が滲む。
「っ、あの、壱畝く……」
「ハルちゃん、だろ。ゆう君」
あくまでなんでもないように振る舞おうとした瞬間、壱畝の言葉に身が凍った。
ガチガチに緊張した全身は小刻みに震え始め、目を見開いた俺はそのまま壱畝の顔を凝視する。
懐かしいやり取り。耳が痛くなるくらい聞かされた言葉に、自然と鼓動が加速する。
「その顔、本当に忘れたわけじゃなさそうだね。安心したよ」
伸びてきた手が顔面に伸びてきて咄嗟に身構えるが意味がなかった。
首の付け根から頬を優しく撫で上げるその手、指の感触に息が止まりそうになる。愛しそうに撫でられ、鳥肌が立つ。
の奥底から恐怖にも似た嘔吐感が込み上げてきて、慌てて壱畝から離れようとすればそのまま乱暴に壁に頭を押し付けられた。
頭部に固い壁の感触が当たり、目の前には壱畝がいる。
文化祭の日と同じだ。もっとも、目の前にいるのはやんちゃ盛りの後輩ではなくそれよりも幾倍タチの悪い男だが。
「久し振り、ゆう君。見ないうちに大きくなったね」
「でも、その頭の悪さは変わってないようで安心したよ」ああ、やっぱり、やっぱりか。こいつ、気付いてて初対面のフリしたのか。
笑う壱畝とは対照的に俺の顔面は引きつるばかりで、その柔らかい声に緊張した全身は拒否反応を示す。
「あの、人違いです……っ」
この展開は、最悪だ。咄嗟にそう適当なことを言ってあしらおうとすれば、壱畝は「人違い?」と小さく笑う。
瞬間、
「つまらない冗談は嫌いだって前も言ったよな」
拳を作った壱畝はそう手を上げる動作をした。
「っ、ご、ごめんなさ……っ」
殴られる。そう直感した俺は慌てて目を瞑り腕で顔を覆った。
が、一向に壱畝に殴られることはなかった。
それどころか暗くなった視界では壱畝が笑う気配がして。
恐る恐る目を開けば、こちらを覗き込む壱畝はにこりと微笑みぐしゃりと俺の頭を撫でる。
「やだな、冗談に決まってるじゃん。ゆう君たら相変わらず怖がりさんだなあ、ビビるくらいなら最初からつまんない嘘つくなよ」
底冷えしたような目に見据えられ、咄嗟に視線を外す。
殴られなかったことに対する安堵か、それとも目の前にいる壱畝に対する不安か。
ぐらりと足場が大きく崩れ落ちるような錯覚に陥ったりと思えば、膝から力が抜け俺はその場に腰を抜かす。膝がガクガクと震え、体が思うように動かない。
「ほんと、相変わらずどんくさいなあ。ゆう君は」
「早く立てよ。それともボールみたいに蹴って転がされたいのかな」笑う壱畝は言いながらこちらを見下ろす。
頭上から落ちてくるその軽薄な言葉にぞくりと背筋を震わせた俺は「っわ、かった、わかったから……っ」と言いながら慌てて立ち上がろうとしたときだ。
「あーだめ、遅い」
その言葉と共に、膝立ちになってがら空きの腹部に壱畝の爪先がめり込んだ。
抉られるような重い痛みに自然と背中は丸まり、そのまま壱畝の足を掴むように座り込む。
「っ、ゔぅ……ッ」
「俺が命令したら十秒以内で実行しろって前から何回も言ったじゃん。ただでさえゆう君はとろいんだから五秒前には行動に移せよ」
「っ、ぃ゙ッ、ぐぅ……っ」
「あーつまんない。せっかく久し振りにゆう君と会えるって楽しみにしてたのになんだこれ、つまんないなー。弱すぎ」
「ああ、弱いのは昔からだったね」空の胃を潰されえずけば、ゆっくりと離れる壱畝の足はそのまま下腹部を踏み潰した。
瞬間視界が白ばみ、全身の穴という穴からどっと汗が吹き出す。
「っん、ぐぅ゙ッ」
いくら靴下とはいえ、壱畝の足の裏は硬く、大きさもある。
少しは手加減してくれたようだが、思考がぶっ飛ぶくらいにはキツかった。
あまりの激痛に開いた唇から唾液が溢れ、目に涙が滲む。顔が熱い。
壱畝の足を掴み、今度はぐにぐにと弄ぶように潰してくる足を離そうとするがまともに力が入らずすがるような形になってしまう。
「ゆう君、俺お腹減ったんだけどここって食堂あるわけ?来る途中店いっぱいあったけどそこで買えばいいのかな」
「案内してよ」痛みを和らげようと肩で息をしているとそう言いながら見下ろしてくる壱畝はぐりっと踵に力を入れてきた。
「っはぁ……っ、ゔッ!」
「いつまで寝てんの、案内してって言ってるじゃん」
「っ、ごめんなッ、ひぁ゙っ」
「遅い。早く案内しろよ」
下半身に壱畝の体重がかかり、息が詰まるくらいの鈍い痛みに緊張した俺はそのまま壱畝の足に頬擦りするように全身で相手の足を止める。
「ぁ……っ案内するから、蹴らないで……っ」
涙を堪えることもできなくて、そう泣きながら壱畝に懇願すれば壱畝は優しく笑い、渋々俺から足を退けた。瞬間、横に払うように思いっきりこめかみを蹴られる。視界が大きく傾き、気付いたら俺は床の上に倒れ込んでいた。
「そーいうことは行動に移してからもの言うんだよ」
優しく叱りつけるような口調の壱畝は微笑み、「まあいいや」とだけ言えばそのまま俺に背中を向ける。どうやらもう飽きたようだ。
「行くよ」
ずくずくと走る痛みを堪え、ゆっくりと立ち上がればもう一度こちらを振り返った壱畝はそう促してくる。
どうやらついてこいと言うことのようだ。正直、行きたくない。行きたくないけど、またいつの日かのようにこっぴどい目に遭わされると思ったら、防衛本能が働き従ってしまう。
「返事」
無言でついてくる俺が気に入らなかったのかそう優しく返事を促してくる壱畝にビクリと肩を跳ねさせた俺は「は、はい……っ」と慌てて声を上げた。
緊張で声帯が震え、変な声になってしまったが壱畝はなにも言わなかったので敢えて俺も黙ることにする。
◆ ◆ ◆
学生寮一階、ショッピングモール。
せっかくの休日だというのになんで俺はこんな目に遭っているのだろうか。
「本当無駄にでかいな」とかなんとか言いながらキョロキョロと当たりを見渡す壱畝を一瞥し、未だズキズキと痛む下腹部を気にしながら俺はなんとも言えない気分になる。
「でも、こんくらいあったら便利だよねえ。ゆう君」
不意に話題を振られ、上の空になっていた俺はギクリと体を強張らせ慌てて「はいっ」と頷く。すると、そんな俺に対し壱畝はクスリと笑った。
「なんで敬語?友達なんだからタメで良いって言ってるじゃん」
「っ……うん」
「そうそう、良くできました」
そう言って、壱畝はぽんぽんと俺の頭を撫でる。
全身が緊張し、言い表しがたい不快感が背筋を這い上がった。
俺が触られるのに馴れていないことを知っていてわざとスキンシップを図ってきているのだろう。本当、タチが悪い。
「あ、あれはコンビニ?」
そして、俺から手を離した壱畝はなにか見付けたようだ。
その視線の先にはよく行くコンビニがあって、どう見てもコンビニだろうと思いながらも「……多分」と曖昧に頷き返す。
「へえ、食堂とかないんだ?」
「……あるにはあるけど」
「じゃあ食堂連れて行ってよ。どっかに座りたいんだよね」
なんで俺がそこまで付き合わなければならないのかと思ったが、正直俺も朝からなにも食べてないので腹が空いていた。
が、壱畝と一緒に朝食なんてまるで生きた心地がしない。それでも俺には拒否権がないのだろうが。
いちいち言い返したり逆らったりしたら面倒なことになり兼ねないと身をもって理解していた俺は「わかった」とだけ答え、壱畝を食堂まで案内することにする。
壱畝に促されるがまま食堂で遅めの朝食を取り、その食後。
「ああ、ちょっと食べ過ぎたな」
「……」
「ゆう君あんま食べてなかったみたいだけどちゃんと足りた?」
「え……うん、足りたよ」
食堂を後にした俺たちは行く宛もなく一階のショッピングモールを彷徨いていた。
正直、全然空腹は満たされなかったが向かい側に座る壱畝のお陰で全く食欲が沸かなかったのだから仕方がない。そんな俺の気なんて知らず壱畝は「そう言えば前から少食だったもんね」と懐かしそうに笑う。
「懐かしいな、前ゆう君がどれだけ食べれるか試したりしたよね。最終的に食べるっていうより口に押し込んでるだけだったし。あのときはすぐ戻したんだったっけ」
そして、爽やかな笑顔のまま全く爽やかでない思い出を語る壱畝は「楽しかったなー」と目を細める。
ああ、そんなこともあったな。せっかく忘れていたのに余計なことを思い出してしまった。
嬉しそうな壱畝に反比例してさらに食欲は失せ、口からは乾いた笑いしか出てこない。
「じゃあ、次はどこ行こっか」
「……次?」
まさか次があるとは思ってもなくて、不意にそんなことを尋ねてくる壱畝につい俺はアホみたいな顔をしてしまう。そして壱畝は俺の反応が気になったようだ。
「なに?もしかして用事でもあった?」
ふと足を止め、そう更に尋ねてくる壱畝につられ慌てて足を止めた俺は「いや、そういうわけじゃないけど……」と口ごもる。
一分一秒でも壱畝と過ごしたくないのになんでせっかくの休日を壱畝と過ごさなければならないのかがわからない。できることなら断りたい。が、
「なら付き合ってくれるだろ」
壱畝の顔が近付く。迫ってくる壱畝に全身から嫌な汗が滲み、心臓が煩くなった。
強要され、腹の底から産まれた反発心と服従心がぶつかり合い、一瞬反応に遅れてしまう。
「え、えっと……」
言いながら、後ずさる俺は壱畝から視線を逸らした。
ああ、まずい。やってしまった。返事に遅れてしまった。
待たされるのを嫌う壱畝を知っているだけに、その事実に頭は焦りで真っ白になってしまう。なにか返事をしないといけない。でも、このまま相手に従えばせっかくの休日がめちゃくちゃになってしまう。
ジレンマが邪魔をしてくるお陰で言葉が出てこない。やばい。
「その、あの、今日は、疲れてたから部屋でゆっくりしようと……」
とにかく、出来ることなら穏便に壱畝の機嫌を損ねることなく誘いを断りたい。
そう思って慎重に言葉を選びながらしどろもどろと言葉を紡いだとき、不意に伸びてきた手に肩を掴まれた。
「いッ」
「可笑しいなあ。俺の知ってるゆう君はごちゃごちゃ言わずに俺を助けてくれるのに」
ああ、まあ、こうなるだろうとは思っていたがやっぱりこうなるのか。
もしかしたらわかってくれるかもしれない。そんな期待をした自分が馬鹿だったようだ。
肩口に指が食い込み、ずくりと尖った痛みが走る。
「痛いよ、壱畝く……っ」
「ハルちゃん、でしょ?」
「学習能力がない君にはまた一から教えないといけないのかな」先程までと変わらない笑顔でそうこちらを覗き込んでくる壱畝は、優しく宥めるような口調でそう続ける。
ねっとりと絡み付くような甘い声が今はただ不愉快で怖くて気持ち悪くて、もしかしたら全て悪い夢なのかもしれない。そう思いたかったが残念ながら現実なようだ。
確かに俺には学習能力が欠けているようだ。あれからもう何年も経っているから少しはまともになっているかもしれない。そんな期待をこいつにしてしまうなんて。
そして、キョロりと辺りに目を向けた壱畝はなにかを見付けたようだ。
「ああ、こんなところにトイレが」
言いながら顔を上げた壱畝は店舗の店舗のその間、取り付けられた生徒用の男子便所を見つけそう嬉しそうに笑う。
「ちょうどよかった、久し振りに一緒にトイレしようか」
「っ、ひ」
そして、その笑みをこちらに向ける壱畝はそのまま肩を撫でるように二の腕を掴んでくる。
壱畝の言葉に、喉から変な声が出た。
一緒にトイレ。その言葉に、全身から血の気が引き言い表せない不安感が足元から這い上がってきた。
普通に聞けば連れションのことだと思うだろうが、こいつの場合その言葉には別の意味があることを知っている。そして、それが俺にとって恐怖の対象であることも。
小便器に、吐き気を催す程のアンモニア臭。脳味噌の奥底から蘇るその忘れかけていた記憶のあまりの不快感に顔がひきつり、目を見開いた俺は慌てて壱畝を振り払う。
が、逃げ切れずにすぐに腕を掴まれた。
「ぃっ、嫌だ、ハルちゃんっやめてよっ」
嫌だ。嫌だ。もうあんな目に遭いたくない。
そのまま乱暴に引っ張られ、男子便所に引きずり込まれそうになった俺は思わず「誰か……ッ」と声をあげる。が、ただでさえだだっ広い学生寮内。休日でしかも試験前ということで閑散としたそこに人気はなく、それでも助けを求めずにはいられなかった。
腕を引っ張ってくる壱畝の手首を掴み、それを無理矢理引き離そうとぎゅっと目を瞑ったときだった。不意に、壱畝の手が離れる。
そして、
「なにやってんの?」
背後から聞こえてきたのは聞き覚えのある柔らかい声だった。
驚き、慌てて目を開けばそこにはクラスメートの姿があり、俺はそのまま目を見開く。
「っ、志摩……っ」
丁度店から出てきたらしい志摩亮太は壱畝の手を振り払い、そのまま強引に俺を壱畝から離した。
まさか本当に誰かが来てくれるなんて、しかもその相手が志摩だということに驚き、思わずよろめいてしまう。そして、いきなり現れた志摩に驚いたのは俺だけではなかった。
「ん?ああ、ゆう君の友達?」
見知らぬ生徒に邪魔をされても表情を崩さない壱畝は叩かれた手の甲を擦りながらそう目の前の志摩に目を向ける。
その軽薄な壱畝の言葉に対し、つられるように皮肉げな笑みを浮かべる志摩は「親友だけど」と即答した。
「誰?君、うちの生徒じゃないよね」
そして、庇うようにして俺を背後に引っ張る志摩はそう笑顔のまま尋ねる。その目は笑っていない。
しかし、そんな志摩の態度を気にするわけもなく尋ねられた壱畝は「俺?」と意外そうな顔をした。
「明日から正式にここの生徒になる壱畝遥香。ハルちゃんって呼んでね」
そして、すぐににこりと無邪気な笑みを浮かべる壱畝に志摩は「ああ、転校生」と口元に薄ら笑いを浮かべる。
「それでその転校生が齋籐になんの用?」
「別に、用っていうかちょっと寮案内してもらおうと思っただけだって」
どこか刺々しい志摩の言葉に壱畝はそう肩を竦めるように笑った。
あくまでも初対面の相手に対してどれだけ嫌な顔をされても嫌な場面を見られても涼しい顔して何事もなかったように過ごし、取り繕う壱畝のこういうところはすごいと思う。しかし、見習いたくはない。
いきなり現れた乱入者に対してもいつもの調子を崩さない壱畝とは対照的に志摩の目は胡散臭いなにかを見るような勘繰るそれで、そんなことも気にしていない壱畝は「ああ、でもちょうどよかった」と思い付いたようにぽんと手を叩く。
「君、志摩君だっけ?よかったら案内してくれないかな」
なにを言い出すんだ、こいつは。
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