02
十勝と江古田と別れた俺と灘は、立ち去る二人を一瞥し二年生の教室へと向かった。
飾り付けが施された華やかな階段を上がり、 朝から文化祭の準備に取りかかる生徒たちで賑わう廊下を歩いていく。
文化祭前日だからだろうか。どこの教室みんな昨日よりも本格的になっている。
いよいよ明日が文化祭なんだと改めて実感した。
黙々と先を歩く灘についていくようにして歩いていく俺。お互いの間に会話がないからだろうか。余計、朝にも関わらず賑わう周りの声が大きく聞こえる。
教室前。
俺の教室の前までやってきた灘は、そこでようやく進めていた足を止めた。
「ここでいいよ。ありがとう」
「なるべく、移動教室時以外教室から出歩かないようしてください」
「……は、はい」
つられて教室の前で足を止める俺は、真顔でそう忠告をする灘になんとも言えない気分になる。
取り敢えず頷けば、灘は「俺はこれで失礼します」と小さく会釈してそのまま廊下の奥へと歩いていった。
灘と別れ、教室の前に一人残された俺は遠くなる灘の後ろ姿を見送る。
取り敢えず、教室に入るか。五味たちに相談するまではなるべく芳川会長の言うことを聞いていた方がいいだろう。
思いながら、俺が教室の扉へと近付こうと足を進めた。
丁度そのときだった。
「齋籐、おはよう」
背後から聞き慣れた声がして、つい反射で振り返ればそこには志摩が立っていた。
不意に、昨夜アドレス帳から見つけた志摩の名前を思い出した俺は全身が酷く緊張するのを感じる。
……いつからいたのだろうか。
目が合い、笑いかけてる志摩を無視できなかった俺は「おはよう」とだけ返す。
まるで灘がいなくなったタイミングを見計らったように出てくる志摩に俺は動揺した。
「どうしたの?入らないの?」
その場から動こうとしない俺に心配そうな顔をする志摩は、言いながら俺の腕に軽く触れる。
「ご……ごめん」慌てて気を取り直した俺は、然り気無く志摩の手を振り払いそのまま喫茶店となった教室の中へ入った。
携帯電話の件、一応聞いておこうか。でも、正直これ以上志摩との関係に荒波を立てたくない。
ここまで来ておいても尚志摩に気遣う自分に呆れる俺は小さく息を吐いた。
目に優しい色合いの装飾が施された教室内。ついてくる志摩を避けるようにして自分の席へとつく俺。
その隣の席へとやってきた志摩は、そのまま椅子を引き腰を下ろす。
阿佐美とのこともあるし、志摩とは一度ちゃんと話した方がいいのかもしれない。
でも前が前だけに志摩とまともに話し合える気がしない。
いや、今回は阿佐美にも迷惑をかけてるんだ。俺の得意不得意だけの問題ではない。
でも、話し合ってからどうすればいいんだ。
阿佐美に謝るよう志摩を説得させればいいのか。
それとも俺に付きまとうのをやめさせればいいのか。それが出来れば一番いいのだが、後者は特に難しい。でも、このままでは悪い方に転んでも決して良い方に転ばないだろう。
面倒事は極力熱が冷めるのを待つというモットーを掲げている俺だが、阿佐美に被害がいった時点でそれは実行できそうにない。
志摩と話そう。文化祭前日である今日は全ての授業が文化祭準備に変更されているし、時間ならいくらでもある。そうだ、なるべく人気があるところだったら大丈夫なはずだ。
「齋籐、どうしたの。顔怖いよ」
一人物思い目に耽っていた俺の目の前で手を振る志摩は、そう笑いながら俺に声をかける。
いつもと変わらない、変わらなさすぎる志摩に俺は静かに目を向けた。
話そう。話さなきゃだめだ。
横目で志摩を見据え、そう自分に言い聞かせるように口の中で呟いた。
志摩と話そう。そう決心してから暫く経つ。
朝のSHRが終わり、朝っぱらからテンションの高い担任が明日の文化祭本番への意気込みを見せ、そして文化祭の準備が始まった。
ざわざわと賑わう教室内。殆どの装飾は終わり、今日は料理や器具など厨房の方を主に準備に取り掛かるようだ。予め用意していた材料などを集めるクラスメートを横目に、俺は珍しく暇そうにしている志摩に目を向ける。
どうやら厨房の担当ではない志摩は仕事がないようだ。これは、チャンスではないだろうか。いや、チャンスというのもなんだけれど、とにかく話し掛けてみるしかない。
緊張のせいか無意識に固唾を飲んだ、俺は「志摩」と思いきって声をかけた。
「あの……話したいことがあるんだけど」
「話?俺に?」
「今から、いいかな」
言いながら、まともに志摩の目が見れなかった。
いきなりの誘いに志摩は少し驚いたような顔をしたが、やがて頬を弛ませ微笑んだ。
「いいよ。なんの話?」
「もしかして、デートの誘い?」そう茶化すように笑いかけてくる志摩に俺は苦笑を浮かべる。
「ちょっと、場所変えたいんだけど」
「いいよ、齋籐がそうしたいんだったら」
あくまでも相手の機嫌を伺いながらそう志摩に尋ねれば、志摩はヘラヘラと笑いながら頷いた。
なんとなく含みがあるその言葉に違和感を覚えたが、元々志摩はこういう話し方をしていたはずだ。
やけに過剰になってしまう自分自身が恥ずかしくなりながら、俺は「ありがとう」とだけ言い椅子から腰を上げる。
「でも、齋籐から誘ってくれるなんて珍しいよね」
続けて席を立つ志摩は、言いながら廊下へと続く扉へ歩いていく俺の後ろからついてきた。
言われてみれば、俺が志摩を誘うときは大抵悪い意味でなにかがあったときくらいだ。
基本なにもないときは自ら志摩を尋ねない自分を責めているわけでもなさそうだったが、そういう風に言われるとなにも言えなくなる。
「……そうかな」
「そうだよ。今だって、ほら。阿佐美のことで俺に文句言いに来たんじゃないの?」
「……」
勘が鋭いのか、それともただの皮肉が当たっただけか。どちらにせよ、図星ということには変わりなかった。
賑やかな教室を後にし、俺たちは教室前廊下へと移動する。
どこのクラスも早速準備に取り掛かっているようだ。
休み時間のように騒がしい廊下を歩いていき、俺は適度に教室から離れた廊下へと向かうことにする。
「もしかして、当たっちゃった?」
なにも答えようとしない俺に、志摩は可笑しそうに笑いながら「ねえ」としつこく尋ねてきた。
確かに当たっているが、なんでだろう。なんとなくそれを認めたくなかった。
茶化すような志摩の態度が気付かないうちに俺の癇に障ったのかもしれない。
だけど、下らない見栄を張って相手と話にならなくなるのは避けたかった。
「……そうだけど」
廊下を歩きながら、素直に俺はそう志摩に答える。
思ったより肯定の言葉がすんなりでたことに内心驚きつつ、俺は隣を歩く志摩に目を向けた。
「やっぱやめた」
浮かべていた笑みを消した志摩は、そう言って足を止める。
いきなりの志摩の行動に対応に遅れた俺は、そのまま志摩を置いていきそうになり慌てて足を止め、立ち止まる志摩の方を振り返った。
「志摩……」
「齋籐って結構デリカシーないよね。気付いてる?」
「悪いけど、俺は教室に戻らせてもらうよ」そうひきつったような笑みを浮かべる志摩は、それだけを言い残し一方的に立ち去ろうとする。気付いたら勝手に体が動いていた。
「ちょっと待ってよ」
咄嗟に志摩の腕を掴んだ俺は、慌てて志摩を引き留める。
俺が止めるとは思っていなかったのか、少しだけ驚いたような顔をした志摩だったがすぐに微笑んだ。
「なに?そんなに俺と話したいの?」
口許に緩やかな笑みを浮かべる志摩だったが、その目は笑っていない。
どこか冷ややかなものを含んだような視線に、俺は掴んでいた志摩の腕を離しそうになる。
実際に話し合ったとしてどうなるかはわからなかったが、ここで引いたらダメだ。
自分に言い聞かせるよう呟き、俺は志摩の腕を強く掴む。
「その、今のはごめん、本当にそういうつもりじゃ……」
「御託はいいよ。俺になにしてほしいかだけ言ってよ」
自分の失言に対し詫びようとするが、すぐに志摩に遮られた。
どうやら志摩は本題だけを言えといっているようだ。
なんだか出鼻を挫かれたような気分になりながらも、俺は慌てて考え込む。
志摩にしてほしいこと?先程まで考えていたはずなのに、言い方一つ変わっただけで思考回路がごちゃごちゃになってくる。
志摩にしてほしいこと。志摩に言いたいことはあったが、してほしいことはわからなかった。
「齋籐がしてほしいって言うなら、なんでもするよ」
「……なんでも?」
「うん、なんでも。なにしてほしい?エロいやつでもいいよ」
恐らく、志摩は俺をからかって反応を楽しんでいるだけなのだろう。
冗談か本気かもわからない志摩の言葉に頬を引きつらせながら、咄嗟に俺は志摩から離れた。
「冗談だよ」腕を掴んだまま後ずさる俺に、志摩は笑う。
読めない志摩の言動に調子を乱されながら、俺はなるべく平常心を保つよう心掛けた。
「俺は……志摩と話したい」
阿佐美とのことかも含め、志摩の支離滅裂な言動にはなんとなく意味があるように思えた。
ただ俺を困らせたいだけにしろ、志摩がどういうつもりかがわからないか限り知らずの内に俺が志摩を傷付けてその悪循環から抜け出すことはできない。
「話してるじゃん」
俺の言葉に、志摩は薄ら笑いを浮かべながら自らの腕を掴む俺の手に触れる。
「え、まあ、そうだけど……そうじゃなくて、ちゃんと」志摩に指摘され、俺は自分の説明力のなさに恥ずかしくなりながらもそうしどろもどろと続けた。
「ちゃんと?ちゃんとって?」
「いや、あの、だから……志摩の気持ちとか」
「俺の気持ち?」
手を重ね指を絡めてくる志摩に俺はつい手を振り払いそうになるが、もしかしたらそれを狙ってわざとこんな真似をしているのかと思えば俺は志摩の手を離せなかった。
「気持ちってなに、どういう意味?」耳元に顔を近付けてくる志摩は、そう冷やかすよう笑う。
確実にからかわれている。
その事実に気付いた俺は、なんだかもうあまりの気恥ずかしさに顔が熱くなった。
「だから、それは」
「それは?」
「志摩は、俺のことをどう思ってるのか、とか」
「ああ、齋籐?好きだよ」
尋問めいた志摩の言葉に、俺は口ごもりながらそう尋ねれば志摩は即答した。
軽い、というかここでするか。
いや、聞いた俺も俺かもしれないけど。
恥ずかしげもなくそう答える志摩にぎょっとした俺は、咄嗟に廊下に目を向けるが幸い人通りはなかった。
「そういう意味じゃなくて、ほら、俺のこういうところが嫌だとか、あるんじゃないのか」
「ああ、そういう意味?」
した本人よりされたこっちがいたたまれなくなりながら俺がそう言い直せば、志摩は「言ったら泣くでしょ」と可笑しそうに笑った。
泣くようなほどのものがあるということか。
さらりと出た志摩の言葉にショックを受けながらも、俺は「黙ってられるよりいい」と答える。嘘だ、本当なら聞きたくもない。そのくせに本心殺してこんなかっこつけたようなことを口にしたのはちょっとした見栄だった。
「別にいいけどさ、俺からそんなこと聞いてどうするの?俺好みになってくれるわけ?」
「……そういうわけじゃないけど」
「じゃあなに、齋籐ってば自分の悪口言われたいんだ」
「マゾなんだね」と涼しい顔して続ける志摩に、なんだかもう俺はなにを言えばいいのかわからなくなって絶句した。
どうしても話を逸らしたいのか茶化すようなことを言う志摩に俺は顔を引きつらせる。
「……だから、そういうことじゃなくて」
あまりの酷い言われように、俺は戸惑いを通り越して一種の羞恥すら覚えた。
顔をしかめて志摩を見据えれば、志摩は可笑しそうに笑う。
「うん、そうだね。ちょっと言い過ぎた。謝るよ」
「ごめんね」と謝罪する志摩の顔には反省の色どころか笑みが浮かんでいた。
その態度に更にむっと顔を強張らせる俺に、志摩は喉を鳴らして笑う。
「ま、いいや。そんなことよりさ、聞いたよ。ようやく、一人部屋になったんだってね」
堂々とそんなことより扱いされたことに呆れながらも、その後に出てきた志摩の言葉に俺は目を丸くした。
なんで知ってるんだと驚いたが、阿佐美の引っ越しを手伝っていた縁たちと接触がある志摩からしてみればそれを知ることは簡単だ。
「よかったね、これでやっとゆっくりできるじゃん」
「なんで、そんな言い方……」
「え?事実でしょ?」
あまりにも遠慮ない志摩の言葉に顔を強張らせる俺は、当たり前のようにそう笑う志摩を見た。
「実際、阿佐美には関わらない方がいいよ。ろくなことにならないから」
目を細め口許に笑みを浮かべる志摩は、そう小さく笑いながら続ける。阿賀松の件も、芳川会長もそうだ。挙げ句の果てに阿佐美とまで関わるなと言ってくる志摩に、俺は呆れ果てる。
これじゃあまるで志摩は俺に。
「……俺に、誰とも関わるなって言ってるわけ?」
自然と語気が強くなり、言葉にすれば自然と口許が引きつった。
忠告にしては、横暴すぎる。
おまけに、阿佐美に対しての志摩の態度は異常だ。
確かに俺は阿賀松や芳川会長に対しては全てを知っているわけではないからなにも言えなかった。
しかし、数ヵ月という短い期間の間ではあったが阿佐美と生活していた俺からして志摩の言葉はただの言い掛かりのようにしか聞こえない。
「そうだよ」
俺の問い掛けに対し、志摩はあっけらかんとした調子で言い切った。
「齋籐はさ、今自分が面倒な立場にいるって気付いてる?」あまりにも堂々とした相手の態度に呆気取られる俺に構わず、志摩は笑いながら続ける。
立場?自分の?
「そんなこと……わかってる」
「ならわかるでしょ?このままじゃ、馬鹿二人に巻き込まれて自滅するって」
「……自滅?」
やけに大袈裟な表現をする志摩に、俺は呆れたように目を丸くさせる。
馬鹿二人とは恐らく阿賀松と芳川会長のことだろう。
どこで二人が聞いているかもわからない状況下でよくそんなことを言えるなと驚いたが、いまはそんなことどうでもいい。
「そう、自滅。だからそうなる前にさ、いつも言ってるじゃん俺。関わるなって」
誰とも関わるな。そう志摩は簡単に言うが、普通に考えてそれは無理な話だろう。
「……そんなこと、急に言われても」どうすればいいのかわからない。
志摩の戯言だとわかってるはずなのに、それを真に受けてしまう俺ももしかしてたら気付いていたのかもしれない。
芳川会長と阿賀松の問題に自分が首を突っ込んでいる自体、間違っていると。
「急に?やだなぁ、俺は前からずっと言ってるよ。それを聞かなかったのは誰?齋籐でしょ?」
そう笑いながら言う志摩だったが、その目は笑っていない。
然り気無い俺の言動が気に障ったのだろう。僅かに眉が反応した。
「まあ、いいや。昔のことを今さら掘り返しても仕方ないもんね」
そう諦めたように浅く溜め息を吐く志摩だったが、すぐに頬を弛ませる。
「でも、齋籐が本気で今の状況から抜け出したいっていうなら俺はいくらでも協力するよ」
「もちろん、友人としてね」本気かそれともいつもの悪い冗談か、志摩はそう言って優しく微笑んだ。
協力。協力?
なんだ、協力って。
俺が阿賀松と芳川会長と関わらないようにするため、志摩は俺に協力すると言った。
いきなりこんな話をされても、正直俺はどうすればいいのかわからない。
なにか言おうとするが言葉が見つからず、志摩に目を向けた俺はそのまま黙り込んだ。
「なに、その顔。俺が信用出来ないって?」
「ち、違う。……そういうわけじゃないけど……」
「そういうわけじゃないけど、どうしたらいいのかわからない?」
「……っ」
歯切れの悪い俺の様子からなにか悟ったのだろう。
笑う志摩に図星を指され、俺は顔を引きつらせた。
「そうだね。いきなりこんなこと言っても仕方ないよね」
「……志摩」
「でも、嘘じゃないから。俺は齋籐の味方だよ」
酷く薄っぺらいその言葉に、きつく胸が締め付けられる。
からかっているだけだ。そう頭では理解しているはずなのに、惑わされそうになっている自分がいた。
一度感じた芳川会長に対しての違和感は、思っていたよりも俺に影響を与えたようだ。
「友達ってそーいうことでしょ?齋籐」
そう尋ねてくる志摩に、俺はどう答えればいいのかわからず黙り込む。
やけに友達という言葉を協調する志摩は、どうやら前に俺が言ったことを気にしているように感じた。
志摩にとって、友人というものは協力関係を結ぶこと人間というようだ。
足元に視線を落とし押し黙る俺に、志摩は小さな溜め息をつく。
「俺の予定では、ここで齋籐がわーって喜んでくれるはずだったんだけどな」
リアクションの薄い俺が不服だったようだ。
少しだけばつが悪そうな顔をする志摩に、こいつシミュレーションまでしてたのかと呆れたような顔をする。
流れる沈黙に益々コメントがし辛くなったときだった。
「志摩君」
不意に、クラスメートの一人が志摩に近寄ってくる。恐らく、文化祭絡みだろう。なんとなくそんな気がした。
水を差されたのが気に入らなかったのか、志摩の浮かべた笑みが僅かに凍る。
耳打ちされた志摩は「わかった」とだけ答え、目の前に立つ俺に目を向けた。
「ごめんね、齋籐。俺といっぱい話したいって言ってくれたのに」
そう名残惜しそうな顔をする志摩は、「呼び出されちゃった」と笑う。
然り気無く脚色されていたが、突っ込む気にもなれなかったので流した。
「じゃあ、またね」そう言って、そのまま俺に背中を向けた志摩は先を行くクラスメートの後を追うようにそのまま歩き出す。
呆然と遠ざかる志摩の背中を見送っていた俺だったが、肝心の話をすることを忘れていたことに気が付いた。
携帯電話のアドレス帳に登録された名前について、まだ話せていない。
「ちょっと待っ……志摩!」
それからはもう俺はなにも考えずに志摩を呼び止める。
いきなり名前を呼ばれ、少し驚いたような顔をしてこちらを振り返る志摩は「どうしたの?」と小さく笑った。
とにかく、手短に済ませなきゃ。相手は呼び出された身だ。
そのとき俺の頭の中に『また後で話し合う』という選択肢は存在してなかった。
「あの、携帯……っ」
なんで勝手に登録したんだ。勝手に触ったのか。そう尋ねようとして、慌てすぎたせいで言葉に詰まる俺に、なにかを察した志摩は小さく微笑み頷いた。
「うん、わかった。また後で電話するからね」
そうじゃない。いや、確かに手段としては間違ってないが、そこじゃない。
「いや、ちが……っ」
慌てて言い直そうとするが、満足そうな顔をした志摩はそのまま歩いていってしまった。
徐々に遠ざかる背中。
俺は落ち着いて話すことの大切さを学んだ。
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