天国か地獄


 09

 洗面所へ入ると、扉の前には頭からタオルを被った阿佐美が立っていた。
 どうやら阿佐美とタイミングが被ってしまったらしい。
 いきなり開く扉にビクッと肩を跳ねさせた阿佐美は、現れた俺を見て顔を強張らさせた。

「……」

 俺も俺で扉を開けてすぐそこに阿佐美がいたことに驚いてしまい、なんとなく気まずくなってしまう。
 居るとはわかっていたが、実際本人を前にするとなんとなく緊張した。
 後ろめたさに押し潰されそうになりながら、洗面所に入った俺はそのまま扉を閉める。
 洗面所の中には俺と阿佐美の二人だけしかいない。
 志摩がいないここなら、ちゃんと話せるだろう。
 とは言っても、なにを話せばいいのかわからなかったが、とにかくさっき殴ったことを謝ろう。
 思いながら、俺は目の前の阿佐美を見据えた。

「……あ、ごっごめん。俺、先に入っちゃった」

 どうやら阿佐美は、黙り込む俺が先に風呂入ったことを怒っていると勘違いしたようだ。
 しどろもどろと謝罪を口にする阿佐美は、言いながら俺から視線を逸らす。

「え、いや、別に……いいけど……」

 まさかそんなことを言われると思わなかった俺は、出鼻を挫かれたような気分になった。
「なら、よかった」志摩に言われたことを気にしているのか、阿佐美はそう落ち着かない様子で短く呟けば、頬を緩ませる。
 多少ぎこちないものの、いつもと変わらない阿佐美に俺は内心ほっと胸を撫で下ろした。
 どうやら、阿佐美は志摩のとんでもない提案を真に受けたわけではないらしい。
 普通に話してくれる阿佐美に、俺は安心した。

「詩織、あの、さっきは……」

 ごめん。
 そう続けようとして、不意に居間へ続く背後の扉が開いた。

「ねえ、なんの話してるの?」

 扉から顔を出した志摩は、そう笑いながら俺と阿佐美に目を向ける。
 一瞬、背筋が凍った。
 狙ったようにしか思えないタイミングのよさに、俺は顔をしかめる。

「……別に、なにも話してないけど」

 いきなりの志摩の乱入に、阿佐美は特に動揺するわけでもなくそう答えた。
 そう素っ気なく答える阿佐美に、なんとなく俺は寂しくなってしまう。
 恐らく、絡んでくる志摩を払うための演技だろう。
 わかってはいるけど、やっぱり居心地が悪い。

「ふうん。なんか声が聞こえたような気がしたけど、俺の気のせいだったのかな」
「……」

 笑いながら続ける志摩に、阿佐美はなにも言わなかった。
 下手に突っ込んでも揚げ足を取られるだけと思ったのだろう。
 阿佐美は俺の横をそのまま素通りし、志摩が開いた扉からそのまま洗面所を後にした。

「なんだ阿佐美のやつ、冷たいなあ」

 阿佐美を目で追っていた志摩は、そう笑いながら俺に目を向ける。
 誰のせいだと思っているんだ。
 思いながら、俺は志摩から視線を逸らした。

「……あの、俺風呂入るから」

 阿佐美がいなくなったいま、いつまでも洗面所でだらだらしてても仕方ない。
 そう思った俺は、遠回しに志摩にここから出ていってくれと伝える。
 よそよそしい俺の態度が気に障ったのか、志摩は目を細めた。

「齋籐一人で大丈夫?やっぱり、俺も手伝おうか」

 志摩は、言いながら俺に近付いてくる。
 手伝うって、なにを手伝うんだ。
「は?」意味のわからないことを言い出す志摩に、つい俺は素っ頓狂な声をあげる。
 わざわざ手を煩わせるようなこともないし、必要もない。

「いや、いらないけど……」

 訝しげに顔をしかめた俺は、言いながら後ずさる。
「そう?」俺の言葉に、志摩は不思議そうな顔をした。

「体、キツくない?一人じゃ大変じゃないの」

 そんなことを言い出す志摩に、俺は呆れ果てる。
 自分が好き勝手やったくせに変に心配をしてくる志摩に、俺は顔をしかめた。
 中途半端に優しくされるくらいなら、思いっきり冷たくされた方がまだましだ。

「別に、一人で大丈夫だから」

 言いながら、俺は半ば強引に志摩を洗面所から閉め出した。
 なんとなく語尾がキツくなってしまったが、訂正する気にもなれない。
 志摩を追い出した洗面所には俺一人が残った。
 取り敢えず、風呂に入るか。
 相変わらず気分は塞がったままだったが、このままいても仕方ない。
 着ていた服に手をかけた俺は、そのまま服を脱ぎ浴室へ向かった。

 全身をシャワーで洗い流し、湯槽に浸かって緊張した体をほぐす。
 途中、先ほどの志摩とのことを思い出し、なんだか気が気ではなかった。
 妙な菓子のせいとはいえ、あれが事実だということには変わりない。
 逆上せていた頭が徐々に冷めていき、俺はなんとも言えない気分になった。

 ……上がるか。
 このままこんな所で考え事をしていたら間違いなく風邪を引いてしまうだろう。
 それに、まだ志摩も入っていない。
 多少揉め事はあったとはいえ、あくまでも客人だ。
 そこまでないがしろにする気にもなれなかった。
 思考を中断させた俺は湯槽から出て、そのまま洗面所へと戻る。
 洗面所で髪を乾かし私服に着替えた俺は、志摩たちがいるであろう部屋へと向かった。
 洗面所の扉を開けば、そこはもぬけの殻だった。
 つきっぱなしのテレビのスピーカーからは、バラエティー番組の楽しげな笑い声が流れている。
 テーブルの上は綺麗に片付けられており、先ほどまで置かれていた湯飲みやお菓子は見当たらない。
 阿佐美が片付けたのだろうかと思ったが、阿佐美がそんなことをするようには思えなかった。
 多分、志摩だろう。
 無人の自室内、俺は部屋を見渡し再度二人の姿を探した。
 やはり、いない。
 どこに行ったのだろうか。
 志摩と阿佐美が同時にいなくなることに妙な胸騒ぎがしたが、あくまでも今は休み時間だ。
 根拠のない胸騒ぎでわざわざ動く気にはなれなかった。

 どうせ、どっか行っているのだろう。そのうち帰ってくるはずだ。
 自分に言い聞かせるように口の中で呟きながら、俺はソファーに腰をかけ、正面のテレビを眺める。
 一分一分がやけに長く感じた。

 暫くして、玄関口の扉が開き志摩が戻ってきた。

「あれ、齋籐一人?」

 ソファーに腰をかけてテレビを見ていた俺に、志摩は少しだけ意外そうな顔をする。
 その口振りからすると、どうやら志摩は阿佐美を残して先に部屋を出たようだ。
 部屋に上がってくる志摩は、周りを見渡しながら俺の座るソファーに近付いてくる。

「うん、……まあ」

 躊躇いもなく俺の隣に腰を下ろす志摩に緊張する俺は、そう頷きながら然り気無く志摩との距離をあけた。
 どうやら、どこか買い物に行っていたわけではなさそうだ。
 手ぶらの志摩を横目に、俺はなんだか落ち着かなくなる。

「……ふうん。阿佐美って、いつもこの時間帯いないの?」

 頷く俺を横目に、志摩はそんなことを聞いてきた。
 志摩が阿佐美のことを聞いてくる自体に驚く俺は、その質問の意図がわからず少しだけ返答に詰まる。
 俺は、不意に壁にかかった時計に目を向けた。
 消灯時間にはまだ早い。

「いや……別にそういうわけじゃないと思うけど」

 深夜帯にいなくなることは屡々あるが、この時間帯は大体阿佐美は部屋にいる。
 素直に答えていいのか迷ったが、別に聞かれても困るような内容ではないだろうと判断した俺は、そう志摩から視線を逸らしながら答えた。

「……それが、どうかしたの?」

 妙なことを聞いてくる志摩に、俺は怪訝な顔をする。
 まさか、また変なことを企んでいるんじゃないだろうな。
 志摩は顎を指先で弄りながら難しい顔をしていたが、やがていつもの通りの笑みを浮かべる。

「いや、なんでもないよ。なんとなく聞いただけ」

 一度志摩の本音を聞いているからだろうか。
 そう笑う志摩の笑顔が、酷く嘘臭く感じた。

 どうせまた、よからぬことを企んでいるのだろう。
 お菓子の件があるせいか、志摩の言動全てが疑わしく思えた。
 だとしても、俺には志摩がなにを考えているのか全く理解できないし、知ることもできない。
 わざわざ突っ掛かる気にもならなくて、敢えて俺は黙り込んだ。

 丁度そのとき、再び玄関口の扉が開く。
 玄関口に目を向ければ、そこには阿佐美が立っていた。

「おかえり」

 いつもの癖で、つい俺は自然と阿佐美に声をかける。
「た……ただいま」扉を閉め玄関口から部屋へ上がった阿佐美は、少し驚いたような顔をしてそうバツが悪そうに答えた。
 ああ、しまった。余計なことをやったかもしれない。
 どことなく話しかけてほしくなさそうな阿佐美に、俺は言ってから気が付いた。

「……」

 俺は隣に座る志摩を盗み見る。
 先ほど阿佐美のことを聞いてきた割りには、全く阿佐美の方を見ようとはせずテレビを見て笑っていた。
 もしかしたらまた変な言いがかりをつけられるんじゃなかろうかと思っていただけに、無関心な志摩に内心ほっと胸を撫で下ろす。

 阿佐美はソファーの俺たちの方を見れば、そのまま歩いて自分のベッドへと向かった。

 なんか、物凄く空気が重い。
 ソファーに座ってテレビを見る志摩に、ベッドの上でノートパソコンを開く阿佐美。
 志摩の笑い声とキーボードを叩く音が部屋に響いた。
 俺はどうすることもできず、正面のテレビを眺めて時間を潰すことにする。

 テレビを見始めて結構な時間が経つ。
 途中風呂に入るためにテレビから離れた志摩も今は戻って一緒にテレビを見ていた。
 あまりの眠気でうとうとしてしまいそうになるのを堪えながら、俺はテレビの画面を見つめる。最早、番組の内容すら頭に入ってこない。ぼんやりとテレビを見ていると、隣にいた志摩は口許を手で覆いアクビをする。
 どうやら、ようやく志摩にも眠気がやってきたようだ。

「齋籐、まだ見るの?」

 ゆっくりとソファーから腰を持ち上げる志摩は、そう俺に問い掛けてくる。
 眠たそうな志摩を一瞥し、俺は無言で頷いた。
 やっと、志摩は眠ってくれるらしい。

「一緒に寝ようよ、明日も学校あるんだよ」

 渋る俺に、志摩は少しだけつまらなそうな顔をしてそう誘ってくる。
「……これの続きが気になるから終わったら勝手に寝るよ」俺はテーブルの上のリモコンを手に取り、そうテレビを眺めたまま答えた。

「そんなに面白いの?」
「……多分」
「多分?多分ってなに?」
「眠たいなら先に寝ててよ。……勝手にベッド使っていいから」

 やけに食い付いてくる志摩に、俺はそう宥めるようになるべく優しい口調で志摩を促す。

「……」
「……」

 どうしても志摩を大人しく眠らせたい俺と、どうしても一緒に眠りたいという志摩の間に嫌な沈黙が続いた。
 沈黙が流れる部屋に、テレビ番組の音声とキーボードを叩く軽快な音が響く。

「……わかったよ。じゃあ、ベッド借りるね」

 先に折れたのは、志摩の方だった。
 駄々を捏ねた割りにはあっさりと身を引く志摩に少しだけ驚くと同時に、腹の底から安堵感が沸き上がってくる。諦めたように溜め息をつく志摩に、俺は「おやすみ」とだけ呟いた。
 大人しくベッドの中に潜り込む志摩を一瞥し、俺は視線を正面のテレビに向ける。
 呆けたようにテレビを見ているだけで時間が経ち、志摩の眠るベッドからは小さな寝息が聞こえてきた。
 ソファーに腰を下ろしていた俺は、もう一つのベッドの上に寝転がってノートパソコンを弄っている阿佐美に目を向ける。
 不意に、キーボードを叩いていた阿佐美の指が止まった。
 ゆっくりと起き上がった阿佐美は、そのままノートパソコンを閉じる。

「……あの、詩織」

 タイミングを見計らった俺は、思いきって阿佐美に声をかけた。
 いつも通りただ名前を呼ぶだけなのに酷く緊張してしまう。
 いきなり話し掛けられたことに驚いたのか、ノートパソコンを手にベッドから降りようとしていた阿佐美は一瞬動きを止めた。

「……どうしたの?」

 阿佐美は少しだけ困ったような顔をしながら、そう俺の呼び掛けに反応してくれる。
 ノートパソコンを自分の勉強机の上に置きながら、阿佐美はそう聞き返した。

「あの……さっきのことだけど……」

 洗面所で言い損ねた謝罪を口にしようとした瞬間、どこかからなにかが振動するような音が聞こえてくる。
 阿佐美は勉強机の上に置いていた携帯電話を手に取った。

「……ごめん。ちょっと、後でいい?」

 携帯電話を開いた阿佐美は、ぶるぶると震える携帯を片手にそう申し訳なさそうに言う。
 なんてタイミングだ。
 あまりの間の悪さに、俺はつい反応に遅れてしまう。

「え、う、うん……」

「ごめんなさい」と謝る阿佐美を引き留めるのもなんだか悪くなって、俺はそう曖昧に頷いた。
 阿佐美はそれだけを言えば、そのまま玄関口へ向かい廊下へと出ていく。
 誰から電話が掛かってきたのかも気になったが、せっかくの絶好のタイミングを見逃してしまったショックの方が大きかった。
 静かに閉まる扉を眺めながら、一人残された俺はなんともいえない気分になる。

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