天国か地獄


 07

 わけのわからないまま出ていった志摩の後を眺め、俺はどうすればいいのか困惑する。
 ちらりと阿佐美の方に目を向けた。阿佐美の喉がごくりと鳴る。どうやらなにかを飲み込んだようだ。クッキーを食べすぎたせいで口の中が乾いたのだろう。
 阿佐美はテーブルの上に置いてあった湯飲みを手に取った。

「あ、ちょ、それは……」

 飲まない方がいい。そう言いかけたとき、阿佐美は志摩が淹れた変なお茶が入った湯飲みに口をつけた。
 ゴクゴクと喉が鳴り、湯飲みを飲み干した阿佐美は舌舐めずりをし、派手に咳き込む。言わんこっちゃない。

「詩織、大丈夫?」

 口を手の甲で押さえゲホゲホと咳き込む阿佐美に近付いた俺は、そのまま丸まった阿佐美の背中を撫でようと手を伸ばした。
 不意に顔を上げた阿佐美は、そのまま俺の手首を掴む。
 その瞬間、掴まれた箇所が酷く熱くなった。
 あまりの熱さに一瞬自分の体に異変が起きたんじゃないだろうかと驚いたが、異変が起きているのは俺じゃない。阿佐美の方だ。
 あまりの阿佐美の体の熱さに驚いた俺は、咄嗟に阿佐美の前髪を掻き上げ額に手を当てた。
 汗ばんだ額は熱を帯び、俺は呆れたような顔をする。

「うわ……なにこれ、すごい熱」

 こんなに高熱なら、食欲が出なくて当たり前だ。
 先程までの阿佐美の様子を思い返す。
 取り敢えず、体温計を用意した方がいいのだろうか。いや、先に保健室に連れていった方がいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、俺は阿佐美の額から手を離そうとして、阿佐美に手首を掴まれた。

「ちょ……っ詩織、保健室に行った方がいいって、詩織」

 両手首を掴み離そうとしない阿佐美に、俺は内心動揺する。
 さっきから一言も話さない阿佐美が不気味で仕方なかった。
「詩織」なかなか離してくれない阿佐美に困惑した俺は、そう宥めるように阿佐美の名前を呼ぶ。
 不意に阿佐美の顔が近付いてきて、全身に嫌な汗が滲んだ。
 嫌な予感がして、慌てて腕を動かそうとするが阿佐美に強く掴まれたせいで動かない。

「離せって、詩織……っ」

 無理矢理阿佐美の腕を振り払おうとするよりも先に、強引に阿佐美の唇が重ねられる。
 デジャヴ。全身が強張り、咄嗟に俺は顔を逸らす。
 慌てて身を引こうとするが、腕を引っ張られ深く口付けをされた。

「っ、ふ……っ」

 重ねられた唇から阿佐美の体温が流れ込んでくる。
 長い口付けに息苦しくなった俺は無意識に唇を開いてしまい、僅かな隙間から阿佐美の舌が入ってきた。
 濡れた熱い阿佐美の舌に舌を舐められ、背筋が震える。
 嘘だろ、嘘だろ、なんでこうなるんだ。おかしいだろ。
 混乱する脳味噌に、口内に広がる甘ったるい洋菓子の味。
 いきなりの出来事に、俺は青ざめた。

 この学校にきてから何回男から舌を突っ込まれたのだろうか。
 そろそろ耐性がつきそうだと思っていたが、やはり慣れないものは慣れない。というか慣れたくない。
 ようやく自分の身になにが起こっているのか理解できた俺は、阿佐美の舌を噛んででもやめさせようと思ったが、なんでだろうか。
 頭ではこの状況が異常だと理解しているのに、思うように体が動かない。
 おかしい。
 なにかがおかしい。
 というか色々おかしい。

 阿佐美の熱に当てられたのか、やけに体が熱い。
 舌を噛んでやるって思ってたのに、口を閉じることすらだるくて仕方がない。

「……佑樹くん」

 長いキスの後、ようやく阿佐美は俺の名前を呼んでくれた。
 掠れた声。そんなわけがないのに、酷く久しぶりに聞いたような気がした。
 俺から顔を離した阿佐美は、俺の手首を掴んでいた手を離す。
 もう終わったのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、強く肩を押され、そのままソファーの上に押し倒された。
 ソファーのスプリングが軋み、その上から阿佐美が覆い被さってくる。
 自分がこれからなにをされるのかが嫌というほど理解できた。
 なのに、驚くほど実感が沸かない。まるで夢でも見ているような気分だった。

「佑樹くん……っ、佑樹くん」

 なぞるように俺の名前を呼ぶ阿佐美の声が、やけに遠くに聞こえる。
 俺の服の中に手を滑り込ませた阿佐美は、優しく脇腹を撫でた。
 熱い手の感触だけがやけにはっきりと感じる。

「……俺を、俺を殴って……っ」

 俺の首筋に顔をうずめた阿佐美は、そう言って俺の首筋に舌を這わせた。
 熱い舌に舐め上げられた肌がじんと痺れ、俺は細めていた目を開く。
 今にも泣き出してしまいそうな弱々しい阿佐美の声に、混濁していた俺の意識はようやく鮮明になってきた。
 一瞬、阿佐美はそういう趣味なのかと思ったが、恐らくそうじゃない。阿佐美も阿佐美で、自分の異変に気付いているのだろう。
 人を殴るのは不本意だったが、このままではとんでもない間違いを起こしてしまいそうな気がした。
 俺は阿佐美の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせた。右手を握り締め、そのまま阿佐美の頬目掛けてそれを振りかざす。

「……っ」

 拳に当たる肌の感触に、俺はきつく目を瞑った。
 殴られる痛みを知っているからだろう。手加減はしたものの自然と全身が緊張し、気が気でなかった。
 恐る恐る目を開けば、頬を押さえる阿佐美が呆然としている。
 咄嗟に、俺はソファーから上半身を起こそうとした。
 そのときだ。不意に、玄関口の扉が開く。

「……あれ?なんで?もう終わったの?」

 どこから持ってきたのだろうか。
 市販のビデオカメラを手にした志摩は、ソファーの上にいた俺たちを見て驚いたような顔をする。
 あまりにも調子外れな志摩の言葉に、俺は乱れた服を戻しながら顔をしかめた。

「志摩……っ」

 ソファーの背凭れに手を置いた阿佐美は、忌々しそうに顔をしかめながら俺の上から退く。
「呼んだ?」ビデオカメラを弄りながら、志摩はあっけらかんとした様子で答えた。

「なにがしたいんだよ、あんたは」

 志摩を睨むように見る阿佐美は、そう唸るように吐き捨てる。
「なにって」阿佐美の問いかけに、志摩は可笑しそうに笑った。

「阿佐美が可哀想だったからちょっとキューピッドになってあげただけだよ」

「せっかくだし記念撮影をしてやろうと思ったけど、無駄だったみたいだね」ビデオカメラのレンズを覗き込みながら、志摩は悪びれた様子もなくそう続ける。

 キューピッド?記念撮影?
 志摩の言っている意味がわからなかった。
 ただ理解できたのは、どうやらこの状況を造り上げたのが志摩だということだけだ。

「なにがキューピッドだ……っ俺が気に入らなかっただけだろ!」

 志摩に殴りかかりそうな勢いで怒鳴る阿佐美に、俺はびっくりして目を丸くする。
 阿佐美も人間なのだから喜怒哀楽があって当たり前だが、こんなキレ方をするとは思わなかった。

「理性がなくなるっては聞いたけど、まさかこっちの理性もなくなるってのは驚いたなあ」

 誰に言うわけでもなく、そう独り言のように呟く志摩は阿佐美の様子を見て笑う。
 意味深な志摩の言葉に、俺は違和感を覚えた。

「……詩織になにしたんだ」

「まさか。俺はなにもしてないよ。阿佐美が勝手に食べちゃっただけだって」

 恐る恐る問い掛ける俺に、志摩はそう笑いながら答える。
 食べちゃったって、もしかして。不意に、脳裏に志摩が持ってきた手土産が浮かぶ。
 もしかしてあれに、なにか入ってたと言うのだろうか。

「バカだよねえ、阿佐美も。自分でもおかしいって気付いてたくせに、齋籐の分まで食っちゃうんだもん。人がせっかく和姦できるように仕向けてやったってのに、本当にバカ」

 やけに饒舌な志摩の言葉に、俺は呆れて言葉もでなかった。
 和姦?仕向ける?
 さらりととんでもないことを口にする志摩に、俺の脳が混乱した。

 だとすれば、なんで阿佐美は俺に理性を保たせようとしたのだろうか。
 俺に殴られたかったから?お菓子が食べたかったから?和姦が嫌だったから?
 おかしくなるのは自分だけでいいと思ったから?
 考えれば考えるほど、志摩の言葉の意味がわからなくなる。

「でも、残念だったね。阿佐美。和姦で済むところをわざわざ強姦未遂にしちゃうなんて」

「おまけに返り討ちに遭うなんて」喉を鳴らし、志摩は楽しそうに笑った。
 黙り込む阿佐美。
 強姦未遂だって?これが?
 確かにキスはされたが、阿佐美は俺に抵抗しろって言った。
 なんとなく、腑に落ちない。どうしても志摩は阿佐美に俺を襲わせたいのか、やけに和姦や強姦などの言葉を口にした。言われた身からすれば、かなり気分が悪い。

「別に……俺は、なにもされてない」

 気付いたら、自然と口が動いていた。
 なにもされてないわけではない。現に俺は阿佐美に押し倒された。なのに、なんでだろうか。阿佐美を庇うような言葉が口から出た。
 俺の言葉に驚いたのは、他でもない阿佐美だった。

「……なに言ってるの?なにもされてないわけがないじゃん。現に、ソファーに押し倒されてるし」

「もしかして、齋籐にとって押し倒されるってノーカウントに入るの?」笑みを引きつらせた志摩は、そう不愉快そうに続ける。

「違う。ただ、バランスを崩して、それで詩織に……」

 我ながら苦しい言い訳だと思った。
 阿佐美を庇うのはお門違いだということもよく理解できた。
 だけど、阿佐美が全部悪いわけではないと解っていたから、俺は黙ったままではいられなかった。
 こんな下らないことで、ルームメイトと気まずくなりたくなかった。

「佑樹くん、……もういいから」

 上手い言い訳が見つからず口ごもる俺に、阿佐美はそう呟く。
 もういいってなんだよ。なんだよ、なんでそんな顔するんだよ。意味がわからない。

「全部志摩の思ってる通りだよ。俺は佑樹くんに嫌われたし、これからも相手にされない」

「だって、俺佑樹くんのことを無理矢理犯そうとしたから」こちらを見ようともせず、阿佐美はそう続ける。

「なに言って……」

 なんでもないように言う阿佐美に、俺は目を丸くさせた。
 阿佐美の言葉の意味がわかったからこそ、聞きたくなかった。

「そうだね、よくわかってるじゃん」

 阿佐美の言葉に、志摩は笑いながらソファーに近付いてきた。
 テーブルの上にビデオカメラを置いた志摩は、そのまま向かい側のソファーに腰を下ろす。

「ダメだよねえ、未遂とは言え強姦は強姦だし。齋籐を傷つけちゃったわけじゃん?一生もののトラウマになっちゃうよ」

 お前が言うかと言い返してやりたかったが、阿佐美に宥められ俺はぐっと掌を握り締めた。

「だから、俺が佑樹くんに近付かなきゃいいんでしょ」
「阿佐美さあ、一人部屋にしたら?」

「出来るよね、特待生なら」不意に妙な提案を持ち掛けてきた志摩に、阿佐美は顔をしかめた。
 一人部屋って、一人部屋のことだよな。
 そういえば、俺がこの寮へやってきたときも阿佐美は一人部屋だった気がする。
 たまたま余っていただけかと思ったが、どうやら特待生のみの特権のようだ。

「それは……」
「なに?できないの?」

「……ッ」苦虫を噛み潰したような顔をする阿佐美は、苦悶の表情を浮かべた。
 まさか、本気で言ってるんじゃないだろうな。
 俺は向かい側の志摩に目を向ける。
 終始愛想笑いを浮かべる志摩は、俺と目が合いにこにこと笑った。俺は無言で目をそらす。

「……わかった。頼んでみるよ」

 重々しく開いた阿佐美の口から出た言葉に、俺は絶句した。
 相当我慢しているのだろう。
 ソファーのカバーを強く掴む阿佐美の指先は、力を入れすぎて白くなっていた。
 いやまさか、冗談だろう。あまりにも突拍子のない二人のやり取りに、俺は苦笑いも出なかった。
 口を挟もうにも、言葉が見つからない。
「その代わり」押し黙る俺をよそに、阿佐美は言葉を続けた。

「これ以上、佑樹くんに絡むのはやめてよ」

 静まり返る室内に、阿佐美の声が響く。
「そっちがちゃんと約束を守ればね」志摩は小さく笑いながら、テーブルの上に置いてあった湯飲みを手に取った。
 志摩がなにを考えているのかがまるで理解できなかった。単なる気まぐれなのか、それともなにか意図があるのか。それすらも理解できなくて、俺はただ呆然と志摩を見るくらいしかできなかった。

「詩織……」
「……」

 俺は側にいる阿佐美に目を向ける。
 阿佐美は唇を一の字に結び、俺から逃げるようにそのままソファーから腰を浮かした。
 無言で洗面所へ向かう阿佐美に、俺は慌ててソファーから立ち上がろうとする。

「ほっときなよ」

「誰だって一人になりたいときはあるでしょ?」向かい側の志摩はテーブルの上に湯呑みを置き、そう俺に笑いかけた。
 中途半端に腰を浮かせた俺は、阿佐美の背後に視線を向ける。が、洗面所に入った阿佐美はそのまま扉を閉め、俺の視線は遮られた。

「……なにがしたいんだよ」

 立ち上がった俺は、志摩を睨むように見据える。
 自然と声が震えた。志摩は俺の言葉に不思議そうな顔をしてみせたが、やがて先ほどと変わらぬ笑みを浮かべる。

「やだなあ、さっきも言ったじゃん。何回も言わなきゃいけないの?」
「あんなの、信じるわけないだろ」

 おどけたように笑う志摩に、俺はなるべく強い口調で問い質す。
 ここで引いてしまえば、なんだか取り返しのつかないことになってしまいそうだったから。だから俺は、精一杯虚勢を張ることにした。

「それもそうだね。だって俺が阿佐美のことを応援するわけないし」

 俺の言葉に不愉快そうにするわけでもなく、志摩は笑いながら頷いてみせる。
 自分で言っておいてあれだけど、あっさりと肯定する志摩に俺は困惑した。

「俺ってさあ、一人だけ仲間外れとかそういうのってすごい傷付いちゃうんだよね」

 志摩は笑いながら続ける。もしかして、俺が志摩のことを避けていたことを言っているのだろうか。
 やけに遠回しな志摩の言葉に、俺は全身に嫌な汗を滲ませる。

「齋籐が阿佐美と一緒にいるから俺がこんな惨めで情けない気持ちになるんじゃないかって思ってさ。だから、ほら、ね?」

「阿佐美に齋籐に嫌われてもらおうかと思ったんだけど」志摩は目を細め、俺を見つめ返した。
 自分だけ一人なのが嫌だから、他の全員も一人にさせる。そういうことなのだろう、ようするに。
 仲違いさせるためだけにこんな質の悪いイタズラをする志摩に、俺はただひたすら呆れ果てた。

「だからって、こんなの、おかしいだろ」

 志摩の言葉はとても同調できるようなものではなかった。
 もし自分が一人になっても、俺ならこんなことをしないだろう。
 価値観の違いと言ってしまえばそれまでだが、どうしても俺は志摩の言葉を認めたくなかった。

「おかしい?どうして?」

 まるで意味がわからないとでも言うかのように、志摩は可笑しそうに笑う。
「どうしてって……」まさかそんなことを聞き返されると思っていなかった俺は、志摩の言葉に口ごもった。

「俺は齋籐と阿佐美に嫉妬したんだよ。それってさあ、齋籐が俺に愛されてるってことじゃん。普通嬉しくない?」

 ヘラヘラと笑いながらそんなことを言い出す志摩に、俺は呆れてなにも言えなくなる。
 自分で言うか、普通。しれっとした顔で口説いてくる志摩に、思わず俺は怯んでしまう。

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