天国か地獄


 06

 食堂をバラバラに出た俺たちは、エレベーターでまた一緒になった。

「もー、二人とも遅いよ。周り見たら一人になってたからいつの間にかにハブられたんじゃないのかって不安になっちゃったじゃん」

 エレベーター機内。
 開いた扉からエレベーターに乗り込む志摩はそう怒ったような顔をする。
 とても不安そうには見えなかった。
「……ごめん」無視するにもできず、俺はつい謝ってしまう。

「いいよ、許す」

 あ、いいんだ。そこは。そう笑う志摩に、俺は反応に困った末黙っておくことにした。
 扉付近に立った志摩は、目的の階を設定する。
 暫くもしないうちに俺たちを乗せた機内は動き出した。

 行きよりも帰りの方が雰囲気が悪くなっていることは結構あるが、今日は一段と空気が悪い気がする。
 恐らく、俺が志摩と阿佐美に対して変に気遣っているからだろう。
 雰囲気が悪いというより、俺が勝手に気苦労を感じているといった方が適切かもしれない。

 それからエレベーターが目的地の三階につくまで待っていた。
 何度か志摩が話し掛けてきたが、俺は適当に相槌を打つだけで内容はあまり聞いていない。
 酷く、時間が経ったような気がした。
 ようやく目的の階についたエレベーターは、小さく揺れ扉を開いた。
 密室の圧迫感から逃げるように、俺は最初に機内を出る。
 相変わらず廊下にいる人は少ない。俺に続いて志摩、阿佐美もエレベーターから降りた。
 人通りの少ない廊下を渡り、いまはもう慣れた自室までの道を歩いていく。

 333号室前。
 志摩に促され、部屋の鍵を取り出した俺は自室の扉を開いた。
 見慣れた部屋に、甘い洋菓子の匂い。
 甘ったるいこの匂いは、言わずもがな志摩の土産のあれだろう。
 扉を大きく開いた俺は、志摩と阿佐美を先に部屋に上げることにした。

 玄関を通り部屋を上がる二人を見送れば、俺は部屋の中に入り、扉を閉める。

「齋籐、食後のお菓子食べる?」

 ソファーに腰を下ろしながら、志摩はテーブルの上に広げたままになっている洋菓子を手に取った。
 つい頷きそうになったが、やはり食べる気にはなれない。

「俺はいいよ。お腹いっぱいだから」

 本当はサンドウィッチだけじゃちょっと物足りないぐらいだったが、適当に誤魔化すことにした。
「そうなの?」なんとなく不満そうな顔をする志摩に、俺は小さく頷く。
 まだなにか志摩が言いたそうな顔をしていたので、そのまま俺は逃げるように洗面所に入った。

 どうしても志摩は俺にあのお菓子を食べてほしいようだ。
 そりゃあせっかく手土産を持ってきたのだから相手に食べてほしいという気持ちはわかったが、なんでだろうか。それだけではないような気がした。
 ただ自分が疑り深いだけなのか、それとも被害妄想なのかはわからなかったが、あまりいい予感がしなかったのだ。
 とくに考えもなしに洗面所へやって来た俺は、せっかくだから風呂掃除をすることにした。

 浴槽の掃除を始めること数分。ある程度綺麗になったところで、俺は掃除を止めることにした。
 シャワーを手に取り浴槽の洗剤を洗い流す。
 なにか一つのことに集中したおかげか、いい気分転換にはなった。
 爽快とまではいかないが、大体のことがどうでもよくよくなる程度には回復した。
 風呂掃除を終えた俺は、お湯張りをしそのまま風呂場を後にする。

「お疲れ様、齋籐」

 風呂場から出てすぐ、聞きなれた声が聞こえた。
 いつからいたのだろうか。
 洗面台の側に立った志摩は、そう笑いかけていた。
 いたのならいたと言えばいいのに。
 志摩が洗面所に入ってきていることに気付かなかった俺は、志摩の姿を見つけ素直に驚いた。
 相変わらずいちいち心臓に悪い。

「ちょっと休憩したらどう?お茶でいいなら用意するけど」

 そう言いながら、志摩は俺にタオルを手渡しする。どうやら濡れた手を拭けということらしい。
「ありがとう」俺はそう呟き、志摩からタオルを受け取れば、それを使って水が滴る手先を拭った。

「俺のことはいいから、ゆっくりしたらどうだ」

 志摩にそう答え、俺は洗面所から出ていこうとする。
「遠慮しなくてもいいのに」背後から残念そうな志摩の声が聞こえた。
 なんて答えればいいのかわからず、俺は黙ってその場を後にする。

 リビングへ戻ると、無人の部屋には付きっぱなしのテレビの音声が響いていた。
 ……無人?
 ふと違和感を覚えた俺は、とっさに部屋を見渡した。
 阿佐美の姿が見当たらない。またどこかへ出掛けたのだろうか。

「ああ、阿佐美ならトイレに行ってるよ」

 洗面所から出てきた志摩は、床の上に伏しベッドの下を覗き込んでいる俺に声をかける。
 なるほど、トイレか。ならいなくて当たり前だな。
 もしかしたら避けられているのかもしれないと心配していたが、その必要はなさそうだ。
 内心俺はほっと安心しながら、ゆっくりと体を起こす。

「よっぽど阿佐美のことが気になるんだね。それとも俺と二人きりになるのは嫌?」

 そんなことは言いながら志摩はソファーの側まで行く。
 またか。また俺は、志摩の癪に障るような真似をしたのか。
 口調そのものは軽薄だったが、やはりいい気はしない。
 下手に口を出すと機嫌を悪くさせそうで、フォローするにもできなかった。

「冗談だよ。もう、すぐ黙らないでよ」

 言葉に詰まる俺に、志摩はそう可笑しそうに笑いながらソファーに腰を下ろす。
 その言葉が本気か冗談かはわからなかったが、冗談だとすれば本当に質が悪い。

「……ごめん」

 黙るなと言われ、なにか話そうとしたが口から出るのは謝罪だった。
 自分が悪いかどうかもわからなかったが、他に言いようがないのだ。志摩の悪い冗談は。
「いいよ、そんなことはどうでも」いくらかテンションが下がる俺に、志摩は笑いながら続ける。

「それより、こっちに来なよ。せっかく淹れたお茶が冷めちゃうよ」

 ソファーに腰を下ろしたまま、志摩はこちらに目を向け俺を呼んだ。
 テーブルの上を見てみると、確かに湯飲みが二つ用意されている。
 どうやら最初から俺に飲ませるつもりだったようだ。あまりにも強引な志摩に戸惑ったが、ここまでやられると断るにも断り辛い。諦めた俺は、渋々志摩の座るソファーへと近付いた。

 志摩と一定の距離を置き、俺はソファーに腰を下ろした。
 向かい合ったときもそれはそれで気まずかったが、隣になるのもなんとなく肩身が狭い。
 教室では大体席が隣同士なのであまり気にはならなかったが、一つのソファーに並んで座るというのはなかなか勇気がいる。
 気まずさを紛らすように、俺はテーブルの湯飲みを手に取った。

「これ……志摩が淹れたの?」

 湯飲みから立ち込める湯気を眺めながら、俺はそう志摩に問い掛けた。
 いまこの場に志摩しかいないんだから志摩に決まってんだろう。
 無意識にとぼけたようなことを口走る自分に、言ってからそのことに気付く俺。

「そうだよ。あ、ポット借りたから」

 思い出したように続ける志摩に、俺は湯飲みを手にしたままそれを飲むのを躊躇ってしまう。
 まさか、変なもん入ってないだろうな。
 志摩に限ってそんなことはどちらかというとないこともないとは思うが、やはり前に芳川会長に薬を飲まされたのが来ているようだ。
 他人の出すものに対して、安心して口にすることができなくなっている。

「どうしたの?」
「いや……なんでもない」

 湯飲みを手にしたまま固まる俺に、志摩は心配そうな顔をした。
 もしこれで本当に志摩がただの善意でお茶を用意してくれたというのなら、ここで躊躇うのは志摩に対して失礼だろう。
 考えれば考えるほど飲みにくくなってしまい、自棄になった俺はそのまま湯飲みに口をつけた。

 湯飲みのお茶をぐっと喉に流し込むと、酷い味が口内に広がった。
 全身が強張り、俺は慌てて湯飲みを口から離す。
 緑茶の苦味と謎の甘味が混ざったような胸くそ悪いその液体に、俺は口許を手で覆い咳き込んだ。
 込み上げてくる吐き気。全身から嫌な汗が滲んだ。

「どう?美味しかった?」

 ニコニコと笑いながら問い掛けてくる志摩に、俺は眉をひそめた。
 それを本気で聞いているというなら、俺は志摩の神経を疑うだろう。
 新鮮な空気を求めるように深呼吸を繰り返した俺は、そこでようやく落ち着いた。

「……なんか入れた?」

 半分以上中身を残した湯飲みをテーブルの上に置いた俺は、そう志摩に問い掛ける。
 言葉をオブラートで包む余裕すらなかった。
 顔をしかめる俺に、志摩は「さあ?」と小首を傾げる。

「そんなに不味かった?結構頑張ったんだけどな……はい、口直し」

 どう頑張ったら甘いお茶ができるのか、是非ご教示願いたいくらいだ。
 言いながら、志摩は数枚のクッキーを乗せた皿を差し出してくる。
 それはあまりにも自然な動作で、つい俺はなにも考えずにその皿から一枚のクッキーを摘まみ、そのまま口に入れた。
 さくりとした感触とともに淡い甘さが口の中に広がる。
 ああ、確かに口直しには丁度いいかもしれない。
 そこまで考えて、俺は自分が口にしたものに気付いた。

 恐らく、というか間違いなくこのクッキーは志摩が手土産として用意したものだろう。
 意地でも食べないと思っていたものをあっさりと口にした自分に呆れると同時に、口の中のものを飲み込んだ。普通に旨かった。

「齋籐、美味しい?」

 青い顔してもぐもぐと口を動かす俺に、志摩は笑いながら尋ねてくる。
 志摩の問いかけに対し、俺は小さく頷き返した。

「まだまだいっぱいあるよ。我慢しなくてもいいからね」

 そう優しい声音で囁いてくる志摩に、つい俺はその好意に甘えそうになる。
 志摩の言葉に俺の意思が揺らぎ始めたとき、玄関口の扉が開いた。阿佐美だ。志摩が便所に行ったと言っていたので、てっきり自室の便所を使っていると思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

「阿佐美、おかえり」

 阿佐美の帰宅に内心胸を撫で下ろした俺は、近付いてくる阿佐美に声をかける。
 が、見事に無視された。
 志摩の持っていた皿の上のクッキー全てを手に取った阿佐美は、それを口に入れぼりぼりと噛み砕く。

「うわっ、お前なに食ってんだよ。これは齋籐の分だってば」

 唐突な阿佐美の行動に、志摩は顔を青くさせた。
 その場に突っ立ってもぐもぐと口を動かしていた阿佐美だったが、みるみるうちに顔色が悪くなっていく。

「お菓子食べたかったんだったら言ってくれればよかったのに……」

 わざわざ志摩を怒らせるような真似をしなくても他にも方法はあったはずだ。
 まるで俺がクッキーを食べるのを邪魔するような食い意地の張った阿佐美の行動に、俺は呆れたような顔をする。しかし、阿佐美はなにも答えなかった。

「……まあ、いいよ。じゃあ俺、ちょっと出掛けてくるから」

 顔を引きつらせていた志摩だったが、なんとか気を取り直したようだ。
 そう言いながらソファーから立ち上がった志摩は、そのまま玄関口に向かって歩いていく。
 どこに行くのか尋ねようとして、やめた。
 このタイミングで立ち去るということは少なからず臍を曲げている可能性がある。
 下手に火に油を注ぐような真似はしたくなかった。

「……」

 出ていこうとするなにか声をかけようとしたが、気の利いた言葉が見つからず、俺は口を半開きにしたまま黙り込む。
 正直、いまの阿佐美と二人きりになるのは気まずいが、だからといって志摩がいればいいのかと言われれば答えに困った。
 玄関口で靴に履き替えた志摩は扉を開く。結局、声をかけられずじまいだった。

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