05
「しっ……詩織……?」
なにを言い出すんだ、こいつは。
俺は阿佐美の一言に顔を強張らせる。
阿佐美だって志摩のことはよく思ってはいないはずだ。そんなに菓子が食いたいなら俺が好きなだけ買ってやる。
だから前言撤回しろ。そう阿佐美に言い寄りたかったが、洋菓子に負けたことのショックが大きく俺はなにも言えなくなった。
「ほんと?助かるよ、阿佐美」
志摩は先ほどと変わらない人よさそうな笑みを浮かべ、その隣にいた俺に目を向ける。
「そういうことだから、よろしくね?」
微笑みかけてくる志摩に、俺は軽い頭痛を感じた。
いいのか、本当にこれでいいのか。あまりにも自然に不自然なこの流れに、俺は自問自答を繰り返す。
でも、志摩が困っているということも間違いないだろう。
困っている相手を放っておくなんてこと、俺にはできない。
けれど、さすがにその相手にもよる。
酷いジレンマに陥った俺は、どうすればいいのかわからなくなって、そのまま押し黙った。
もう好きにしたらいい。半ばヤケクソになった俺は、「わかった」とだけ答える。
満足そうに笑う志摩を直視できなくて、俺はそのまま部屋の奥に引っ込んだ。
「お邪魔しまーす」
玄関の方から志摩の声が聞こえてくる。やけに楽しそうな声だった。
そこまで喜んでくれるなら、と思ったが俺はそこまで心は広くない。
阿佐美はというと、クッキーをぼりぼり食っていた。こいつめ。
「ふうん、前より綺麗になったね。どっちが齋籐のベッド?」
部屋を見渡す志摩は、ソファーに座っていた俺に声をかけてくる。
涼しい顔して妙なことを聞いてくる志摩に、自然と浮き足立った。
「……なんで?」まるで志摩の質問の意図がわからなくて、俺は思わず聞き返す。
「だからいったじゃん、ベッド借りるって」
だからなんでそこでわざわざ俺のベッドを指名するんだ。
当たり前のようにいう志摩に、俺は顔を引きつらせる。
志摩相手に自意識過剰になってしまうのは相手の思うつぼだとはわかっていたが、あまりにも含んだ言い方をするのだから仕方がない。
「佑樹くんならそっちのだよ」
口の中のものを飲み込んだ阿佐美は、そう言って元々阿佐美が使っていた方のベッドを指差す。
もしかして阿佐美は庇ってくれたのだろうか。
それとも、たまたま選んだものが阿佐美のものだっただけだろうか。
どちらにせよ、阿佐美の選択に内心ほっとしたのは間違いない。
「そうなんだ。じゃあ俺、こっち使わせてもらうから」
そう言って志摩が近付いたのは、阿佐美が指したのとは違うベッドだった。
どうやら志摩は最初から阿佐美の言葉を信用してはいなかったらしい。
ベッドの側に荷物を置いた志摩は、そのままベッドに座った。
阿佐美は特になにも言わなかったが、ひねくれた志摩の言動を面白く思っているとは思えない。
二人の間に嫌な沈黙が走り、自然と俺までテンションが下がってくる。
気まずい。唯一寛げる癒しの空間だった自室には、妙にぎすぎすとした空気で張り詰めていた。
ソファーに、俺、その隣に阿佐美。そして正面にはニコニコした志摩が座っていた。
なんでこんな三者面談みたいなことになっているんだ。
内心思いながらも、俺は正面の志摩と極力目を合わさないよう気をつける。
静かな部屋に、ぼりぼりと阿佐美がクッキーを噛み砕く音だけが響いた。
「齋籐、食べないの?」
先ほどから食ってばっかの阿佐美に対し、まったく菓子に手をつけていない俺が気になったのだろう。
心配そうに問い掛けてくる志摩に、俺は「食欲ないんだ」と適当に答えた。
食欲もなにも、晩飯を食べる前に菓子を食うということ自体が俺にとって信じがたい光景だった。
「詩織、それくらいにしないとご飯入らなくなるんじゃ……」
菓子で空腹を満たすなんて、体に悪いんじゃないのか。
口をもぐもぐと動かす阿佐美は、「大丈夫だよ」とか言いながらテーブルの上に広げられた菓子に手を伸ばそうとする。
「食堂に行くんだろ」
俺は阿佐美の腕を掴み、そう言い聞かせた。
阿佐美が食欲旺盛だということは知っていたし、無理矢理食べるのを止めさせるのも気の毒に思ったが、この菓子は食べさせない方がいい。直感がそう叫んでいた。
根拠という根拠もなかったが、この菓子を用意したのが志摩だということがなんとなくひっかかった。
俺の言葉に、阿佐美は少しだけ固まってしょんぼりしながら手を引っ込める。
「……ごめんね」
語気が強くなったせいか、阿佐美は俺が怒ったと思ったのだろう。
落ち込む阿佐美は、素直に俺の言うことを聞いてくれた。
すこしぐらい反抗すればいいもののあまりにも素直だから、俺はなんだか申し訳なってくる。
「食堂?今から行くの?」
俺の言葉に反応した志摩は、そう訊ねてくる。
志摩に聞かれ、俺は素直に頷くことにした。わざわざ隠す必要もないだろう。
「なら丁度いいや、俺もお腹減っていたところなんだよね」
志摩はそう笑いながらソファーから腰を浮かせた。どうやら志摩もついてくるつもりらしい。多少戸惑ったが、俺がそれを拒否する権利はない。
立ち上がった志摩は、さっさと玄関口に歩いていく。
扉を開き、廊下へ出る志摩を横目に、俺はソファーから立ち上がった。
「詩織?」
いつまで経ってもソファーから動こうとしない阿佐美が気になった俺は、そう声をかけた。
呆けたようにどこかに目を向けていた阿佐美は、俺の声に反応する。
「どうかした?」不審に思った俺は、そう恐る恐る阿佐美に問い掛けた。
「……や、別に、なんでもない……けど」
いつも以上にしどろもどろな阿佐美の態度に、俺は不信感を強める。
まさか、お菓子を食べすぎてご飯が入らないとか言い出すんじゃないだろうな。
思いきって訊ねてみようかと思ったとき、廊下で待っていた志摩が「早く来なよ」と声をかけてくる。
ソファーから立ち上がった阿佐美は、そのまま玄関に向かって歩いていった。
阿佐美のことも気になったが、本人がなんでもないと言っている以上どうすることも出来ない。
俺はすっきりしないまま、阿佐美の後を追うように廊下へ向かった。
自室から出た俺たちは、エレベーターを使い一階までやってくる。
「齋籐、なに食べたい?」
食堂へと向かう途中、ショッピングモールの前を歩きながら志摩は尋ねてきた。
聞かれてすぐに食べたいものが浮かばなかった俺は、「なんでもいいよ」とだけ答える。
ああなんか、前にもこんなやり取りしたような覚えがある。
ただが一、二ヶ月前のことだとあうのに、やけに昔のように感じた。
ふと、先ほどから黙っている阿佐美が気になった俺は、隣を歩く阿佐美に目を向ける。やはり、どこか上の空だった。
「なんでも?へえ、そういえば齋籐って嫌いなものとかないの?」
阿佐美に声をかけようとしたが、そう話し掛けられた俺の意識は自然と志摩に向く。
「別に、ないけど」問いかけられ、俺はそう正直に答えた。
我ながらつまらない返答だと思ったが、仕方がない。本当のことなのだから。
「偉いなあ、齋籐は。じゃあ好きなものは?」
「いや、普通に美味しいのは好きだけど……」
やけに絡んでくる志摩に、俺は戸惑いながらもそう答えた。
「ふうん」答えようもない俺の無味乾燥のコメントに、志摩はそう笑う。
なんとなく、嫌だった。
あまり自分のことを話すのが好きではない俺は、志摩の尋問に少なからず居心地の悪さを覚える。
「それがどうしたの?」
なんでそんなことを聞くんだと直接的なことを聞けない俺は、そう遠回しに志摩に問い掛ける。
怪訝そうに顔をしかめる俺に、志摩は小さく笑った。
「ただ気になっただけだよ。齋籐だって、好きな人のことは知りたくなるでしょ?」
しれっとした顔でそんなことを口走る志摩に、俺は呆れたように目を丸くする。
ここで反応したら、また志摩にからかわれるかもしれない。
慌てて志摩から視線を逸らした俺は、できるだけ動揺を悟られないよう冷静を装った。
「……そうなんだ」
自然と顔が引きつる。俺の不自然な態度に、志摩は「そうだよ」と笑うだけだった。
志摩から顔を逸らした俺は、何事もなかったかのように足を進める。
予め阿佐美に聞いていた通り、いつもより食堂は空いていた。
食堂内へ入った俺たちは、カウンターに近い席に座る。
「なに食べようか」
俺から向かい側の席についた志摩は、そう言いながらメニュー表を手に取った。
「俺は……サンドイッチでいいや」
同じくメニュー表を手にした俺は、目に入った軽食を頼むことにする。
「詩織は?」注文する料理を決めた俺は、隣に腰を下ろした阿佐美にメニュー表を渡した。
「……」
しかし、相変わらず阿佐美は上の空で、無言のまま俺の方を向く。
やはり、様子がおかしい。
「詩織」俺は、名前を呼びながら阿佐美の顔の前でメニュー表を動かした。
それが効果があったのかどうかはわからなかった、俺が呼んでいることに気付いた阿佐美は慌てて椅子を座り直す。
「あ……っ、ご、ごめん、なんだったっけ……」
言いながら段々語尾を弱くする阿佐美は、申し訳なさそうに聞き直してくる。
「メニュー」俺はそう答えながら、手にしたメニュー表を再び阿佐美に渡した。
阿佐美は「ありがとう」と答えながら、メニュー表を受けとる。
暫くメニュー表を見ていた阿佐美だったが、どこか落ち着かない様子で周囲を気にし始める。
「決まった?」
俺は、阿佐美にそう尋ねた。
阿佐美は僅かにビクリと体を強張らせ、俺に顔を向ける。
「俺は……やっぱ後でいいや。佑樹くんたち、先に頼んでよ」
言いながら、阿佐美は俺から顔を逸らした。
阿佐美の言葉に、一瞬俺は耳を疑う。
「え、た、食べないの……?」
広げたメニュー表を閉じる阿佐美に、俺はついそう聞き返してしまった。
まさか、冗談だろ。
先ほどのお菓子が腹にたまったとしても、それでも阿佐美がなにも頼まないというのは驚いた。
いつもよく食べているからだろうか。なんだか余計心配になってくる。
「いいんじゃない?阿佐美が食べたくないってんなら。後からいつでも食べれるんだしね」
志摩は、そう他人事のように笑った。
「おまけに、甘いデザートもあるし」そう目を細める志摩は、阿佐美に目を向ける。
恐らく、志摩は部屋に置いてきたあの洋菓子のことを言っているのだろう。
「じゃあ俺、注文してくるよ。齋籐はサンドウィッチでいいんだよね?」
阿佐美から視線を逸らした志摩は、言いながら椅子から立ち上がった。
問い掛けてくる志摩に、俺は小さく頷く。
志摩が率先して注文を取りにいくことにも驚いたが、正直助かった。
「待っててね」志摩はそう俺に笑いかければ、そのままカウンターに向かう。
志摩が遠ざかっていくのを尻目に見送り、俺は阿佐美に目を向けた。
「……本当に頼まなくてよかったの?」
俺は阿佐美に再度確認を取るように問い掛ける。
自分でもしつこいとは思ったが、阿佐美が我慢してるように見えて仕方ないのだ。
そう訊ねる俺に、阿佐美は黙って頷いてみせる。
「なら、いいけど」
阿佐美がいいと言っているんだ。
腑に落ちなかったが、あまりしつこく言うのもあれだろう。俺はそう言って、テーブルに目を向けた。
喋ろうとしない阿佐美が気になりながらも、俺は大人しく志摩が戻ってくるのを待つことにする。
暫くも経たないうちに、志摩はテーブルに戻ってきた。
「空いてるっていいねえ、すぐできるってよ」
言いながら、志摩は向かい側の椅子を引き、腰を下ろす。
志摩の言葉に、俺は周りに目を向けた。
入ってきたときよりも数人増えていたが、確かに空いている。
人が多い場所は得意ではないが、だからといって広い空間に少ない人数が疎らになっているのもなんとなく落ち着かない。そんなことを思いながら、俺は視線をテーブルに戻す。
暫くして、カウンターの方からトレイを手にしたウェイターがやってきた。
どうやら志摩の言っていたことは本当だったらしい。
ウェイターは、俺の手前にサンドウィッチが乗った皿を置いた。
二人分の夕食が、テーブルの上に並べられた。
「いただきます」
手前に置かれた軽食を前に志摩は、楽しそうに笑いながら手を合わせた。
つられて、俺は軽く手を合わせる。
「いただきます」誰に言うわけでもなく、俺はそう呟いた。
食事中、俺たちの間に会話という会話はあまりなかった。というより、俺と志摩両方が軽食だったので、食べ終わるのにあまり時間がかからなかったのだ。
平らげた一枚の皿を眺めながら、俺はもう少し量のあるやつを頼んどけばよかったと後悔する。
「齋籐、食べ終わった?」
不意に、志摩が声をかけてきた。
見てわからないのかと言いたいところだが、わかっているのにわざわざ聞いてくるのは志摩なりのコミュニケーションの取り方なのだろう。
「……まあ」志摩の問い掛けに、俺はそう頷いた。
「なら、俺持っていくよ」
椅子から立ち上がった志摩は、言いながら俺の前に置かれた空の皿に手を伸ばす。
「いや、自分で持っていくからいいって」やけに世話を焼こうとしてくる志摩に戸惑った俺は、慌ててそう志摩を止めた。
「遠慮しなくてもいいのに。齋籐はゆっくりしときなよ」
そう笑う志摩は、言いながら皿を手に取り、テーブルの上に置いていた自分の皿に重ねる。
やけに手際がいい志摩に、俺は不信感を抱いた。
志摩が気が利く人間だとは前々から知っていたが、何故だろうか。
なんとなく、なんか企んでんじゃなかろうかと邪推してしまう。
さっさと皿を纏めた志摩は、俺がなにか口を挟んでくる前にカウンターに向かって歩いていった。
再びテーブルの前に俺と阿佐美だけが残される。
「……」
「……」
志摩がいなくなったテーブルには、会話という会話すらなかった。
相変わらずだんまりな阿佐美と元々口が達者ではない俺とでは弾む会話ができるはずもなく、俺たちは大人しく志摩が戻ってくるのを待つ。
隣の阿佐美を横目で見た。
血色は良さそうだったが、どことなく具合が悪そうだ。
唇を噛み、なにかを堪えているるようにも見える。
そんなに食べたかったのだろうか、サンドウィッチ。
そんなことを思いながら阿佐美から視線を逸らそうとしたとき、不意に前髪に覆われた阿佐美の目と視線が絡み合った。
長い前髪から覗く阿佐美の目は確かにこちらを見ていて、俺と目が合ったことに気づいたのだろう。
阿佐美はすぐに顔を逸らした。
確かに、阿佐美は俺を睨んでいた。いや、もしかしたらただ目付きが悪いだけかもしれない。
そうは思うが、なんでだろうか。いたたまれなくなってくる。
「……」
先程よりも、流れる空気は重くなった。主に、俺付近で。
気付かないうちに俺は阿佐美に失礼なことを言ってしまったのかもしれない。だから、阿佐美は不貞腐れてご飯を我慢しているとか。
睨まれる覚えがなかっただけに、段々俺は不安になってくる。
そんなネガティブな思考を働かせていると、手ぶらの志摩はそのままテーブルに戻ってきた。
「あれ?ここで待ってたの?外で待っててもよかったのに」
戻ってくるなりそう不思議そうな顔をする志摩に、俺は自分が上の空だったことに気付く。
食事を終えたというのに大人しくテーブルで待っていた自分に、俺は恥ずかしくなった。
慌てて椅子から立ち上がる俺に続いて、隣の阿佐美も席を立つ。
「まあいっか。じゃあ、これからどうする?部屋に戻る?それともどこか行く?」
喋らない俺と阿佐美の代わりに、志摩はそう仕切り出した。
正直部屋に戻ってくつろぎたいところだが、このままこのメンツで部屋に戻ってもくつろげそうにない。
考えることすら億劫になってきて、俺は「どっちでもいい」と投げやりに答えた。
阿佐美はなにも答えない。
「じゃあ、部屋に戻るってことで」
阿佐美の方をちらりと見た志摩は、そう笑えば食堂の出入り口に向かって歩き出した。
最初から阿佐美の意見を聞くつもりはなかったのか、それとも待っててもどうせ答えが返ってこないと思ったのか。
恐らく、その両方なのだろう。
俺は恐る恐る阿佐美に目を向けた。
相変わらずどこを見ているのかわからない阿佐美は、俺の視線から逃げるように俺の横を通りすぎ、食堂の出入り口に向かって足を進める。
これって、もしかして避けられてるのだろうか。
遠ざかる阿佐美の後ろ姿に目を向ける。
いや、元々が阿佐美はくっつき過ぎなだけだ。これが普通なんだ。
そう自分に言い聞かせてはみるが、不安ばかりが膨らむ。
些細なことに気を落とす自分を励ましつつ、俺は先を行く二人から間をあけて食堂を後にした。
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