04
栫井に促されるまま廊下に出た俺。
栫井が出てくる前にさっさとこの場から離れようかとも思ったが、わざわざ俺を気遣ってくれた芳川会長と五味の面子を汚すことになると思えばその場から動けなくなってしまう。
廊下の壁際に寄り、俺は生徒会室から栫井が出てくるのを待った。
が、一向に出てこない。
人を先に追い払ったくせになにやってんだよ、あいつ。
思いながら開いた扉から部屋を覗くと、どうやら栫井は戸締まりをしているようだった。
邪魔するのも悪いので、俺は静かに扉を閉め、廊下で栫井が出てくるのを待つことにする。
栫井に部屋まで送ってもらうにしろ、断るにしろ、栫井本人がいなければ意味がない。
栫井がまともにやり合って太刀打ちできるような相手ではないと身を持って知っているくせに、そんな相手にまで気を遣ってしまう自分の性分が悲しい。
そんなことを思いながら栫井を待つこと数分。
先に開いたのは、生徒会室から離れた位置に取り付けられた理事長室の扉だった。
「僕やらないからね、あんな奴の見張り!絶対やらないから!」
ヒステリックな怒鳴り声とともに理事長室の扉から派手な生徒が飛び出してくる。
聞き覚えのある声に、一度見たら忘れるにも忘れられない桃色に染められた頭髪。
離れた場所からでも、その人物が安久だと判断するには十分すぎる。
「俺だってやだよ、でも、俺無理だって。最近縁さん、俺がなに言っても聞いてくれないし嫌なんだよもう。安久お前なんだかんだ縁さんと仲いいじゃん」
廊下に出る安久に続くようにして出てきたのは、情けない声を上げる仁科だった。
よく見ると、仁科の腕や顔などところどころに擦り傷や鬱血した痛々しい傷跡がある。
対する安久は元気そうだった。
なんで二人が理事長室にいるんだ。そんな疑問を抱いたが、二人は阿賀松の取り巻きだ。
阿賀松が私物化している理事長室にいても特におかしくはない。
とっさに俺は二人から隠れようとするが、広い廊下には隠れれるような場所は見当たらなかった。
どうやら二人は俺に気付いていないようなので、そのまま他人のフリを続けることにする。
「気味悪いこと言わないでよ。大体仁科だろ、伊織さんがお願いしたのは。伊織さんの言うことちゃんと聞けよ」
仁科の言葉に、安久は顔をサアッと青くさせた。
二人の様子からして、なにか揉めているようだ。
大きな声で争うものだから離れた場所に立っている俺の耳までしっかりと届く。
盗み聞きになるのだろうか、この場合は。
聞きたくて聞いているわけじゃない俺は、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
「そんなこと言ったって……」
なにか腑に落ちないのだろうか。
渋い顔をするに、安久はイラついたように眉を寄せた。
「伊織さんにチクるからね、僕。仁科が伊織さんの悪口言ってたって」
仁科の煮えきらない態度にムカついたのだろう。
安久はそう仁科を見据えそう続けた。
恐らくハッタリだろうとは思うが、安久のことだ。本当にしかねない。
冗談か本気かわからないその脅しは仁科には効果覿面だった。
「……わ、わかった。わかったから、俺が悪かったって……変なこと言って悪い」
安久の言葉を本気にしたのだろう。慌てて安久に謝る仁科に、俺は軽く同情した。
「そう思うなら最初からバカみたいなこと言わないでよ」安久は相変わらずキツい言葉を吐き捨てれば、仁科に背中を向けそのままこちらへと近付いてくる。
うわ、やばい、どうしよう。どっか隠れなきゃ。
慌てて顔を反らし、歩く安久に合わせて顔が見えないよう壁を向く。
が、ふと俺の前を通りかかった安久は立ち止まった。
「立ち聞きだなんて、いい趣味してるね」
壁と向かい合った俺の肩を掴み引かせれば、言いながら安久は俺の顔を覗き込む。
面倒なやつに絡まれた。
薄ら笑いを浮かべる安久と目が合い、俺は顔をひきつらせる。
「聞いたよ、芳川と付き合えたらしいじゃん。よかったねえ」
ニコニコと目を細め満面の笑みを浮かべる安久に、俺はだらだらと冷や汗を滲ませる。
ここで否定しては安久に怪しまれるかもしれない。
「……お陰様で」俺は声が震えるのを抑えながら、そう呟く。
「うーん、そうだなあ。この調子でさっさと伊織さんから離れてくれたら僕嬉しいんだけどなあ」
ギリギリと肩を掴む安久の指先に力がこもった。
顔が近い。というか、怖い。至近距離で安久に睨まれ、動悸が煩くなる。
「おい、安久」理事長室から廊下へ出た仁科は、俺に絡む安久に慌てて歩み寄った。
「まあいいさ。僕がこんなことを言わなくても、伊織さんはわかってるからね」
仁科に声をかけられ、安久は俺の肩から手を離す。
安久に爪を立てられた箇所がじんじんと痺れた。
俺だって好きであんなやつと一緒にいるわけじゃない。
そう言ってやりたかったが、わざわざ安久を怒らせるような真似をするほど俺はマゾではない。
失いかけた感覚を取り戻す肩を擦りながら、俺は安久から目を逸らした。
それとほぼ同時に、生徒会室の扉が開く。
栫井だ。戸締まりを済ませた栫井は、扉前の廊下で安久に絡まれている俺に目を向ける。
「……なにやってんの?」
生徒会室の扉を閉めた栫井は、小さなアクビを噛み締めながらそう安久に問いかけた。
いや、もしかしたら俺に聞いているのかもしれない。
栫井が誰にものを言っているのかわからなかったが、その問いかけに対し口を開いたのは安久だった。
「別に、ただの通りすがりだけど?見てわかんない?」
あながち間違いではないが、この場合たまたま居合わせた一般生徒に絡む質の悪い不良にしか見えないだろう。違いない。
「なら、通りすがりらしくさっさと通りすぎていけよ」
無人の廊下の奥に目を向け、栫井はそう安久に言った。
「ほんとやな奴だね」安久は頬を引きつらせ、こめかみをひくつかせる。
それには同意しざるを得ない。
「その調子なら友達いないんじゃないの?」
「違う友達なら沢山いるんだけどな」
安久の皮肉に、栫井は真顔でそんなことを言い出した。
少しは恥ずかしがれよ。
あまりにもさらりとした調子で答える栫井に、安久は相手をするのも馬鹿馬鹿しくなったようだ。
「下品だよ、あんた。ほんと信じられない」
俺が安久と初めてまともに会話したときの方が酷かったような気がするが、敢えて黙っておくことにする。
「安久」ようやく安久が落ち着いたところで、二人のやり取りを若干離れた場所から見守っていた仁科はそう安久の名前を呼んだ。
「そろそろ、縁さん探しに行った方が……」
後輩の機嫌を伺うようにそう恐る恐る問い掛ける仁科を、安久は「わかってる!」と怒鳴り付ける。
ビクッてなる仁科につられ、関係のない俺までビクッてなってしまった。恥ずかしい。
「あんま調子のらないでよね、副会長。生意気な口聞いて困るのはそっちなんだからさあ」
安久はそう栫井を睨めば、そのまま踵を返し下の階へ続く階段まで歩いていく。
「あ、おい待てって!」仁科はさっさと歩いていく安久に声をかけるが、当の安久は知らん顔で廊下を進んだ。
「……ごめんな」
安久から視線を逸らした仁科はバツの悪そうな顔をしてそう俺と栫井に目を向ける。
なにに対して謝っているのかいまいちわからなかったが、恐らく安久の態度のことだろう。なんとなくそんな気がした。
「仁科!!」
安久は、いつまでもやってこない仁科にイラついたのだろう。
廊下の奥から仁科を呼ぶ安久の声が聞こえてきた。
後輩の怒鳴り声に青ざめる仁科は、なにか言いたそうな顔をするがやがて安久の待つ階段の方へ走っていく。
どうやら、仁科も仁科で大変なようだ。俺は去っていく仁科を見送りながら、内心同情する。
安久と仁科が廊下から立ち去ったのを確かめれば、栫井は階段に向かって歩き出した。
こういう場合いつも生徒会役員用のエレベーターを使っているだけに、てっきり今日もエレベーターに乗るかと思っていた俺は慌ててエレベーターとは反対の方角へと歩いていく栫井を追いかける。
訳を聞いてみようかと思ったが、栫井に嫌味を言われるは見えていたので敢えて黙ってついていった。
「……」
「……」
手摺に手を置いた栫井は、特になにも言わずにそのまま段差を降りていく。
沈黙はあまり好きじゃないが、栫井に悪口を言われるよりかはましだ。
俺は栫井とある程度距離を置き、階段を降りていく。階段を降りれば降りるほど、下の階の喧騒は大きくなった。静かな足音に紛れて、遠くから楽しそうな声が聞こえてくる。
会話がないから余計、周りの雑音が煩く聞こえた。
ふと、脳裏に先ほどの栫井と安久のやり取りが浮かぶ。
『生意気な口聞いて困るのはそっちなんだからさあ』。
皮肉めいた安久の言葉がなんとなく引っ掛かった。
栫井と阿賀松たちとの接点が生徒会とそのアンチでしか結び付かなかったが、今回の安久の発言でなんとなく栫井とアンチの関係性が浮かんでくる。
あの安久の言葉は、脅し文句ととってもおかしくはない。
だとしたら、必然的に栫井が阿賀松たちになにかしら弱味でも握られているという可能性が出てくる。
しかし、当の栫井には弱味を握られているような様子はない。
ただの虚勢か、それとも栫井にとって弱味の存在はそれほど大したことではないのか。
興味本位で推測してはみるが、考えても考えても答えはでない。
安久の言う『栫井が困ること』は気にはなったが、本人に聞くようなほど俺に度胸はない。興味は興味の内で終わらせた方がいいだろう。
長い階段を降り、俺たちは昇降口前までやってきた。
昇降口前。そこではバタバタと忙しく働く生徒たちが大きな荷物を抱えて行き来していた。
近くにいた生徒がこちらに目を向けたが、慌てて逸らされる。恐らく一年生だろう。生徒会室で聞いた十勝の話を思い出しながら、俺たちは昇降口で上履きを履き替えた。
なにを思って栫井がわざわざ昇降口を使って寮に戻ろうとしていたのかはわからなかったが、さほど興味はないので特に気にしないでおくことにする。
「……」
相変わらず俺たちの間に会話というものはない。
昇降口から外へ出て、栫井はそのまま寮に向かって歩き出した。そんな栫井のあとを慌てて追いかける俺。これじゃどちらが送っているのかがわからない。
さっさと歩く栫井に後ろからついていくような形で学生寮まで戻ってきた俺。
栫井は俺がついてきているのを確かめれば、ロビーを通りエレベーターの前までやってくる。
どうやら五味に言われた通り、俺の部屋まで送ってくれるようだ。
雑なのか、それとも律儀なのか。
俺にはよくわからなかったが、なにもけしかけてこないので非情に助かる。居心地が悪いのには違いないのだけれど。
エレベーターが降りてきて、扉が開いた。
中には誰も乗っておらず、俺は乗り込むのに躊躇ってしまう。
入り口で固まる俺にイラついたのだろうか。
「なにやってんの」と背後から栫井の声がして、後頭部を抑えるようにして強制的に機内に詰め込まれる。
すぐに手は離され、続いて栫井が機内に乗り込んできた。
「もたもたすんなよ、邪魔」
「ご……ごめんなさい」
真顔で栫井に言われ、俺は慌てて謝る。
いくら罵詈雑言に慣れていても、傷付くものは傷付いた。
まあ、今のは自分が悪いから仕方ないのだけれど。
俺は扉に近い隅に寄った。項垂れる俺を一瞥すれば、栫井はなにも言わずにエレベーターのボタンを押し目的地を設定する。
機内全体が小さく揺れ、静かに動き出した。
歩いているときは沈黙もあまり気にならなかったが、なぜだろうか。いまものすごく沈黙が辛い。
やはり密室だからだろうか。
他に気を紛らせれるようなものがなく、変に同乗者の栫井を意識してしまう。
それとも単に、エレベーターという場所にいい思い出がないからだろうか。
どちらにせよ、辛いのには変わりない。
極力栫井と目を合わせないように気をつけるが、寧ろ俺の方が栫井を見ているような気がしてきた。エレベーターが三階につくまでの間が、酷く長く感じた。
機内が小さく揺れ、扉が開く。どうやら目的地の三階についようだ。俺は栫井に文句を言われないよう先にエレベーターを後にする。
それから、栫井が扉をくぐって出てきた。
もしかして、本当に部屋までついてくるのだろうか。
さっさと歩けと促すような視線を向けてくる栫井に、俺は自室に向かって歩き出した。
先ほどと違うことは、さきほどまで先頭を行っていた栫井がいまは俺の後ろをつけていることだ。
そのおかげで背中に栫井の視線を感じてならない。
見られること自体あまり好きではない俺はなんとなく居心地が悪かったが、後ろを歩かずに隣を歩けというのもおかしな話だ。
俺は栫井の視線を気にしないよう気をつけながら、そのまま歩く。
先ほど志摩とやってきたとき同様、廊下はやけに静かだった。
ちらほらと人影は見えるものの、私語を交わしている生徒はいない。
333号室前。
何事もなく自室まで戻ってくることができた俺は、ドアノブに手をかける前に後ろに栫井に目を向けた。
「あの、送ってくれて……ありがとう。もうついたから、戻っていいよ」
どういおうとしても自然と上から目線になってしまうのは何故だろう。
面と面向かってお礼を言うのはやはり恥ずかしい。俺は視線を泳がせながら、そう栫井に言った。
「どーいたしまして」
栫井はあくびを漏らしながらそうどうでもよさそうに呟けば、そのままいま通ってきた廊下を戻っていく。
なにもなくて当たり前のはずなのに、なにもしてこない栫井に俺は拍子抜けした。
前回がキツかったからだろうか、変に構えていた分精神が疲れてしまう。
まあ、ボロクソ言われたのには変わりないのだけれど。
栫井の足跡が遠くなっていくのを感じながら、俺は部屋の扉に向き合った。
ドアノブに手をかけ、そのまま捻る。
カチャリと金属が擦れるような小さな音がして、ゆっくりと扉が開いた。
どうやら阿佐美は部屋にいるようだ。
俺は扉を開き、「ただいま」と口に出しながら部屋の中に足を踏み入れる。
玄関口で靴を脱ぎ、そのまま俺は部屋に上がった。
いつもなら「お帰りなさい」と阿佐美から声が返ってくるはずなのに、なにも聞こえない。
もしかして、寝ているのだろうか。
部屋にいる阿佐美がすることと言えば大抵だらだらとテレビを見たりゲームをしたりとなまけているか、眠っているかのどちらかだ。
返事がないことが気になった俺は、部屋に置いてあるベッドに歩み寄る。
布団を捲ってみるが、阿佐美はいない。もう片方のベッドを見てみるが、同様阿佐美の姿はなかった。
出掛けているのだろうか。注意するように言っておいた部屋が開きっぱなしになっていることはあまり感心しなかったが、阿佐美にも阿佐美の用があるのだ。仕方ないだろう。俺は肩にかけていた鞄をベッドの側に下ろし、そのままベッドの上に腰をかけた。
阿佐美と同室になってから暫く経つが、日が経つごとに自分のベッドがどちらかがわからなくなってきている。
阿佐美がベッドに入ってくる度にベッドを移動するので、なんかもう共有しているようなものだった。
それに慣れてしまった俺も相当なのだろう。
段々寝れればどうでもよく感じてしまうのだ。
もう着ているはずもないだろうと、俺は制服を脱ぎ部屋着に着替える。
皆はまだ文化祭の準備に勤しんでいるのだろうか。
考えても仕方ないとわかっているが、やはり気になってしまう。
ソファーに腰を下ろし、リモコン片手にテレビを見ていると不意に玄関の扉が音を立てて開いた。
「あっ、佑樹くん。ただいま」
買い物袋を抱えた阿佐美は、ソファーに座っていた俺を見つけ、頬を緩ませる。
「おかえり」俺は玄関口の阿佐美に目を向け、そう笑い返す。
こんな些細なやり取りまでなんとなくむず痒く感じてしまうのは、やはり俺が慣れていないからなのだろう。
客用のスリッパを脱いだ阿佐美は、そのまま部屋に上がってきた。
阿佐美は自分の勉強机に向かって歩けば、ガサガサと音を立て買い物袋をの上に置く。
買い物袋には何冊かの本が入っていた。内容まではわからなかったが、別にわざわざ聞く必要もないだろう。
俺は阿佐美から視線を逸らし、正面に置かれたテレビに目を向けた。
「佑樹くん、晩御飯済ませた?」
不意に、阿佐美に声をかけられる。
そう言えば、食べていない。阿佐美に聞かれてようやく自分の空腹に気付いた俺は、素直に首を横に振った。
「なら、どっか行こうよ」
俺の返事に、嬉しそうな顔をする阿佐美はそう誘ってくる。
お腹は減っていたが、正直動くのが面倒くさかった。
ソファーの背凭れに寄りかかった俺は、少しだけ考え「わかった」と頷く。
このままだらだら過ごしていても空腹は満たされない。
「皆、購買で済ませてるから食堂ガラガラだった」
ショッピングモールで買い物をしてきたらしい阿佐美は、食堂の様子を思い出しながら言う。
「まあ、皆忙しいからしょうがないよ」言いながら、俺はリモコンを使ってテレビの電源を切った。
ぶつりと小気味いい音がして、画面が黒くなる。
もちろん、皆というのに自分は含まれていない。
「うう、文化祭って面倒くさいね」
そう難しい顔をして唸る阿佐美も、文化祭の準備に参加していない生徒の一人だ。
やらなくてよかった。そんな阿佐美の声が聞こえてきたような気がした。
元々阿佐美が集団行動に向いていない性格をしているのは俺も知っている。
本来なら無理矢理にでも参加させて協調性や集団意識を鍛え直させた方がいいのだろうが、正直俺としては阿佐美が文化祭の準備に参加してなくてよかったと思った。
そんなこと言ったら周りに咎められそうだから口に出さないけれど。
そんな会話を交わしながら、俺はソファーから腰を浮かせた。
と、丁度その時だ。
玄関口の扉が数回叩かれる。
「……」
タイミングがいいのか、悪いのか。
俺は無言で扉に目を向ける。
まるでいい予感がしないのは、恐らく今まで部屋に誰かが訪ねてきてまともにいいことがあった覚えがないからだろうか。
勉強机の側に立っていた阿佐美は扉に近付こうとして、俺はそれを止めた。
「いいよ、俺が出る」
いくら嫌な予感がしようが、扉からは俺の方が近い。
わざわざ阿佐美に手を煩わせる必要はない。そう思った俺は立ち上がり、阿佐美の代わりに玄関口に向かった。
「はい……」
玄関口までやってきた俺は、言いながらゆっくりと扉を開いた。
瞬間、ガッという奇妙な音とともに扉との間にできた僅かな隙間に指が入り込む。
「?!」いきなり扉を掴んできた指に驚いた俺は、思わずそのまま扉を閉めてしまった。
『い……っ』
扉越しに向こう側から悲痛なうめき声が漏れる。
野生の防衛本能だろうか。反射とはいえ相手の指を扉に挟んでしまったことに気付いた俺は、慌てて扉を開いた。
「ご、ごめんなさ……」
扉を大きく開いた俺は、扉の向こう側にいた生徒を見て目を丸くする。
「いや……いいよ、別に謝らなくて。俺も、まさかこんなに驚かせちゃうとは思わなかったし」
扉の前に立った志摩は、赤くなった指を擦りながらそう笑った。
その笑みは、どことなく辛そうに見える。
大きな荷物を手にしていた志摩は、乾いた笑い声を漏らしながらその荷物を扉の側に置いた。
その荷物はなんだとか、なにしに来たんだとか、指は大丈夫かとかいろいろ志摩に聞きたいがあって、内心混乱してしまった俺は志摩の指先と大きな荷物に目を向け、志摩を見上げる。
「ちょっとお願いがあるんだけどさ、部屋に上げてよ。ダメ?」
俺がまた扉を閉めると思ったのだろうか。
志摩は扉に手を置き、閉められないようにする。
優しく問い掛けてくる志摩に、俺は困惑した。
本当なら今すぐ追い払ってやりたかったが、指の件があるせいかついためらってしまう。
「……なんの用?」
不意に、背後から阿佐美の声がした。
どうやらあまりにも時間がかかっている俺が気になったようだ。
阿佐美が出てくることも想定内なのだろう。
志摩は俺の背後に立つ阿佐美を一瞥するだけだった。
「今夜泊めてよ。一晩だけでいいからさ」
志摩はそうニコニコと笑いながらそんなことを言い出す。
泊める?志摩を?
突拍子のないことを言い出す志摩に、俺は呆れたような顔がした。
俺が素直に部屋にあげると思っているのか、こいつは。
流石の俺も、そこまで馬鹿ではない。
先月のことがあってから何週間か経った今でもビクついているというのに、一晩も一緒にいられるか。
そうハッキリと言いたいのに、志摩に色々面倒をかけていることを思い出し、俺は口ごもってしまう。
「なんで?」
反応の鈍い俺の代わりに、阿佐美が志摩に問い掛けた。
志摩は黙り込む俺を一瞥し、「同室のやつと喧嘩しちゃってさ」と笑いながら答える。
きっと先ほどの十勝とのやり取りが原因なのだろう。本気で追い出されたようだ。
一晩という辺り引っ掛かったが、恐らく志摩得意のあれだろう。一晩だけなら、と油断させるというあれだ。
「なら謝ればいいんじゃないの?」
「……そんなに阿佐美は俺を部屋に上げたくないの?」
しれっとした様子で当たり前のように答える阿佐美に、志摩は浮かべた笑みをひきつらせる。
「へえ、阿佐美って困っている人を選り好んじゃう人なんだ」棘を含んだ志摩の言葉に、阿佐美は少しだけ顔を強張らせた。
「それが人にものを頼む態度なの?悪いけど、他当たってよ」
阿佐美はそう言えば、足元に置いてあった荷物を手に取り志摩に返す。
阿佐美がそんなことを言うとは思わなかった俺は、感心したように阿佐美に目を向けた。
その反面、なにも言い返せなかった自分が情けなくなる。
「……わかったよ、俺が悪かった。一晩だけ泊まらせてよ。ベッド貸してくれるだけでいいから」
阿佐美の言葉に、志摩は諦めたように息を吐き、そう言った。
困っていると言う割りにちゃっかりベッドを要求してくる志摩に、俺はある種の尊敬の念を抱く。
「悪いけど……」
「ああ、そうだった」
やっぱり、それはできない。
そう言いかけたとき、志摩はなにかを思い出したのか、強引に人の言葉を遮った。
人がなけなしの勇気を振り絞って話そうとしているのに、なんなんだこいつは。
出鼻を挫かれた俺は、なんだかやるせない気持ちになる。
志摩は阿佐美の手から荷物を受け取り、そこからガサガサとなにかを取り出した。
「これ、お土産ね。二人ともこういうの好きじゃなかったっけ」
荷物の中から買い物袋を取り出した志摩は、そう言いながらそれを阿佐美に手渡す。
渋々それを受け取った阿佐美は、買い物袋の中を覗き込んだ。
気になった俺は、つられるようにして買い物袋を覗き込む。
買い物袋の中には、どこかで見たことあるような美味しそうな洋菓子が入っていた。
阿佐美の方からゴクリと固唾を飲むような音が聞こえる。
やばい、阿佐美が喜んでいる。
「まだまだあるからさ、好きなだけ食べてもいいよ。ここじゃなんだし、部屋で食べようよ」
言いながら、志摩はそう笑った。もしかしてその荷物すべて菓子類だとでも言うのだろうか。
阿佐美を買収しようとする志摩に、思わず俺は背筋を凍らせる。
「いや、だって悪いよ。……こんなに沢山」
「別に、泊まらせるわけじゃないのに」焦った俺はそう言いながら、然り気無く阿佐美から買い物袋を取り上げた。
「あっ……」と名残惜しそうな阿佐美の声が聞こえ、良心が痛んだがここで引いては志摩の思い通りになってしまう。
「俺は齋籐に喜んでもらえたら、それだけで十分だよ」
買い物袋を志摩に返そうとするが、志摩はそう言って受け取ってはくれなかった。
それが本心なのかどうかはわからず、思わず俺は言葉に詰まってしまう。
「それに、俺は一度人にあげたものは受け取らない主義なんだよね」
言いながら、志摩は荷物の中から洋菓子を取り出し、わざとらしく阿佐美にちらつかせる。
間違いない。志摩は阿佐美から落とすつもりだ。
「……あ、でも、部屋にあげてくれなきゃ運べないな……」白々しい顔をしてそんなことをぼそりと呟く志摩に、俺は内心冷や汗を滲ませる。
「そ、それなら……」
「でもこんなに沢山のお菓子、体壊すんじゃないの?」
部屋にあがってもいい、と言おうとしたのだろう。
俺は阿佐美の言葉を無理矢理遮り、そう志摩に目を向けた。目が合い、志摩は笑う。
「別に一晩で食べろというわけじゃないよ。二人で食べきれないなら俺も手伝うし」
間違いなく嘘だろう。いつの日か、志摩は甘いものが嫌いだと言っていた。
そんな志摩が自ら進んで嫌いなものを食べると言う。
相変わらず口だけは上手いと思った。
「……どうしても駄目かな。なるべく無理強いはしたくないし、そんなに齋籐が嫌っていうなら俺も諦めるよ」
ここまで粘って賄賂も用意してきたやつがいう台詞にしてはあまりにも薄っぺらい。
でも、チャンスだ。
「じゃあそういうことで」と俺が言えば志摩は嫌々諦めることになる。
「じゃあ……」
「一晩だけならいいよ」
不意に、阿佐美と声が被った。
見事に菓子につられた阿佐美は、そんなことを言い出す。
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