天国か地獄


 09

 教室前廊下。
 ここでも構わないという志摩に、俺は内心ほっと胸を撫で下ろす。
 授業が終わった後だからだろうか。
 教室を出入りする生徒が多くなり、周りはいつもと変わらぬ賑やかな雰囲気に包まれる。
 一つ、いつもと違うという点を上げるなら俺に向けられる視線の多さ。
 恐らく教室を出ていくとき、阿賀松が妙なことを口にしたせいだろう。
 正直、人目に晒されるのが好きじゃない俺にとってこの状況は気持ちのいいものじゃなかったが、その視線は俺にとって想定内のものだった。

「大丈夫?なんか顔色悪いけど」

 目の前に立つ志摩は、心配そうな顔をする。
 どうやら気付かないうちに顔に出ていたようだ。
「大丈夫だから」俺は小さくかぶりを振り、目の前の志摩に集中することにする。

「話って、なに?」

 こんなに人目がある場所で志摩が妙なことは言わないと思っているが、そう言い切れる自信はない。
 なるべく志摩を刺激させないよう、俺は志摩を急かすように問いかける。
「せっかちだなあ、齋籐は」志摩はそう笑みを浮かべれば、気を取り直したように目を俺に向けた。

「齋籐って、阿賀松のこと好きなの?」
「……は?」

 志摩がなに言ってもちゃんと受け答えができるように構えていた俺だったが、あまりにも今更なことを聞いてくる志摩に思わず俺は呆れたような顔をする。
 いや、今更というわけではないかもしれない。
 つい先ほどあんなことがあったばかりだ、気になるのも無理ないだろう。
 でも、俺にとっては今更な質問だった。
 ずっと阿賀松とは付き合っていないと公言しているからだろうか。
 志摩の質問に、俺はなんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。

「そんなわけ、ないだろ」

 いいながら、とっさに俺は周りに視線を向けた。
 阿賀松の息がかかった生徒が近くにいないか気になったからだ。
 見ただけでどうこうわかるわけではなかったが、幸い近くにはあの忌々しいピンクの頭もゲームセンターにいたような柄の悪い生徒もいない。
 念のため声を潜める俺に、志摩は「そう」と小さく頷いただけだった。
 敢えて、この場にいる息のかかってそうな人間を上げるなら、俺か目の前のこの男だろう。
 でも、志摩と阿賀松は知り合いのようだがとても仲がいいようには思えない。
 半ば疑心暗鬼になりながら、俺は目の前の志摩から目を逸らした。

「話って、それだけ?」

 あまりにもあっさりとした志摩の反応を意外に感じながら、俺はそう切り出した。
 露骨な態度の俺に、志摩は特に気にするわけでもなく「違うよ」と小さく首を横に振る。

「齋籐は、阿賀松と一緒にいたいの?」

 やけに、阿賀松とのことを聞きたがる志摩に、俺は不審がって目を細めた。
 そのまま『嫌いな阿賀松と一緒にいて楽しいか』という意味にとれるが、『もし阿賀松がいなくなるなら』と前置きがあったら大きく意味が変わってくる。

「どういう意味?」

 あまりにも意味深な志摩の言葉に、俺は変に邪推した。
 志摩は、目を細め口許を緩めれば「そのままの意味だよ」と微笑む。
 意味がわからなかった。
 というより、質問の意図がわからなくて、俺は顔を強張らせる。

「そんなこと聞いて、どうするんだよ」

 そう不審がる俺に、志摩は驚いたように笑ってみせた。

「ただの好奇心だよ。意味なんかない」

「本当だよ?」顔を強張らせる俺に、志摩はそう優しい声音で続ける。
 現時点で志摩の真意はわからなかったが、それ以上疑っても仕方ないと悟った俺は諦めたように重い口を開こうとした。
 そのとき、いきなり背後から伸びてきた手に肩を掴まれ無理矢理志摩から離れさせられる。

「ほら、ちゃんと持ってきたよ」

 教室入室許可証らしき紙切れを手にした阿佐美は、言いながらそれを志摩に突き出した。
 もしかして走って行ってきたのだろうか。阿佐美の荒い息が頭部にかかり、俺は驚いたように振り返る。

「……いつもこのくらいの早さで行動してくれると有り難いんだけどね」

 志摩も志摩でこんなに早く阿佐美が戻ってくるとは思ってなかったようだ。
 笑みを浮かべた頬を引きつらせながら、志摩は阿佐美から許可証を受け取る。
 息絶え絶えな阿佐美の耳に、もはや志摩の嫌味も届いてないようだ。
「足痛いい……」ぐったりとした阿佐美は、言いながら俺の背中にもたれ掛かってくる。

「重い、重いって詩織」

 あれ、前にもこんなことがあったような気がする。
 背中にのし掛かられた俺は、ぐっだりとした阿佐美を支えながら慌てて下ろそうとした。

「体力ないくせに見栄はるからそうなるんだよ」

 呆れたような顔をする志摩は、言いながら阿佐美の腕を掴み強引に俺の上から剥がす。
 どうやら、阿佐美に言っているようだ。
 ある意味肩の重荷が降りた俺は、変に曲がった腰を伸ばす。

「……ありがとう」

 どうやら志摩に助けてもらったようだ。
 俺は少し語尾を濁らせながら、そう志摩に言った。

「それは後ででいいから齋籐も手伝ってよ」

 なんかもういまにも床に崩れ落ちそうな阿佐美の腕を引っ張る志摩は、そう俺に目を向ける。
 志摩に促され、慌てて阿佐美の腕を掴み体を起こさせた俺。

「ごめんねー……佑樹くん」

 喉から絞り出したような阿佐美の言葉に、志摩は「俺は?」と若干キレながら阿佐美の腕を離す。
 どうやら、阿佐美に体力がないというのは本当のようだ。
「よいしょ」阿佐美から手を離した俺は、阿佐美に目を向ける。
 体力がないから引き込もってるのだろうか。
 それとも引き込もっているから体力がないのだろうか。
 どちらにせよ、あまり代わりはないだろう。
 体力がないのになんでそんなに急いで取りにいったのだろうか。
 阿佐美がなにを思っているのかはわからなかったが、あのタイミングで阿佐美が戻ってきたのは素直に助かった。

「ほら、お前らさっさと教室にはいれー」

 不意に、廊下の奥からやってきた担任は言いながら教室の中に入っていく。
 その大きな声に驚いていると、不意に廊下に取り付けられたスピーカーから予鈴が鳴り響いた。
 もうそんな時間か。
 散り散りとなって各教室に戻っていく生徒たちに混じって、俺は阿佐美たちと別れそのまま教室に入っていく。別れるといっても、同じクラスなのでまたすぐに顔を合わせることになるのだが。

 教室に入り、またいつも通りチャイムを合図に授業が始まる。
 最初は向けられるクラスメートの視線が気になったが、時間が経つにつれそれも気にならなくなった。
 なるほど、これが慣れというやつか。
 そんなこんなで時間だけはしっかりと経っていき、帰りのHRが終わり放課後になる。

 賑わい始める教室の中、俺が帰宅の準備をしていると不意に廊下の方から凄い物音がした。
 それは壁になにかがぶつかったような、形容しがたいものだった。
 何事かと、教室内にいた生徒全員は驚いたような顔をして廊下の方に目を向ける。
 俺も例外ではなく、他の生徒に混ざって廊下の方に目を向けた。

『君、なにしてるんだ!』
『うるせえ!齋籐を出しやがれ!齋籐佑樹だ!!今すぐ俺の前に連れてこい!!!』

 宥めるような隣のクラスの担任の声に続いて聞こえたのは、聞き覚えのある怒声だった。
 もしかしなくても、櫻田だ。
 名前を叫ばれた俺に、『またお前か』と言いたげなクラスメートたちの目が向けられる。
 なんで俺が櫻田に呼び出されてるんだと呆れたが、今朝のことを思い出した俺はみるみるうちに青ざめた。
 いや、でももし櫻田が今朝のことを根に持っているとしても、放課後まで待つ必要があるのだろうか。
 内心ビクビクと震える俺は、混乱した脳みそでそんなお門違いなことを考え出す。

「なに、どうしたの」
「なんか一年が暴れてるって」
「いや、生徒会親衛隊のやつだろあれ。俺みたことあるもん」
「また齋籐かよ」

 教室の扉から廊下を覗いている野次馬たちは、そんなことを口々にして、ちらりと教室の隅の席に座っている俺に目を向けた。
 不意に一人のクラスメートと目が合う。
 クラスメートたちは慌てて顔を逸らし、今度は声を潜めて会話を始めた。
 そんなクラスメートの様子に内心酷く傷付きながらも、俺はこれからどうしようかと顔を青くする。

「齋籐」

 隣の席の志摩は、なにか言いたそうな顔をしてこちらに目を向けた。
 行かなくてもいい、そう言いたいのだろうか。
 俺はどうすればいいのかわからず自分の席の前で固まっていた。
 いまの櫻田の前に出ても色々悪化するだけだ。
 そうはわかっているが、周りに迷惑をかけている今、櫻田の気を済ませた方がいいのかもしれない。

『離せって言ってんだろうが、このハゲ!!!』

 俺は隣のクラスの担任の頭皮を思い出しながら、廊下に目を向ける。
 どうやら先ほどよりも騒ぎは大きくなっているようだ。
 硝子が砕けるような鋭い音が聞こえ、周りのざわつきも増す。
 数人の教師が廊下を歩いていくのが見えた。
 隣のクラスの担任一人じゃ手に負えないと判断し、他の教師を呼んだらしい。正しい判断だ。

 暫く、廊下の方から(主に櫻田の口から)酷い罵詈雑言が飛び交っていた。
 数分後。
 数人の教師に捕まえられた櫻田がずるずると廊下を引き摺られ指導室に連れていかれていた。
 騒ぎの原因となった櫻田がいなくなった後も廊下の方は酷く騒がしく、数人の生徒がうちの教室の中を覗いてくる。
 野次馬は窓際の席に座っている俺を見つければ、なにかを話ながらそのまま教室から離れた。

「佑樹くん……今のって」

 教師に引き摺られる櫻田の姿を見た阿佐美は、心配そうな顔をしながら俺の席に近付いてきた。
 そのとき、

「失礼します」

 淡々とした声と同時に開いた扉から、見覚えのある生徒が教室に入ってくる。
 あれほど騒がしかった教室が、本日二度目の訪問者に水を打ったように静まり返った。
 生徒会会計は、そう頭を下げればそのまま教室の中に入ってくる。
 顔見知りの寡黙な同級生の登場に、もしかしたらと思ったが、その俺の予想はどうやら当たったようだ。
 志摩と阿佐美に囲まれた俺の席までやってきた灘は、静かに俺に目を向ける。

「申し訳ありませんが、一緒に来ていただけないでしょうか」

 相変わらず無表情な灘は、そう俺を見詰めながら静かに続けた。

「え?」

 灘の言葉に、俺は目を丸くする。
 いきなりの誘いに驚き、反応に困った。

「齋籐になにか用なの?」

 混乱している俺の代わりに、志摩はそう灘に問い掛ける。
 灘は志摩を一瞥すれば、「それは向こうで説明します」とどこか義務的な言葉を志摩に返した。
 志摩がそんな言葉に納得するように見えなかったが、これ以上灘に言っても無駄だと悟ったのだろう。

「だってよ、齋籐」

 諦めたように溜め息をついた志摩は、いいながら俺に目を向けた。
 灘の言葉が少ないのは不安だったが、ここで渋っても仕方ない。
 俺は「わかった」と小さく頷けば、そのまま席を立った。
 もしかしたら先ほどの櫻田の暴走となにか関係あるのだろうか。不思議と、いい予感がしない。

「……佑樹くん」

 心配そうに俺の名前を呼ぶ阿佐美に、俺はどんな反応をすればいいのかわからず「先に部屋に戻っててね」と小さく呟いた。
 灘は、俺を一瞥すればそのまま廊下へと繋がる扉へ向かって歩き出す。
 俺は遅れないよう、慌てて灘の後をついていった。
 突き刺さる視線が昼間、阿賀松に連れられたときよりも強く感じたのは恐らく先ほどの櫻田の声に反応して見に来た野次馬が多いからだろう。
 妙に落ち着かず、視線を泳がせながら俺は灘について教室を後にした。

 教室を出て、廊下に出れば足元には硝子の破片が散らばっていた。
 ギョッとして隣の教室前に目を向ければ、背凭れの部分が破損した椅子や廊下の窓数枚が割れていたりとなかなかの地獄絵図が広がっている。
 幸い、割れた窓の外にはなにもなかった。
 後片付けを任されていた数人の教師は、床の上に出来た赤い水滴を雑巾で拭っている。
 思ってたより、廊下の外は恐ろしいことになっていたようだ。
 廊下に落ちた血の滴は恐らく櫻田のものだろう。

「齋籐さん」

 不意に立ち止まって廊下を見ていると、不意に灘に声をかけられる。
「あ、ああ……ごめん」慌てて俺は先を歩く灘の後をついて、教室前廊下を歩いていった。

 場所は変わって生徒会室前。
 終始無言の灘につれてこられた場所は、今となっては見慣れた生徒会室の扉の前だった。

「灘です。齋籐さん連れてきました」

 数回扉を叩いた灘は、扉の向こうからの返事を待たずにドアノブに手をかける。
 ガチャリと静かな音を立て、生徒会室の扉は開かれた。

「早かったな」

 生徒会室のソファーに腰を下ろしていた芳川会長は、いいながら立ち上がる。
 生徒会室には、見慣れた生徒会役員と見慣れない一人の生徒がいた。
 もしかしてまた十勝が頼みすぎた食事を処理するために呼ばれたのだろうかと身構えてみるが、どうやらそんな雰囲気ではない。

「入れ」

 そう静かに続ける芳川会長の言葉に、灘は扉を大きく開き、俺を先に入るよう促した。
 どこかピリピリとした空気の中、俺は「失礼します」と小声で呟けば恐る恐る生徒会室の中に足を踏み入れる。

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