天国か地獄


 08

 理事長室を出て、俺は静かに扉を閉めた。
 廊下に阿賀松と仁科の姿はない。
 やりたいことだけやって後は放置か。
 あまりにも自分勝手すぎる阿賀松に内心怒りを覚えたが、もしこの場で阿賀松が俺を待っていたとしてもただの恐怖でしかないだろう。
 なんとなく微妙な気持ちになりながら、とにかく俺は一番近くにある便所を探した。
 鏡もあって一般生徒がいても問題がない場所と言われたら、俺には便所しか思い付かない。
 この時間帯なら恐らくまだ授業の真っ最中だろう。
 運が良ければ、他の生徒もいないはずだ。
 生徒会室の前を通り過ぎ、俺は下の階へと続く階段を降りていく。

 でも、もしかしたら俺は運がよかったのかもしれない。
 思いながら、俺は長い階段を一段ずつ踏み外さないように踏み締め、降りていく。
 教室までやってきたときの阿賀松の様子を思い出してみると、正直な話、自分の感情よりも人の体調を気遣うようには見えなかった。
 まあ、殴られなかっただけましなんだろうけれど。
 どちらにせよ酷い目にはあったが、なんとなく阿賀松の態度が引っ掛かる。

 そこまで考えて、ようやく踊り場についた俺は思考を中断させた。
 もういいや、考えるのはやめよう。
 これ以上阿賀松のことを考えたところで、なにも良いことはない。
 気を取り直して本日の昼食のことを考えながら、俺は再び足を進めた。

 階段を降り、二年の教室前廊下まで戻ってきた俺はそのまま教室に入るわけでもなく、その側にある男子便所に入った。
 個室の何も鏡があればいいのに。
 なんてくだらないことを思いながら、俺は洗面台に取り付けられた鏡の前に立った。
 さっさとやってさっさと戻ろう。
 いや、授業が終わったときに戻った方がこの場合自然なんじゃなかろうか。
 でも一時間近く席を空かせるとかちょっとアレじゃないのか、誤解されるというか。
 ていうか別に誤解というより事実なのだけれどそれはそれで俺の学園生活に支障が出る。
 制服から先ほどの絆創膏の箱を取り出しながら、俺は悶々と考え込んでいた。
 自意識過剰になりすぎているのかもしれない。
 教室に阿賀松がやってきたとき、変に注目を浴びてしまったからだろうか。
 自分の神経がやけに過敏になっている。
 箱の中から絆創膏を取り出し、鏡の中の自分に目を向けた。
 うわ、絶対これ目立つって。
 生々しいを通り過ぎて一種のえげつなさを感じさせる自分の首元からさっと視線を逸らす。
 これを芳川会長に見られたと思えば、なんだかもう生きた心地がしなかった。
 とにかく、早く済ませよう。
 もたもたしながら俺は手にした絆創膏を首の痕の上に貼り付けた。
 指先が震えて、思ったように綺麗に貼れない。
 もしかして自分の首に精神的なダメージを受けているのかもしれないと冷静に分析してみるものの、どうやら上手く貼れない原因は単に俺が不器用なだけのようだ。

 ようやくして、目に見える範囲のキスマークを隠し終えた俺は安堵の胸を撫で下ろした。
 途中たまたま入ってきた同級生と遭遇することもなく、無事ことを終えた俺は空になった絆創膏の箱を手に取る。
 相変わらず呼吸器が息苦しくなるが、なにもしないで他の人間の前に出たときの息苦しさを考えれば屁でもない。
 便所の隅に置いてあるゴミ箱の中に絆創膏を投げ入れ、そのまま俺は便所を後にした。
 本当、芳川会長には感謝してもしきれない。
 もしかして、俺が絆創膏を剥がされることを予想していたりして。
 冗談混じりにそんなことを考えてしまった俺は、思わず顔をひきつらせた。
 あり得ない話ではない。
 一瞬疑心暗鬼に捕らわれそうになり、慌てて俺は思考を振り切った。
 いくらなんでも、それは芳川会長に失礼すぎるだろ。
 笑えない冗談を思い付いてしまった自分を責めながら、俺は特に考えもなく教室に向かって歩き出した。
 そのとき、不意に背後からバタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。

「ゆ、佑樹君……っ!」

 名前を呼ばれ、何事かと驚いた俺はそのまま振り返ろうとして飛び込んできた人影と衝突した。

「ああっ、ご、ごめん、ごめんね。大丈夫?」

 バランスを崩し廊下に尻餅をつく俺に、人影……もとい阿佐美はあわあわとしながら慌てて俺の腕を掴み立ち上がらせる。

「大丈夫、だけど……どうしたの?そんな慌てて……」

 阿佐美に立たされた俺は、じんじんと鈍く痛む腰を擦りながら目の前の男に目を向けた。
 いつも以上に寝癖のついた髪と着崩れした制服姿の阿佐美。
 遅刻の原因が寝過ごしたのというのだけはよくわかった。

「あ、そうだった。佑樹君、あっちゃんに会わなかった?」
「あっちゃん?」

 阿佐美は俺の肩をガシリと強く掴み、そんなことを聞いてくる。
 聞き慣れない名前に俺は少しだけ考え込み、それが阿賀松のことだと思い出すと「まあ、会ったけど……」と正直に話した。

「え……そうなの?なんか変なことされなかった?痛いことされなかった?」

 よほど焦っているのか、矢継ぎ早に問いかけてくる阿佐美に、俺はびっくりして慌てて阿佐美の腕を離す。
「されてない、されてないから少し落ち着けって」変なことなら会う度されていると正直に言ったらとうとう阿佐美がおかしくなりそうで、敢えて俺は嘘をつくことにした。
 というかなんでそんなこと聞いてくるんだ。
 セクハラ染みた阿佐美の詰問に、思わず俺は顔を強張らせる。

「ごっ……ごめん……俺……」

 俺の声に反応して、阿佐美はようやく落ち着きを取り戻した。
 阿佐美は俺の肩から手を離し、みるみるに項垂れていく。
 俺がいない間になにかあったとでもいうのだろうか。
 尋常ではない阿佐美の様子に、俺まで焦ってしまう。

「……で、どうしたの?」

 落ち着いた阿佐美に、俺は再び先ほどと同じ質問を投げ掛ける。
 阿佐美はこちらに顔を向け、少し迷ったように口をもごつかせた。

「あっちゃん、怒ってなかった?」

 そう直球で聞いてくる阿佐美に、俺は先ほどまでの阿賀松の様子を思い出す。
「まあ……怒ってたかもしれない」後半は笑っていたけど。
 曖昧に頷く俺に、阿佐美の顔が少しだけ強張った。

「なにもされなかった?」
「いや、別に……」

 もちろん嘘だ。
 よっぽど心配なのか、阿佐美は何度も聞いてくる。
 やがて、何度聞いても曖昧な返事をする俺に諦めたのか、阿佐美は「そっか」と呟いた。
 どうやら俺の返事に納得できたわけではないらしい。

「それで、阿賀松……先輩がどうかしたの?」

 呼び捨てしそうになり、慌てて敬称を付け足す俺。
 こんなに阿賀松とのことを聞こうとするにはなにかしら理由があるのだろう。
 俺の問い掛けに阿佐美は暫く黙り込んでいたが、やがて重い口を開いた。

「いや……、ちょっと、気になっただけ……ごめんね。変なこと聞いちゃって」

 ちょっとどころではなかったような気がするが、敢えて俺はなにも言わないことにする。
 阿佐美が慌てるくらい阿賀松が怒っていたのだろうか。
 だとしたら、やはり先ほどまでの阿賀松の態度は不自然だ。
 仁科を呼び出したとき、阿賀松はあまり怒っているように思えなかった。
 考えれば考えるほど理解しがたい阿賀松という人間に、俺は少しだけ考え込む。
 もしかして俺はなにか思い違いをしているんじゃないだろうか。

「……佑樹くん?」

 押し黙る俺を不審がる阿佐美は、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」思考を中断させた俺は、目の前の阿佐美に少し動揺しながら聞き返した。

「そっ、それ……どうしたの……?」

 ふと、俺の首に目を向けた阿佐美はみるみるうちに顔を青くさせる。
 プルプルと震える指先で首元を指され、自分の首がどうなっているか把握している俺は紛らすように乾いた笑みを浮かべた。

「また、誰かになんかさせられたの?病院……病院行かなきゃっ」

 俺の肩を掴んだ阿佐美は、青い顔をしてそんなことを言い出す。
『また』というのは一ヶ月前のことを指しているのだろう。
「大丈夫、大丈夫だって」動揺する阿佐美を必死に宥めながら俺は、「怪我じゃないから」と続けた。

「怪我じゃ……ないの……?」

 その言葉を聞いた阿佐美はぴたりと動きを止める。
 意表を突かれたように大人しくなる阿佐美に、ふと俺は自分の失言に青ざめた。

「え、じゃあ……あれ……やっぱりあっちゃんに……」

 阿佐美も阿佐美で相当混乱しているようだ。
 恐る恐る口を開く阿佐美に対して、俺はなんだかもう生きた心地がしなかった。

「違う、詩織、違う。先輩じゃないから」

 慌てて否定するが、気付かないうちに俺は自ら墓穴を掘り進んでいた。
「……あっちゃんじゃないの?」俺の発言に益々阿佐美は顔を青くする。

「あっちゃんじゃない人としたの……?」

 声を上擦らせながら震えた声で聞いてくる阿佐美に、俺はしまったと顔を強張らせた。
 口を開く度に自分で自分の顔に泥をぶち撒けてしまい、学習した俺は固く口を紡ぐ。

「佑樹くん……あっちゃんと付き合ってるんじゃなかったの?」

 泣きそうな声で問いかけられ、俺はどっと冷や汗を滲ませた。
 なによりも阿佐美の耳にも阿賀松とのことが届いていたという事実に驚く。
 いままでなにも言ってこなかったのでてっきり知らないものかと思っていたが、よく考えてみれば阿佐美と阿賀松は顔見知りだった。最悪、阿賀松本人から聞いたのかもしれない。

「違う、全部誤解だから。……だから、その、これも、ほら……どっかに引っ掻けてできたアレなんだ」

 阿佐美から視線を逸らしながらしどろもどろと謎の言い訳をする俺に、阿佐美は訳がわからないといった顔をする。
 無理もない。俺だって意味がわからないのだから。

「とっ……とにかく、俺は大丈夫だから」

「だから、気にしないでいいから」なにを言えばいいのかわからず、俺は阿佐美がなにか言い出す前にそう釘を刺しておいた。
 もちろん、阿佐美は納得できないといった顔で俺の方に目を向ける。

「そんなの……」

 阿佐美が重々しく口を開いたとき、廊下に取り付けられたスピーカーから煩いチャイムが鳴り響いた。
 なんといいタイミングなのだろうか。
 各教室から号令の声が聞こえてくる。
 対する阿佐美は、自分の言葉を遮られ不満そうな顔をして口を閉じた。
 釘を刺された分、俺がなにを言っても同じことしか答えないとわかったのだろう。
 不意に、目の前の教室の扉が開いた。どの生徒よりもいち早く教室から出てきたのは、志摩だった。

「……」
「……」
「……」

 廊下で揉めている俺と阿佐美を目の当たりにした志摩は少しだけ驚いたような顔をして、「おかえり」と俺に笑いかけてくる。
 阿賀松とのことがあっただけに、なんだか顔が合わせ辛い。
「あ、あぁ……」歯切れの悪い態度の俺に、阿佐美は志摩の方に顔を向けた。

「随分と遅かったけど、どうしたの?先生も心配してたよ?」

 笑いながら気軽に聞いてくる志摩に、俺はなにも言えなくなる。

「阿佐美、教室入室許可証は?ないなら職員室に取りにいきなよ」

 俺から視線を逸らした志摩は、そう言いながら阿佐美の方に目を向ける。
 聞き慣れない単語に、阿佐美は少し不審そうな顔をした。
 いままで阿佐美が遅刻してきてもそんなことを言ったことは一度もなかったのに。
 遠回しにいなくなれと言われているのに気が付いたのだろう。
 阿佐美は少しだけ顔をしかめれば、そのまま廊下を戻っていった。

「たまには、委員長らしいことしないといけないもんね」

 阿佐美の後ろ姿を眺める俺に、志摩はそう笑う。
 その言葉の意味がわからず、俺は無言で志摩に目を向けた。

「話したいことがあるんだけど、いいかな」

 いつの日かと同じ誘い文句。
 その顔に浮かべる笑みは普段と変わりないもので、俺はつられて頷きそうになるのを慌ててとめる。
 これじゃあ、またこの間の二の舞になるんじゃないか。
 あのときは未遂で終わったが、妙にトラウマが植え付けられたせいか俺は志摩の誘いに乗ることができなかった。

「ここじゃ、話せないのか」

 二人きりになりたくもないし話もしたくないと言えるわけがない俺は、そういくらかオブラートに包んで俺は志摩に問いかける。
 俺の反応も予想内だったのだろうか。
 志摩は大して反応するわけでもなく、「構わないよ」と笑う。

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