天国か地獄


 06※

 引き摺られるようにして阿賀松に連れていかれたそこは、俺にとって目新しい場所ではなかった。
 矢追ヶ丘学園、最上階。
 階段を上がった先にある廊下には見覚えのある扉があった。
 木製の扉の側には『生徒会室』と彫られたプレートが掛かってある。
 生徒会と阿賀松という組み合わせに一瞬背筋を凍らせた俺だったが、阿賀松は生徒会室の扉の前をなにもないかのように通りすぎていった。
 どうやら阿賀松の目的は生徒会室ではなかったようだ。
 安心する反面、ますます不安が募っていく。
 生徒会室の扉にちらりと目を向け、俺は阿賀松に引っ張られるようにして前を通りすぎた。
 生徒会室に誰かいないのだろうか。
 阿賀松を追い払ってくれるような誰かが。
 どこまでも他力本願なことを思いながら、俺は阿賀松の後ろ姿を盗み見る。
 タイミングを見計らったかのように、天井のスピーカーから授業開始のチャイムが鳴り響いた。
 なんだかやけに時間が経つのが遅く感じて、『やっと授業が始まったのか』と俺はチャイムを聞き流す。
 志摩に五分前行動をするだとか言っていた阿賀松は最初から実行する気はサラサラなかったようで、流れるチャイムも全く気に止めた様子がない。
 そんなことだろうとは思っていたが、結果的にサボりになってしまった俺からしてみれば「責任を取れ」と責めたいところだが相手が相手なので大人しく口を閉じる。

 生徒会室の前を通りすぎた阿賀松は、離れた場所に取り付けられた扉の前で足を止めた。
 扉の横に掛けられたプレートには、『理事長室』と彫られたプレートがぶら下がっている。
 理事長室って……。
 なんで自分がここに連れて来られているのかがわからなくて、俺は阿賀松の顔と扉を交互に目をやる。
 阿賀松は扉に取り付けられたドアノブを捻り、鍵が掛かっているのを確かめれば制服からなにかを取り出した。
 いつの日かのカードキーだ。
 阿賀松は俺に目もくれず、そのカードキーを使って理事長室の扉を開錠する。
 そのまま扉を開いた阿賀松は、俺の腕を強く引っ張り部屋の中へ押し込めた。

「うわ……っ」

 強引すぎる阿賀松の動作によろけた俺は、咄嗟に阿賀松の腕を掴み体勢を持ち直す。
 そこで自分が支えにしたものに気が付いた俺は、慌てて「ごめんなさい」と謝りながら手を離した。
 阿賀松はなにも言わない。
 その沈黙がまた薄気味悪く、俺は然り気無く阿賀松から離れた。
 理事長室の扉を閉めた阿賀松は、内側から扉に鍵を掛ける。
 静かな室内に、ガチャリと鈍い金属音が響いた。
 結構な広さがあるそこは応接間のように客用の机とソファーが並んでいて、その奥には理事長のものらしきしっかりとした事務机と妙な高級感が漂う椅子が置かれていた。
 正面の壁には面積の広い窓枠が取り付けられていて、そこから校門や校庭が見渡せるようになっている。
 肝心の部屋の主の姿は見当たらない。
 見慣れない理事長室内に阿賀松と二人きりなんて、素晴らしいくらい最悪の状況だ。

「どうした?好きに寛いでいいんだぜ」

 阿賀松は言いながら理事長室の奥にある事務机へと歩いていく。
 まるで自分の私物のように気軽にそんなことを言ってくる阿賀松に、俺はどうすればいいのかわからずその場に立ち往生した。
 勝手に入っていいのか。理事長が帰って来たらどうするんだ。怒られたらどうするんだ。
 言いたいことがありすぎて、なにから言えばいいのかわからない。
 扉の前に棒立ちになって呆れ果てる俺をよそに、阿賀松は事務机の椅子に腰をかける。
 赤黒い悪趣味な色をした大きな椅子は妙に阿賀松に似合っていた。

「そんなところに突っ立ってねえでこっちに来いよ」

 キィとパイプを軋ませ、阿賀松は椅子に座ったままこちらに目を向けた。
 どうせ俺が動かなくても無理矢理引っ張るつもりだろう。
 俺は少しだけ迷って、言われた通りに阿賀松のいる事務机に立つ。
 なんでだろうか。こうしているの上司に怒られている部下のような気分になってくる。
 そんなことを思いながらおずおずと阿賀松の方に目を向けた。

「そこ?そこがいいの?」

 俺が机の前に立ったのが意外だったらしい。阿賀松は少しだけ驚いたような顔をして、やがて無言の俺から答えを察したのだろう。
 つまらなさそうな顔をして、微妙な顔をしてみせる。

「なんかさあこうやってると気持ちいいんだよな。ここからだとしょぼくれたユウキ君の顔がよく見えるし」

 どこまでも軽薄な阿賀松の言葉に、思わず俺は目の前の男から顔を反らした。
 俺、そんな顔してたのか。段々情けなくなってきて、俺は頑張って顔を引き締める。ちゃんと表に効果が出ているかどうかはわからない。

「なあ、なんか喋れよ」

 黙り込む俺が面白くないのか、阿賀松は机の上で頬杖を付きながら俺を上目にそんなことを言い出す。
 頬杖というよりも、机を顎に置き曲げた肘に頬を当てているだけにも見える。
 あまりにも脱力感漂う阿賀松を前に、俺は視線を泳がせ慌てて話題を探そうとした。

「……あの……その……勝手に入って大丈夫なんですか」

 俺はこちらをガン見してくる阿賀松から視線を反らしたまま、そう問い掛ける。妙に喉が乾いて声が上擦った。恥ずかしい。

「……」

 そんなことを聞かれるとは思ってもなかったのか、阿賀松は少しだけ呆れた顔をした。
 次の瞬間には眉を寄せ、苛ついたように顔をしかめる。

「ユウキ君が苛められてた理由が今わかった。お前ってアレだろ、馬鹿だろ」

 上半身を起き上がらせた阿賀松は、背凭れに背中を預けた。
 溜め息混じりのその言葉に、俺はなにも言えなくなる。
 俺がなにか変なことを言ったのだろうか。
 言われた通りにしたつもりだが、阿賀松がなにを気に入らなかったのかまるでわからない。

「じいさんは滅多にここ使わないからいいんだよ。だから、俺の」

「羨ましいだろ」なんて都合のいい自己解釈を口走る阿賀松に、俺は「そうなんですか」と当たり障りのない返事をした。
 阿賀松の話を聞いて、いつの日かに生徒会から聞いた阿賀松のことを思い出す。
 そう言えば、阿賀松はここの理事長の孫なんだっけ。
 阿賀松が『じいさん』と呼ぶ辺りそれは本当のようだ。
 目の前の男にあんな人良さそうな理事長の血が流れているとは到底信じられない。

「お前、本当考えてること顔に出るよな」

 仏頂面の阿賀松の言葉に、慌てて俺は顔を引き締めた。
 暫く妙な沈黙が走った。
 一向に口を開かない俺に焦れたのか、阿賀松は口を開く。

「……ユウキ君さあ、この距離話しにくいからもっとこっちに来てくんない?」

 そう言いながら阿賀松は俺を手招きした。
 正直な話、間を置いて向かい合う今の状況でも辛く感じる俺にとってその提案は恐ろしいもので、すぐに『はい』とは言えなかった。
「ユウキ君」名前を呼ばれる。少しだけビクリと肩を跳ねさせ、いてもたってもいられなくなった俺は椅子に腰をかけた阿賀松の元に近付いた。

「……あの」

 椅子に座る阿賀松の隣までやってきた俺は、阿賀松を見下ろすような形で声をかける。
 いつも見下されている相手を見下ろしているというのに、なんでこんなに不安要素が拭えないのだろうか。
 現実逃避するようにそんなくことを考えていると、阿賀松はキィキィとパイプを軋ませながら椅子ごとこちらを向かせる。

「……その……」

 なにも言わない阿賀松に対し、どうすればいいのかわからなくなった俺はおもむろに視線を反らした。
 そのとき、不意に伸びてきた阿賀松の手に腕を強く掴まれ、そのまま俺はバランスを崩し前屈みになる。
「ちょ……まっ、うわっ」慌てて机を掴みバランスを取り直そうとするが、強い力で掴む阿賀松はそれさえも許さないとでもいうかのように俺の体を自分の元に寄せた。

「あーこの距離。この距離がいいんだよな、やっぱり」

 無理やり人を自分の膝の上に座らせる阿賀松は譫言のようにそんなことを言いながら、俺の腰に腕を回し抱きすくめる。
 全身の血が引き抜かれているような寒気がし、俺は目を丸くしたまま顔を青ざめさせた。
 なんだこの体勢は。慌てて俺は阿賀松の上から降りようとするが、邪魔するように伸びてきた阿賀松の手が俺の首根っこを抑える。
 喉元が締められ、息苦しくなった俺は慌てて身を引いた。

「良いだろ、この椅子。一人用の癖に広いから、こーいうことにも使えるんだよ」

「便利だろ?」耳元で下品に笑う阿賀松は、言いながら俺の顎を掴み無理やり顔を上げさせる。
 染み一つ見当たらない白い天井が視界に入り、俺は突拍子のない阿賀松の動作に驚いて体を強張らせた。
 一瞬阿賀松がなにをしようとしているのかがわからなくて、恐ろしくなった俺は目玉だけを動かす。
 視界の隅には阿賀松の赤い髪がちらつくだけで、その様子までは窺えない。
 次の瞬間、なにかを剥がすような音が聞こえた。
 皮膚を引っ張られるような微かな痛みに、俺はようやく阿賀松がなにをしているのか理解する。
 絆創膏。
 今朝、俺の首筋のキスマークを気遣ってくれた芳川会長が貼ってくれた。
 それがいま阿賀松の手によって乱暴に剥がされている。

「……あ……」

 やばい。絶対やばい。
 慌てて言い訳を口にしようとするが、上を向かされているせいで上手く言葉が喋れない。

「へえ、こりゃすげーな。随分と盛り上がったようだけど」

 すぐ側から阿賀松の声が聞こえる。
 口調そのものは軽薄だったが、だからこそ恐怖すら覚えた。

「楽しかったか?ユウキ君」

 全ての絆創膏を剥がし終えた阿賀松は、やけに涼しくなった俺の首筋を指先でなぞりながら問いかける。
 きっと今の俺は今にも死にそうな顔をしているだろう。
 出来ることなら今すぐ逃げ出したい。

「これ、誰が付けたわけ?」

 顎を掴まれ無理矢理阿賀松の方を向かされる。
 優しい口調で問い掛けてくる目の前の阿賀松に、俺は慌てて顔を反らそうとした。
 顎の付け根を掴む阿賀松の指が強く皮膚に食い込む。

「誰にやられたんだって言ってんだよ」

 手荒な動作で再び自分の方を見させる阿賀松は、先程と同じ質問を俺に投げ掛けた。
 ここは、正直に話した方が良いのだろうか。
 阿賀松から視線を反らしながら、ふとそんなことを思った俺はどうすればいいのかわからなくなる。
 もし、正直に阿賀松に話したところで結果は変わらないだろう。
 ぶっちゃけた話、俺は栫井とのことを思い出したくもないし、それを他人に説明をするとなったら尚更のことだ。
 押し黙ったまま目を反らす俺に、阿賀松は呆れたような溜め息をつく。

「なんだよ、俺に話す気はないってか?」

 心底つまらなさそうな阿賀松の声が聞こえた。
 もしかして、俺から聞き出すのを諦めてくれたのだろうか。顎を掴む手が緩み、俺は小さく咳き込んだ。
 その隙を狙って阿賀松の上から逃げようとした俺は、伸びてきた腕に腰を抱えられる。
 制服の上から体を触られ、慌てて俺は阿賀松の手を退けようとする。

「人がせっかく心配してやってるってのによー、なんなんだよお前は」

「服ひん剥いて教室の前に放ってやろうか」冗談とも本気とも取れないような声音で囁かれ、俺は青ざめた。
 冗談じゃない。あまりにも笑えないことを言い出す阿賀松に、俺は逃げようとするが体勢が体勢なだけに腰を浮かすこととすら出来なかった。

「ユウキ君さあ、もっと賢くなろうぜ。自分に取ってなにが最善かを考えろよ」

 制服のボタンに手をかけた阿賀松は、一つ一つそれを外していく。
 阿賀松の言葉に、俺は顔を強張らせた。
 今の俺にとってなにが最善かどうかはわからなかったが、間違いなく今この状態は俺にとって最善ではない。
 全てのボタンが外れ、来ていたシャツを阿賀松に取られる。
 強制的に下に来ていたTシャツ一枚にされた俺は、床に落とされる自分の制服に目を向けた。
 生憎、阿賀松に抱き締められるような形になっているので寒く感じない。

「いつまでもダンマリが許されると思うなよ」

 言いながら、阿賀松は下腹部に手を伸ばし、ベルトの金具を指で弄る。
 まさか、いや、嘘だろ。脅しにしちゃ度が行きすぎてる。
 場所が場所なだけにそれはないなと気を許していた俺は、ベルトを外し始める阿賀松に驚いて、身を強張らせた。

「ま……っ」

 焦った俺は慌てて阿賀松の手を掴んで制止しようとするが、それよりも早く腰のベルトが引き抜かれる。

「今更照れんなよ。俺たちの仲だろ?」

 そう笑う阿賀松は、言いながら俺のズボンのウエストを緩めた。
 なにが『俺たちの仲』だ。こんなのただのいじめじゃないか。
 あまりの言い種に、俺は心の中で悪態を吐く。もちろん口には出さない。目を細め、顔をしかめて堪える俺に、阿賀松は可笑しそうに笑う。

「そんな喜ぶなって。俺まで嬉しくなる」

 言いながら俺のズボンのジッパーを下ろす阿賀松。どこをどうみればそういう都合のいい解釈が出来るのだろうか。
 緩めたウエストの中に阿賀松の手が入ってきて、そのままズボンを膝までずり下げようとする。

「……っ」

 まさかさっき言っていた全裸で教室を実行するつもりじゃないだろうな。
 最悪の考えが脳裏を過ったとき、俺は慌てて自分の足を閉じチャックが全開になったズボンを慌てて上げる。

「なにやってんの?」

 抵抗する俺に、阿賀松は楽しそうに口許を歪めた。
「それで抵抗してるつもりかよ」可笑しそうに笑い声を漏らす阿賀松は、俺の足の下に自分の足を潜り込ませればそのまま大きく開かせる。

「う、わ……っ」

 自分の意思も関係なく開帳する下半身に驚いた俺は、慌てて足を閉じようとし、ズボンを掴んでいた手からうっかり集中を逸らした。
 俺の抵抗も虚しく、あっさりと阿賀松の手でずり下ろされたズボンは俺の足首辺りに落ちる。
 終わった。
 俺はあんぐりとしたまま自分の足下にあるズボンに目を向ける。

「んで、俺になんか報告することはないの?」

 阿賀松はTシャツの裾から手を入れ、指の腹で肌をなぞる。
「ほ、報告……って……」あまりのこそばゆさに全身の筋肉を弛め、俺は笑いそうになるのを必死に堪えた。

「俺に言うことは?」

 言い方を変えて再び問い掛けてくる阿賀松。
 肌を伝う指が脇腹まで来たとき、五本の指が違う動きでそこを撫でる。

「ん、も……やめっ、あっ、んんっ」

 脇腹をくすぐられ、俺は阿賀松の腕の中で身を捩らせた。
 口で息をしようとしているだけなのに、聞きたくもない自分の声が口から漏れる。
 まさかこいつ、俺がくすぐられただけで素直に口を開くと思っているのか。
 あまりにも舐められている事実に憤慨する。
 確かに俺は舐められるような人間かもしれないが、さすがに擽りくらいで割るような口は持ち合わせていない。

「なあ、正直に話せって。今なら怒らねえからさ」

 優しい阿賀松の声に、絶対嘘だと俺は確信する。
 口を一文字に紡ぐ俺に、阿賀松はにやにやしながらもう片方の手で俺の脇腹をくすぐった。
 全身の皮膚が粟立ち、もどかしい一種の快感にも似た妙な感覚に、俺は体を跳ねらせる。
 必死に堪えるように足をバタつかせ、思いきり事務机に足をぶつけた。ちょっと泣いた。
 自分の口を手の甲で抑え、必死に阿賀松の手から逃れようとするが、全身の力が入らない。
 息が上がり、全身が火照ってくるのがわかった。
 端から見ればなんとも情けないが、俺からしてみればそんな情けないことで折れそうになっている自分が情けなくて堪らない。

「っは、ははっ……も、まじで……ははは!やめ、っん」

 少しでも口を開こうとすると自分のものとは思いがたい陽気な笑い声が飛び出す。
 笑いすぎて腹部が痛くなってきて、俺は乱れきった呼吸を整えようとするが、阿賀松はそれすらも許してくれない。
 喉は痛いし息は苦しいし腹は痛いしの悪循環の繰り返しに、俺の心は既に折れかけていた。

「昨日、お前は放課後どこにいたんだ?」


 阿賀松にもたれ掛かれ悶絶している俺に、阿賀松は問い掛けてくる。
「ちゃんと答えられたらくすぐんのやめてやるよ」それは俺にとって今最も望んでいたことで、最良の条件を前に俺はいとも簡単に口を開いた。

「っ、せ、いとかい……しつ……っ」

 ただこの行為が終わることだけを考えながら、俺は息切れ切れにそう譫言のように呟いた。
『生徒会』という単語が俺の口から出たとき、確かに阿賀松は小さく反応した。
 阿賀松は特にそのことに対してなにか言うわけでもなく、次の質問を投げ掛けてくる。

「朝までそこに居たのか?」

 問い掛けてくる阿賀松に、俺は何度か首を横に振った。
「か、会長の部屋に……」込み上げてくる笑いを我慢しながら、俺はそう続ける。
 俺がそう言ったとき、阿賀松の手が止まった。
 俺はゼエゼエと肩を上下させ、深呼吸を繰り返す。
 まさか、自分がこんな間抜けな手段で口を滑らせるとは思わなかった。
 擽り地獄から解放された俺は、ぐったりしながら阿賀松の方に目を向ける。

「……」

 珍しくなにか思案するように黙り込んだ阿賀松は、俺の視線に気付いたのか目線だけをこちらに向けた。
 いや、見ているのは俺じゃない。
 鎖骨辺りのキスマークを見ている阿賀松に、俺は少しだけ戸惑った。

「……へえ、なかなかやるなあ。ユウキ君」

 唇の端を吊り上げて笑みを浮かべた阿賀松は、言いながら俺から手を離す。
 それがどういう意味かうっすらと理解できた俺は素直に喜べず、なにも答えなかった。
「でも」阿賀松は俺の肩に手を置き、首筋をそっと撫でる。

「……面白くねえ」

 誰に言うわけでもなく、阿賀松はそう譫言のように呟いた。
 体の熱が段々引いていき、ようやく冷静になった俺は自分の仕出かした失態に青ざめていく。
 馬鹿だ、俺は大馬鹿だ。
 会長に合わせる顔がない。
 津波のように押し寄せてくる後悔に、俺は自己嫌悪に陥る。
 今にも死にそうな顔をしながら、いま自分がどこに座っているのか思い出した俺は、慌てて阿賀松の膝の上から退こうとした。
 阿賀松が聞きたがったことにもちゃんと答えたし、もう俺は用済みだろう。
 ならば、俺がここにいる意味はない。

「なに勝手なことしてんだよ」

 だというのに、阿賀松は俺を離さなかった。
 服を強く引っ張られ、無理やり膝の上に引き戻される俺。
「まだなにか……」俺に用があるとでも言うのだろうか。
 てっきりこのまま帰されると思っていた俺は、情けなく掠れた声で阿賀松に聞き返す。
 すると阿賀松は、

「なにって、恋人同士が一緒にいることに理由がいるわけ?」

 なんて臭い台詞を素面で言い出した。
 まさかそんな返答が阿賀松から返ってくるとは思ってなかった俺は呆れたようにその場で硬直する。
 阿賀松が言っていることもよくわかったが、それは正式な恋人同士の場合じゃないのだろうか。
 もっと言うなら、俺は阿賀松と恋人になった覚えは微塵もない。
 当たり前のようにしていう阿賀松に言い返してやりたかったが、呆れて声も出なかった。
「せっかく二人きりになれたんだしなあ、ユウキ君」

 言いながら、俺を抱きすくめる阿賀松は耳朶に舌を這わせる。
 いきなり舐められ、俺は全身を強張らせた。
 ヤりたいだけじゃないのか、それって。
 嫌な予感しかしなくて、慌てて俺は阿賀松の腕を離そうとする。

「暴れんなって。興奮するだろうが」

 さらりと変なことを口走る阿賀松に、俺はますます顔を青くした。
 阿賀松は俺のうなじに軽くキスをし、人の着ていたTシャツに手を滑り込ませる。
「……っ」まさかまた擽られるんじゃなかろうかと、俺は脇を締め脱がされそうになるTシャツを慌てて下ろした。

「邪魔」

 頑なになって我が身を死守する俺に、阿賀松はそう短く言えば空いた手で俺の顎を掴み、無理やり自分の方に向けさせる。
 まともに目が合って、俺が気まずさを感じるよりも早く、阿賀松は俺の唇に自分のを重ねてきた。

「……っ!」

 気付いたときには半開きになってた唇から口内に舌が入ってきて、突拍子のない阿賀松の行動に俺は目を丸くする。
 阿賀松の舌に付いた金属のピアスが舌に触れ、ひやりとした固い感触に思わず俺は顔を反らそうとした。
 顎を掴まれ固定されているせいか、うまく身動きが取れない。
 他人の舌が入ってくる感覚が嫌で、咄嗟に俺はTシャツを掴んでいた手を離し、阿賀松の髪を掴んで自分から離した。
 そこまでしてから、俺は『しまった』と青ざめる。

「ごちそーさま」

 ようやく俺を離した阿賀松は、そうにやにやと笑いながら舌なめずりをした。
 するりと入り込んできた骨張った手は、皮膚をなぞるようして徐々に上へ移動する。
 全身に鳥肌が立ち、俺は阿賀松を制止させようと衣服の上から阿賀松の手を掴んだ。

「やめて……ください……っ」

 力では敵わないと悟った俺は、阿賀松から顔を逸らしながらそう呟く。
 思ったよりも声が小さくなった上、微妙に声が上擦った。恥ずかしい。
 そんな俺に対し、阿賀松は「あっそう」となんとも素っ気ない返事を返してくれた。
 まあ最初から期待はしていなかったがこの仕打ちは酷いんじゃないのか。
 阿賀松が恨めしくて仕方ない俺に対し、当の本人は人のない胸を揉み始める。
 ……揉み始める?

「えっ、ちょ、なに……っ」

 嫌な動きをする阿賀松の手に、俺は思わず声をあげた。
「なにが?」特になにもないように平然と答える阿賀松。

「手、手……手がっ」

 気持ち悪い。というか、くすぐったい。
 動揺しているせいか上手く言葉が紡げず、俺は口を開閉させる。

「手がどうしたんだよ」

 あまりにも白々しい阿賀松の態度に、俺は顔をしかめる。
 阿賀松はそんな俺を嘲笑うように喉を鳴らせば、人の乳首を軽く指で引っ掻いた。
「……っ」ビクッと肩を震わせた俺は、肩を竦め慌てて顔をうつ向かせる。
 恥ずかしい。というより、そんな些細な仕草に反応してしまう自分が情けなくて堪らない。
 じわりじわりと耳の裏に熱が集まってくる。
 顔が熱い。

「随分感じやすくなっちゃったねーユウキ君」

 人の反応を楽しむかのようなにやにやと下品な笑みを浮かべた阿賀松は、指先でそれを弄りながら耳元で囁いてくる。
 嫌なくらい俺を馬鹿にしているのがわかった。
 誰のせいだと思ってるんだ。
 あまりにもねちっこい触り方をする阿賀松に俺はゾクリと体を震わせる。
 胸の奥が疼くような妙な感覚に、俺は唇をぎゅっと結んだ。

「んん……っ」

 阿賀松を相手に、意地になった俺は必死に声を抑える。
 前屈みになって堪える俺に、阿賀松は胸元を掴み無理やり体を起こさせた。
 先程まで陰っていた視界が急に明るくなり、俺は驚く。
 その隙を狙って、強引に顔を上げさせた阿賀松は俺の口の中に指を入れ強制的に口を開かせた。
 慌てて口を閉じようとするが、その間にあった阿賀松の指が無理やり抉じ開けさせようとした。
 つい自分の歯が阿賀松の指に食い込んでいるのを想像してしまい、気分が悪くなった俺は歯を離した。
 俺には阿賀松の指を噛み千切るほどの覚悟はない。

「甘いなあ、ユウキ君は」

 どことなく嬉しそうな阿賀松の声音に、もうどうにでもなってしまえと俺はやけになる。
 背中を滑るようにして下着の中に手を入れてきた阿賀松は、人の尻を撫でるようにして肛門の周りに指を這わせる。

「ひ……っ」

 口を無理やり抉じ開けられているせいか、喉から呻き声にも似た声が漏れた。
 自然と体が強張り、あまりのいたたまれなさに俺は顔を逸らす。
 体の中に阿賀松の一本の指が強引に捩じ込められたとき、俺はあまりの痛みに額に汗を滲ませた。

「痛い……っ」

 ビクリと腰が跳ね、俺は痛みを堪えるように阿賀松の制服を引っ張る。
 顔を青くして泣きそうになる俺に、阿賀松は驚いたような顔をした。

「まだ指しか入ってねえんだけど」

 言いながら俺から手を離した阿賀松は、自分の手を見て更に目を丸くする。
 血だ。
 赤く染まった阿賀松の指先に、俺は顔をしかめる。
 なんで血が。死ぬのか俺。
 そこまで考えて、俺は昨夜の栫井とのやり取りを思い出す。
 まさか、昨日のあれが原因なのだろうか。

「ホントお前はなに突っ込まれてんだよ、なにを」

 怒っているのだろうか。
 つまらなさそうに眉をひそめる阿賀松は、言いながら制服から携帯電話を取り出す。
 慣れた手付きで携帯電話を弄る阿賀松は、それを耳に当てた。

「……仁科か?今すぐ理事長室まで来い。あと軟膏。切れ痔のやつな」

 唐突な阿賀松の行動に目を丸くする俺。
 まさか、仁科を呼ぶというのか。ここへ。このタイミングで。
 絶句する俺に、阿賀松は要件だけを言えば強引に通話を終了させた。

「いつまで俺の上に乗ってんだよ。そんなにここが気に入ったのか?」

 携帯電話を制服に戻す阿賀松は、言いながらにやにやと笑みを浮かべる。
「す、すみません」その言葉でようやく自分がどこに座っているのか気が付いた俺は慌てて阿賀松の上から退いた。
 ソファーから腰を上げた阿賀松は、そのまま部屋の隅に取り付けられた扉まで歩いていく。

「仁科が来たら鍵を外して中に入れてやれ」

「ちゃんと薬塗ってもらえよ」まるでお使いでも任せるような口調でそう俺に言い聞かせる阿賀松は、それだけを言えば扉の奥へと消えた。
 そこがなんの部屋になっているのかとか俺にはわからなかったが、恐らく書斎かなにかだろう。
 仁科がここに来ると言われ暫く呆けていた俺は、慌てて床の上に落ちている衣服を拾った。
 薬を塗ってもらえって……、仁科の前でケツ出せと言うのか。
 想像しただけでも舌を噛みきりたくなったが、実際阿賀松の前でしてることと然程大差無いと気が付いた俺はなんとなく気分が沈む。

 home 
bookmark
←back