天国か地獄


 05

 別に、具合が悪いとかそういうわけではなかった。
 適当な理由をつけて志摩から逃げたかっただけなので、こうして志摩から逃れられた今わざわざ保健室にまでいく必要もない。
 次々と登校してくる生徒たちとすれ違いながら、教室を後にした俺は宛もなく廊下を歩いていた。

 やっぱり、少し不自然だったかもしれない。
 先ほどのあからさまな自分の態度を思い出し、俺は浅く息を吐いた。
 また志摩に「避けている」とか言われたらやだなあ。
 先日の出来事を思い返しながら、俺はなんとも言えない気分になった。
 教室に行けば隣同士の席、当たり前に顔を合わせるハメになるだろう。
 ただ、今は休み時間が苦痛で仕方がなかった。
 せめて、同じクラス、いや学年に友達がいればそれも感じずに済んだのかもしれない。
 ふと脳裏に阿佐美が浮かぶ。
 そうだ、阿佐美はまだ教室に来ていないのだろうか。
 少し癖のあるルームメイトを思い出しながら、俺は廊下の端に立って通りすぎていく生徒の顔を見る。
 都合のいい時にだけ阿佐美の存在を求める調子のいい自分に嫌悪を覚えた。
 ……別に、阿佐美を陥れるわけじゃないし、悪いことをしてるわけじゃない。
 そう、胸のうちで言い訳染みた考えを呟き、俺は通りすぎていく生徒から視線を逸らす。
 ああ、なんか俺、ここに来てから性格が悪くなったような気がする。
 頭の中で妙なジレンマに陥りつつ、しっかりと俺は阿佐美が登校してくるのを待っていた。
 廊下の固い壁に軽く背中を預け、目の前を通過していく生徒を一瞥する。
 そんな時間が暫く続いたとき。
 もうそろそろ、予鈴鳴りそうなんだけど。
 先ほどまで賑やかな声が響いていた廊下には徐々に静けさが増していき、とうとう廊下には俺一人だけが残る。
 まさか、阿佐美また遅刻でもしているのだろうか。
 昨日自分がちゃんと部屋に戻って起こしてやればよかった。
 いまさら考えてもしょうがないとわかっているが、やっぱり考えてしまう。
 思いながら視線を泳がせると、廊下の奥の方に他のクラスの担任の姿が小さく見えた。
 ……そろそろ戻った方がいいかもしれない。
 俺は阿佐美とともに教室入りをするのを諦め、そのまま自分の教室に向かって歩き出す。
 結局、廊下でぼさってしているだけで休み時間が終わってしまった。
 とても有意義と言える時間だとは言えないが、それでもなんとなく教室にいるときよりはましだと感じてしまう。
 人気のない廊下を歩いて、微かに開いた教室の扉を静かに開けば扉付近にいたクラスメートがちらりとこちらに向けられた。
 いつものようにそれはすぐ俺から逸らされ、俺もまた無言で自分の席へと戻っていく。
 席について暫くして、教室の天井にぶら下がるスピーカーから予鈴のチャイムが流れてくる。
 結局阿佐美はやってこなかった。
 絶対に来ると信じていたわけではないが、なんとなく寂しい気分になる。

「……」

 すると、予鈴が鳴って間もなく、教室の扉が勢いよく開いた。
 もしかしたら、と開いた扉に注意を向けていたが、俺の考えとは他所にそこからは「おはよう!」と元気のいい挨拶をする担任が大股で飛び出してくる。
 いつもの調子で始まるHR。
 前の列の空いた席が視界の端にちらつき、気が紛らされる。
 教卓の前に立つ担任の話がまともに頭に入って来ない。
 おまけに、いつもなら担任の話も他所にしつこいくらい絡んでくる志摩も珍しく大人しく、逆に違和感を感じるくらいだ。
 さっきまでは話し掛けてくる志摩が不気味で堪らなかったのだが、これもこれでなかなか薄気味悪い。
 あまりにも相手に失礼な思考を働かせつつ、俺はぼんやりと宙を眺めながら思案に浸る。
 ……前にも何度かこんなことあったような気がする。
 さほど古くないあやふやな記憶を掘り返した俺は、露骨な違和感と妙な既視感に、なんとなく気が重くなった。
 HRが終わり、何分かの休み時間を挟んで今日の授業が始まる。これも、いつも通り。
 勉強に集中できる授業の時間は今の俺にとって大切な時間だ。
 なにかから逃げるように学業に打ち込むのは今も昔も変わらない。
 まあ、勉強にのめり込んだからといって特別頭がいいわけではないのだけれど。
 一つ、二つ、と時間だけが淡々と過ぎていく。
 ──あと少しで、この授業も終わるのか。
 次々と足されていく黒板の文字に目を走らせていた俺は、ふと壁にかかった時計に目を向けた。
 盤上の針の位置を確かめた俺は、なんとなく名残惜しい気分になる。
 別にこの授業自体に深い思い入れがあるわけではないが、考え事をさせる暇を与えない時間というのは俺にとって重要な時間だということには違いはない。

「はい、じゃあ、今日はここまでです」

 担当の教師の言葉に被さるように授業終了のチャイムが教室に響いた。
 日直が号令を掛け、授業が終わる。
 それを合図にするかのように、先程まで静かだった教室に人の声が飛び交い始める。
 机の上に開いた教科書を閉じ、次の授業の準備をしながら、俺は前の列の阿佐美の席に目を向けた。
 そろそろ来るだろうと思っていたが、結局この時間になっても阿佐美は姿を見せない。

 元々登校拒否児だった阿佐美を知っているのでそのことで心配に思うことはない。
 寧ろ、『まだ寝ているのだろうか』と内心苦笑が溢れるくらいだ。
 その時だった。どこか慌ただしさすら滲み出ている賑やかな教室の扉が勢いよく開かれる。
 瞬間的に、あれほど騒がしかった教室内が一気に静かになった。
 寧ろ、凍り付いたとでも言った方が適切なのかもしれない。
 もしかして、ようやく来たのだろうか。派手な音につられて廊下へと繋がる扉に目を向けようとした俺は、開いた扉から無遠慮に入ってきた一人の生徒の姿に目を見張る。

「どうしたんだよ、そんな幽霊でも見たような顔しちゃってよぉ」

 俺の席までやってきた阿賀松伊織はそう口許に笑みを浮かべれば、椅子に腰を下ろしたままの俺の手首を無理やり掴み上げた。
 その拍子に、手に持っていた次の授業に使う教材を床に落としてしまう。
「……っ」足元の教材に目を向け、俺は側に立つ阿賀松を見上げた。
 唇はいつも以上にだらしなく歪んでいたが、その目にはあくまで笑みは浮かんでおらず思わず俺は慌てて顔を逸らす。

「立てよ」

 阿賀松はそう低く俺に囁けば、促すように強く掴んだ腕を引っ張った。
 あまりに強い阿賀松の手の力に、関節が外れるんじゃないのかと心配になった俺は慌てて椅子から腰を浮かす。というより寧ろ、無理やり引っ張り上げられたと言った方が適切なのかもしれない。

『なんでここにいるんだ』とか『なにしにきたんだ』とか言いたいことは色々あったが、阿賀松の顔を見ていたらすべての言葉が頭の中で弾けて消えた。
 もちろん、最悪な意味でだ。
 動悸が激しくなり、全身の血の気が引いていく。

「なに突っ立ってんだよ、さっさと歩けって、ほら」

 俺の手首から手を離した阿賀松は、俺の背中に腕を回せば強引に背中を押し、開きっぱなしになった扉へと歩かせようとした。
 苛ついたような口調の阿賀松に、俺はなにも言うことが出来ずただ言われたように重い足を進める。
 側にいたクラスメートたちは、俺を気遣ってか、もしくは阿賀松を恐れてか無言で椅子と机を動かし、わざわざ扉への道を造ってくれた。
 最悪だ、最悪だ、最悪だ。
 あまりにも好ましくない状況に、俺は腹の底で何度もその言葉を吐き出す。
 痛いほど突き刺さるクラスメートたちの視線が恐ろしく、俺は俯き気味の顔を上げることが出来なかった。

「なんだよ」

 不意に、背後から阿賀松の声が聞こえる。
 どうやら、それは俺に向けられたものではないようで、阿賀松の言葉を聞いたそいつは「なにって」と笑みを含んだように阿賀松に口を開いた。

「この後すぐここで次の授業あるからさ、外に連れていくのやめて欲しいんだけど」

 阿賀松の腕を掴んだ志摩は、そう目を細めて吐き捨てる。
「五分前行動は基本でしょ?」揶揄するような志摩の口ぶりに、阿賀松は眉を潜めた。
 まさか、志摩が助け船を出してくれるとは思ってもいなかった俺は驚いて目を丸くさせる。
 自分の邪魔をされて不機嫌になる阿賀松は忌々しげに舌打ちをし、やがて口許を弛ませた。

「ああそうか、じゃあ尚更急がねえとなあ。ご忠告ありがとよ、委員長さん」

 相手を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる阿賀松はそう言って志摩の手を振り払う。
 志摩を軽くあしらう阿賀松の態度が気に入らなかったのだろうか。
 ああいえばこういう阿賀松に、志摩は顔を引きつらせた。
 どこか、今にも阿賀松に噛み付きそうな雰囲気すら感じる。

「いいからそいつから離れろって言ってんだよ」
「なにムキになってんだよ。らしくねーなあ。もっとクールになれよ」

 必死に怒りを押さえつけた声音で阿賀松につっかかる志摩に、当の阿賀松は可笑しそうに笑い声を漏らす。

「俺が自分の恋人に会いに来てなにが悪い?いくら自分が一人で寂しいからって俺に当たらないでくれよ」

 涼しい顔して聞き捨てならないことをさらりと口にする阿賀松に、俺の背中に嫌な汗が滲んだ。
 この状況で『恋人』という単語が出てきたとき、教室中に小さなざわめきが起きる。
 全身に先ほどよりも強い好奇を含んだクラスメートの視線が突き刺さって、俺は今にも舌を噛みきりたくなった。
 本当に最悪だ。なんでこのタイミングでそんなことをいうのだろうか。
 ……このタイミングだから。
 阿賀松という人間を知っている俺は、嫌に納得してしまう。
 ただ一言。俺が「それは嘘だ」と言えば阿賀松の言葉は撤回できる。なのに、口が動かない。
 どうやら俺は思っていたより動揺しているようだ。
 不意に、志摩と目が合った。怒っているようにも呆れているようにも見えない表情の志摩は、ただ無言で俺に視線を向ける。気まずくなって、俺は慌てて視線を反らした。
 もしかしたら、志摩は俺が「それは違う」と口にするのを待っていたのかもしれない。
 後になってから志摩の視線の意味がなんとなくわかってきて、尚更俺は志摩に合わせる顔がなくなる。

 そんな俺を他所に、近付いてきた阿賀松は俺の肩に腕を回してきた。

「じゃ、行くか。五分前行動はキホンだからなあ」

 耳元で阿賀松の声がして、全身が強張る。
 なんでそうやって人を煽るような言い方をするのだろうかと内心冷や汗を掻くが、敢えて俺はなにも言わなかった。
 言えなかった。
 肩の上にのし掛かってくる圧力は俺を黙らせるのには十分なもので。
 阿賀松に言われるまま、俺は教室の扉に手をかける。
 俺を庇おうとしてくれた志摩には驚く反面感謝していたが、俺はこの教室に残るより今は阿賀松と一緒に出た方がいいと思った。
 何よりも、多数の視線の中まともにいられる自信がなかった。
 それならまだ、阿賀松一人の相手をした方がましだ。
 動揺する脳ミソを無理やり働かせた結果、俺は今だけは阿賀松に従うことにする。
 第一、この状況で阿賀松から逃げられるはずがない。


 教室前の廊下には何人か生徒が溜まって扉の前で話し込んでいたが、教室から出てきた俺と阿賀松を見てあからさまに視線を反らす。
 先ほどまで大きな声で話していた生徒たちは声を潜め何か話していたが、その内容を聞くような余裕もなかった俺は数人の生徒たちの横を通りすぎた。
 自分がこのままどこへ行けばいいのかわからなかったが、とにかくこの場から離れるために足を進める。
 廊下の突き当たりまで歩いたとき、阿賀松は俺から手を離した。
 自分が捕まえておかなくても、俺が逃げないと思ったのだろうか。
 阿賀松の本心は読めなかったが、肩の重荷がなくなったのは嬉しい。
 俺の隣に並ぶ阿賀松は、肩を回しながら歩き出す。

「お前、昨日どこにいたんだよ」

 このまま逃げようかと思案を巡らせているとき、不意に阿賀松から声をかけられ思わずその場に立ち竦んだ。
 昨日?
 俺は慌てて阿賀松の後ろをついていきながら、少しだけ考え込む。
 確か、昨日は芳川会長の部屋で一晩過ごしたが、もしかして遠回しにそのことを言っているのか。
 そこまで考えて、思わず俺は青ざめた。
 ──伊織さんが、放課後空けとけってよ。
 昨日の朝、食堂の前で確か安久はそう俺に言った。

「お前の部屋でずっとずっとずっとずっとずっと待っててやったのによぉ……なあ、ユウキ君」

 ふと足を止めた阿賀松はこちらを振り向き、口を吊り上げ穏やかな笑みを浮かべる。
 しかし、その目は笑っていない。
 全身から嫌な汗が吹き出す。

「あ、や……それは……その……」

 ここは素直に事情を話した方がいいだろう。
 そうは思うが、なかなかうまく言葉が出てこない。
 視線を反らし挙動不審になる俺に、阿賀松は真顔になって「なんだよ」と続きを促す。

「な、なんでもないです」

 つい条件反射で無意識にそんなことを口走る俺。
 言ってから、自分の言葉に気付き後悔の念に襲われる。
 なにもないですって可笑しいだろ。絶対可笑しいだろ。
 焦りが思考回路を鈍らせているのだろうか。
 自分でもなにを言っているのかよくわからなくなってくる。
 案の定そんな俺の言葉をお気に召さなかった阿賀松は「はあ?」と眉間を寄せた。
 ううっ、そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか。
 俺は「ごめんなさいごめんなさい」と慌てて謝罪を口にする。
 まだなにか言いたそうな顔をする阿賀松だったが、周りに目を向けた。
 殆どの生徒は教室に戻っていたが、決してここが無人と言うわけではない。

「来い」

 場所を変えよう、ということなのだろうか。
 暫くなにかを考えていた阿賀松はそれだけを言えば、俺の腕を掴みそのまま廊下を歩いていく。
 強い力で引っ張られ、思わずバランスを崩しそうになり慌てて体勢を取り直す。
 どこに連れていくつもりだよ。
 不安で胸がいっぱいいっぱいだったが、ここでごねても悪化するだけだと判断した俺は慌てて阿賀松の後をついていく。

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