天国か地獄


 04

 寮を後にし、俺たちは校舎内へと足を踏み入れた。
 昇降口付近。
 学年の靴箱まで行き、靴と上履きを履き替える俺。
 近くの靴箱で履き替えている栫井を見て、俺は栫井と同級生だったことを思いだす。
 一つ学年が上の芳川会長はこの場にはいない。

「……」

 爪先で軽く床を蹴り、踵まで足をいれる俺。
 なんとなく栫井に目を向けた。
 相変わらず目が死んでいる。というか全体的に生気がない。
 なにを考えているかわからない人は苦手だ。
 思いながら、俺は栫井から視線を逸らす。
 そういえば、栫井にはいろいろ聞きたいことがあったんだった。
 ここ数日でいろいろあったおかげですっかり忘れていた俺は、栫井に声をかけようとして直前、それを躊躇する。
 やはり昨日のことが俺に結構なダメージを与えていたようだ。別に、今じゃなくてもいいか。上履きを履いた俺は、栫井の背後を通り過ぎ昇降口にある階段の側で待っている芳川会長のもとへ向かう。
 壁際に立っていた芳川会長は、俺の姿を見つけ頬を綻ばせた。

「栫井は?どうした」

 一人の俺を見て、辺りに目を向ける芳川会長に俺は「すぐにくると思います」と答える。
 そういってしばらくもしないうちに上履きに履き替えた栫井がひょっこりやってきた。
 栫井がやってきたのを確かめ、芳川会長が階段に足を乗せたときだった。

「芳川君」

 近くを通りかかった教師が、芳川会長に声をかける。
「おはようございます」芳川会長は段に乗せた片足を引っ込め、その教師の方に体を向けた。

「丁度よかった。昨日の話し合いのことなんだけど、あ、そうだ。ちょっと今からいいかな」
「今からですか?」

 教師の言葉に、芳川会長はこちらに目を向けた。
 心底困ったような顔だ。
 やはり役職が役職なだけに暇じゃないらしい。
 言葉に詰まる芳川会長に、教師が心配そうな顔をする。

「あー、じゃあ、俺ら先に行っときますんで」

 口を開いたのは栫井だった。
 言いながら、栫井は俺の腕を引っ張り強引に階段を上がっていく。
「ちょ……っ」びっくりして、慌てて段差に足を引っかけそうになるのを手すりを掴んで回避した。
 腕を引っ張るのはまだいい。せめて一言くらい言ってくれ。
 背中をヒヤリとさせながら、俺は栫井の背中を睨むように見た。

「気の回らない奴」

 そんな俺の視線を感づいたのか、栫井はこちらを振り返るとぽつりとそう呟く。
「……」そのたった一言が、ぐさりと胸に突き刺さった。
 踊り場まで上った俺は、ふと階段下の昇降口に目を向けた。
 既にそこに芳川会長の姿はない。どうやら先ほどの教師についていったようだ。

「おい、止まるな」
「あ、ごめ……」

 栫井に言われ、つい謝ってしまいそうになる。
 鬱陶しそうに目を細める栫井は、こちらを一瞥するとそこでようやく手を離してくれた。
 ふいと俺から顔を逸らした栫井は、そのまま階段を上がりだす。
 なんとなく置いていかれるのが嫌で、慌てて俺は栫井の後を追うように階段を上がっていった。
 数人の生徒が階段を上り下りしていく中、俺たちもまた無駄に長い階段を上っていく。

「お前、よく俺と一緒にいれるな」

 不意に、一段先を歩く栫井がそう俺に声をかけてきた。
「え?」栫井の声を聞いていなかった俺は、聞き返すようにそう顔をあげる。
 見えるのは栫井の背中だけだ。
 どんな顔をしているかまではわからなかったが、恐らく、いつも通りの眠たそうな顔をしているに違いない。

「ごめん、聞いてなかった……」

 言いながら、俺はしどろもどろと謝罪の言葉を口にした。
 栫井は俺の方を見るわけでもなく、そのまま階段を上がっていく。
 どうやら、二回も同じことをいう気はないようだ。

 栫井の言葉が気になる反面、どうせまた俺に対する悪口だろうと一人納得する俺。
 しつこく問い掛け、栫井の口を割らせる勇気もなかった俺はもやもやとしながら階段を上がる。
 それから、俺は栫井の後についていくような形で二年の教室へと向かった。

「……」
「……」

 やはり俺たちの間に会話はない。
 俺自身、栫井との間に友好関係を望んでいるわけではないのでそれはそれで別に構わなかった。
 それに、周りには他の生徒もいる。
 流石の栫井も人前で嫌がらせ染みたことを仕掛けて来ないはずだ。
 階段を上りきった俺たちは、廊下を歩く。
 とにかく、相手が誰であれ一人よりかはましだと思った。
 昨日一悶着あった栫井相手にそう思ってしまう自分に半ば呆れつつ、俺は栫井に近付きすぎない程度に背後からついて歩く。
 ときたま、栫井はそんな俺を鬱陶しそうに見ながらもなにも言わずに廊下を歩いた。
 そんな状態が暫く続き、俺たちは目的地である俺の教室前までやってくる。

「あ、じゃあ、俺は、これで」

 そのまま俺の教室前を通り過ぎていく栫井の背中に向かって、慌てて足を止めた俺は声をかけた。
『送ってくれてありがとう』というのも可笑しいと思った俺はそれだけを言って、黙って栫井の後ろ姿を見送る。

 栫井の姿が見えなくなり、それを確かめた俺はそのまま扉を開き教室の中に足を踏み入れた。
 教室にはもう既に数人の生徒がいて、固まってなにかを話している。
 こういうところを見ていると、なんとなく前の学校を思い出してしまう。
 転校前、お坊っちゃまばかりのこの学校の話を聞いたときは全員が全員周りを敵視しているイメージを浮かべていたのだが、実際転校してみるとそうでもないようだ。
 仲がいい生徒同士でつるんだり、皆でわいわい楽しんだりとどこにでもあるような学校の毎日がそこにはあった。
 そういう所を見ていると、やっぱり家柄は違っても中身はただの高校生なんだなと思う反面、少しだけ妬ましく思う。

 クラスメートは扉から教室に入ってくる俺を一瞥すれば、声を潜めて会話を再開させた。
 自分の机の前までやってきた俺は机の上に鞄を置いて、椅子に座るわけでもなくそのまま扉へと向かう。
 おはようの一言でも言えたらまた違うのだろうけれど、ああ仲良くしている姿を見ていると声をかけるのを躊躇ってしまう。
 自分がいることで空気を悪くさせるのが嫌だった俺は、入ったばかりの教室を後にした。
 廊下で立って話している生徒を避けながら、俺は一番近くにある男子便所へ入る。

 最近、一人でいるのが嫌なときによく男子便所に来ているような気がする。
 別に対して尿意があるわけでもないのにまた男子便所にやってきた俺は、適当な個室に入りそのまま中へ閉じ籠った。
 洋式の便器の蓋を閉め、それの上に腰をかける俺。
 椅子にされるために作られたわけではないとわかっているが、やっぱり楽なので座らせてもらう。
 細かいところまで掃除の行き届いた便所は居心地が良すぎた。
 あまりの居心地の良さに、このまま授業をサボろうかなんて思ってしまう。
 いや、流石にそれは無理だ。
 甘えた自分の思考を慌てて振り払いながら、俺は便器から腰を持ち上げる。
 これ以上長居してしまったら本当にサボってしまいそうなので、もうちょっとゆっくりしていきたい気持ちを押し込め、俺は個室の鍵を開きそのまま外へ出た。
 そういえば、昨日午後の授業全部サボったんだっけ……。
 そのまま洗面台の前に立った俺は、水道の蛇口を捻りながらふとそのことを思い出す。
 先生に怒られたら嫌だな。不本意とは言えど、結果的にサボってるわけだし。
 そんなことを考えながら、意味もなく俺は手を濯ぐ。皮膚の上を滑る冷たい水がひどく心地よかった。
 適当に手を洗い、蛇口を捻り水を止めた俺は制服のポケットに入っているはずのハンカチに濡れた手を伸ばす。
 制服を濡らさないように気をつけながら、俺はハンカチを摘まみ出した。
 そういや芳川会長、ハンカチも洗ってくれたのかな。思いながら、ふと正面に取り付けられた鏡に目をやってしまう。
 あまり見ないようにしていたのだが、やはり無意識には敵わなかった。

「……」


 鏡に目を向けて、まず最初に目がついたのは首筋だった。
「なんだこれ……」思わず口に出してしまう。
 ちょっと貼りすぎではないかと思うくらいの絆創膏の数に、俺は顔を引きつらせた。
 目立たないよう肌色の絆創膏を貼られていたが、あまりにもベタベタ貼られているせいでかえって目立っている。
 今すぐ剥がしたい衝動に駆られたが、せっかくの芳川会長の気遣いを考えると躊躇ってしまう。
 おまけに、この下はキスマークだ。
 キスマークか絆創膏かと言われれば、嫌でも絆創膏の方を選んでしまう。
 流石に、キスマーク丸出しで授業を受けるのは嫌だ。
 悶々と考えながら、俺は気になってワイシャツの襟を指でひっかけ少しだけ肌を覗く。


「……っ」

 なんか、おぞましいことになっている。
 耳元に熱が集まるのを感じて、俺は慌ててシャツを直した。
 やっぱり、キスマーク丸出しは無理だ。俺は絆創膏に手をつけるのを諦め、鏡から目を背ける。
 鏡から逃げるように男子便所を後にした俺は、大分騒がしくなってきた廊下を通って再び教室の前までやってきた。
 廊下と教室を仕切る壁に取り付けられた窓から、そっと教室の中を覗く。
 先ほどよりも人口が増えていた。
 よく顔見知った二人の姿は見当たらない。
 中に入ろうか少しだけ迷う俺。
 扉の前でくよくよしてても仕方ないだろうと自分に言い聞かせ、俺は扉に手をかけ、なるべく音を立てないように扉を開く。
 教室内の視線が自分に集まった。ああ、これだ。これが嫌なんだ。しかし、その視線もすぐに逸らされる。
 居心地の悪い思いをしながら、俺はそのまま教室の中に入り鞄の置いてある自分の席に向かって歩き出した。

「……」

 転校生だから、すぐに馴染めないのは仕方ないだろう。
 そんなわけのわからない言い訳を並べつつ、俺は席の椅子を引いた。
 中には同じ転校生だというのにあっという間に周りに溶け込める人間もいるし、それは可笑しいか。現に、俺はそういうやつを知っている。
 どう言い繕っても、俺に社交性と積極性が欠けているということには変わりないのだけれど。
 俺は椅子に腰を下ろし、鞄を開いた。

「齋籐、おはよう」

 考え事をしながら授業の準備をしていると、ふと背後から声をかけられる。
 今朝聞いたばかりの聞き慣れた声に、思わず俺は作業していた手を止めそのまま振り向いた。
 志摩だ。俺同様、教室に入ってきたばかりの志摩は俺と目が合うと目を細め微笑む。

「あ……お、おはよう」

 つられて挨拶を返す俺。後になってから少し後悔した。
 今朝のことで、なにか言われるかもしれない。
 寮の出入り口前、志摩に声をかけられた俺はなにも反応せずにそのまま寮を後にした。
 そのことばかりが気がかりで、俺は心臓を跳ねらせながらも慌てて止めていた手を動かし、鞄の中の教科書を引き出しの中に詰め込もうとする。
 いつも帰る前には空にしている引き出しの中に、一冊のノートが入っていることに気が付いた。
 一旦机の上に教科書を置いた俺は、引き出しの中のそのノートを手にとる。
 へんてつもない一冊のノートだ。でも俺はこのノートを知らない。

「ああ、それ俺が書いたやつだよ。昨日早退したでしょ?だから、齋籐が受けてない分の授業のノート」

 パラパラの中身に目を通す俺に、自分の席に座りながらそう志摩は言ってくる。
 確かに、言葉通り中身は普通に授業を取ったものだった。

「……ありがとう」

 まさか、ここまでやってくれるとは思ってもなくて、俺は志摩にお礼をいう。
 授業のことを心配していただけあって、志摩の好意は素直に嬉しかった。
「どういたしまして」満足そうに笑う志摩。
 どうってこともない普通の会話なのだが、俺はいま、この状況に微かな違和感を覚えた。
 いつも通りのやりとり。
 あくまでそれは、数週間前までのことだ。
 数日前、志摩にボロクソに言われたことのことをハッキリと覚えている。
 だからだろうか。
 このまま前のように仲良くなれるかもしれないと少しでも思ってしまった自分に嫌悪感すら覚えた。
 許すとか許さないとかじゃない。
 全てをなかったことにするかのような志摩の態度がなんとなく嫌だった。
 嫌なのに、その優しさにつられそうになる自分がいた。

「少しは俺のこと惚れ直した?」

 笑いながら、俺の顔を覗き込んでくる志摩。
 前までの俺ならただ笑って流していただろうが、好きだと言われた後なだけにその言葉がやけに生々しく聞こえて、つい俺は顔を強張らせた。
「冗談だよ」目の前の志摩から目を逸らす俺に、志摩は苦笑混じりにそう呟く。

「そう言えば、風邪気味って聞いたんだけど大丈夫だった?」

 俺から顔を離した志摩は、そんなことを聞いてくる。
 一瞬、言葉の意味がわからなくて俺は言葉に詰まった。
「え?昨日それで早退したんじゃないの?」黙り込む俺に、志摩の方まで不思議そうな顔をする。
 そこでようやく俺は、自分が風邪気味を理由に早退したということになっていることに気が付いた。
 芳川会長がそういう風に手を回していてくれたのだろうか。
 非情に有り難かったが、一言くらい教えて欲しかった。

「あ、うん。まあ……」

 俺は、言葉を濁しながらそう答える。
 なかなか歯切れの悪い俺に、志摩は「ふうん」と呟いた。

「でも、元気ならよかったよ。休まなくて大丈夫?」

 言いながら志摩は心配そうに俺の方に目を向ける。
 やけに食い付いてくるな。
 元々志摩はよく喋るタイプだとよく知っているのでそれほど気にしなかったが、俺自身がうっかりサボりだと口を滑らせてしまいそうで怖かった。
「……お陰さまで」なんとなく、視線が泳いでしまう。

「だといいんだけどね。昨日部屋に戻って来なかったから、よっぽど重症なのかと思ってたよ」

 笑いながらそう続ける志摩。
 志摩の何気ない言葉に、俺は額に冷や汗を滲ませた。
 なんでコイツ、俺が部屋にいなかったこと知ってるんだ。

「でも、こんな時期に風邪なんて珍しいよね」
「……」
「いや、こんな時期だからなのかな。季節の変わり目は体調が崩れやすいとか言うしね」

 なにも言えずにいる俺に対して、志摩は「気をつけなよ」と念を押すように続ける。
 俺にとって季節の変わり目だとかそんなことはどうでもよかった。
 ──昨日部屋に戻ってなかったから……。
 先ほどの志摩の言葉が脳ミソに浸透するかのように不気味に響く。
 部屋に戻ってないことを知られたぐらいでなんだ。
 志摩が俺が部屋にいるかいないかくらい容易く知ることぐらいできるはずだ。
 動揺する自分自身に強く言い聞かせ、俺は視線を床に向ける。
 別に志摩は一晩中待っていたとは言っていない。
 たまたま部屋を通りかかってたまたま部屋を覗いただけかもしれない。
 過剰なくらい志摩の言動にびくついている自分が恥ずかしくなって、俺は咄嗟に椅子を引き座席から立ち上がる。

「どうしたの?」

 座ったばかりの椅子から腰を外した俺を見上げ、志摩は座ったままの体勢で心配そうに声をかけてきた。
「……あ」志摩に言われ、自分が立ち上がっていることに気付く。
 頭が追い付くより体が先に、ってこういうことをいうのだろうか。

「……ちょっと、保健室」

 俺はなにか言いたそうにする志摩が口を開くよりも先に、逃げるように教室の出入口に向かって足を向かわせる。
 なるほど、病み上がりというのはなかなか使えるかもしれない。そんな不謹慎なことを考えながら。

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