03
まだ早い時間帯の廊下にはあまり人影もない。
ほぼ無人である廊下をただ歩いていく俺たちの間に会話はなく、かなり微妙な空気のままエレベーターの前に辿り着く。
「……」
黙ったままエレベーターを呼ぶ芳川会長。
会長も栫井も沈黙をそれほど苦に感じているわけではなさそうだった。
俺一人がこの空気にキョドっているのは、きっと後ろめたい気持ちがあるからだろう。
後ろめたい気持ちというか、実際に後ろめたいほにゃららがあったわけだから気持ちも糞もないのだろうけれど。
クールな二人を見習って表面ではポーカーフェイスを決め込んでみるが、それすらも無様なことになっているだろう。身心共に狼狽している俺は、ちらちらと交互に二人を伺いながら黙ってエレベーターがやってくるのを待っていた。
暫くしないうちにエレベーターが着き、静かに扉が開く。思った通り、機内に人影はなかった。内心ほっと胸を撫で下ろす俺。
「齋籐君」
芳川会長に名前を呼ばれる。何事かと思い慌てて顔をあげる俺は、芳川会長に目を向けた。
どうやら、先にエレベーターに乗れと言っているようだ。それ以上なにも言わない芳川会長に、俺は慌てて扉を潜り中へと入った。
それから栫井、芳川会長の順でエレベーターに乗り込んでくる。栫井と俺の間に立つ芳川会長。なんだかデジャヴを感じてしまう。
エレベーター機内。
一階に向かうエレベーターの中、特に会話が弾むわけでもなくただ静かに時間が過ぎていく。息苦しい。俺はじっと爪先を見詰めたまま、エレベーターが目的地に着くのをただひたすら待った。
暫くもしないうちに、エレベーターは音を立て止まる。開く扉。俺は芳川会長に目を向ける。芳川会長は無言で扉に目配せさせた。どうやら、先程同様俺からエレベーターを降りろということらしい。俺は小さく頷くと、開いた扉をくぐり一階へと出る。
相変わらず無駄に設備が充実している一階を見渡していると、続いて栫井と芳川会長が降りてきた。
「食堂でいいか?」
閉まるエレベーターの扉を尻目に、芳川会長は俺と栫井を交互に目をやりながら問い掛けてくる。
「あー、会長に任せます」ぼりぼりと頭を掻きながらいう栫井に、俺はつられて頷いた。
「わかった」芳川会長はそう頷くと、そのまま食堂に向かって歩き出す。
なんだか味のない朝食になりそうだ。思いながら、俺は芳川会長の後を追いかける。
自然と栫井の隣になってしまい、俺は若干距離を置きつつ芳川会長について食堂へと向かった。
「……」
人気のない広い通路に三人分の足音が響く。
俺は栫井の横顔を盗み見た。どこを見ているかわからない眼が俺の視線に気付いてこちらを向く前に、俺はさっと視線を逸らす。
芳川会長を先頭に食堂前までやってきた俺たち。
二人はというと相変わらずテンションが並み以下のままで、俺まで徐々にボルテージが下がってくる。
芳川会長は扉の取っ手を掴み、そのまま扉を押し開いた。食堂内は比較的がらんとしており、数人の生徒たちが朝食を取っている。
随分と早いな。委員会やその辺の忙しい生徒なのだろうか。委員会にも部活動にも属していない俺には全く縁のない話だ。
人気の少ない食堂というのもなかなか新鮮だった。扉を大きく開く芳川会長に促され俺と栫井は食堂内に足を踏み入れる。ああ視線が痛い。食堂内にさほど人数はいないはずなのに、突き刺さる視線はいつもより痛かった。
「会長」
「俺はどこでもいい」
芳川会長の方に目を向ける栫井に、芳川会長は短くそう答える。
栫井は芳川会長から視線を逸らすと、近くにあったテーブルに歩み寄り椅子を引く。どうやらそこに座るようだ。
「……」
芳川会長は栫井の向かい側の席に腰を下ろす。
どこに座ればいいのか迷った俺は、芳川会長の隣の椅子に座ることにした。椅子に座るだけでこんなにも緊張するとは思わなかった。ぎこちない動きで椅子に腰を下ろした俺。
「ほら」言いながらメニュー表を差し出してくる芳川会長に軽く頭を下げながら、俺はそれを受け取った。
「なに食べようか」
言いながらメニューと睨みあいこをする芳川会長を横目に、俺もメニュー表に目を向ける。
昨日の夜まともに食べられなかったせいで今結構お腹空いていた。
日替わりランチでも頼もうか。朝食を決めた俺はメニューを閉じ、それを元にあった場所へ戻す。
「なに頼むの」
そう聞いてきたのは栫井だった。まさか絡んでくるとは思っていなかったので、話し掛けられたことに思わず背中をひやりとさせる。
俺は芳川会長に悟られないようなるべく平静を装いながら、「日替わりランチ」と答えた。
「……あっそ」栫井は興味無さそうに俺から顔を逸らせば、手元のメニュー表に目を向ける。
なんなんだこいつ。本当なら無視したいところを渋々ながらも返事をした俺に対して、別にお前のこと興味ねえしみたいな態度であしらうなんて。
昨日の今日なだけに栫井に対しての恐怖感は少なからずあったものの、今の態度は結構胸に刺さる。
興味ないなら聞かないでくれ。俺に話しかけないでくれ。そう言いたいところだったが、あくまでも芳川会長の前だ。そんなこと口が裂けても言えない。いや芳川会長がいなかったとしても、きっと俺はなにも言えないだろう。
なにも言い返すことが出来ずにムスッとする俺。そんな俺を見て栫井がほくそ笑んだことなんて、俺は知る由もない。
「栫井、お前はなににするんだ」
芳川会長は向かい側の席に座る栫井を見ながらそう問い掛ける。
栫井はメニュー表を閉じながら、「俺も日替わりランチで」と芳川会長に目を向けずに答えた。
俺と同じのだ。別に他人と料理が被るぐらいでいちいち気にしないけど、なんとなく胸に靄がかったような気分になる。
「じゃあ、俺頼んでくる」
言いながら席を立つ芳川会長。そう言ってから、ハッとなにかを思い出したような顔をする。
椅子から腰を浮かした状態で硬直する芳川会長は、俺と栫井を交互に目を向けた。
どうやら、自分が席を外してしまうと必然的に俺と栫井が二人きりになることを気にしているようだ。真面目なんだな。思って、思わず顔が綻んだ。
「あの、俺、行きましょうか」
狼狽する芳川会長に、俺はそう言いながら椅子から立ち上がる。
栫井は動きそうにないし、芳川会長もこの調子だ。
ここは俺がいい所を見せる場所じゃないだろうか。
「いや、君は座ってていい」
芳川会長は小さく首を横に振り、「すぐに戻ってくるから」と小声で俺に囁く。
やんわりと芳川会長に肩を押さえ再び椅子に座らされた。
戸惑いながら俺は、芳川会長の方に目を向ける。そのときすでに芳川会長は俺に背中を向け、厨房のあるカウンターの方へと歩いていくのが見えた。
「……」
「……」
芳川会長が席を立ってから暫く、俺たちのテーブルに気まずい沈黙が走る。
とは言っても気まずく思ってるのは俺だけのようで、向かい側の斜め横に座る栫井はというと頬杖をつくピラピラとメニュー表の角を弄って遊んでいた。
余裕というより昨日のことなんか気にしてませんというような態度の栫井に対し、相変わらず俺一人が緊張しきっている状態だ。かなり、居心地が悪い。
「お前さあ」
一人悶々としていると、不意に栫井に声をかけられる。
「えっ?」緊張のあまりに上の空だった俺は、思わず間抜けな声をあげながら姿勢を正した。
コイツに話し掛けられる度にろくなことがないんだよな。
思いながら、俺は栫井に目を向ける。メニュー表で遊ぶのは飽きたらしく、栫井は腕を伸ばしてメニュー表を元の場所に戻しながら俺の方を見た。目が合う。逸らすタイミングを逃し、俺たちはじっと目を見合わせた。
「会長になんかされた?」
そんな拍子外れなことを聞いてくる栫井に、思わず俺は目を丸くする。
なんかってなんだ。その言葉だけで変な方向に思考を向けてしまった俺自身に嫌悪感を覚える。
「……なにもされてないけど」
変な意味ではない。 本当に、俺は会長になにもされていない。
服を買ってもらったり、キスマークを隠すのを手伝ってくれたりはしたけれど、それ以外は本当になにもされていない。
そこまで考えて、いやそれって充分されてるじゃんとか自分で突っ込んでしまう俺。どうやら予想以上にキョドってしまっているようだ。
「それ、自分でやった?」
栫井はいまの俺の言葉に返すわけでもなく、そう話題を変えてくる。
「え?」いきなり話が変わり、少し焦りながらも俺は栫井の視線の先に目を向けようと顔をうつ向かせたが自分の首もとを見ることができなかった。
言わずもがな、栫井は首筋の絆創膏のことを言っているのだろう。
「あ、……えっと」咄嗟にいろいろ思い出してしまい、俺は視線を泳がせたまま口ごもった。
「……」
そんな俺に対し、栫井はなにも言わない。今のでなにかを悟ったのだろうか。目を細める栫井に見据えられ、なんだかいたたまれなくなってしまう。
なにも言ってこないということは、俺もなにも言わなくていいのだろうか。
そんなことを考えながら首筋をポリポリと掻いていると、ガタリと隣の椅子が引かれる。
「どうだ?早かっただろう」
カウンターから戻ってきた芳川会長は、自慢気にそう言いながら椅子に腰を下ろした。
栫井は芳川会長を横目に見れば、「おかえりなさい」と呟く。
「ああ、ただいま」栫井の言葉に、芳川会長はそう答えた。
これは俺も乗った方がいいパターンなのだろうか。考えているうちにタイミングを逃してしまい、結局俺はなにも言えずにいた。
「腹減っただろう?」
椅子に座った芳川会長は、言いながら俺の方に目を向ける。
小さく笑いながら問いかけられ、俺は苦笑を漏らしながら頷いた。
「すぐに運ばれてくるだってさ、よかったな」芳川会長はそう笑いながら続ける。
朝のこの時間帯は人が少ない分厨房にも余裕があるようだ。つられて頬を綻ばせながら俺は「はい」と答える。
その芳川会長の言葉は確かに嘘ではなかったようだ。数分経つと、ワゴンを押したウェイターがテーブルへとやってくる。
そのワゴンには俺たちが頼んだ料理が乗せられており、それをウェイターがテーブルの上に並べ始めた。
「あ、ありがとうございます」
目の前に置かれた日替わりランチに、俺はつい反射でウェイターに頭を下げてしまう。
芳川会長と栫井の手元にも自分の頼んだものが来たようだ。
「いただきます」誰にでも言うわけでもなくいつものように手を合わせて呟く俺。
空腹に耐えられなくなった俺は、トレーの上の箸を手に取りさっそく料理に手をつけ始める。
間もなく、食堂の扉が開き数人と足音が聞こえてきた。
もうそろそろ登校時間だ。生徒が来ても遅くない。
「あっれー、会長たちじゃん!」
そんなことを考えながら料理を口に運んでいると、扉の方から聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
なんとも言えない微妙な顔をする向かい側の二人につられ、俺は扉の方へ振り返った。
そこには、十勝と灘の二人がいた。
◆ ◆ ◆
向かい側に芳川会長、その隣に栫井。俺の右隣に十勝で、その隣に灘。
ただ二人が新しく加わっただけだというのにあれほど静かだった席が随分と騒がしくなったと思う。
「えー佑樹それなに食ってんの?ちょっと一口ちょーだいよ、ほら、あーん」
「え、え、ちょ……」
先ほどカウンターで注文を済ませてきたばかりにも関わらず、十勝は俺の料理に手を出してくる。
別にあげることには抵抗はなかったが、口に入れろといってくる十勝に俺は狼狽した。
「十勝、行儀が悪い」
「あ、会長のそれも旨そうっすね。俺のやつと交換しませんか」
あまりにも強引な十勝に戸惑う俺を見かねたのか、芳川会長が仲裁に入るものの全く十勝は聞いていない。
うんざりしたような顔をする芳川会長は「やらない」ときっぱり切り捨てる。
これで副会長の五味以外の生徒会のメンバーが揃ったわけだけど、本当にこの時間帯人が少なくてよかったと心から思った。
いつか志摩から親衛隊のこととか聞いていたからだろうか。
だからといって無人なわけではないのだけれど。
そういえば、十勝は志摩と同じ部屋だったんだっけ。
十勝が起きているということは、そろそろ志摩も起き出す頃なのだろうか。
そこまで考えて、俺は口の中の料理を喉に詰まらせそうになる。
せっかくの食事中にわざわざ志摩のことを思い出す必要もないだろう。無意識というのは本当に怖い。俺は料理と一緒に運ばれてきた水の入ったグラスを手にとり、慌てて喉に流し込んだ。
「そういえば、五味先輩は?」
俺はグラスをテーブルの上に置きながら、隣に座る十勝に問い掛ける。
別に五味に対して用はなかったが、これで全員揃ったらなにかいいことありそうだなとかいうくだらない思考を働かせた俺はなんとなく気になって訊いてみた。
向かい側の芳川会長が少しだけ反応して、十勝が「ああ、五味さん?」とヘラヘラ笑いながら口を開く。
「五味さんは朝食は購買派だからねー。食堂には来ないんじゃね?それかまだ寝てるか」
十勝の口振りからすると五味はここには来ないようだ。
本気で全員揃ったらなにかいいことありそうと思っているわけではないので、さほど俺は落胆せずに「そうなんだ」と軽い調子で流す。
「五味になんか用でもあったのか?」
いきなり五味のことを聞いてきた俺を不思議に思ったようだ。
芳川会長は俺に目を向けながらそう聞いてくる。
「いや、特に意味はないんですけど」俺は苦笑を浮かべながら、慌てて首を横に振った。
素直に話そうかとも考えたが、いま思うとあまりにも馬鹿馬鹿しくて俺はそのまま口を閉じることにする。
「あ、もしかして佑樹、五味さんの気になるの?いやー、相手は選んだ方がいいって、まじで」
「だ、だから違うって……」
わざとらしく声を潜めて言う十勝に、俺は狼狽した。
妙な囃し立て方をする十勝に、思わず俺は顔を引きつらせる。
冗談だとはわかっているが、最近この手の冗談が笑えなくなってきていた。
それからしばらくして、十勝と灘が頼んだ料理が運ばれてくる。その頃にはもう既に俺たちは皿の上の朝食を平らげていた。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼するよ」
「えー、そんな慌てなくてもいいじゃん会長」
いいながら、椅子から立ち上がる芳川会長に十勝は不満そうに唇を尖らせる。
慌てる。十勝はそういった。慌ててるのだろうか。思いながら無事完食した俺は、トレーの上に箸を置く。
「なー佑樹。佑樹もゆっくり食べていきたいよなあ」そういう十勝に腕を掴まれ、俺は反応に困った。
食べたいもなにも、たったいま食べ終わったのだけれど。
これは遠回しに他にもなにか注文しろということなのだろうか。
悶々と考えていると、栫井は「お前だけゆっくりしてろ」と言いながらさっさと席を立つ。
芳川会長も栫井も食器を重ね始め、俺は少し慌てた。
まさかこのまま置いていかれるんじゃないのだろうか。そんな思考が脳裏を過り、俺は「ごめんね」と言いながら十勝の手をやんわりと剥がす。
「もういい!こうなったら和真とHRまで語り明かすし!」
「……」やけになってそんなことを言い出す十勝に、灘はなにも言わなかった。
「遅刻しないように行くんだぞ」芳川会長はそう言いながら、トレーに食器を乗せる。
そのまま十勝たちと別れた俺は、カウンター横の返却口にトレーを戻す。
人気も多くなり騒がしくなってくる食堂内。
俺は、カウンター側で待っていた芳川会長たちのもとへ向かった。
「それじゃあ、行くか」
やってくる俺を横目に、芳川会長はそう声をかける。
黙って頷く栫井。栫井につられ、俺は慌てて頷いた。
それから、食堂と廊下を繋ぐ扉を押し食堂を後にする芳川会長に続いて俺は食堂から出ていく。
多数の生徒が行き交う廊下に、見慣れた生徒はいない。
人がこうも多いと、意味もなく周りを警戒してしまう。知り合いはいなかったが、視線が結構痛かった。
様々な店舗が並ぶ広い通路を通り、寮の昇降口を目指して歩く。通り過ぎていく生徒の中、俺は芳川会長の斜め後ろについて歩いた。やはり俺たちの間に会話というものはなく、ただ黙々と歩いていく。
昇降口付近。
扉を押し開き、そのまま外へ出ようとする芳川会長の後についていこうとしたとき、ふと背後から視線を感じた。
先程からずっと視線を感じていたのでいまさらそのことに動じはしない。振り向こうとせず、そのまま扉から外へでようとしたときだった。
「齋籐」
不意に、声をかけられる。聞き覚えのある声。志摩だ。
ふと足が止まり、思わず俺はそのまま振り返りそうになる。
「齋籐君?どうした?」
前にいた芳川会長が、急に足を止めた俺を不思議に思ったのか、心配そうに顔を覗き込んできた。
少し驚いたが、俺は「なにもありません」と言いながら振り向かずに寮を後にする。
数分も経っていないのに、全身から変な汗が滲んでいた。無視、しちゃった。今さらになって後悔してくる。
「それならいいけど」
やっぱり心配そうな芳川会長は、言いながら止めていた足を再び動かし歩き出した。
隣にいた栫井はなにか言いたそうに俺を一瞥すれば、そのまま芳川会長の後についていく。
教室で、志摩になにか言われたらどうしよう。
そうだ、声が聞こえなかったって言おう。そうしたら、志摩もわかってくれるはずだ。そんなことを考えながら、俺は慌てて二人の後を追いかけた。言い訳を考える自分に嫌気がさしたが、今さらかと一人納得する俺。それでもやっぱり、志摩のことを考えると気が滅入ってしまう。
今戻って志摩の元に行くのも考えたが、なんとなく気が乗らなかった。この場であーだこーだ考えても仕方ない。俺は半ばやけくそになって強引に思考を止める。
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