02
なにを言い出すんだこいつは。
あまりにも突拍子のないことを芳川会長に要求してくる櫻田に、俺はソファーの皮に爪を立てる。おかしいだろ、それ。いや、櫻田にとったら普通なのだろうか。
会話に聞き耳を立てる第三者の俺がこんなに混乱するのもおかしい話だが、なんでだろう。
芳川会長がそんな馬鹿馬鹿しい条件を飲むはずないとわかっているのに、なんだか胸糞が悪かった。
「……なにを言っているんだ、君は。まだ寝惚けているのか?」
冷めたような芳川会長の声。冷静な芳川会長に酷く安心した自分がいた。
次の瞬間、バンッと何かを蹴るような音が部屋に響く。
「おいっ、櫻田!」
慌てたような荒い芳川会長の声。喧しいくらい響く足音。ソファーの影に隠れていた俺はなにが起きたのかわからなくて、ビックリしてつい顔を出しそうになる。
が、先ほどの大きな音が扉を蹴る音と気が付いた俺はそれを躊躇った。
「どーせあの二年でも連れ込んでるんだろ?さっさと出てこいよ、なあ」
乱暴な足音と共に櫻田の声が段々近くなる。
その言葉が恐らく自分に向けられていることに気が付いた俺は、顔面を青くした。
正直今すぐ名乗り出たかったが、わざわざここまで芳川会長が庇ってくれたのにも意味があるのだろう。
どうすればいいのかわからなくて、心臓を跳ね上がらせながら俺は静かに櫻田を伺った。
「だから誰もいないと言っているだろう」
語気を荒くした芳川会長の声とともに櫻田のものらしき足音が止まる。
物凄いスピードで俺の寿命が縮んでいく中、取り敢えず櫻田に見つからずに済んだことが奇跡のように感じた。
暫くの沈黙の末、最初に口を開いたのは櫻田だった。
「なんでそんなに慌ててんの、会長。誰もいないなら慌てなくていいじゃん」
どこか不貞腐れたような櫻田の声。
そりゃあここまで邪険にされたらそうなってしまうのも仕方ないかも知れないが、櫻田も櫻田でなかなかいい勝負だと思う。なんというか、嫌な空気。
「別に俺、会長の部屋はいんの初めてじゃないんだしさ今さら照れることっすか?」
なんだそれ、初耳だぞ。
櫻田のことだから今日みたいなことは毎日ありそうだが、そこまでいっているのかというか結構仲いいんだなというか。なんか胃がムカムカしてきた。どこか白々しい櫻田の言葉に、芳川会長は押し黙る。
否定しないということは、本当だったのか。
「キスすればいいんだったか」
「あ?」
「さっさと目を閉じろ。したら、すぐに部屋から出ていけ。すぐにだ」
「……っ?!」
まさか芳川会長がそんなこと言うなんて思っていなかった俺は、思わずソファーから顔を出す。
嘘だろ、そこまでするのか普通。
まず目についたのが櫻田の後ろ姿。不意に、櫻田の両頬を手で鷲掴む芳川会長と目があった。
『隠れていろ』そうソファーに目配せをする芳川会長に、俺はブンブンと首を横に振る。
自分のためにわざわざ芳川会長がそんなことをする必要はないし、でもだからといって下手な真似はしたくない。どこまでも欲張りで保身的な自分に嫌悪感すら覚えた。
やけになって名乗り出ようかと構えたが、なんと言って飛び出せばいいのかわからず、今のところ俺はソファーから抜け出せずにいる。
『俺ならここにいるぜ!』いやちょっと恥ずかしいな。
『もしかして俺のことを探しているのか』ううん、なんか恥ずかしい。
『やめろ!会長が嫌がってるだろ!』一番しっくりきたが、これじゃ火に油を注ぐようなものだ。
あーだこーだ考えているうちに、芳川会長の顔が櫻田に近付く。
どうにかして芳川会長を助けたかった。助けたいのに、なにをすればいいのかわかず俺はヤケクソになってソファーの影から這い出る。
「待っ……っ」
唇と唇が重なる直前ノロノロと飛び出した俺はそのまま櫻田の腕を掴み芳川会長から離そうと腕を伸ばそうとして、躓いた。正確には、足首を捻った。
「うわっ」
櫻田に手を伸ばした状態でバランスを崩した俺は、そのまま櫻田の腰に抱き着くような形で倒れ込む。
その瞬間、室内にゴッと嫌な音が響いた。その音がなんの音か考えただけで全身の血の気が引いていく。
「つー……っ」
声にならない芳川会長の呻き声。
口許をおさえながら櫻田の肩を押す芳川会長は、フラフラと後ずさる。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「やっぱり、またお前か……っ」
芳川会長同様口許を手で覆った櫻田はこれまた芳川会長同様涙目になって背中に凭れる俺のネクタイを無理矢理掴む。
「ごっ、ごめんなさい。ぶつかるつもりはなかったんです」
顔を強張らせる櫻田に、俺まで涙目になりながら慌てて謝罪した。
本当だ。ぶつかるつもりはなかった。本当はかっこよく登場して芳川会長を助けるつもりだったんだ。
胸ぐらを掴まれるような形で睨み付けられ、なんだか俺はいまなら土下座できそうな気がしてきた。
後輩相手に敬語になってしまうのはなんとも情けない話だったが、相手がかなり怒っているだけに仕方がない。
「齋籐君、あれほど隠れていろと……」
「すみません、つい……っ」
呆れたような驚いたようなそんな芳川会長の声音に、俺は自然と肩が狭くなる。
結果からして二人がキスをするのは止められなかったのだが、それでもやっぱり芳川会長に迷惑をかけたくなかったのだ。完全なやぶ蛇だった。
こうなるならおとなしくしとけばよかったと思ったが、それでもやっぱり二人のキスは止めたかった。理由はわからない。単に俺の自分勝手なあれであることには違いないのだけれど。
「まじで、いい加減にしろよ。お前まだ会長に付きまとってんのかよ、あのでかいやつはどうしたんだよ」
至近距離でガン飛ばされ、真っ青になる俺は額から冷や汗を滲ませ目を逸らす。
でかいやつとは恐らく阿佐美のことだろうか。
「だから、あいつはただのルームメイトだって……」俺は息苦しさに顔をしかめながら櫻田に答える。
それに、今回は俺が好きで付きまとっているわけじゃない。たぶん。
「櫻田、お前なんか勘違いしてるだろう。取り敢えず、その手を離せ」
「は?会長までコイツのこと庇うわけ?」
まで?
ということは芳川会長の他にも誰か俺を擁護してくれている人がいるということなのだろうか。
ひょんな事実に、場違いながらも俺はなんだか嬉しくなる。
櫻田でも、芳川会長の言うことは素直に聞くようだ。少しだけネクタイを引っ張る力が緩む。
「庇うもなにも、当たり前だろう。齋籐君は俺の友人だ。君が思っているようなことは一切ない」
そう言い切る芳川会長は諭すように櫻田の目を見詰めた。
『友人』と言われ、少しだけ戸惑ってしまう。
最近よく聞く単語なのだが、なんとなく響きが違うように感じた。
全身がこそばゆくなり、俺は視線を宙に泳がせる。
「とにかく、約束は約束だ。すぐに部屋から出ていきなさい」
櫻田が口を開く前に、芳川会長は釘を刺すように続けた。
「……」むっすりと拗ねたような顔をする櫻田はじとりと俺を一瞥すれば、素直に俺のネクタイから手を離す。
芳川会長の前だとこうも甘くなるものなのか。
なんとなく櫻田の弱味を見つけたようで内心テンション上がる俺に、櫻田は「糞が」と忌々しそうに吐き捨てた。心臓がひゅんとなる。
「会長なんてもう知らねえ!」
どこぞのヒロインのような捨て台詞を吐きながら、櫻田はバタバタと部屋から出ていった。
バタンと音を立てて閉まる扉。
芳川会長は小さな溜め息をつくと、そのままフラフラとソファーに座り込んだ。
「……ほんと、すみません」
つられてソファーに腰を下ろす俺。それ以外の言葉が見付からないのだ。
「ああ、そうだな」芳川会長は俺を横目で一瞥し、そう頷く。ああ、やっぱり怒ってる。
無理もない。約束を破った上に芳川会長に迷惑をかけたのはどこの誰でもないこの俺だ。
「あまり、自分から面倒に首を突っ込むような真似はしないでくれ」
芳川会長は眼鏡を直しながらそう俺に言った。
これも、俺を心配してくれている上の発言だと思うと頭が上がらない。
俺は「ごめんなさい」と項垂れた頭を少しだけ持ち上げる。
「いや、でも、助かったよ。……ありがとう」
落ち込む俺に気を遣ってくれているのか、芳川会長はそう慌てて言い足す。
褒められた。それが気遣いだとわかっていても、普通に嬉しかった。
「俺のことは気にしなくていいから、君は自分のことだけを気にしていてくれ」
念を押すように続ける芳川会長。
その言葉の意味がいまいち理解出来ず、俺は不思議そうに芳川会長に目を向けた。目は合わない。
会話が途切れ、再び静まり返る部屋の中で芳川会長は伸びをする。
「なんか、説教臭くなってしまったな。悪い」
黙り込む俺に、芳川会長は苦笑を浮かべながらそう言った。
謝りはするが前言撤回をしない辺り、芳川会長が俺を心配していることには間違いないようだ。なんとなく、こそばゆい。
「いや、大丈夫です」俺は慌てて首を横に振る。そんな俺に対して芳川会長は小さく笑うだけだった。
「それじゃあ、俺達もそろそろ出ようか」
そう言う芳川会長は、壁にかかった時計に目を向ける。
少しまだ早い時間帯だったが、寧ろ丁度いいくらいかも知れない。
「そうですね」言いながら俺は芳川会長の言葉に同意した。
ソファーの側に置いていた鞄を肩に下げ、俺は芳川会長と共に部屋を後にする。
「……おはよーございます」
四階廊下前。
扉から廊下に出ようとして、壁際に立っていた生徒はそう挨拶してくる。栫井だ。
相変わらずパーマなのか寝癖なのかよくわからないような頭をしている栫井は、言いながら俺の前にいた芳川会長に目を向けた。どうやら、というか間違えなくその挨拶は芳川会長に向けたもののようだ。
「……ああ、おはよう」
少しだけ目を細めた芳川会長は、栫井を一瞥しそう答える。
ああ、そう言えば芳川会長にキスマークのことバレてたんだっけ。そこまで考えて、下腹部がズキズキと痛んでくる。うう、逃げ出したい。
「……」
栫井の横を通り過ぎ、先を歩いていく芳川会長。
なるべく離れないよう、慌てて俺は芳川会長の後をついていこうとするが栫井の前を通ったとき強く肩を掴まれた。
「……な、なに」
構えてはいたが少しだけ怯んでしまった俺は、ビックリしたような顔をして栫井の顔を見た。
そんな俺に対し、無言の栫井はじっと俺の顔を見詰める。間近でガン見されるのはあまり気持ちがいいものではなく、俺は栫井の腕を振り払おうとした。
「なにしてるんだ、栫井」
不意に、芳川会長が栫井の名前を呼ぶ。
それは怒鳴るようなものでもいつものように優しいものでもなく、ただ静かな声だった。
「お前は俺の後ろだろう。さっさとこっちに来い」
芳川会長はそう栫井に言う。
「……スイマセン」暫く黙り込んでいた栫井だったが、黙って俺から手を離した。
やけに会長の言うことは素直に聞くんだな。
芳川会長の元へ歩く栫井を目で追いながら、俺は目を丸くする。
「齋籐君、君もだ。こっちに来なさい」
栫井から視線を離した芳川会長は、言いながら俺に顔を向けた。
先程とは打って変わって優しげな笑みを浮かべて俺を呼ぶ芳川会長に、俺は少し戸惑いながらも言われるがまま芳川会長の元へ向かう。
芳川会長の側に立つ栫井に目を向けた。目が合って、すぐに逸らされる。
「では行こうか」
俺が来たのを確かめ、芳川会長は再びエレベーター乗り場へと向かって歩き出した。
芳川会長に遅れを取らないようについていく俺に、一歩下がって芳川会長の後ろを歩く栫井。
なんとなく、妙な面子だと感じた。俺としては、かなり最悪な組み合わせなのだが。
「……」
芳川会長は怒っているわけでもなさそうだったが、なんとなく声がかけにくかった。
理由はたぶん、栫井の前だから。確信があるわけではないが、そう思った。
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