天国か地獄


 01

 気が付いたら、もう朝だった。開かれたカーテンからは陽射しが差し込んでいて、先ほどまで暗かった室内は明るく照らされている。

「んん……」

 背凭れから背中を浮かせた俺はぐっと背伸びをしながら、部屋を見渡した。
 見慣れない部屋。そうだ、確か俺、芳川会長の部屋に泊まったんだっけ。あやふやな記憶を呼び起こし、俺は大きなアクビをする。
 どうやら俺はいつの間にかに眠っていたようだ。だからだろう。俺にはカーテンを開いた覚えはない。
 そこまで考えて、俺はソファーに目を向けた。そこにあるはずの芳川会長が見当たらず、膝の上のかけ布団を横にずらしソファーから腰を持ち上げた。部屋を見渡すが、どこにも芳川会長らしき姿はない。
 もしかすると生徒会でなにかあったのだろうかと思ったが、まだ早い時間帯だ。流石にないだろう。そうは思うがその確信はどこにもない。
 物寂しい思いをしながら、俺はテレビのリモコンを手に取り電源を入れた。たまたまつけたそのチャンネルでは朝のニュース番組が放送されていて、俺は表示された時刻に目を向ける。
 活動するにはまだ早い時間だ。

 リモコンをテーブルの上に戻そうとして、そこで俺はようやくテーブルの上の物体の存在に気付く。
 丁寧に畳まれた制服。その上には小さな紙切れがちょこんと乗っていた。俺はいまだ眠気の取れない瞼を擦りながら紙切れを拾い上げる。
 その紙切れには『洗濯しておいたから着てくれ』と書き殴られていた。
 間違いなくこれは芳川会長が執筆したもので、テーブルの上の洗濯は俺のものなのだろう。意外と字が汚ないななんて失礼なことを思いつつ、俺は制服を手に取った。少しだけ暖かい。
 紙切れをテーブルの上に戻した俺は再びテレビに目を向け、一旦ソファーの上に制服を置くことにした。
 小さなアクビを噛み締めると、そのまま俺は便所へと足を運ぶ。
 取り敢えず、芳川会長はもう一度部屋へ戻ってくるのだろうか。それだけが心配だった。
 書き置きの内容を思い出し、そのようなことに触れていないので恐らく戻ってはくるのだろうけれどやはり気になるものは気になる。というかそうじゃないと困る。
 いつか志摩たちの部屋に泊まったときの翌朝を思い出し、俺は背筋を凍らせた。ここまでしたのだから最後まで面倒を見てほしい。我ながら図々しい思考だと思ったが、阿賀松のことを考えればそう思わずにはいられなかった。
 個室に入り、扉を閉めた俺は力無く溜め息をつく。言葉で言い表すなら、このままずっと便所に引きこもりたい気分だった。
 用を済ませ、便所を後にする。やはり阿賀松のことが気掛かりで、スッキリした気分にはなれなかった。
 その足で洗面所へ向かい、扉を開き中へ入る。やはり芳川会長の姿は見当たらない。
 洗面台の前に立った俺は蛇口を捻り手を洗いながら悶々と色んなことを考えていた。
 それももしこのまま芳川会長が戻ってこなかったらどうしようだとか、そんなネガティブな内容ばかり。
 俺は気を紛らすように顔に水をかけ、そのまま顔を洗った。
 戻ってこなかったら……一体俺はどうするのだろう。このまま部屋から出ずに大人しく芳川会長の帰りを待つのか、それとも遅刻しないように教室へ向かうのか。
 学業が本分な分、学生の俺は必ず後者を実行しなければならないだろう。例えどんなに嫌なことがあったとしてもだ。一頻り洗顔した俺は、蛇口を捻り水を止める。側にあったタオルに手を伸ばしかけ、俺は慌てて手を引っ込めた。
 あくまでこの部屋は芳川会長の部屋であって、この部屋にあるものはどれも芳川会長の所有物だ。勝手に使うのは気が引ける。水滴が顎から首筋へと伝わり、俺はそれを袖で拭った。
 会長がくれたお風呂セット、あれどこいったっけ。確かあのセットの中に使ってないタオルが入ってあったはずだ。考えながら、俺は洗面所の中を探し始める。
 探し物のお風呂セットは、案外簡単に見つけることができた。場所は洗面所にある棚の上、それは置いてある。俺は乾いたタオルを手に取り、濡れた顔を拭った。もう自然乾燥でいいかなと諦めかけていたところだったので、お風呂セットの発見はあまり喜ばしくは感じない。まあ、見つかってよかったのだけれど。
 俺はタオルを手にしたまま洗面所を後にした。相変わらず芳川会長は戻ってこない。
 ソファーに近付き、制服を手に取った。ジャージのファスナーを下ろし上着を脱ぎ、俺は制服に着替えようとする。丁度その時、微かな物音とともに部屋の扉が開いた。ワイシャツを羽織り、一段一段ボタンを留めていた俺は少しビックリしながら扉の方に顔を向ける。
 そこには芳川会長が立っており、会長も会長でビックリしたような顔をしていた。

「あ……」

 おはようございます、といいかけてバタンと派手な音を立てて閉まる扉にその言葉を塞がれる。
 てっきり部屋に入ってくると思っていた俺は、廊下で俺が着替え終わるのを待っている(はず)の芳川会長のために慌てて制服に着替えることにした。指定のブレザーを羽織り、俺は廊下に繋がる扉に歩み寄る。

「あの、もう着替えました。だから、その、大丈夫です」

 自分でもなにを言っているのかわからなかった。
 言いながら軽く扉を叩くと、すぐに扉が開く。

「結構早いんだな、君は」

 芳川会長はなんとも言えないような顔をしながら、そう咳払いをした。
「え?」その言葉の意味がよくわからず、俺は芳川会長の顔に目を向ける。

「起きるのが早いな、という意味だ」

 芳川会長は扉を閉めながらそう言い足した。
 いつもこんな時間帯に起床しているかどうかと言われれば微妙なのだが、いちいち否定するのもあれだったので俺は「まあ、はい」となんとも曖昧な言葉で濁す。芳川会長は俺を一瞥すると、部屋に上がった。
 どこに行っていたのか気になったが、なんだか詮索してるみたいで嫌だったので俺は敢えて何も言わずに芳川会長を視線で追う。

「ん?どうした?」

 俺の視線に気が付いた芳川会長は、不思議そうに笑った。
「あの、なんでもないです」俺は慌てて芳川会長から顔を逸らせば、そう口ごもる。そんな俺に対し「そうか?」と笑う芳川会長。なんとなく、機嫌が良さそうだった。根拠はないけど、そう感じた。

「ああ、そうだ」

 芳川会長は思い出したようにそう声をあげれば、部屋にある棚に歩み寄る。
 戸棚の引き出しを開き、なにかを探し始める芳川会長。俺はその姿を遠巻きに眺めていた。

「ああ、あったあった」

 どうやら探し物が見つかったようだ。引き出しから長方形の箱を取り出した芳川会長は、そう声をあげる。
 なにを探していたのだろうか。気になった俺は芳川会長の手の中にあるその箱に目を向けた。

「齋籐君、こっちに来てくれ」

 箱を開き、中から何かを取り出した芳川会長はそう俺を手招きする。
 絆創膏。芳川会長の手には数枚の絆創膏があった。
 全くもって芳川会長の意図がわからなかった俺は、頭上にクエスチョンマークを浮かべたまま芳川会長の元に寄っていく。

「少し、顎上げてくれ」

 芳川会長の前で足を止める俺。芳川会長はそう言いながら、俺の首に触れる。

「え?……あ、こうですか」

 言われるがまま、軽く顎をあげる俺。そこまでして、ようやく芳川会長がなにをしようとしているのかがわかった。ピリッとなにかを破くような音がして、首筋に絆創膏を貼られる。なんとなくこそばゆい。
 どうやら、芳川会長はキスマークを隠してくれているようだ。その気遣いは酷く嬉しいが、その優しさが俺に取ってかなり辛い。
 なんと言えばいいのだろうか。言い表せないようなもどかしさが喉元に引っ掛かる。
 このまま晒して人前に出るのもそれはそれで嫌なのだが、こうして芳川会長に見られるのも嫌だった。
 天井にぶら下がる照明を見上げる顔に、じわじわと熱が集まっていく。
 何枚の絆創膏が自分の首に貼られているのかを考えれば考えるほど死にたくなる。
 ただひたすら天井を見上げる俺に対し、芳川会長は何も言わずに絆創膏を貼った。

「……」

 せめて、気を紛らせるよう芳川会長に話し掛けようとはするが肝心の話題がなく俺は悶々とする。
 気まずい。こうして天井に顔を向けていると芳川会長の顔が見えないからだろうか、なんとなく不安だった。

「……よし、終わったぞ」

 その声と同時に、首に当てられていた芳川会長の手が離れる。俺は内心ほっとしながら、ゆっくりと顔を下げた。すぐそばに芳川会長の顔があってビックリする。

「一応、これ、君に渡しておくよ」
「あ、ありがとうございます」

 そういう芳川会長は絆創膏の入った箱を俺の手に握らせた。
 俺は戸惑いながらも、そう芳川会長にお礼を言う。芳川会長は、なにも言わずに苦笑を浮かべた。それにしても、ベタベタとたくさん絆創膏貼られたような気がする。思いながら、首元を擦る俺。
 首に貼られた絆創膏の感触がなんとなく嫌だった。

「取り敢えず制服で隠れないところだけ貼っておいたから、気になるなら自分で隠れているところも貼るのを勧めておく」

 そう続ける芳川会長に、俺は何度目かの「ありがとうございます」を口にしながら少しだけ考える。
 自分でもあまりまじまじと見ていないので制服の下にどれくらい痕がついているかわからなかったが、多分、芳川会長がしてくれた分で充分だろう。

「……そうだな。HRが始まるまでまだ時間があるようだけど、これからどうする?」

 芳川会長はそう言いながらソファーへと歩み寄る。
 どうすると聞かれ、俺は少し考えた。食堂にいくには少し早すぎるような気がする。
「会長に任せます」考えた末、俺はそう芳川会長に答えた。なんとも投げやりな言葉だったが、現に会長に頼りきっている俺にはそれしか言うことができない。

「じゃあ、少しだけ寛ぐか」

 ソファーに腰をかけながら、芳川会長はそう俺に笑いかける。
 寛ぐと言われピンとこなかったが、俺は芳川会長の言葉に頷き同様にソファーに腰を下ろした。

「そういえば、どこかに行ってたんですか?」

 ソファーに腰を沈めた俺は、先程からずっと気になっていたことを単刀直入に聞いてみる。
「ん?」芳川会長は俺の方に目を向けると、「ああ」と思い出したように声をあげた。

「ちょっとな。大したことじゃないよ」

 芳川会長はそう言いながら俺から視線を逸らす。どうやら芳川会長は答えたくないようだった。
 珍しく歯切れの悪い芳川会長に、返答に戸惑った俺は「そうなんですか」と返す。
 ちょっとばかし勇気を出して話題を振ってみただけに、どこか素っ気ない芳川会長の態度に凹んだ。考えすぎなのだろうか。

 たまに、芳川会長の歯切れが悪くなるときがある。
 本当に、極たまになのだが、普段から愛想がいいせいか歯切れの悪い芳川会長を見てしまうとなんだか居心地が悪く感じてしまう。
 芳川会長だって人間なのだからそれは当たり前のことなのだろうけれど、やっぱり気になった。
 気になるのだけれど、だからと言って芳川会長をそれ以上詮索したくもない。
 会話が途切れ、再び室内に静けさが戻る。次の話題を探してみるもあまりにもくだらない話しか思い付かなくて、そんな話題を振る勇気がない俺は大人しく黙り込んだ。
 芳川会長も芳川会長で俺になにか話しかけようとこちらに目を向けるも、すぐに逸らされる。
 そんな然り気無い仕草にすら地味に傷付いてしまう自分の女々しさが忌々しい。暫く、部屋に静粛が走った。そろそろなにか喋った方がいいよな。そう思って、俺は芳川会長を横目で伺う。

「……あの」

 いいかけたとき、部屋の扉が叩かれた。静かな部屋に、激しめのノック音が響き渡る。あまりにもいきなりだったもので、俺は目を丸くして扉の方を見た。
 芳川会長は暫く聞こえないフリをしてやり過ごそうとしていたが、一向に鳴り止む気配のないノックに痺れを切らしたらしい。
 浅く溜め息をついた芳川会長は、「ソファーの裏にでも隠れていてくれ」と俺に告げそのままソファーから腰を持ち上げた。
 ソファーの裏に?なんで?
 芳川会長の意図が理解できなかったが、扉に近付く芳川会長につられ俺は慌ててソファーを降りその裏側に屈み込んだ。
 そこは扉から見て死角になっており、同様ソファーの裏側からは顔を出さない限り扉の方を見れなかった。やがて、ガチャリと扉の開くような音が聞こえてくる。どうやら芳川会長が扉を開いたようだ。

「……また君か。周りに迷惑になるからノックは三回で止めてくれと言っているだろう」

 ほとほと呆れたような芳川会長の声がする。『また』ということは今回が初めてではないようだ。
 ソファーの陰で、俺はひっそりと聞き耳を立てる。
 本来ならば盗み聞きはあまり得意ではないのだが、こういう状況なだけになんとなく扉の向こうの相手が気になったのだ。仕方ない。言い訳めいた言葉を脳裏に並べつつ、俺はちらりとソファーの隅から片目を出して扉の方に目を向けた。

「だって会長すぐ出てきてくんないじゃん!それが嫌なら廊下に出て俺くんの待っててよ!!」

 もしかしてとは思っていたが、見事俺の予想は的中する。
 ぶりぶりと猫撫で声で芳川会長に絡む長身の男。短いスカートに露出した長い足。
 芳川会長の影になっていて顔はよく見えなかったが、この学園でスカートを穿いた生徒は一人しかいない。
 間違えない、櫻田だ。
 嘘だろ、あいつ部屋まで押し掛けてんのかよ。まさか櫻田が来るなんて思いもよらなかった俺は、慌てて顔を引っ込めた。いや、櫻田のことだ。まんざら可笑しい話でもない。見付かったら、絶対面倒だよな。
 自然と背中に冷や汗が滲んできた。

「ああ、そうだな。気を付けるよ。それじゃあまた……」

 言いながら一方的に会話を終わらせようとする芳川会長。
 次の瞬間、ガッと何かが挟まるような音が聞こえる。

「ちょ、ちょ、ちょ、なんで閉めるんだよ!一緒に食堂に行きましょうよ!」

 慌てたような櫻田の声。どうやら強引に扉を閉めようとした芳川会長に、櫻田が足なり指なりを挟めて粘ったようだ。俺だったらここまでされると確実に泣いちゃうかもしれない。思いながら、俺はちらりと片目を出して扉の方を伺う。
 半分扉を閉めた芳川会長の背中が見えた。ここから扉の隙間にいる櫻田の姿を見付けることはできなかったが、まだいるのだろう。

「悪いが、いま少し手が離せないんだ。また今度にしてくれ」
「えーじゃあなんか手伝いますよ俺」
「遠慮しておく」

 扉に向かってハッキリと切り捨てる芳川会長。
 まだ粘る櫻田に感心しつつ、俺はいつまでここに居ればいいんだと心配になってくる。

「なんでなんでなんでー?あ、もしかして中に誰かいるんですか?」

 ふと、駄々っ子のように駄々を捏ねる櫻田の言葉に俺は体を強張らせた。

「そ……んなわけないだろう。だとしても、君には関係ないことだ」

 図星を指された芳川会長は分かりやすいくらい動揺する。
 気持ちはわからないこともない。咄嗟に物陰に頭を引っ込めた俺は、口許を手で覆い息を潜めた。
 扉まで呼吸の音が聞こえるはずがないってわかっているのに構えてしまうのは人の性だろう。

「関係あるし!!こんなに俺、会長のこと大好きなのにい!」
「わかったから、わかったから声の音量を小さくしてくれ」

 喚くようにそんなことを口走る櫻田に狼狽する芳川会長。
 毎朝こんな調子だと思うと、なんだか芳川会長に同情してしまう。

「えーまじで駄目なんすか」
「ああ、諦めてくれ」
「えー」
「申し訳ないとは思ってる」
「うー」

 あまりにもしぶとい櫻田に、段々芳川会長が弱気になってくる。
「じゃあ」ふと、唸り声を漏らしていた櫻田がなにか思い付いたように声を上げた。
 嫌な予感がする。
 そう感じたのは芳川会長も同じだったようだ。
「……なんだ」櫻田にその先を促す芳川会長の声には覇気がなく、どこか諦めたような色が滲んでいる。

「俺にキスしてくださいよ。そしたら大人しく帰るんで」

 思わず俺は床に頭突きしそうになった。

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