05
「なにモタモタしてんだよ……ノロマ」
いきなり縛られケツにペンを突っ込まれたと思ったら今度はさっさと服を着ろ。
そこまで柔軟な性格をしていない俺も、さすがに慌てた。
感覚が鈍った手首をぐるぐる回して血管の通りをしていると、ソファーに寄ってきた栫井に無理矢理ケツのペンを引っこ抜かれる。
「痛……っ」
「いちいち感じんなよ」
なんなんだもう。なんでこいつはこんなに偉そうなんだ。
なにか言い返してやりたかったが、肛門が痛すぎてそれどころじゃない。
引き抜いたペンを手にした栫井は、そのまま室内に取り付けられたゴミ箱に捨てる。
反射的になんて勿体ないことをするんだと思ったが、さすがに自分の中に入っていたペンを使わせるのも酷い話だと思った俺は口を紡いだ。下腹部が痛い。間違いなく栫井のせいだ。
言ってやりたいことは色々あったが、ここへ灘が来る前には服だけでも整えておきたい。
なんで俺がこんな必死にならないといけないんだ。内心毒づきながら、ソファーから立ち上がった俺は脱がされた下着とズボンをあげベルトを締め直す。
ズキズキと痛む下腹部に若干涙ぐみつつ、俺は慌てて制服のボタンに手を伸ばした。
そのとき、生徒会室の扉が叩かれる。
『灘です。失礼します』
どうやら、もう来たようだ。
扉越しに聞こえた高揚のない声に、俺はギクリと肩を強張らせる。俺は扉に背中を向け、慌ててボタンつけた。おかげで段違いになり、再びボタンを外すはめになる。
「……どーぞ」
いいながら、扉の方へ歩み寄った栫井は生徒会室の扉を開いた。
無事、下半身露出したまま灘を迎えるということにならずに済む。息を潜めるようにして、栫井たちのいる扉に背中を向けたまま黙り込んだ。
足音が近付いてくる。中途半端に掻き乱された下腹部が熱くなって、俺はバクバクと心臓を跳ね上がらせた。
「あの、これ」
ふと、背後から灘の声が聞こえる。
「教室から取って来たので」そう言いながら灘が俺に渡してきたのは、俺の鞄だった。
そういえば、昼休みにここに来てから一度も教室に戻っていない。
「あ、ありがとう……ございます」丁寧な灘の口調に感化され、俺まで敬語になってしまう。
灘から渡された鞄を手にし、俺はそれを膝の上に置いた。尻に体重がかかって地味に痛かったので、慌てて自分の横へ鞄を移動させる。
「……」
ふと、顔をあげると灘と目があった。俺の視線に気が付いた灘は、そっと自分の首筋を指先で叩く。
……首?
俺はつられて自分の首を見ようとして、その代わりに鎖骨に残った無数の赤い痕が目につく。全身の血の気がリアルで引いていくのがわかった。
「灘、わざわざ悪いな」
扉の前から俺たちを眺めていた栫井は、そう灘に言った。
それを言うべき相手はもう一人いるんじゃないのかと突っ込みたかったが、後が怖いので大人しくすることにした。
「……」ソファーに座る俺から離れた灘は、小さく首を横に振る。
流石の灘もなにか言ってくるんじゃなかろうかと構えていただけに、相変わらず落ち着いた灘の様子に内心胸を撫で下ろした。
「会長が、もう少し我慢しろって……」
扉付近にいる栫井に歩み寄る灘はそう呟くと、そのまま生徒会室の扉を開き部屋を後にする。
それを黙って聞いていた栫井は、灘が廊下に出たのを確かめれば扉に鍵をかけた。
どうやら、栫井はまだ俺をここから出すつもりはないらしい。
脇に置いた鞄を強く掴みながら、俺は近付いてくる栫井の気配に小さく反応する。
「……」
ソファーに近付いてきた栫井は、そのまま俺の横を通りすぎ向かい側のソファーに腰を下ろした。
栫井の動作ひとつひとつにビクビクしながら、俺は向かい側の栫井と目が合わないように微妙に焦点をずらす。
先ほどまでとんでもない目に遭わされていたというのに、こうして何事もなかったように二人きりの状態が続くのは結構つらい。というより、栫井と二人きりというだけで普通につらい。
お互い沈黙のまま、時間は過ぎていく。
まるで監視でもしているかのようにじっと俺を見据える栫井に、俺は冷や汗を滲ませながら爪先を眺めていた。
ふと、どこからか微かな物音が聞こえる。なにかを引き摺る、というより転がすような小さな音だ。
栫井は扉の方へと目を向けると、ソファーから腰を持ち上げる。それとほぼ同時に、生徒会室の扉がノックされた。
次から次へと、千客万来というやつだろうか。そんなことを考えながら、俺は扉へと近付く栫井を視線で追う。
黙って扉を開いた栫井は、扉の向こう側にいる訪問者を確かめ扉を全開させた。
そこには、どこかで見たことがあるような銀色のワゴンが置いてある。
「ご苦労様でした」
ワゴンを運んできたウェイターにそう告げると、栫井はウェイターを帰らせた。
どうやら、物音はこのワゴンを押すときのもののようだ。
栫井はワゴンに取り付けられた取っ手を掴み、栫井はそのままそれを生徒会室の中へ持ってくる。
ワゴンには昼間のようなバカみたいな数の皿はなく、一人分にしては少し多いんじゃないのかと思う程度の皿が乗っていた。
栫井は生徒会室の扉を閉めれば、そのまま鍵をかける。
「……」
扉の戸締まりをしっかりとした栫井は、扉付近にワゴンを残したままソファーへ戻ってくる。
先ほどの栫井と会長の通話からして、これは俺の分の晩飯のようだが栫井は『好きに食べていいから』とも『勝手に食えよ』とも言わない。
ソファーに腰を下ろした栫井は、足を組みながら小さく息をつく。
それからまた人を観察でもするかのように凝視してきた。
……これは、自分から取りに行ってもいいのだろうか。
腹が空いたかと聞かれればそうでもないが、ワゴンの方からするいい臭いに妙に食欲がそそられる。
伺うようにちらりと栫井に目を向けた。ガン見してくる栫井と目が合い、俺はさっと視線を逸らす。
「……」
ごくりと固唾を飲み、やけに渇いた喉を潤した。これじゃまるでおあずけでもされているみたいじゃないか。
実際栫井にそのようなことを言われたわけではないが、相手がなにもいってこない場合俺は自由に動けなくなる。
「……」
「……」
せめて栫井が俺から視線を逸らしてくれさえしたら、勝手に取りにいくのだけれど。この調子じゃそれは無理だろう。
「……食べたい?」
ふと、栫井に声をかけられる。それはいきなりだったもので、少し驚いた俺は慌てて頷いた。
まさか栫井からそんなことを言ってくれるとは。もしかして意志疎通とかそういうあれなのだろうか。
「じゃあ自分で頼めば」
栫井はそう言えば、再びソファーから立ち上がりワゴンの方へ歩いていく。
……まあそんなことだろうとは思ったけれど。思ったけれど。
栫井がそんなにいいやつとは思わなかったが、少しくらい期待した俺が悪かったのだろうか。思ったよりも悔しくて、俺は顔をしかめる。
ソファーに戻ってきた栫井は、ワゴンを押していた。
テーブルの側にワゴンをつけ、栫井は数枚の皿をテーブルの上に静かに並べる。それを眺める俺。
「みてる暇があるなら手伝えよ。自分のだろ」
栫井はぼけっとしている俺を睨みながら、そう言った。
てっきり栫井が自分の分を並べているものかと勘違いした俺は、驚いたように栫井を見る。
どうやら先ほどのは栫井なりのジョークだったようだ。紛らわしい。
慌てて腰を浮かせようとして、俺は下半身の鋭い痛みに思わず腰を抜かす。
「……」そんな様子の俺を横目に栫井はなにも言わず、最後の一枚をテーブルの上に置いた。
栫井のせいだとはいえこれは情けない上に結構恥ずかしい。
敢えてなにも言わない栫井に、俺は気まずくなって視線を逸らした。
テーブルの上に並べられた料理。向かい側のソファーに腰を下ろす栫井は、料理を前にした俺を見据え足を組み直す。
「……」
せめて一言くらい『食べていいよ』とか言ってくれたら俺としても非常に助かるのだが、この場合もう食べていいはずだ。たぶん。
「……い、いただきます」ちらちらと栫井に伺うような視線を向けながら、俺は小声で呟く。
それを無言で聞き流す栫井。かなり食べにくい。俺は箸を手に取り、適当な皿に手を伸ばす。
「……お前さあ」
口の中に料理を入れたとき、向かい側の栫井が口を開いた。つい反射で俺は栫井の顔に目を向ける。
栫井に話し掛けられるとどうしてもいい予感がしない。慌てて口の中のものを飲み込み、「は、はい」と吃りながら返事をする。
「あんまり、調子に乗んなよ」
それはあまりにもいきなりで、一瞬栫井の言葉が理解できなかった。
自然と箸を持つ手が止まり、俺は栫井の方に目を向ける。
栫井と目が合ったが、少し驚いた俺は目を逸らすのを忘れ暫く栫井と見つめ合うような形になった。
こういうの、久しぶりに言われたような気がする。面と面向かってそんなことを言われても嬉しいはずもなく、俺の顔は自然と強張った。
栫井の言葉が忠告か、それとも単なる悪口かはわからなかった。
「……ごめん」
聞こえなかったフリをするのも考えたのだが、判断するよりも先に俺の口は動く。
散々酷い目に遭わされた相手に謝るのも可笑しい話だと思った。この様子じゃ、文句を言われるととにかく謝る俺の性格は一向に治りそうもない。
「今回だけだから」
短く続ける栫井に、俺は視線を逸らす。
「二度とうちの会長に、余計な気負わせんなよ」栫井の言葉がどういう意味かわからなくて、でも聞き返す気になれなくて、俺は目を伏せたまま押し黙った。
俺が会長に?
気負いさせるようなことは言ったつもりもしたつもりもない。
ふと、生徒会室のインターホンが煩く鳴り響いた。栫井はなにも言わずにソファーを立ち、俺に背中を向け壁に取り付けられたインターホンに向かって歩き出す。
調子に乗ったつもりはない。会長に気負いさせたつもりもない。
胸に突き刺さった栫井の一言が痛くて、頭の中でぐるぐると響いた。
そんな気分の中ご飯が美味しく食べられるわけがなく、自然と手が止まってしまう。
「……はい、こちら生徒会室」少し離れた場所から、栫井の声が聞こえた。さっきと同じ、事務的な受け答えの声だ。
「あ、会長?どうしたんですか?またなにか問題でも……」
言いかけて、栫井の声が止まる。どうやら、電話の相手は芳川会長のようだ。
なんでわざわざインターホンからかけてくるのだろうか。
もしかして、生徒会室へ来れない理由があるのかもしれない。考えたところでその理由はわからないが、やっぱり気になってしまう。
「なに言ってるんですか?……俺はやめといた方がいいと思いますけど」
呆れたようにいう栫井の語気が強くなった。
栫井が怒っているのが少し意外で、俺は肩を強張らせながら二人の通話に耳を傾ける。
インターホンの側から動かない栫井と、ソファーに座ったままの俺。
残念ながら、ここからは会長の声は聞き取れなかったがなにか揉めていることには間違えない。
「……会長?もしもし、会長?」
受話器を耳から離した栫井は暫く受話器を眺め、舌打ち混じりに元の場所へ戻した。
どうやら電話が切れてしまったらしい。明らかに機嫌が悪くなった栫井は、俺の座るソファーの側へやってくる。
「おい」背凭れの後ろに立つ栫井は、俺の肩を掴んだ。
まさか八つ当たりでもされるんじゃなかろうかと全身を強張らせる俺は、恐る恐る栫井の方を振り返る。
「食べるのを止めろ。ここを出る」
わけがわからない。栫井の言葉を聞いた俺がまず思ったことはそれだった。
「ちょっと、意味が……」
あまりにも言葉が少なすぎる。呆れたように困惑する俺は、栫井に目を向けながら眉を潜めた。
さっきのこともあってか、なんとなく素直に従う気にはなれなかった。
食事を中断するのは構わない。元々栫井たちが用意したものだから、ここで俺が食い意地を張るのも見苦しいだろう。でも、ここから出るなとかここを出るとか言われても『はいそうですか』と頷けない。少しでもいいから説明が欲しかった。
「……いまから、寮へ戻る。荷物を持ってさっさと立て」
従おうとしない俺に、栫井はそう続けながら俺の腕を掴み無理矢理ソファーから立ち上がらせる。
「だから、なんで……っ」あまりにも強引な栫井に、俺は思わず声を荒げた。
ソファーの皮を掴み、説明するまで立たないぞとムキになる俺に栫井は目を細める。
「お前の部屋に、阿賀松たちがいる」
小さく開いた栫井の口は、確かにそう動いた。
「は?」一瞬、なんでここで阿賀松の名前が出てきたのかが理解できなくて、俺の口からは素っ頓狂な声が漏れる。そこまで考えて、俺は今朝の安久とのやり取りを思い出した。
「……あ」
そういえば俺、今日、放課後に阿賀松となんか約束していたんだった。
深い眠りで薄れていた記憶が段々霧が晴れるように蘇る。同時に、俺の全身から血の気が引いていくのがわかった。
「わ、忘れてた……」
面白いくらいすっかり忘れていた。最悪だ。どうしよう。
ハッキリと覚醒する記憶に青ざめる俺は、側に置いてある鞄を手に取り栫井の腕を振り払いながら慌ててソファーから立ち上がった。
今でも遅くないはずだ。ちゃんと謝ったら、怒られずにすむだろう。部屋にいるのなら寧ろ好都合だ。混乱する思考回路。
酷く下腹部が痛んだが、俺は顔を強張らせ痛みを堪えながら生徒会室の扉へ向かおうとした。が、再び腕を掴まれ無理矢理引き戻される。
「どこに行くつもりだ」
「……どこって」
自分の部屋に決まっているじゃないか。
「い……っ」
言いかけて、強く腕を握られた俺は思わず声を漏らす。
「勝手なことをするな。なんのために会長がお前をここに閉じ込めていたと思ってるんだ」
俺の態度が気に入らなかったのか、語気を荒くする栫井は言いながら俺の腕を引っ張るように掴んだ。
勝手なことをしているのはどっちだと言い返してやりたかったが、会長の名前が出て思わず俺は口を閉じる。
もしかして、俺が阿賀松との用事があるのを知っていてこうして生徒会室から出さないようにしていたと言うのだろうか。
そう考えてしまうと、会長たちのやっていることが横暴だとわかっていても口が出せなくなる。
「そんなこと言われても……」
わからないことが多すぎて、俺は次の言葉に迷った。
口ごもる俺に、栫井は「お前は余計なことをするな」と続ける。
俺自身の問題なのに、余計なことと言われるのは心外だった。確かに、俺だけの問題というわけではないのだけれど。
「……会長のところへ行く」
栫井の言葉に、俺は顔をあげた。目的地を言わない限り俺が動かないと悟ったのだろう。渋々そう呟く栫井に、俺は少し驚いたような顔をした。寮の、芳川会長がいる場所って、会長の部屋ということだろうか。
「それって……」
「俺だって好きで連れていくわけじゃない。黙ってろ」
いいかけて、栫井に怒鳴られる。
さっきインターホンで揉めていたのはこのことだったのだろうか。
心底不愉快そうな顔をする栫井に言われ、俺は大人しくする。どうやら栫井は俺が芳川会長の部屋に連れていくのが嫌らしい。焦燥感が滲む栫井の態度からして、それがよくわかった。
栫井は、俺の腕を掴んだまま生徒会室の扉へと引き摺っていく。
人に歩幅を合わせるということを知らないのかこいつは。慌てて栫井についていく俺は、その背中に目を向けた。
栫井のいう通りに芳川会長の元へ行くのはなんとなく腑に落ちなかったが、今の状況を抜け出して阿賀松の元へ行くのは無理だと悟った俺は大人しく栫井に従うことにする。
会わずに済むのなら、阿賀松に会いたくなかった。そういう本音があるからこその判断かもしれない。
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