天国か地獄


 01

 窓の外から鳥の囀りが聞こえる。
 どうやら、朝が来たようだ。ベッドの中で丸まっていた俺は、唸り声を漏らしながらゆっくりと瞼を持ち上げる。

「……?」

 ふと、あまりにも爽やかな目覚めに違和感を感じた俺は、手探りでベッドの中を探した。
 いつも人のベッドに潜り込んでくる、ルームメイトがいない。それが当たり前のことなのに、なぜか不安になってしまう。俺はベッドから上半身を起こし、部屋を見渡した。
 阿佐美の姿はない。俺は近くに置いてある目覚まし時計に目を向ける。起床するにはまだ少し早い時間だ。
 どこに行ったんだ、あいつ。俺は気を紛らすように伸びをしながら、ベッドから降りた。すると、どこかから部屋に早朝特有の涼しい風が流れ込んでくる。
 部屋に取り付けられた窓に目を向けると、窓ガラスが開かれていた。阿佐美が開けたのだろうか。俺は目元を擦りながら、壁際に歩み寄る。寮の周りを囲うように植えられた大きな木が窓枠から覗いた。
 風が吹き、枝先の葉が小さく揺れる。

「……」

 たまにはこういうのも悪くない。思いながら、俺は小さく息を吐いた。
 ここ最近バタバタしていたから余計、気分が晴れたような気がする。もちろん、気がするだけなのだけれど。
 ふと、遠くから水音が聞こえる。俺は窓枠から視線を離すと、シャワー室のある洗面所の扉に目を向けた。
 もしかして、阿佐美だろうか。俺はそのまま洗面所まで歩いて向かう。洗面所の中へ入り、シャワー室の扉越しに中の様子を伺った。やはり、水音がここからする。
 洗面所の棚の上に、阿佐美の服が置いてあった。間違いない、阿佐美だ。流石に、人が風呂に入っているところを覗く趣味はない。
 俺はついでに洗面所で顔を洗い、身支度を整える。

『……佑樹君?』

 ふと、シャワーの音が止み、扉越しにくぐもった阿佐美の声がした。
 どうやら、俺の気配に気が付いたらしい。

「今日はやけに早起きだな」

 俺は手元にあったタオルを手に取り、水の滴る顔を拭う。
 笑いながらそうシャワー室の阿佐美に言うと、『変な時間に目が覚めちゃった』と苦笑混じりに阿佐美が答えた。

「いいことじゃないか。このまま朝型になればいいのに」

 思ったことを、そのまま口に出してみる。
 扉越しに阿佐美が困っているのがわかった。余計なお世話だったかもしれない。阿佐美の反応にハッとしながら、俺は反省する。黙り込む阿佐美に、バツが悪くなった俺はそのまま洗面所を離れることにした。
 暫く部屋でテレビを眺めていると、洗面所から阿佐美が出てきた。湿った髪が風呂上がりだということを教えてくれる。

「朝風呂気持ちいいよ。佑樹君も入ったら?」

 言いながら、阿佐美は首にかけたタオルで首筋を伝う滴を拭う。仄かに上気した頬を緩め、阿佐美はそのままソファに腰をかける俺に歩み寄ってきた。

「じゃあ、そうするよ」

 俺は阿佐美と入れ替わるようにソファから立ち上がると、クローゼットの元に行く。
 中に仕舞っていた制服を取り出し、俺は阿佐美に見送られながら洗面所へと向かった。
 元々、朝に入ろうと思っていたし、丁度いい。
 静かに洗面所の扉を閉め、俺は一息つくと着ていた服を脱ぎそのままシャワー室に向かった。
 先に阿佐美が入っていたせいか、シャワー室には湯気が立ちこもっている。湯船につかるほどゆったりする時間はあまりない。俺はバスタブの中に腕を突っ込めば、底についた栓を抜いた。ゴボゴボと音を立て水がなくなっていくのを横目に、俺はシャワーを手に取る。
 また今日も一日が始まるんだ。
 朝、目を覚ましてはいつもそんなことを考え、自分から憂鬱な気分になってしまう。俺は小さく溜め息をつけば、シャワーから溢れる熱湯を頭からかぶった。シャワーを浴び、体を洗い終えた俺はシャワー室を後にした。濡れた全身をバスタオルで拭い、予め用意していた制服を身に纏う。それから俺は、洗面台の側にある棚の上のドライヤーを手に取り髪を乾かした。鏡に映る自分と目を合わすのが嫌で、自然と伏し目になる。髪が乾いたのを確かめ、そこで俺はドライヤーの電源を切った。

「……ふぅ」

 ひと息をつき、ようやく準備を整えた俺は扉を開き阿佐美のいる部屋へ戻る。同様、制服に着替えている阿佐美はソファに腰をかけテレビを見て寛いでいた。
 阿佐美はちらりとこちらに顔を向けると、「スッキリした?」と笑いかけてくる。
「お陰さまで」つられて微笑み、言いながら俺は阿佐美の座るソファに近寄った。

「準備出来たんだったら、もう行くか?」

 俺は微妙な間を空け、阿佐美の隣に腰を下ろした。
 阿佐美は少し驚いたように俺の方を見ると、「どっちでもいいよ」とそっぽ向く。
 どっちでもいいと言われ、困った俺は阿佐美から視線を逸らしテレビ画面に目を向けた。
 登校するにはまだ早い時間帯だ。いま朝食を取っても、まだ時間にゆとりがあるだろう。別に、用がある訳じゃないしな。そんなに急いで教室に入る必要もないだろう。
 俺は背凭れに寄り掛かり、肩の力を抜いた。いつから自分はこんなに物事に消極的になったのだろうか。自分の思考に、思わず俺は苦笑を浮かべる。
 それから、暫く阿佐美と一緒にテレビを見て時間を潰していた。
 お互いあまり話さない方なので交わした会話もぽつりぽつりとしたものだが、時間というものは意外と早いものらしい。あっという間に、他の生徒たちが行動し出す時間になる。

「そろそろ行こうか?」

 言いながら、俺はソファから腰を浮かし立ち上がった。
 もしかしたら志摩がくるかもしれない。そう思った俺はソファの側に置いていた鞄を手に取り、肩からかける。
「うん」阿佐美はそれだけを言えば、ソファから立ち上がった。妙にしおらしい阿佐美の態度に、俺は少しだけ生ぬるい気持ちになる。阿佐美の気分の上がり下がりが極端なのはいまに始まったことではないが、なんとなく気になってた。そんなこといちいち気にしてたらキリがないのもわかっているが、これが自分の性分なのだから仕方がない。

「……」

 扉越しに、廊下の喧騒が聞こえた。この時間帯になると扉の外が賑やかになってくる。
 俺はそれを聞き流しながら、鞄を拾い上げる阿佐美を横目にテレビのリモコンを手にした。

「準備できた?」
「できたよー」
「忘れ物は?」
「なーい。……多分」

 俺は、阿佐美に確認を取りながらテレビの電源を切った。
 語尾を濁す阿佐美。曖昧な阿佐美の言葉を信じたわけではないが、別にわざわざ確認させることもないだろうと悟った俺は何も言わずに手に持ったリモコンをテーブルに置く。
 玄関で靴に履き替え、俺は阿佐美と共に部屋を後にした。

「おはよう。齋籐」

 扉を開いたとき、近くから聞き慣れた声がする。俺は体を強張らせ、視線を横に向けると壁に凭れかかった志摩が俺を見て小さく笑った。ノックも聞こえなかったからてっきり来てないかと思っていただけに、俺はド肝を抜かれる。
 もしかすると、志摩はそれを狙って部屋の前で待ち伏せしていたのかもしれない。

「……」

 ただ、言葉が出なかった。いつもと変わらない様子の志摩に、俺は呆然とする。

「ほら、早く行こうよ。久しぶりに早起きしちゃったから、お腹が減って俺死にそうだし」

 志摩は俺の隣にやってきて、そんな軽口を叩いた。
 早起きって……、まさかずっとここで待ち伏せしてたわけじゃないよな。ふとそんな根拠のない想像をしてしまい、思わず背筋を震わす。
 あまりにも強引な志摩についていけない俺は、黙り込んだ。
「ね?」念を押すようにそう目を細める志摩に肩を掴まれ、つい俺はそれを振り払ってしまう。

「ひどいなー。ちょっとしたスキンシップなのに」

 そう可笑しそうに笑う志摩。眼帯のついていない左目が、僅かに暗くなったのを俺は見逃さなかった。
「……ごめん」言葉に詰まり、思わず俺は謝ってしまう。これ以上、志摩との関係に荒波を立てたくなかった。

「やけに素直だね。いいと思うよ、齋籐のそういうところ」

 志摩はそう言いながら、「行こうか」と促す。
 本心かどうかはわからなかったが、昨日の今日なだけにそれを聞き流すことはできなかった。俺は伺うように阿佐美に視線を向ける。

「俺はどっちでもいいから」

 俺の視線に気付いた阿佐美は、そう呟いた。
 もしかしたら志摩を追い払ってくれるとなんとも自分勝手な期待をしていただけに、あまりにも素っ気ない阿佐美の態度は予想外だった。阿佐美も阿佐美で昨日のことをまだ気にしているのだろうか。
「……そうだな」阿佐美の言葉に俺は小さく頷けば、食堂へと歩き出す。
 志摩を追い払う術も度量もない俺は、このままやり過ごすことしかできなかった。

「あ、齋籐いい香り。もしかして朝風呂?」

 隣に並ぶ志摩に顔を近づけられ、俺は顔をひきつらせる。
 ビックリしたというか、なんというか。
「う、うん」俺はそう口ごもりながら、然り気無く志摩から離れる。
 俺が意識しすぎているのだろうか。
 でも、あんなことをされて意識しない人はいないだろうし。
 こういうとき、どんな反応をすればいいのかわからなかった。
 いつも通りにしようとしても、どこか不自然な態度になってしまう。
 つい最近までずっとこうして学校に行っていたはずなのに、今ではこうやって並んで歩くことすら違和感を感じた。

「あ、照れてる?」
「……別に、照れてないよ」
「そ?まあ別に、どっちでもいいんだけどね」

 ニコニコと笑う志摩に、俺はただ戸惑った。
 からかうような志摩の言動に、俺はいちいち過剰な反応を示してしまう。
 どっちでもいいなら、別に言わなくてもいいじゃないか。
 自分だけが意識しているみたいで、なんとなく悔しい。

「齋籐はなにが食べたい?」

 志摩は俺を横目に、そんなことを聞いてきた。
 急に話を振られ、なにも考えていなかった俺は「えっ?」と間抜けな声を漏らす。
「人の話くらい、ちゃんと聞いててよ」可笑しそうに笑う志摩は、そう言って大袈裟に肩を竦めた。
 志摩にだけは言われたくない。
 俺は「別になんでもいいよ」と呟くと、志摩から視線を離した。

「じゃあ、食堂でいいよね」

 志摩は俺の左隣を歩く阿佐美を一瞥すると、そう笑いながら俺に聞いてくる。
 阿佐美はというとなにも言わない。
 珍しいな。そんなことを思いながら、俺は少しだけ考え込んだ。

「……いいよ」

 迷った末、俺はそう頷いた。
 人が多いところにいれば、少し気を紛らせるかもしれない。
 人がたくさんいるのは得意じゃないが、少しは志摩を意識せずに食事できるのなら構わなかった。
「そう」志摩は満足そうに頷くと、エレベーターの扉の前で足を止める。

 一階までエレベーターで降り、俺たちは食堂へと向かう。
 途中、めぼしい会話も特にはなくなんとなく気まずかった。
 とは言っても、そう感じているのは俺だけかもしれない。
 いつもと変わりない志摩は相変わらず笑みを浮かべて、俺に話題を振ってくる。
 阿佐美はというと、やけに大人しいというかしおらしいというか。
 顔半分が見えない阿佐美から感情を読み取るのは難しいが、楽しそうには到底見えなかった。

「あれ?俺、齋籐と食堂行くの初めてじゃないっけ?」

 ふと、思い出したように志摩は俺に聞いてくる。
 確かに、志摩と食事をするときは大抵コンビニの軽食で済ませていた。
「……そうだね」どんな反応をすればいいのかわからなくて、俺は志摩の言葉に頷く。
「でしょ?」志摩は嬉しそうに目を細めると、「なんだか新鮮だなー」といいながら笑った。
 確かに、ここまで楽しみじゃない食事なんて新鮮といえば新鮮だろう。

「……ん?」

 浮かない気分でそんなことを考えていると、ふと志摩が視線を食堂前の通りに目を向けた。
 なんとなく気になって、つられて俺は志摩が見ている方に視線をやる。
 そこには小さな人だかりが出来ていて、その輪の中央には見覚えのある人が数人いた。
 あれは、……芳川会長と安久?よく見ると、芳川会長の側には櫻田もいる。
 不思議と嫌な予感しかしなかった。

「あんた彼氏とかいないの?僕の知り合いにあんたのことが好きなやつがいるんだけど」
「なにを言ってるんだ君は。……言っている意味がよくわからないんだが」
「またお前かよ、会長に話しかけてんじゃねーよカス!!」

 遠くにいても分かるくらいの声量で交わされるその会話に、思わず俺は背筋を凍らせる。
 まさかとは思っていたが、昨日食堂で安久が言っていたのは本気だったのか。
 だとしたら、最悪だ。安久に食堂への道を塞がれ困り果てたような顔をする芳川会長に、威嚇するように安久に吠える櫻田。不意に、芳川会長に迫っていた安久がこちらを向いた。あまりにも突然で、まともに目が合ってしまう。

「ほら会長、あいつだよ。あいつ」

 安久は可笑しそうに笑いながら目を細め、俺の方へ顎をしゃくった。
「会長のことが好きなんだって」なんてデタラメを言い出すんだこいつは。隠れる暇もなく、今度は芳川会長が俺の方に目を向けた。

「……さ、齋籐君?」

 複数の視線が向けられ、俺はどうすればいいのかわからなくなりそのまま硬直する。
「なんか賑やかだね」そう隣で笑う志摩の視線が痛かった。
『安久が言っているのは全部デタラメだ』と言うだけでいいのに、混乱してしまい思考回路があやふやになる。なにを喋ればいいのかわからず、俺は目を逸らし黙り込んだ。

「あんた確か、会長のこと好きだって言ってたよね。ついでだし、今告白しちゃえば?」

 言いながら、安久はこちらに向かって歩いてきた。
「なに言って……」自然と顔がひきつる。あまりにも強引すぎる安久の策略に、俺は戸惑った。

「……やめないか。周りの生徒の邪魔になっている」

 眉間に皺を寄せ、芳川会長はそう安久に言う。
 確かに、場所が場所なだけ大人数で扉の前に溜まっているせいで周りに小さな人だかりが出来ていた。

「さすが模範生、言うことが違う」

 安久は芳川会長を横目に笑った。
 皮肉めいた安久の言葉に櫻田が今にも殴りかかりそうになっていたが、「やめないか」と芳川会長はそれを宥めるように呟く。
「ああ、そう言えば」思い出したように口を開いた安久は、俺の方に向き直った。

「放課後、伊織さんが空けとけだって。忘れないでよ」

 伊織さんって阿賀松のことか。
 その名前を聞いた瞬間、周りの空気が変わったような気がした。
「……わかってる」ここで下手に言い返したところでどうにもならないことを知っている俺は小さく頷く。
 会いたくはないが、前みたいな目に遭いたくもない。俺の言葉に、安久は少しだけ面白くなさそうな顔をしてみせた。
 目的を果たした安久はそのまま踵を返すと、何も言わずに食堂前から立ち去る。


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