05
制服を着替え、廊下に出た俺と阿佐美。
俺は部屋の鍵を取り出すと、扉に取り付けられた鍵穴にそれを差し込み鍵をかけた。
「俺、蟹食べたいっ」
「え?あ、ああ、蟹ね」
よっぽどお腹が減っていたのだろう。うずうずとする阿佐美の表情は先程よりも一層生き生きしていた。
というか、学食のメニューに蟹なんてあっただろうか。そんな細やかな疑問を抱きながら、俺は扉に鍵がかかったのを確かめると廊下を歩き始める。
時間が時間なだけに、廊下には結構な数の生徒たちが行き来していた。
もしかすると食堂、混んでるかも。だとしても、食堂も食堂で結構広いから満席になることはないのだろうけれど。そんなことを考えながら、俺は阿佐美の横顔を盗み見る。
すると阿佐美がちらりとこちらに顔を向け、頬を緩ませる。たぶん、今目があった。
「どうしたの?」
阿佐美は、不思議そうに俺に問い掛ける。エレベーターの扉の前までやってきた俺たちは足を止め、エレベーターを呼んだ。
「……いや、見てただけ」
とくになにも考えていなかった俺は、言いながら小さく笑う。我ながら寒い台詞だと思った。
「変なのー」
少しだけ間を置いて、阿佐美は不思議そうな顔をする。その言葉に反論の余地がなく、返事に困った俺は思わず苦笑した。
小さな音を立て、エレベーターの扉が開く。どうやらもうついたらしい。エレベーターに乗り込み、俺たちはそのまま一階へと向かう。小さく機内が揺れ、扉が開いた。
一階、ショッピングモール。
エレベーターから降りると、そこは大勢の生徒たちで賑わっていた。別に珍しいことではない。この時間帯になれば、一階は寮を出入りする生徒が集中する。
食堂、混んでないといいけど。思いながら、俺は人の波を避けるように食堂に向かって歩き出す。
暫く、阿佐美と他愛ない会話を交えながら歩いていると、目的地である食堂が視界に入った。
食堂は、思ったよりも混んでいない。俺は、食堂の扉のドアノブを掴もうとした。それよりも早く、横から伸びてきた腕がドアノブを掴む。
「うわっ」乱暴に扉を引き開かれ、それにぶつかりそうになった俺は慌てて扉の前から退いた。
人がいるのをわかってて開けるなんて、どんな神経してるんだ。
呆れたように俺は隣の人物に目を向ける。そこには、櫻田いた。その斜め後ろには、江古田もいる。
「通行の邪魔してんじゃねーよ、ノロマ」
「……っ」
櫻田は鬱陶しそうにそう吐き捨てると、俺を横目に睨んだ。
あまりにも横暴な櫻田に今日という今日は文句の一つでも言ってやりたかったが、櫻田は開いた扉をくぐりそのまま食堂に入っていく。
「……すみません……」
怒りを通り越して、呆れたような顔で櫻田の後ろ姿に目を向けると、ぬいぐるみを脇に抱いた江古田はそうぼそりと呟く。
「え?」一瞬空耳かと思い江古田に目を向けると、江古田は俺の視線から逃げるようにそのまま櫻田の後を追って食堂の中に入っていった。
「女装……?」
阿佐美は櫻田を二度見しながら、珍獣でも見たかのような顔で聞いてくる。
「多分……」多分もなにもどっからどうみても男なのだが、なんと言えばいいのか迷った俺は語尾を濁した。
阿佐美の言いたいことはわかったが、本人に聞こえていたりしたら堪らない。俺は話題を逸らすように、食堂の中に入っていった。
櫻田たちがいるということは、もしかして芳川会長もいるのだろうか。
ふと気になった俺は、食堂内に視線を巡らせる。芳川会長らしき姿は見当たらなかった。櫻田が芳川会長と一緒にいないのだけでも驚いたが、この前のこともあって芳川会長に釘を刺されたのかもしれない。
そういえば、江古田に礼を言うのを忘れてた。
空いた席を探していると、俺はふといつの日かの芳川会長との会話を思い出す。
一応、言っといた方がいいよな。俺は櫻田と江古田が席に座るのを確かめると、その傍のちょうど空いていた席にしれっと腰を下ろす。櫻田がこちらを睨んでいた。怖い。
「佑樹君なに食べる?」
俺の向かい側に腰を下ろした阿佐美は、テーブルに置いてあるメニューを手に取りそのうちの一枚を俺に渡す。阿佐美からメニュー表を受け取った俺は、中を眺めながら少し考え込んだ。
「じゃあ、俺はぶっかけうどんで」
適当に目についた単語を読み上げる。
「じゃあ俺、頼んでくる」言いながら、阿佐美は椅子から立ち上がった。
「え、いいよ。別に。自分で行くって」
「いいから、佑樹君は座ってて」
慌てて腰を浮かす俺に、阿佐美は念を押す。
やけに気が利く阿佐美に、俺は怪訝そうに眉を潜めた。昼間のこともあるし、変に阿佐美に気を使わせたくない。
「やっぱりいいよ」そう言おうとするが、阿佐美は俺を無視してカウンターの方へ向かった。
「……」
離れていく阿佐美の背中に目を向けながら、諦めた俺はそのまま椅子に座る。
変に気を使っているのは、俺の方だったりして。背凭れに背中を預け、俺は小さく溜め息をついた。
「誰あれ?彼氏?」
不意に背後から声がして、俺はびくりと肩を跳ね上がらせる。
いつの間にか、俺と背中合わせになる椅子に移動していた櫻田。
「か、彼氏じゃない……」いきなり絡んでくる櫻田とその内容に、俺は思わず冷や汗を滲ませる。まず、男に彼氏というその概念はどうにかならないのだろうか。
「んだよ、つまんねー奴だな。さっさと男つくって芳川会長離れしろよ」
舌打ちをしながら、櫻田は俺に背中を向ける。
「……」言い返す気にもなれなくて、俺は呆れ果てた。
自分が会長離れしたらいいだろ。なんて口が裂けても言えないのだけれど。
「……面倒な人よりつまらない人の方がいいと思うけど……」
櫻田の隣の隣に座っていた江古田は、ぬいぐるみの耳を弄りながらそんなことを言い出す。
もっともな意見に、内心俺は同意する。
「あ?俺のこと言ってんのかてめー」
「……自覚あるんだ……」
「調子に乗んなよ、このチビ!」
まさに、売り言葉に買い言葉。
ガタガタと椅子から立ち上がる櫻田に、同様、椅子から立ち上がる江古田。険悪な雰囲気を察したのか、厨房の方からウェイターがすっ飛んできて、二人の仲裁に入った。俺は他人のフリをしながら、阿佐美の帰りを待つ。
すっかり江古田にお礼を言うタイミングを見失ってしまった。思いながら、俺はカウンターから戻ってくる阿佐美に目を向けた。
「ただいまー」
「おかえり」
言いながら、阿佐美は向かい側の椅子に腰を下ろす。
「すぐ来るって!」
「そうか」
すぐ、と言われてピンとこなかった俺は曖昧に頷く。
「ありがとう」俺は言い足すように、そう阿佐美に言った。阿佐美はなにも言わずに、嬉しそうに笑う。
「いちゃついてんじゃねーよ」
背後から櫻田の声が聞こえて、思わず俺は顔を強張らせた。
聞こえていたのか、目の前の阿佐美は硬直する。
さっきから、なんなんだこいつは。俺になんの恨みがあるというのだ。
「別に、いちゃついてないけど」
流石に頭に来て、つい俺は言い返してしまう。と言っても、その声は櫻田に聞こえるか聞こえないかどうかぐらいの小声なのだけれど。
口に出しておきながら、櫻田に聞こえてないことを祈ってしまう俺の思考は動揺のおかげでだいぶ愉快なことになっているらしい。
「そうだよ、いちゃつくなら相手が違うだろ?」
ふと、隣に何か物が置かれる。トレーだ。トレーの上にはカレーの大皿が乗っていた。
聞き覚えのある声に、俺は恐る恐る視線を上げる。
「安久……」
そう呟いたのは、阿佐美だった。人目を引く派手なピンクの髪。薄ら笑いを浮かべる安久は、そのまま俺の隣に腰を下ろす。
なんで安久が俺の隣に座るんだとか、色々言いたいことはあったが、それよりも先に俺は近くに阿賀松の姿がないのか探した。食堂内に、あの赤い頭は見当たらない。
「なにその目、僕が隣に来ちゃまずいことでもあるの?」
じとりと睨まれ、俺は慌てて首を横に振る。
まずくないはずがない。前に殺されそうになったことを思いだし、俺は顔を青くした。
「……あっちゃんのところに戻るんじゃなかったの?」
阿佐美は、俺の隣に座る安久を眺めながらそんなことを問い掛ける。
その口振りからすると、阿佐美と安久は先ほど顔を合わせていたようだ。
恐らく、カウンターに注文を取りにいったときにでも話したのだろう。
「詩織に関係ないだろ」安久は銀のスプーンを手に取りながら、阿佐美に目を向けた。
「僕だって好き好んでこいつの隣に来たわけじゃないんだから」
スプーンでカレーライスを掬い、それを口に運びながら安久は続ける。
どうみても安久が勝手に隣に来たような気がするのだが、それを口に出す気力はない。
「いつまで経っても伊織さんの周りをチョロチョロチョロチョロして目障りだからな。僕が直々にあの眼鏡とくっつける手助けをしに来たんだ」
あの眼鏡、とは芳川会長のことだろうか。さらっと問題発言をする安久に、俺はコメカミをひくつかせた。
失礼な上に、とんでもないこと言い出したぞこいつ。
「……」
呆れて言葉も出なかった。余計なお世話というか、絶対にやめてほしい。
大体、俺はそんなことを頼んだ覚えもないし、阿賀松の周りをチョロチョロチョロチョロした覚えもない。
というか、いまここでそんな話を出さないでくれ。俺は背後の櫻田を意識しながら、安久に目を向けた。
「……その話は、いまじゃなくてもいいだろ」
熱狂的な芳川会長の親衛隊がいる前でそんな話をするのは、ある意味自殺行為に等しい。
後にも先にもこんな話はしたくなかったが、この状況を避けるのにはこの言葉が一番効果的だろう。
「なんで僕があんたの都合に合わせなきゃいけないの?」
そんな俺の言葉に対して、安久は鼻を鳴らして笑った。
ああ、そういえばこんな奴だった。久しぶりに会ったせいか、安久の性格と言うのを忘れかけていた俺は、いまの安久の態度で相手の性格をハッキリと思い出す。相も変わらず、嫌味なやつだ。
「それに、あんたと会長がさっさとくっつけばいい話でしょ?話しも糞もないと思うけど」
『会長』という単語が安久の口から出た瞬間、背後からガタリと椅子を引くような音が聞こえる。
最悪だ。「やめろよ」慌てて俺は安久を黙らせようと声を荒げるが、なにもかもが手遅れだった。
「おい、いまなんつった?」
背後から櫻田の声がして、安久は不愉快そうに眉をつり上げる。
「誰あんた」安久は手に持っていたスプーンを皿の上に置くと、櫻田の方に体を向けた。
「さっきから黙って聞いてりゃ、意味わかんねーことばっかり言いやがって。会長と誰がくっつくだと?死にてーのかお前」
ずっと黙って聞いてたのか。
物騒なことを口走る櫻田に俺は冷や汗を滲ませ、然り気無く椅子を引く。椅子から立ち上がる櫻田が、安久の席に近付いた。俺の周囲に不穏な空気が流れ出す。
咄嗟に俺は助けを求めるように江古田に目を向けたが、本人はというとウェイターが運んでいた日替りランチを黙々と食べていた。俺は阿佐美に目を向ける。
「わーい、蟹だあ」
大きな蟹を乗せた大皿を持ってくるウェイターに、阿佐美ははしゃいでいた。こちらもこちらで二人には興味がないらしい。というか、蟹なんてメニューに載ってなかったような気がするけど。
俺の隣にやってきたウェイターは、うどんが乗ったトレーを俺の目の前に静かに置く。
「あ、ありがとうございます…」
ウェイターに小さく会釈しながら、俺は箸を手に取った。
もしかして、焦ってるのって俺だけなのだろうか。あまりにも冷静というか食事を優先している周りに、俺は一人妙な焦燥感に駈られる。
「ああ、会長の親衛隊?さすが、マナーが最悪だね。食事中は静かにしろって習わなかった?」
椅子に座ったまま、安久は櫻田を見る。
見上げるような形なのに、その視線はどうみても見下すような嘲笑が滲んでいた。
お前が言うか。思わず口に出してしまいそうになり、俺は必死に堪える。
櫻田の顔が逸そう険しくなり、見かねたウェイターが再び仲裁にはいろうとした。ウェイターも楽じゃないな。
麺を口に運びながら、俺は安久に殴りかかろうとする櫻田を背後から捕まえ必死に宥めているウェイターに同情の眼差しを向けた。
「頭悪そうな髪してるくせに、なに気取ってんだよ。ばっかじゃねーの!」
それは、人のことを言えるのだろうか。むしろ総合的に見ると、櫻田の方がよっぽどに見えるのだが。
案の定、自分を棚にあげ安久を罵倒する櫻田に、安久は額に青筋を浮かべる。
止めるにしても、どちらの味方につけばいいのか悩んだ俺は、うどんの麺を啜りながら傍観にまわることにした。
「馬鹿はどっちだ。あの眼鏡に恋人がいるのも知らないで馬鹿みたいにはしゃぎやがって」
そう吐き捨てる安久の言葉に、櫻田の顔色が変わる。
「適当なこと抜かしてんじゃねーよ、バーカ!」語気を荒くする櫻田に、安久は薄笑いを浮かべた。
「なんだ、まさか知らないのか?齋籐佑樹は会長の恋人だよ」
最早支離滅裂な安久の言葉に、俺は思わず噎せ返る。
「なにいって……っ」
「んなわけねえだろうが!ふざけてんのかてめえ!!」
俺が慌てて否定しようとすると、荒い櫻田の声が重なる。
さっき自分がくっつけるとかなんとか言っていたくせに、今度はすでにくっついてる発言。さすがに無理がある。
「大体、こんなヘラヘラ愛想振り回してるようなやつ会長が相手にするとでも思ってんのか!!」
ウェイターに両腕を掴まれた櫻田が、安久を怒鳴りつけた。
容赦のない櫻田の言葉が心にぐさぐさと突き刺さる。俺、そんな風に思われていたのだろうか。もう少し言い方があるだろうと若干凹みながら、俺はテーブルの上の水の入ったコップを手に取る。
俺はわざとらしく咳払いをしながら、コップに口をつけ中の水を飲み干した。
「あんたよりはよっぽど相手にされていると思うけど」
「喧嘩売ってんのかてめえ!偉そうなことばっかいいやがって!!」
安久としてはただの煽りだったのかもしれないが、図星を指された櫻田は荒れ狂っていた。
厨房からもう一人ウェイターがやってきて、櫻田は二人のウェイターに取り押さえられる。
「せっかくの食事が台無しだ。僕は帰らせてもらうよ」
呆れたように溜め息をつく安久は言いながら椅子から立ち上がると、いつの間にかに空になっている大皿を乗せたトレーを手にした。
その場を掻き乱すだけ掻き乱しといて、それをお前がいうか。思いながら、俺は颯爽と立ち去る安久の背中に目を向ける。
「お前の友達、性格最悪だな」
怒りが収まらない櫻田は、眉間に皺を寄せ俺を睨んだ。
「ご……ごめん」友達じゃないと否定しようと思ったが、それよりも先に口からは謝罪の言葉がでる。
櫻田はウェイターの腕を振り払いながら、再び椅子に座った。
「クソッ、気分わりー。おい江古田、帰ろうぜ」
「……僕は気分悪くないけど……」
遠回しに一人で帰れという江古田に、櫻田は「俺が悪いんだよ」と吠える。
正直、櫻田の気持ちが全くわからないわけでもなかった。でも、この間のこともあったせいかざまあみろと思ってしまう。麺を啜りながら、俺は背後の椅子が動き、再び櫻田が立ち上がる気配を感じた。
「じゃ、俺は先帰っとくわ。お前はせーぜー一人で飯食っとけよ、根暗」
いいながら櫻田は、食堂の扉に向かって歩き出す。
からかうような櫻田の一言に、江古田は視線を動かしただけだった。
止めなくていいのだろうか。第三者である俺がそんな心配をしてしまうくらい江古田の反応は冷めている。
俺としては、櫻田がいない方が江古田に話しかけやすいのだが、なんとなく気まずい。
特に仲がいいわけではないが、知人が一人で食べているのを見てるとなぜだろうか。不思議とおかずの味がしない。
「……江古田君、こっちに座る?」
あまりにもいたたまれなくなった俺は、江古田の方を振り返りながらそんなことを口走った。
俺のせいで櫻田を帰ったのもあるし、なによりも俺自身、こんな状況で食事を続けれるほどタフな精神を持っていない。
江古田は俺に視線を向け、少しだけ驚いたような顔をした。
「……別に、気を遣わなくていいですから……」
江古田はそう呟くと、空いた食器を重ね始める。
「あ、そうだよね。ご、ごめん……」もう食べ終わっているなんて知らなかった俺は、酷い後悔に襲われた。慣れないことをするもんじゃない。一人空回りをする自分が恥ずかしくなって、俺は慌てて顔を逸らし再びうどんを啜る。
「……ありがとうございます……」
ふと江古田の方からそんな声が聞こえ、俺は口の中のものを飲み込み振り返った。
俺の方を見ていた江古田は、目が合うとおもむろに視線を逸らす。気恥ずかしいのだろうか、江古田はぬいぐるみを脇に抱くと椅子から立ち上がった。
テーブルの上のトレーを手にした江古田はそのまま俺に背中を向け、カウンターへと歩き出す。
「あ……」
慌てて呼び止めようとして、言葉が喉につっかかった。
こうして俺が話し掛けるのを江古田が嫌がっているかもしれない。そんな思考が脳裏を過り、その行動を躊躇ってしまうのだ。
結局、俺は江古田を引き留めれずにただ平均に比べて小柄なその背中を眺める。
「一年?」
「……らしいよ」
もりもりと蟹を食べている阿佐美に問いかけられ、俺は椅子を引きながら頷いた。
曖昧な返事をする俺に、「ふーん」と呟く阿佐美。前髪の下のその眼は、恐らく江古田の方を向いているのだろう。
「佑樹君、もういいの?」
箸をトレーの上に置く俺に、阿佐美は不思議そうに聞いてきた。
出されたうどんは全て食べ、スープまで飲んだ。どうやら阿佐美は、それだけで足りるのかと聞いているらしい。
「ほら、腹八分って言うじゃん」
俺は答えになってないような返事をしながら、阿佐美に目を向け笑う。
昼間の志摩とのことを思い出すと、とてもじゃないけど阿佐美のように腹一杯になるほど食事を楽しめなかった。
そんなことを気にするほど女々しい性格をしているつもりではなかったが、よっぽどショックが大きかったらしい。浮かべた笑みが、自然と苦笑に変わる。
「ちゃんと食べなきゃダメだよ」
心配そうな顔をする阿佐美に、俺は「ちゃんと食べてるから」と即答する。
食欲があまりないだけであって、周りから心配される程極端な少食ではない。
確かに暴食気味な阿佐美に比べたら少ない方かも知れないが、そんな心配されるのは心外だった。
「詩織は、食べ過ぎ」
「成長期にはこれくらいが丁度いいってうちのコック長が言ってたもん」
いいながらむっとする阿佐美。
「なら、良いんじゃないのか」俺は、拗ねる阿佐美を宥めるようにそう続ける。
別に喧嘩をしたいわけじゃないし、相手を不愉快にさせるつもりはない。すぐに折れる俺に、阿佐美は口許に笑みを浮かべながら「そうだよね」と満足そうに頷いた。
「食べ終わった?」
俺は、言いながら阿佐美に目を向ける。
露骨に話題を変えようとする俺だったが、阿佐美は普通に「食べ終わったよ」と答えてくれた。
ウェイターに運ばれてきたときは結構な量あったような気がする。
それをぺろりと平らげる阿佐美に、俺は敢えてなにも言わずに椅子から立ち上がった。
時間帯が時間帯のせいか、比較的人口密度が上がった食堂内は騒がしい。
先ほどまで櫻田たちが座っていた席にはすでに別の生徒が座っている。
食事を済ませた俺は、ここに長居するつもりはなかった。
「じゃあ、戻ろっか」
俺は、阿佐美に視線を向ける。
「わかった」阿佐美は椅子から立ち上がると、皿の乗ったトレーを手にした。
阿佐美自身、人が多いところは得意ではないのだろう。
やけに素直な阿佐美を一瞥し、俺はどんぶりを乗せたトレーを持ち上げた。
あまりごちゃごちゃと頼んでいないおかげで、トレーは軽い。
そんな些細なことに妙な優越感を覚えながら、俺はカウンターに向かって歩き出した。
カウンター横の返却口にトレーごと置いた俺は、同様返却口にトレーを戻す阿佐美に目を向けた。
「できた?」
「できたよー」
問いかけると、阿佐美はうんと頷いてみせる。
それを聞いた俺は、そのまま出入り口の扉に向かって歩き出した。小走りで阿佐美が隣にやってくる。
やっぱり、ケチケチせずにもう一品頼んでおけばよかった。帰り際になってそんなことを考えてしまう。まあ、お腹が減ったらコンビニでなにか買えばいいか。
そんなことを思いながら、俺は扉を押し開き、食堂前の廊下に出た。
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