天国か地獄


 03

 何事もなく寮に辿り着いた俺は、一階のエレベーターに乗り込み三階に向かう。
 授業中にも関わらず、一階は疎らな生徒で賑わっていた。誰も怒らないのだろうか、とか余計なことを考えながら、俺は三階に着くのを静かに待つ。
 数分もしないうちにエレベーターは小さく揺れ、止まった。どうやら目的地の三階に辿り着いたらしい。開く扉を潜り、俺は三階に出た。

「……」

 もちろん人気はない。ほっと胸を撫で下ろし、俺は333号室を目指して歩き出した。
 あまりにも廊下が静かで、まるで異空間にでも来てしまったようなそんな妙な感覚がどこか心地好く感じる。一人でいるのはあまり好きじゃないけど、今は一人でよかったと思った。
 そんなくだらないことを考えているうちに、視界に自室である333号室の扉が入ってくる。
 取り敢えず、さっさと着替えて校舎に戻った方がいい。それからは、戻りながら考えればいいだろう。思いながら、俺は制服のポケットから鍵を取り出した。
 ふと、視界の隅に防犯カメラが映り込む。扉の前で足を止めた俺は、カメラの方に視線を向けた。ここまで堂々と撮されていると、なんだか妙な気分だ。別に、撮られてやましいことなんてないのだけれど。いや、どうだろう。
 気を晴らすように、そんな調子外れなことを考えながら俺は扉の鍵を開いた。
 部屋に入った俺は穿いていた下着を脱ぎ、そのままバスルームに駆け込んだ。射精して放っておいた下半身が、妙に気持ち悪かったのだ。シャワーを浴びて、さっぱりしたところで俺は別の下着に着替えた。脱いだ下着を手に、洗濯機に突っ込む前に一度洗っておこうかと迷ったがめんどくさいので洗濯機にそのまま放っておくことにする。思ったより時間はかからなかった。
 制服に着替え用を済ませた俺は、再び廊下に出て部屋の戸締まりをする。
 相変わらず廊下に人の気配はない。廊下を見渡しながら、俺はエレベーターに向かって歩き出す。
 シャワーを浴びて身体的にすっきりしたのだが、やはり不快感は拭い取れなかった。拍子に、志摩のことを思いだし気分を塞いでしまう。

「……はぁ」

 無意識に、口から溜め息が漏れた。
 考えてもどうしようもないことぐらいわかっている。でも、あそこまで行って考えるなという方が無理な話だろう。
 薄暗い気持ちのまま、俺はエレベーターの扉の前にやってきた。
 からかわれているのか、本気なのか、志摩の場合それを判断するのが難しい。まだ会ってから数週間しか経ってないのだから、当たり前なのだろうけど。
 開いた扉からエレベーターに乗り込み、俺は一階のボタンを押し扉を閉めた。
 相変わらずぼちぼち賑わっているショッピングモールを横目に、俺は寮を後にする。
 無事、校舎に戻ってきた俺は人気のない廊下を歩きながら途方に暮れていた。このまま教室に戻り、授業を受けようかと思ったが、教師にどう言い訳をすればいいのかわからず断念する。
 具合悪いといって、保健室で休もうか。そんなことを考えながら俺は足を止め、目的地を教室から保健室へと変える。
 この学校に来てから、保健室に行ったのは初めてではない。
 安久に殴られた後、包帯やガーゼを取り替えてもらうために数日間通ったことがある。
 そういえば、前の学校では保健室登校だったな……。そこまで考えて、俺は慌てて頭を横に振った。
 気分が優れないとき、余計なことまで考えてしまう。俺の悪い癖だ。俺はなるべく考えないように気を紛らしながら、保健室へ向かって歩き出す。
 昇降口から保健室までさほど距離はなかった。
 保健室と書かれたプレートを掲げる扉の前に立った俺は、扉を開こうと手を伸ばして、躊躇う。ゴクリと固唾を飲み、俺はガラリと音を立て扉を開く。
 清潔感漂う室内には、数人の先客がいた。

「おっ、齋籐君!」

 不意に声をかけられ、俺はビックリして足を止める。
 ソファに腰をかけていた縁は、入り口の前で立ち止まる俺を見て人良さそうな笑みを浮かべた。
 至るところにガーゼや、絆創膏を貼った満身創痍の縁に俺は言葉を無くす。

「齋籐君もサボりなんだろ?こっちこいよ」

 唖然とする俺に構わず、縁は包帯の巻かれた手をヒラヒラさせた。
 なぜかサボり確定されてる。言い返そうかと思ったが、場所が場所なだけに黙って縁の言う通りにした。
「隣、隣」縁に隣に座れと促され、俺は一定の距離を取りながらソファに腰を下ろす。
 縁の座るソファの向かい側には、見覚えのある金髪の三年が座っていた。確か、仁科とかいう阿賀松の取り巻きだったはずだ。咄嗟に周りを見渡し、阿賀松や安久の姿が見えないのを確かめる。

「ああ、伊織ならいないよ。安心しろって」

 言いながら、縁は俺に目を向けた。縁がいる時点で安心できないのだが、話が通じる分まだましだ。縁と仁科って妙な組み合わせだなとか思いながら、俺は縁の言葉に小さく頷く。

「そういえば、先生は?」

 校医の姿が見当たらず、ふと気になった俺は縁たちに問い掛ける。
「いねーよ」そう答えたのは仁科だった。いないってことは出掛けているのだろうか。

「どっか具合でも悪いのかよ」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……」

 仁科に問いかけられ、俺は言葉に詰まった。元々ここに来たのも休むためだったし、怪我という怪我もしていない。

「大丈夫です」
「おばちゃんがいなくても、仁科がいるから大丈夫だって」

 縁はそう笑いながら肩に手をかけようとしてくる。俺はそれを然り気無く避けた。
 おばちゃんとは恐らく校医のことだろう。イマイチ縁の言葉が理解できなかった俺は、「どういう意味ですか?」と不思議そうに仁科に目を向けた。

「……俺、保健委員長だから」

 どこか照れ臭そうにする仁科。全然そういう風に見えない。
「……そうなんですか」あまりにも意外だったため、他に言葉が思い付かず無味乾燥なリアクションを取る俺。

「ほら、俺のも仁科にしてもらったんだよね。おばちゃんよりも上手いんじゃねーの」

 ニコニコしながら自分の顔を指差す縁に、仁科は「縁さん、誉めすぎっすよ」と苦笑を漏らす。

「……どうしたんですか?その怪我」

 俺は縁の横顔を眺め、呆れたように呟いた。
「ああ、これ?」縁はなにか思い出したのか、おかしそうに笑う。

「昨日、後輩口説いたらキレられちゃって。ほんと、手加減知らない奴でさ、この様だよ」

 そう肩を竦める縁の言葉に、俺は納得したように小さく頷いた。
 縁の話からすると、志摩の怪我と合点がいく。
「大変でしたね」志摩まで口説こうとする縁に半ば感心する俺。

「なに?齋籐君が俺のこと慰めてくれんの?」

 言いながら、縁はずいっと顔を近付けてくる。俺は嫌な汗を滲ませながら縁から離れた。
「縁さん」青い顔をした仁科はソファから立ち上がり、縁の肩を掴んで俺から離す。

「ああ、仁科は伊織の犬なんだっけ。ほんと、よく躾されてる」

 おかしそうに笑う縁の揶揄に、仁科は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 犬と言われ嫌そうな仁科に、俺は妙な近親感を覚える。

「じゃあ仁科がいなくなってから齋籐君と仲良くさせてもらおうか」

 そう言って、縁は俺の方に目を向けた。ふと目が合い、縁が目を細めて笑う。慌てて目を逸らした。
 人目すら気にしない縁の図々しさにはほとほと飽きれさせられる。

「縁さん。勘弁してくださいよ」

 顔面蒼白の仁科は、今にも死にそうな声で縁に懇願する。
「齋籐に何かあったら、俺、阿賀松さんに殺されるっす」意味深な仁科の言葉に、思わず俺は顔を上げた。
 何かあったらって、なんだよ。

「大丈夫って。仁科なら自力で生き延びそうだし」

まるで他人事のようにゲラゲラと笑う縁に、仁科はしかめっ面をする。

「それに、殺されるってんなら伊織にじゃなくて安久にだろ?」

 一頻り笑った縁は、にやにや笑いながら仁科に問い掛けた。
 そういう問題じゃないだろう。縁に弄られる仁科に同情しつつ、俺は黙って二人の会話を聞き流すことにした。

「笑えないっすよ」
「そ?俺的にかなりウケるんだけど」

「なあ、齋籐君」いきなり縁に話を持ち掛けられ、俺は戸惑いながらも頷いた。
「本気かよ」咄嗟に縁に賛同したのが不味かったのか、仁科は呆れたような顔をする。

「普通、あんな目に遭いたくないだろ。お前Mかよ」

 あんな目に、と言われてふと安久に殴り殺されかけたことを思い出し青ざめた。
 若干引いたような顔をする仁科に、思わず俺は口ごもる。

「え?齋籐君Mなの?」

 変な所に食い付いてくる縁に、内心うんざりしながら俺は「違います」と首を軽く横に振る。なんの話をしているのかわからなくなってきて、俺は顔を強張らせた。
 そのとき、再び保健室の扉が開き、見覚えのある白衣の中年女性が現れる。どうやら、保健室を空けていた校医が戻ってきたようだ。

「こら、またあなたね。元気なんだから教室に戻りなさい」

 校医は、保健室のソファを占領する俺たちを見るなり眉を潜める。
 もしかして自分のことを言われているのだろうかと内心冷や汗をかくが、近付いてきた校医に注意されたのは隣にいた縁だった。

「んだよー、俺だって怪我人なのにー。仁科、おばちゃん煩いから行こうぜ」

 校医をからかう縁は、ソファから腰を浮かせる。仁科はなにか言いたげな顔で俺の方を一瞥すると、ソファから立ち上がった。
 保健委員長だなんていうから当番でいるのかと思ったが、どうやら仁科は縁の付き添いでやってきたらしい。

「じゃあね、齋籐君」

 もう少し粘るかと思っていたが、思ったよりも校医に対する縁の対応はあっさりしたものだった。
 ヒラヒラと手を振りながら、縁は仁科を連れて保健室を後にする。

「あなたはどうしたの?具合悪いの?」

 一人ソファに残った俺が気になったのか、校医は心配そうな顔をして聞いてきた。
「え、いや、大丈夫です」つい反射でそう答えた俺。言ってから、自分が墓穴を掘ったことに気が付く。

「そう、じゃああなたも教室に戻りなさい。どうせ、すぐ授業終わるんだから」

 校医に言われ、俺はふと壁にかけてある掛け時計に目を向けた。
 授業が終わるにはまだ十分ほどあったが、自分が健康なことを公言したからには長くここにはいられない。
 ゆっくり時間かけて教室に戻れば、大丈夫かな。
 思いながら、俺はソファから腰を浮かせた。他の具合が悪そうな生徒に取りかかる校医を尻目に、俺は渋々保健室を後にする。

「……失礼しました」

 いいながら、廊下にでた俺は保健室の扉を閉めた。
 休むために来たのに、逆に疲れたかもしれない。まあ、縁たちと他愛ない話をしていい気分転換にはなったのだけれど。これから教室に戻らなきゃならないと考えると、自然と気分が沈んだ。
 志摩ももう教室に戻っているのだろうか。だとしたら、気まずすぎる。
 このまま寮に戻って、部屋に引き込もっていたかった。でも、それで周りに迷惑を掛けるのもなんだか腑に落ちなくて、俺はどうしようもないジレンマに陥る。
 なのに、足はしっかりと教室に向かっているのがなんだか可笑しくて、俺は内心苦笑した。

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