天国か地獄


 02※

「……」
「……」

 志摩本人を目の前にして、今さら俺は緊張してきた。お互いに黙り込んで、妙な沈黙が空き教室内に走る。
「齋籐」不意に志摩に名前を呼ばれ、俺は志摩に目を向けた。

「なんか俺に言うこととかあるんじゃないの?」

 言いながら、志摩は目を細め俺を見据えた。
 確かに言いたいことはたくさんある。ありすぎてなにを言えばいいのかわからないのもまた事実だ。
 志摩がどんな返答を求めているのかわからなくて、俺は視線を床に落とし口ごもる。

「昨日は、ありがとう」

 俺は志摩の機嫌を伺うように視線を上げながら、しどろもどろと言葉を続ける。
「それから?」志摩はそういって俺を急かした。
「え?」まさかそんなことを言われるなんて思わなくて、俺は頑張って次の言葉を探す。

「その怪我、だ……大丈夫?」
「……」

 恐る恐る志摩に問い掛けると、志摩は少し不機嫌そうな顔になった。どうやら志摩の求めていたものではなかったらしい。
「……痛いよ」むすっとしたまま、志摩はそう呟いた。

「どうして、そんな怪我……」
「そんなに気になる?」

 気になるかと言われたら、気になるかもしれない。コクリと頷く俺に、志摩は笑った。

「齋籐、方人さんと知り合いなんでしょ?」

 急にそんなことを聞いてくる志摩に、俺は戸惑った。
「まあ……」知り合いと言っても顔見知り程度だ。そのこととその怪我がなんの関係あるんだ。そこまで考えて俺はハッと顔を上げる。

「まさか、掘られ……」
「掘られてたら怪我しないでしょ、普通」

 青ざめる俺に、志摩はうんざりしたような顔をする。その言い種からすると、襲われかけたことは肯定しているようだった。

「その怪我……もしかして縁先輩に……」

 俺は白い布に覆われた志摩の右目に目を向けた。襲われ、抵抗して、殴り合いにでもなったというのだろうか。

「あの時俺がいなかったら、齋籐がこうなってたかもね」

 俺の問い掛けに、敢えて答えようとしない志摩。笑う志摩の目は、詰るように俺を見据えた。
 エレベーター内でのことを思い出し、俺は肩を縮み込める。
「……ごめんなさい」そう言われると、志摩に頭が上がらなかった。

「謝るくらいなら、俺に感謝してよ。こうみえても怒ってるんだから」
「あ、ありがとう」

 むっと眉を潜める志摩に、俺は困ったようにお礼を口にする。
 どうみても志摩が怒ってるのは一目瞭然だ。相変わらず軽口だが、その言葉すら妙に刺々しい。

「やっぱりダメ。許さない」

 俺の態度が気にいらなかったのだろうか。志摩はそう言うと、目を細めた。

「ダメって……」

 気分屋な志摩の言葉に、とうとう俺はどう対応すればいいのか困ってしまう。謝っても文句を言われ、お礼を言えば許さないと言われる始末だ。

「方人さんの性癖しってるんでしょ?なんでわざわざ二人きりになるわけ?」

 志摩に問い詰められ、俺は思わず後ずさる。
 確かに結果的に志摩に怪我を負わせる羽目になったが、そんなに怒らなくてもいいじゃないかと言い返したくなった。こっちにもこっちの事情があるのに、一方的な責めるような志摩の言葉に俺は唇を結ぶ。

「もしかして、齋籐って男だったら誰でもいいとかそういう人なの?」

 侮蔑を孕んだ志摩の視線に、思わず俺は顔をしかめた。
 志摩には悪いと思っている。だけど、そんなことまで言われる筋合いはない。志摩の一言が胸に深く突き刺さる。

「どうしてそうなるんだ。被害妄想はやめろ」

 俺はあまりにも調子外れな志摩の言いがかりに呆れながら、そう吐き捨てた。図星を指されたわけじゃないのに、不愉快でたまらない。志摩にそんなことを言われたことが、なによりもショックだった。

「被害妄想?違うよ。事実でしょ?阿賀松とのことだってそう。まさか俺が知らないとでも思ったの?」

 志摩がおかしい。たまに志摩の挙動が怪しくなるときはあったが、いまはそれ以上だった。
 支離滅裂な志摩の言葉に、俺は「なに言ってるんだ」と眉を潜める。
 志摩が阿賀松とのことを知らないとは思っていない。むしろ、知った上で俺と仲良くしてくれていると思っていた。

「俺のせいで志摩に怪我をさせたことは謝る。……ごめん」

 とにかく、興奮している志摩を落ち着かせようと俺は謝る。
 志摩を怒らせたくはなかった。どんなことを言われようが、志摩に嫌われたくなかった。
 どこまでも腰の低い自分に呆れはしない。これが本心だった。

「……は?なんで謝ってるの?否定ぐらいしたらどうなの?図星なわけ?」

 俺のへりくだった態度が気にくわなかったのか、志摩の顔が一層険しくなる。
 ゆっくりと近寄ってくる志摩に、いきなりネクタイを掴まれた。胸ぐらを掴まれるのに似た感覚だった。首元がきつく締められ、息苦しくなる。

「離し……っ」

 ネクタイを掴む志摩の腕を掴み、俺は無理矢理離そうとした。しかし指先は志摩の手の甲を引っ掻くだけで、ネクタイは緩まない。

「好きだと言えば人のことは避けるくせに、自分は他の男といちゃついて」

「そういうのが一番腹立つんだよ」志摩はそう吐き捨てると、俺の肩を掴み壁に押し付けた。
 背中を壁に強く打ち、俺は小さく呻く。
 なんでそんなに怒るんだ。意識して志摩を避けたことが、そんなに志摩のプライドを傷付けたというのか。

「志摩……っ」

 腹立つと言われて、怒りよりも悲しみが俺の全身を襲った。
 人を苛立たせないような性格をしているわけじゃないのは自分でもよくわかっている。
 でも初めて志摩の本音を聞かされたようで、微かに体が震えた。聞かされたようで、というより寧ろ本音そのものだ。間近にある志摩の顔に、いつもの笑みの欠片すら見当たらない。

「……なにその目。なにか言いたいことがあるなら言いなよ」

「それとも煽ってるの?」志摩は小さく口許を吊り上げた。
 これ以上志摩と話していても、悪化するだけだ。そう悟った俺は、慌てて志摩の胸を無理矢理押す。
 手応えはあった、あったのに志摩は小さくよろめくだけだった。

「クソ……ッ」

 それどころか、相手の逆燐に触れてしまったらしい。
 やばい。忌々しそうに顔をしかめる志摩に、俺は思わず青ざめた。

「そんなに俺のことが嫌いなわけ?」
「違……っ」
「俺より阿賀松たちといた方が楽しいの?」

 そんなわけない。言いかけて、俺は躊躇う。
 その一瞬の間が気にくわなかったようだ。心底不愉快そうな志摩にネクタイを引っ張られ、俺は無理矢理顔をあげさせられる。
 必死に志摩から離れようとしたが、ネクタイを掴まれているせいで抵抗すればするほど息苦しくて堪らなくなる。

「やめ……っ」

 言いかけて、唇を塞がれた。壁に押し付けるような乱暴な口付けに、俺は顔をしかめる。
 志摩にキスをされたのは初めてじゃないが、前よりも不快感は大きかった。
 唇を固く閉じると、舌でなぞるように唇をこじ開けられる。

「ふ……っ」

 にゅるりとした舌が口の中に入ってきて、思わず俺は顔を逸らそうとするが空いた手で後頭部を掴まれた。
 咄嗟に志摩の舌に歯を立てる。嫌な感触と共に、志摩の舌が小さく痙攣し鉄の味が口内にじわりと広がった。

「……っ」

 志摩は顔をしかめるだけで、更に深く口付けをしてくる。
 前に阿賀松にやったときは怯んだのに、なんで怯まないんだ。
 あまりにもしつこい口付けと、噎せ返りそうになるくらいの鉄の味に俺は目眩を覚える。
 あまりにも生臭いキスに耐えられなくなった俺は、志摩の後ろ髪を強く引っ張った。僅かに唇が離れ、その隙を狙って俺は志摩の顔を手で退ける。

「俺とキスするのは嫌?」

 不意に問い掛けられ、俺は顔を強張らせる。
 良いわけがない。なんてことを言えば志摩は怒るだろう。
 でも、ここで志摩の顔を立てようとしてしまえば、取り返しのつかないことになってしまいそうで、俺は返答に戸惑った。

「ほんと、勘弁してくれ」

 自分でも驚くくらいの弱々しい声が口から漏れる。
 志摩とは、キスとかそういう関係なしに仲良くしてたかった。いまでも志摩の悪い冗談だと信じてる。なのに志摩はいつものように笑ってはくれなかった。

「どうして」

 俺の言葉に志摩の顔が強張る。細められた志摩の瞳に、焦燥感が滲んだ。
 なんでそんなことを聞くんだ。聞かなくてもわかるだろ。
 心外な志摩の問い掛けに、俺は呆れたように眉を潜めた。

「俺のこと、友達だって言ったのはそっちだろ」

 自然と語気が荒くなり、俺は志摩に目を向けた。口に出して、今さら悲しくなってくる。
 泣きそうになるのを必死に堪え、俺は志摩の腕を掴み無理矢理体を離した。
 驚いたような志摩の顔が視界に入り込み、俺は顔を逸らす。
 志摩の顔を見るのが怖くなって、俺は志摩に背中を向け、志摩の腕を振り払った。

「齋籐」

 背後から名前を呼ばれ、腕を掴まれる。
「……っ」志摩の腕を振り払い、足早に空き教室を後にしようとしたとき、背後から抱き締められた。

「離……」
「ごめん。齋籐ごめんね」

 腰元に腕を回され、まるで離さないとでもいうように志摩は俺を強く抱き締める。耳元で囁かれ、俺は青ざめた。
 いきなりキレたと思えば、次はなんだ。いきなり抱き締められ、驚いた俺は志摩の言葉で更に混乱する。志摩という人間が段々わからなくなってきて、薄気味悪ささえ覚えた。

「齋籐が嫌ならもうしないから、だから俺のこと嫌いにならないでよ。お願い」

 先ほどの勢いはなくなり、豹変した志摩に俺は戸惑う。
 肩に顔を埋められ、妙に生々しい体温が俺を包み込んだ。
 情緒不安定。ふと、そんな言葉を思い出す。
『なら最初からするな』とか色々言いたいことはあったが、下手に煽って相手を怒らせる趣味はない。

「わ……わかったから、謝らないで」

 あまりにも痛々しい志摩に耐えられなくなった俺は、ついそう口にしてしまう。

 言葉を口にしてから、自分がとんでもないことを言ってしまったんじゃないだろうかと後悔した。

「本当?俺のこと嫌いにならない?」

 言いながら、志摩は制服の上から俺の腹部を撫でる。

「志摩……っ」

 妙に不自然な触り方をする志摩に、思わず俺は顔をしかめた。全身から嫌な汗が滲み、俺は慌てて志摩の手を掴む。

「どうしたの?」

 涼しい声で囁かれ、俺は慌てて志摩から顔を離した。
 すっかりいつもの調子に戻った志摩に、俺は戸惑う。

「まさか、全部演技じゃ……」

 あまりにもコロコロ変わる志摩に、俺はそう疑った。耳元で志摩が笑う。

「全部本音だよ。俺、嘘つかないし」

 さらりとそんなことを言う志摩に、俺は確信した。
 それが本当か嘘かはわからなかったが、志摩が俺の様子を見て楽しんでいるのが分かる。

「それに、齋籐のことも好きだし」

 耳朶を舐められ、全身の血の気がさあっと引いていくのがわかった。
 今までのが志摩の演技だというならそれでいい。むしろ、願ったり叶ったりだ。でも、こういうのはやめてほしい。

「離せよ……っ」
「いや」

 必死に志摩から離れようともがく俺に、志摩はそう即答した。
 さっきと言っていることがまるで違うじゃないか。

「ちょ、志摩っ」

 不意にウエストを緩められ、スルリと下着の中へ志摩の手が入ってくる。
 さすがに、これ以上は冗談や悪ふざけでは済ませられない。俺は志摩の手の甲の皮をつねり、慌てて手を抜こうとする。

「一応、俺怪我人なんだけどな」

 そう言われて、思わず俺は志摩から手から離してしまった。
 ずぼっと下着の中に手を突っ込まれ、俺は声にならない叫び声をあげる。

「どっどこに手を……っ」
「パンツ」

 しれっと答える志摩に、俺は「そんなことわかってる」と声を荒げる。

「な、なんでこんなこと。やめろよっ」

 耳の裏が熱くなって、俺は志摩の腕をぐいぐいと引き上げようとした。
 もしかして友達同士でこんなことになるのは普通なのだろうかと思ったが、よく考えてみると俺は志摩に告白されている。

「初めてじゃないんでしょ?なら大丈夫だって」

 なにが大丈夫なのか、それを聞く勇気を俺は持ち合わせていない。
「だからっておかしいだろ、普通に」さっきからなんだか志摩にいいように弄ばれているようで、俺はムキになる。

「てか、初めてじゃないってとこ否定してほしかったんだけど」

 眉をひそめる志摩に、俺は『しまった』と顔を強張らせた。

「うわー、結構ショックだなー。誰にヤられたの?やっぱり阿賀松?それとも阿佐美?」

 志摩の指先に強く掴まれ、思わず俺はビクリと体を強張らせる。阿賀松はともかく、どうしてそこで阿佐美の名前が出てくるんだ。
「まじで、やめろよ」俺は身動ぎをし、志摩から逃げようとする。

「ムカつくからやだ」
「は、ちょ、やめっ」

 そう言うと、志摩は手を動かし擦り出した。
 あまりにも理不尽な理由に、俺は呆れを通り越し怒りすら覚える。
 こんなのって、ないだろ。ついこの前まで、友達だと思っていたやつに手コキされるなんて。

「や、だって……っ」
「抵抗されればされるほど燃えるんだよね。わからない?」

 それは異性相手に限られたことじゃないのか。耳元で笑う志摩に、俺は『わからない』と首を横に振る。
 腰が溶けそうになって、全身が脱力した俺は志摩の腕を掴んで体を支えた。

「しま、やだって」

 上手く呂律が回らなくて、顔が熱くなる。
 そんな俺を見て、志摩は「なにが?」なんて可笑しそうに笑いながら手を早めた。
 誰だって、性感帯を触られたら感じてしまう。当たり前だ。だから、仕方ない。
 俺は脳裏にいくつもの言い訳を並べながら、志摩の手でイった。
 最悪だ。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだろう。

「結構出たね。最近はご無沙汰だったのかな」

 言いながら、志摩は俺の下着から手を抜いた。
 ぬるりとした嫌な感覚に、俺はぶるりと肩を震わせる。
 指先に白い液体を絡ませた志摩は、おかしそうに笑いながら俺の目の前で指を広げた。

「舐める?」
「やめろよっ」

 あまりの嫌悪感に、俺は顔を強張らせ頭を横に振る。
「えー、勿体ないなあ」言いながら、志摩は自分の口許に手を持っていった。指先に絡み付く粘着質な白濁を舌で舐め始める志摩を見て、俺は背筋を凍らせる。

「頭、おかしいんじゃないのか……っ」
「そう?美味しいよ、齋籐の精子」

 気持ち悪い。純粋にそう思った。
 ニコニコと笑いながら言う志摩に、俺は全身に鳥肌を立てる。
「やめろって」俺は志摩の腕を掴み、無理矢理口許から離した。

「照れてるの?」

 志摩に耳元で囁かれ、俺は「違う」と首を横に振る。呆れているんだ。
 これ以上志摩に付き合ってられない、そう感じた俺は志摩の腕を離し突き放す。

「齋籐、どこいくの?」

 すぐに腕を掴まれた。
「触るな……っ」慌てて俺は志摩の腕を振り払う。
 志摩の方を振り向かないまま、俺は走って空き教室を飛び出した。
 志摩が追ってこないのを確かめた俺は、人気のない廊下でようやく足を止めた。
 全身の力が抜け、自然と口から溜め息が漏れる。
 告白をされようが、キスをされようが、また仲良くできると信じていたせいか、受けたショックは思いの外大きかった。とどめを刺されたような、そんな絶望に似た虚無感が俺を襲う。

「……」

 さすがに、今から教室に戻っていつも通りに授業を受けれる自信はなかった。
 それに、汚れた下着が気持ち悪くてそれどころじゃない。俺は下半身の違和感に顔を強張らせる。取り敢えず、下着を着替えたかった。
 一度寮に戻って下着を着替えるか、それともノーパンで過ごすか。あまりにもアホらしい思考回路に内心苦笑を漏らしながら、俺は寮に向かって歩き出す。
 もしかしたら保健室に替えの下着があるかもしれないとも考えたが、紙おむつを渡されたりでもしたら堪らない。
 派手な足音を立てないように気を付けながら、廊下を歩く俺。心なしかその足取りは重い。
 途中、教師に会ったらどうしようと必要以上に警戒していたがどうやらその心配はないようだ。
 ただでさえだだっ広い校舎で、授業中に抜け出した生徒と運よく鉢合わせになる確率は低い。だからといって警戒を緩めるつもりはないのだけれど。
 妙な緊張感にドキドキしながら、俺は寮に向かって足を進めた。

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