06
「そ、そんなこと……っ」
絶対にできない。俺は声を絞り出し、無理だと頭を横に振る。
すると太股の上の阿賀松の手が離た。内心、少しほっとする。
「……っ」そう気を緩めた瞬間、いきなり阿賀松に胸ぐらを掴まれ口から心臓が飛び出そうになった。
「できないじゃねえよ。やるんだよ」
すぐ目の前にある阿賀松の顔。間近で囁かれ、唇に生暖かい息がかかる。目のやり場に困った俺は、口を堅く結び阿賀松から目を逸らした。どれだけ阿賀松に言われても、芳川会長に恩を仇で返すような真似はできない。
「……お前、もしかして……」
阿賀松が小さく目を見開いた。なにか言いたそうに口を開いたとき、蛇行していた車が停車する。
「着いたよー」運転席の縁は、ミラー越しに俺たちに目を向けながらそう告げた。
「……」
縁の言葉を聞いた阿賀松は、ドアを開くとさっさと車を降りていく。
もしかして……なんだ。阿賀松は、なにを言おうとしたんだ。
結局、阿賀松はその言葉の続きを口にしなかった。
阿賀松の言葉を気にかけながら、俺は縁の車を降りる。車を降りればそこは、学園内敷地の駐車場だった。
薄暗い夜空の下、俺は視線で阿賀松を探した。寮の方へ向かって歩いている阿賀松の後ろ姿を見つけたが、わざわざ自分から絡みに行くような真似はしたくなくて、俺はなにも言わずに視線を逸らす。
「齋籐君も大変だね、伊織の相手するの」
同様、車から降りてきた縁はそんなことを言いながら歩み寄ってきた。
「いや、そういうわけじゃ……」いきなり話し掛けられ戸惑いながら、俺は縁から少し離れる。放課後での印象が悪すぎたせいだろうか、少しだけ敬遠してしまう。
「あいつ頭おかしいからあんま相手にしない方がいいって」
「……」
確かに、阿賀松の頭がおかしいと思ったのは初めてじゃない。むしろ頻繁にそう感じる。
「あ、いまの本人には秘密な」縁は人良さそうな笑みを浮かべながら、自分の唇に人差し指を当てた。キザな男だと思った。逆にそういう仕草が様になっていて、俺は反応に困る。
「……そういえば、松葉杖」
ふと、思い出したように俺は縁の手元に目を向ける。
確か、今朝は松葉杖を持っていたがいま縁は手ぶらの状態だ。少し心配になって縁に聞いてみると、「ああ」と思い出したように笑う。
「本当はあれなくても歩けるんだよね、俺。治るまであれ使ってたから癖になっちゃってさ」
言わずもがな、縁のいう『あれ』とは松葉杖のことだろう。普通に歩いている縁の様子からして、どうやらそれは本当のようだ。
「そうなんですか……」
どうやら余計な心配だったらしい。俺は小さく俯きながら、そう呟く。
「いやー嬉しいなあ、俺のこと心配してくれるなんて」
縁は言いながら肩に腕を回してこようとする。
「そりゃあ、まあ……」今朝俺の不注意でぶつかったわけだし、縁がどんな趣味をしてようがやはり心配なのは心配だ。言葉を濁しながら、俺は縁の腕を然り気無く避ける。
「勿体ないなあ。伊織なんかより俺の方がいいって絶対。齋籐君のこと可愛がってあげるから」
悪い人じゃないんだろうけど、やっぱり苦手だ。
「……遠慮しておきます」俺は額に冷や汗を滲ませながら足早に縁から逃げる。
「あ、ちょっと待ってよ!……あいたたたっ!数ヵ月折ったばかりの足の骨がまた疼いてきた!」
「……」
言いながら、縁はその場に踞る。
なんでそんなに説明口調なのだろうか。どうせ演技かなにかだろう。間違いない。
そう割り切り、その場から立ち去ろうとすると「痛い痛い痛い死ぬ死ぬ死ぬ!助けて齋籐君!!」と段々縁の声が物騒なものになってくる。
「……」
色々な意味で心配になってきた俺は、周りを見渡しながらゆっくり縁に近付く。
「あ、あの……」恐る恐る声をかけると、ガシッと強く腕を掴まれた。
「寮まででいいから肩貸してよ」
そう、縁は人懐っこそうな笑みを浮かべる。
◆ ◆ ◆
「いやー助かったよ、齋籐君。なにかお礼でもしよっか、なにがいい?」
俺の肩に腕を回す縁は、楽しそうにそんなことを言い出す。
助けたもなにも、縁の思惑に嵌まっただけじゃないか。
「いや、別に……」俺は縁に戸惑いながら、言葉を濁す。
寮まで数メートル。無駄に体重をかけてくる縁を引っ張り、ずるずると俺は歩く。
「え?なに?方人さんがいたらもう他はなにも要らないって?やだなあ、俺照れちゃう。はずかしー」
「……」
どんな反応をすればいいのかわからず、俺は目を泳がせる。今さらになって、ようやく俺は縁が面倒臭いやつだと感じた。もちろんそんなこと、口が裂けても言えないのだけれど。
「俺も、齋籐君がいたらもう他はなにも要らないかも」
言いながら、縁は顔を近付けてくる。さすがに、悪乗りしすぎじゃないのか。
「なに、いってるんですか……っ」顔を青くする俺は、慌てて縁の頬を手で押さえる。
「え?ダメ?」
「ダメとかじゃなくて……その……」
それ以前の問題だ。縁に真顔で問いかけられ、俺はひどく困惑する。
このままだと縁のペースに巻き込まれそうで、俺は縁の腕を離した。
「寮まででしたよね」寮の前にやってきた俺は、そういって縁から離れる。
「齋籐君って、意外とガード固いんだ」
縁は大袈裟に肩をすくめ、残念そうにそう言った。固いもなにも、元々俺はノーマルだ。
縁との約束を果たした俺は、縁に背中を向けそのまま寮の扉を押し中に入ろうとして腕を掴まれる。
「あ、待って待って。やっぱり俺の部屋まで送ってってよ」
「……」
ここまで露骨な誘われ方をしたのも初めてかもしれない。
本当ならすっぱりと離れたいところだが、一応怪我人だったということを知っているからだろうか。少しだけ躊躇ってしまう。それが裏目に出てしまったのか、その躊躇いを縁は違う意味で捉えた。
「それってOKってことでいいんだよね?」
「え?」
既に会話が噛み合っていない。
「それじゃあ、行こうか」言いながら縁は俺の手を取る。戸惑う俺は、慌てて立ち止まろうとするが縁に腕を引かれ引き摺られるような形で寮の中へ入った。
阿賀松の知り合いなだけがあって、中々強引というか自己中というか人の話を聞かないというか。相手が相手なだけに、さすがにこれはやばいんじゃないのだろうか。
「あ、あの……っ」俺は縁の腕を離そうとするが、離れない。このまま部屋にでも連れ込まれたら確実にアウトだろ。冷や汗を滲ませ、俺はとっさに誰かに助けを求めようとする。
学生寮・一階。別名ショッピングモール。
知り合いらしき姿はない。
「そんなに怖がらなくても、なんにもしないって。まじで」
青い顔をする俺に、縁は目を細めて笑う。言いながら、腕はしっかり腰に回してきた。
なんて信憑性のない言葉なのだろうか。俺は腰に回される縁の腕を然り気無く離し、極力縁から離れようとする。
「もしかして、照れてる?それとも伊織になんか言われてんの?」
あまりにも嫌がる俺に、縁は心配そうな顔をした。他にももっとあるだろう、性癖とか。
「……俺、そういう趣味じゃないんで……」俺は縁から顔を逸らしながら、そう呟く。
「えー、うっそだー」
そんな俺の言葉に、信じられないと縁はおかしそうに笑った。結構傷付く。
「だって伊織と付き合ってるんだろ?」一頻り笑った縁は、そう俺に問い掛けてきた。あれは、阿賀松の悪い冗談だったはずだ。俺は縁の言葉に慌てて首を横に振る。
「それって、尚更好都合なんだけど」
そんなことを言い出す縁に、俺は慌てて縁から離れようとした。
「あ、エレベーター来たよ」爽やかな笑みを浮かべる縁は、そう言って俺の腕を引く。
音を立て開いたエレベーターの中に乗り込む縁に、半ば強引にエレベーターに引きずり込まれた。
エレベーター機内。運悪くそこには誰もいなかった。縁は四階のボタンを押すと、エレベーターの扉を閉める。
「二人っきりだね。これって所謂あれじゃない?運命ってやつ」
「な、何……いってるんですか……」
にじりよってくる縁に、顔面蒼白の俺は壁に張り付いて避ける。頑張って扉を開らこうとボタンに手を伸ばすが、あっさり縁に手首を掴まれた。
「あ、齋籐君って結構指長いねー」
いいながら、小指の付け根から指先にかけて舌を這わせる縁。
生暖かい濡れた舌の感触に、俺は思わず声を漏らしそうになった。背筋が凍りつき、俺は慌てて縁の手を振りほどこうとする。
「もしかして、舐められるの嫌い?」絶句する俺に、縁はおかしそうに笑った。好き嫌い以前に、いきなり舐められたら誰だって驚く。
「でも俺、結構舐めるの好きなんだよね」
「どこを、とは言わないけど」下品な笑みを浮かべる縁に、耳が熱くなるのがわかった。 なんてセクハラだ。縁から逃げたい一心で、俺は何度も扉を開くボタンを押す。
「そんなに押すと壊れるだろ」
いいながら、縁は俺の顎を掴み無理矢理顔をあげさせる。
間近に迫る縁の顔に、ふと志摩の顔が重なった。俺は必死に縁の肩を押して離そうとした。
縁が俺から離れるよりも、エレベーターが停まる方が早かった。音を立て、エレベーターの扉が開く。自分がボタンを押したんだから開いて当たり前だ。扉の上に掲げられたディスプレイに目を向けると『F3』と表示されている。
ここって、二年の階じゃないか。
「ちょ……っ」
誰かに見られたりでもしたらどうするんだ。扉が開いても離れようとしない縁に俺が声を漏らしたとき、開いた扉の向こうに人の気配があるのに気が付く。そこには、驚いたような顔をした志摩がいた。
最悪だ。全身の血が引いていく。
「……方人さん?」
それがエレベーター内を見た志摩が発した第一声だった。名前を呼ばれた縁は、俺から顔を離し扉の方に目を向ける。どうやら、縁の影になっていた俺には気が付いていないようだ。それを好機と見た俺は縁の肩を押し体を離せば、志摩に気付かれないように扉に背中を向ける。
心臓が爆発しそうなくらい煩くなって、どっと全身に嫌な汗が滲んだ。
「おー、亮太じゃん。久しぶりだな!」
言いながら縁は志摩の方に向き直る。
志摩と縁が知り合いなのにも少し驚いたが、縁の注意が俺から逸れただけでもよかった。
「方人さん、いつ退院したんですか?一言言ってくれれば迎えに行ったのに」
「退院は結構前。停学解けたのは今日」
言いながら、志摩はエレベーターに乗り込んでくる。まさか乗ってくるとは思わなかっただけに、俺は冷や汗をにじませた。
「お前の運転こえーから勘弁してよ」志摩の言葉に、縁はおかしそうに笑う。
停学?運転?耳に入ってくる二人の会話を聞き流しながら、俺は志摩から顔を隠すように壁を伝ってエレベーターの扉に近付く。
「齋籐君、どこ行くの。俺の部屋まで送ってくれるんじゃなかったの?」
なんでこういうタイミングで俺の名前を呼ぶんだ。
伸びてきた縁の手に肩を掴まれ、強制的にエレベーターに引きずり込まれる。ふと顔をあげてしまい、目の前の志摩ともろ目が合った。
「……っ」
最悪だ。顔を青くする俺。しかし、志摩はすぐに俺から目を逸らした。
「そうだ。方人さん、これからどっか行きませんか?せっかくだし俺奢りますよ」
「えー、まじで?珍しいじゃん、お前がそんなに羽振りいいなんて」
いきなりそんな提案をする志摩に、縁は笑いながら志摩に目を向けた。
「俺がそんな小さい奴に見えますか?」志摩はそう笑いながら、俺を掴む縁の腕を掴む。自然と、俺から縁の腕が離れた。
「じゃあいまから行きましょう。許可証なら俺、貰ってくるんで」
言いながら、志摩は俺と縁の間に立つ。
もしかして、俺を逃がそうとしてくれているのだろうか。あまりにも自然でどこか不自然な志摩の行動に、俺は都合のいい思考を働かせる。
「全部、亮太に任せるよ」
あまりにも強引すぎる志摩に、縁は肩をすくめる。
志摩はちらりとこちらに目を向ければ、『さっさとエレベーターを降りろ』とでも言うかのように小さく顎を動かした。戸惑う俺は、小さく頷きながら縁に気付かれないようにエレベーターを降りる。
「じゃあ、このまま行っていいですか?」
志摩は俺が降りたのを確かめると、扉に背中を向け縁にそう問い掛けた。
同時にエレベーターの扉が閉まり、志摩の背中は見えなくなる。
「……」
閉じたエレベーターの扉の中からは微かに機械音が聞こえた。
せっかく志摩と顔を合わせる機会があったというのに、まともに話もできなかった。なのに、助けられた。
今まで志摩を避けていた自分の心の小ささが浮き彫りになって、俺は軽く自己嫌悪に陥る。お礼ぐらい言えばよかった。エレベーターの扉の前に立った俺は、小さく息をつく。明日、学校でお礼を言おう。そう決意したとき、脳裏に昨日の夜のことが浮かんだ。
固まったばかりの決意が大きく揺らぐ。
「……」
明日になってから考えよう。今日は色々なことがありすぎて、まともに思考が働ける自信がない。
小さくため息をついた俺は、やけにだるい体を引き摺るようにして自室に戻る。
憂鬱な気分のまま、俺は自室のドアノブを捻った。鍵はかかっていない。どうやら阿佐美は帰ってきているようだ。
「ただいまー……」
無言で帰宅するのもなんかよそよそしいので、一応小声でそう口にしながら扉を開く。なぜか、電気が消えていた。
真っ暗な部屋に不信感を覚えながら、俺は手探りで壁のスイッチを探す。見つけた。スイッチを押すと、パッと天井の電気に明かりがつく。
相変わらず生活感ただ溢れな部屋にもう俺は驚きはしない。玄関で靴を脱ぎながら、俺は部屋に上がった。
「詩織……?」
ルームメイトの姿が見当たらない。別に用という用はなかったが、なんとなく気になった。
もしかして、また鍵を開けっ放しで風呂にでも行ってるのだろうか。
いやでも、昨日本人が『毎日鍵を持ち歩いている』と豪語していたしなあ。思いながら、俺は室内を見渡した。まあ、いいか。俺はふらふらとした足取りで、自分のベッドに向かった。
「……」
ベッドの前までやってきて、俺は足を止める。妙に布団が膨らんでいた。もしやと思って、俺は布団を掴みそれを剥がそうとする。
「ぐ……っ」
なぜか、布団の内側からもの凄い力で引っ張ってきた。
間違えない、阿佐美だ。また阿佐美が勝手に俺のベッドを使ってる。
「なんで、俺のベッドで寝るんだ……っ!」
言いながら、俺はぐいぐいと布団を引っ張った。
「ちょ、待……っ」阿佐美がなにか言っているが布団のせいでくぐもってよく聞こえない。意地になって、俺は全力で布団を無理矢理剥ぎ取ろうとする。
「だ、ダメだって!」
阿佐美が声を荒げたと同時に、急に布団が軽くなった。案の定、そこには阿佐美がいた。なぜか、スウェットのウエストに手をかけている阿佐美が。
無言で凝視していると、みるみるうちに阿佐美の顔が赤くなっていく。
「詩織、いま、なにやって……」
「ま、まだなにもしてない!ほ、ほんとだよ……」
まだってなんだよ。別に人よりも勘がいいとかそういう特技はないが、阿佐美は人一倍わかりやすかった。
ゴニョゴニョと口ごもる阿佐美に、俺はどんな反応をすればいいのかわからず「せめてトイレでやってくれ」と呟きながら阿佐美のベッドに移動する。
「わ……わかったっ」
阿佐美はコクリと頷くと、ベッドから起き上がりそのままバタバタと洗面所に駆け込む。
阿佐美のベッドに腰を降ろした俺は、自分のベッドに目を向けた。俺のベッド使っても、萎えるだけだろうに。そういうのが好きだっていうのなら話は別なんだけれど。そこまで考えて、俺は自分の思考に背筋を凍らせる。いや、それはダメだろ。
自分の思考に突っ込みをいれながら、俺は阿佐美のベッドに寝転がった。阿賀松たちに、確実に毒されている。
慣れないベッドの感触に俺は何度か寝返りを打ち、上半身を起こした。
「眩し……」
俺は一度ベッドから降りると自分のベッドから枕を取り、天井の中央にぶら下がる電灯からぶら下がる紐を引っ張る。部屋の明かりが消え、急に視界が暗くなった。俺は目を凝らしながら、阿佐美のベッドがある場所まで歩く。念入りにベッドの場所を確かめながら、俺は枕を手にしたまま布団に潜り込んだ。
阿佐美のベッドに置かれた枕を、俺のベッドがある方に投げながら俺は自分の枕に頭を乗せる。
今日はもう寝よう。そう脳内で呟きながら、俺は目を閉じる。
やはり、いつも眠っているベッドと違うせいか多少違和感はあったがもとは同じものだ。
俺は何かから身を潜めるように、布団を頭までかぶりながら寝返りを打つ。しばらくして、阿佐美が部屋に戻ってくる気配を感じながら俺は眠りについた。
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