天国か地獄


 02

 食堂に足を踏み入れた俺は、思わず食堂内から目を逸らした。
 疎らな生徒で賑わう食堂。
 もちろんこんな時間に食堂にやってくるなんて生徒は大体想像つく。いつの日かのゲームセンターで目の当たりにしたような光景に、俺は全身に嫌な汗を滲ませた。

「佑樹君?入らないの?」

 一足先に食堂に入った阿佐美は、近くの空いた席に腰を下ろしながら俺に声をかけてくる。
 入りたくない。そう言いたかったが、なるべく知り合いの前で格好つかないような真似はしたくない。
「……あ、うん」俺はなるべく平静を保とうとし、食堂内に移動した。瞬間、食堂内の視線が扉付近の俺に向けられる。

「……っ」

 突き刺さるような視線が全身に浴びせられた。
 自意識過剰かもしれない。寧ろそう思いたかった。
 嘲るような笑い声。向けられる好奇の視線。笑い声だけが、やけに大きく脳に響いた。
 別に自分のことを笑っているわけではないとわかっているのに、わかっているのに足が動かない。動悸が激しくなり、俺はその場で立ち止まった。

「佑樹く……」

 不思議そうに俺を見る阿佐美。
「ごめん、ちょっとトイレ」俺は、阿佐美の言葉を塞ぐように早口で言えばそのまま食堂の扉から廊下へと足早に出ていった。
「佑樹君!」慌てたような阿佐美の声が聞こえ、俺は足を加速させる。
 自分でも呆れるくらいの挙動不審っぷりだったが、あの場に残ってそのまま平常心でいられる自信がなかった。
 食堂から飛び出した俺は、そのまま近くの男子便所へと入っていった。
 別に尿意を感じたわけじゃないが、頭を冷やすには丁度いい場所だと思ったからだ。

「……」

 やけに心臓が煩い。
 転校してから数週間、視線や笑い声には馴れたつもりだった。なのに、こんなに取り乱すなんて自分でも思わなかった。
 知り合いの前だからといって変に意識してしまったからだろうか。
 忘れかけていた嫌な感覚が、全身を覆う。冷や汗が滲む額を拭い、俺は乱れた呼吸を整えた。
 今度こそ、阿佐美に引かれたかもしれない。想像して、結構落ち込んでいる自分がいた。

「……はあ」

 自然と口からため息が漏れる。阿佐美には悪いけど、食堂の外で待たせてもらおう。
 朝御飯抜いたくらいで別に死ぬわけじゃないし、あの状態で朝御飯食べてもまともに喉を通らない。
 ようやく平静を取り戻した俺は、そんなことを思いながら男子便所から廊下に出ようとした。瞬間、死角から朝御飯男子便所に入ろうとしていた生徒とぶつかりそうになる。

「わっ」

 ぶつかる寸前、俺は慌てて身を引いたが遅かった。ガランガランと音を立て、生徒の手からなにか棒状のものが落ちる。
 ──松葉杖だ。

「ご、ごめんなさい!」

 顔からサアッと血の気が引いていく。俺は慌ててしゃがみこみ、床の上に落ちた松葉杖を拾い上げた。
 持ち主の生徒にそれを渡すと、その生徒は人良さそうな笑みを浮かべる。

「お、悪いね。助かったよー」

 黒に近い青い髪をしたその生徒は、ヘラヘラと笑いながら松葉杖を受け取った。
「本当にごめんなさい」俺は顔を青くして何度も謝る。

「俺は全然大丈夫だからさあ、そんなに謝んないで。ね?」

「ほら」松葉杖の生徒はいいながら軽く足を動かしてみせた。どうやら生徒の言葉は本当のようだ。俺は内心ほっと胸を撫で下ろす。

「……じゃあ、俺はこれで」
「あっ、ちょっと待って」

 本人が大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう。
 そう思って、男子便所から立ち去ろうとしたとき、松葉杖の生徒に声をかけられた。

「君、名前なんていうの?」
「え?」

 まさか、名前を聞かれるなんて思ってもいなくて、俺は思わず聞き返す。
 松葉杖の生徒はニコニコと笑いながら俺の言葉を待った。
 名前なんか聞いてどうするのだろうか。俺は生徒の言葉に戸惑う。見た目は不良みたいだけど悪い人には見えないし、名前くらいなら……。
「……齋籐ですけど」訝しげに生徒を見上げながら、俺は自分の名字を口にした。

「そ、齋籐君。ありがとね」

 松葉杖の生徒は、目を細めにこりと笑った。
 松葉杖の生徒と別れた俺は、なんだか妙な気分のまま食堂へと戻った。

「佑樹君……っ」

 食堂の入り口の前には阿佐美が立っていて、奥の廊下からやってくる俺を見つけるとパタパタと駆け寄ってくる。
「詩織、ご飯は?」てっきり食堂で朝食をとっていると思っていただけに、阿佐美が入り口で待っていたのは予想外だった。阿佐美は俺の問い掛けに頭を横に振る。

「食べないの?」
「佑樹君は?」
「俺は、外で待ってるから」

「なら俺もいらない」そんなことを言い出す阿佐美に、俺は困ったように笑う。
 さっきパンが食べたいとか言ってたじゃないか。もしかして俺に気遣ってくれているのだろうか。あまりにも突拍子のない阿佐美の言動に、そんなことまで思ってしまう。だとしたら、申し訳ない。

「本当にいいの?」
「うん」

 阿佐美は大きく頷いた。
 それが本心かどうかはわからなかったが、これ以上言っても変な所で頑固な阿佐美が折れるとは思わない。
「じゃあ早く教室に行こう」なんとなく腑に落ちなかったが、無理強いする気もない俺は阿佐美を連れて教室に向かうことにした。
 遅刻したことには変わりないのだが、それでも早めに教室に入った方がいいことくらい知っている。
 教室と言われ少し嫌そうな顔をする阿佐美だったが、黙って俺の斜め後ろをついてきた。

 教室前までやってきた俺たち。
『どういう顔して教室に入ればいいんだ』とか、『なにか言った方がいいのだろうか』とか色々考え事をしながら扉の前を右往左往していると、そんな俺の横を通り抜け阿佐美は教室の扉を開いた。
 ちょっと、まだ心の準備ができていないんだけど。
 しれっとした顔でそのまま教室に入っていく阿佐美。一人取り残されるのが嫌で、俺は慌てて阿佐美の後をついて教室に入った。
 というか教室入室許可書とかそういうのはいらないのだろうか。今さら余計な心配をして気を紛らしてみるが無理がある。突き刺さる視線から逃げるように床を睨みながら、俺は挙動不審ぎみに自分の席に向かった。

「……齋籐君、後で職員室に来るように」

 教卓の前にたっていた中年の女教師は、俺に目を向ける。
 なんで俺だけ……。
 そのまま席に座ろうとしていた阿佐美に目を向けると、申し訳なさそうな顔をして口パクでなにかいってくる。
『ご、め、ん、ね』。
 なにを謝っているのかわからなくて、俺は困ったように眉を寄せる。
「そこ、早く席につきなさい」女教師に急かされ、俺は慌てて席に座った。肩にかけてたカバンを机の横に置く。

「随分、阿佐美と仲良くしていたみたいだけど」

 ふと、隣の席から声をかけられた。志摩だ。
 志摩は机の上に広げた教科書に視線を落としたまま、俺に話しかけてくる。
「……別に」ふと昨日のことを思い出してしまい、俺はどんな顔をすればいいのかわからなくなって志摩から顔を逸らした。

「そういうの、結構傷付くんだけど。俺」

 志摩は困ったように笑いながら俺の方に目を向けた。
「話すときくらい俺の方見てよ」志摩は俺だけに聞こえるくらいの声で、囁く。
 どうやら、志摩のいう『そういうの』とは俺の態度のことを指しているようだ。
「……ごめん」俺はちらりと志摩を横目で伺う。志摩と目があって、慌てて目を逸らした。

「もしかして、昨日のこと気にしてるの?」

 あまりにもよそよそしい俺に、志摩は困ったような顔で核心に触れてくる。
 まさか、授業中他の生徒がいる中でその話題を持ってこられるとは思ってなくて、俺は動揺した。

「志摩……っ」

 今、その話はしなくてもいいだろう。俺は睨むように志摩に目を向けた。
「今しないと、齋籐、聞いてくれなさそうだし」志摩はそう笑いながら言う。否定できなかった。
「……だからって、今じゃなくてもいいだろ」俺は視線を泳がし、声を潜める。

「じゃあいつならいいの?」

 志摩は目を細め、俺の方を見た。
 いつとか、そんなのわかるわけないだろ。返事に詰まり、俺は気を紛らすようにカバンの中から教材を取り出した。

「齋籐」
「……っ」

 不意に伸びてきた志摩の手に腕を掴まれ、驚きのあまりに教材を床に落としてしまう。
 バサバサと床に散らばる教科書に、教室中の視線が俺の足元に向けられた。

「あ……ごめん」

 志摩は床に散乱する教科書を見て、慌てて俺から手を離した。
「別にいいよ」バツが悪くなり俺は屈み込み、教科書を拾い始める。
 変に目立ってしまったが、クラスメートたちはすぐに俺から視線を逸らした。約一名を覗いて。
「……」前の方の席に座っていた阿佐美は、足元の教材を片付ける俺に目を向けた。
 今にも立ち上がって来そうだったので、『大丈夫』という意味を込めて俺は小さく首を横に振る。

「俺も手伝うよ」
「志摩は座ってて」
「でも」
「いいから」

 まるで、俺一人だけ焦って空回っているみたいだ。
 べつに今に始まったわけではないが、少しだけ気分が悪かった。だからだろうか、志摩に対して口調が強くなる。

「……」

 志摩は驚いたような顔をして俺を見た。
 しまった。慌てて口を紡いだが、だからといってどうにかなる問題ではないのはよくわかっている。
 これじゃ、まるで八つ当たりみたいじゃないか。

「……わかったよ」

 志摩は、そう呟くと俺から顔を逸らした。怒ったようには見えなかったが、気分が良さそうにも見えない。
「……」俺は何も言うことができず、黙ってかき集めた教材を机の中へと仕舞う。
 その後、授業中志摩が話し掛けてくることはなかった。

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