01
目を覚ますと、目の前に見慣れない男の顔があった。
「…………っ」
リアルに血の気が引いていく。
数秒経って、ようやく阿佐美だということに気が付いた。
いつも前髪で隠れているからわからなかった。というか、初めて阿佐美の顔まともに見るかもしれない。だというのに、どこかであったことのあるような顔だった。
誰かに、似ている。誰だっけ。思いながら、俺は阿佐美の前髪にそっと手を伸ばそうとして、いきなり阿佐美が目を開いた。
「あ……」
お互いにビックリして、俺は伸ばしかけた手を止めた。
阿佐美は顔を青くして慌てて上半身を起こせば、手のひらで顔を覆い俺から顔を逸らす。
「……なんかした?」
阿佐美は俺から顔を逸らしたまま、恐る恐る問い掛けてきた。
「まだ、してない」俺は慌てて顔を横に振りながら答える。言ってから自分が墓穴を掘ったことに気付いた。
阿佐美はなにか言いたそうにしていたが、ベッドから降りそのまま洗面所に足を向かわせる。もしかして、なにかまずいことでもやってしまったのだろうか。
一人ベッドに残された俺は、阿佐美の入っていった洗面所の扉に目を向ける。
洗面所から出てきた阿佐美は、いつもと変わらない姿だった。変わったところを挙げるなら、妙によそよそしい。
「詩織、前髪……」
前髪、あげたほうがいいんじゃないかな。
いいかけて、阿佐美がビクッと震えるもんだから思わず俺は口を閉じた。
「いや、やっぱりなんでもない」それ以上は余計なお世話かもしれない。というか、ここまでハッキリと嫌な反応を示されると流石に言いにくかった。
「……」
気まずい。俺は阿佐美と入れ違うように洗面所に足を向かわせた。
別に阿佐美は顔は悪くないし、寧ろ整っているほうだと思う。
なのになんで隠しているのだろうか。そこまで考えて、俺はふと鏡の前で足を止めた。
……阿賀松だ。
阿佐美の素顔が誰かと似ていると思っていたが、阿賀松と似ているんだ。分かりやすいくらい酷似しているわけではないが、それらの雰囲気が似ているのだ。なんだかとんでもないことを知ってしまったような気がする。脳裏に浮かぶ阿賀松と阿佐美が重なり、俺は慌てて頭を横に振った。
「……………忘れよう」
俺は洗面台の蛇口を捻り、それで顔を濯ぎながら必死に記憶を抹消しようとした。
阿佐美だって顔を隠そうとしているんだ、なにも見なかったことにしよう。そうでもしないと、まともに顔を合わせれる自信がない。一頻り顔を洗った俺は、近くにあったタオルで顔を拭い小さくため息をついた。
洗面所で身支度を整え、部屋に戻ると制服に着替えた阿佐美がいた。
締まりのない、というよりだらしのない阿佐美の姿に俺は眉を寄せる。
どうやったらそうなるんだ。シャツをきっちり入れろなどと母親みたいなことを言うつもりはないが、せめて指定のネクタイくらいは締めたらどうだろうか。
「……どうしたの?」
阿佐美に訝しげな視線を送っていると、阿佐美は不安そうな顔をして俺を見てくる。
「……いや、なんでもない」
別に俺がとやかくいうような立場でもないか。
制服に腕を通すだけでも喜ばしいことだろうし、あまり人に強要するのはよくない。言い訳めいた言葉を脳裏に並べながら、俺は小さく頭を横に振った。
ベッドに近寄れば、俺は予め畳んでおいた制服を手にとりそれに着替える。
毎朝同じことをしているはずなのに、やけに気分が億劫だった。原因は間違いなく昨日のことだろう。俺は無意識にため息をつきながら、ブレザーを羽織った。
同時に、部屋の扉が数回叩かれる。ふと、ブレザーの前を留めていた俺の手が止まった。
『齋籐、起きてる?』
扉越しに志摩の声が聞こえる。
もしかしたら、と構えていたがやっぱり志摩だった。
少し、早すぎるんじゃないだろうか。
俺は枕元に置いてあった携帯電話を手にとり、ディスプレイに表示される時計を確かめる。気が付くと、随分な時間が経っていた。
『もしかして、まだ準備できてないの?』
ガチャガチャと外側からドアノブが捻られる。
俺が返事をしないのが気になったのか、志摩は『齋籐?』と心配そうに扉に話しかけた。
どうやら俺は思ったよりもいつも通りの志摩に戸惑っているらしい。なにか言い返そうとするが、喉元に言葉がつっかかって出てこない。
「……」そんな俺に気が付いたのか、阿佐美は俺の代わりに扉に近付き開いた。
「さいと……」
「……佑樹君なら、まだ着替えてるから」
扉を開いた阿佐美は、「先に行ってて」と続ければ志摩に構わずそのまま扉を閉めた。
終始呆れたような顔をしていた志摩。扉が閉まる一瞬、扉の前の志摩と目が合った。バタンと扉が閉まり、志摩の視線は遮られる。
「……いいのかな」
少し、強引だったような気がした。
なんとなく後が怖くて、俺は恐る恐る阿佐美に目を向けると阿佐美は不思議そうな顔をする。
「……どうして?なんで佑樹君がそんなこと気にするの?」
「どうしてって……」
真顔で聞かれて、俺は口ごもった。
自分がされたらショックだから。そう言おうと思って、やめた。
気を遣ってくれた阿佐美に対して、上からものを言えるような立場ではない。気まずそうに視線を落とす俺に、阿佐美はなにも言わずにソファに腰を沈めた。
「準備終わったら教えて」
「……うん」
リモコン片手にテレビをつけ、阿佐美はそれを眺める。
準備というほどのものではなかったが、俺は阿佐美の言葉に頷いた。なんとなく空気が重かった。
俺は制服を着直せば、机の側に落ちていた鞄を拾い上げ阿佐美のいるソファに近寄る。
「準備できたよ」
「わかった」
阿佐美はつけたばかりのテレビを消しながら、ソファから立ち上がる。
この時間帯、阿佐美が起きているのって久しぶりすぎてなんだか違和感がすごい。
床の上のカバンを拾い上げる阿佐美を眺めながら、俺はそんなことを思った。今思えば、かなり失礼な話なのだが。部屋を出て、阿佐美に鍵をかけてもらう。
そういえば、俺の鍵はどこに落としてきたのだろうか。早めに見つけないと色々不便だろうし、今日中に届けでも出しておこう。そんなことを考えながら、俺と阿佐美は廊下を歩きエレベーターに乗り込んだ。
「……」
エレベーター機内。エレベーターには俺たち以外に人はいなかった。
いつもなら変に気張る必要がないと喜んでいるのだが、今は少しだけ緊張している。
何十日も阿佐美と過ごしていて今更可笑しな話だ。
「佑樹君」
ふと、名前を呼ばれ俺はぎくりと体を強張らせた。
「……なに?」ようやく喉から絞り出した声は、変に上擦ってしまう。
阿佐美はなにか言いたそうに俺に顔を向けた。
「なんだよ……」一向に次の言葉を出そうとしない阿佐美に痺れを切らした俺は、困ったように顔をしかめる。
「……佑樹君って」
ようやく阿佐美が口を開いたとき、エレベーター全体が小さく揺れ停まった。
どうやら目的地の一階についたようだ。なんて間の悪い。阿佐美は言葉を止め、開いた扉に顔を向けるとそのままエレベーターから降りる。
「あ、ちょ……」
なにか言いたかったんじゃないのか。
なにも言わずにエレベーターを後にする阿佐美の背中を追うように、俺は慌ててエレベーターを降りる。
一階に降りて、ようやく俺は異変に気が付いた。
いつもなら朝食をとる生徒でぼちぼち賑わっていた一階には、片手で指折り数えられるくらいの生徒しかいない。異変というには大袈裟なのかもしれないが、俺にとっては異様な光景だった。
「……っ」
とっさに壁にかけられた掛け時計に目を向けた。背筋が凍る。通常なら、もうすでにHRが始まっている時間だった。どうりで生徒が少ないはずだ。
寧ろこんな時間だというのに生徒が寮をほっつき歩いていることが不思議でならない。
「詩織っ、遅刻しちゃう……!」
あまりにも焦りすぎてうまく滑舌が回らなかった。
すでに遅刻しているのだが、今まで無遅刻無欠席だった俺にとって些かショックな出来事だったりしたせいか動揺が隠せない。
「うん……?」
対する阿佐美は、焦る俺を眺め不思議そうな顔をして首を捻る。
『なにをそんなに焦っているんだ』そう言いたそうな阿佐美に、俺は呆れた。
阿佐美が時間にルーズなのには気が付いていたが、ここまで緊張感がないのも問題だ。
「俺パン食べたい」
遅刻しているというのに、ご飯の話をするか普通。
「佑樹君は?」あまりの焦れったさに呆然と立ち竦んでいると、阿佐美に腕を掴まれる。
「……俺もパンで」言いたいことはいろいろあったが、あまりにもマイペースな阿佐美を見ているとなんだか力が抜けてしまった。
結局、俺は強引に阿佐美に連れられ食堂へと向かうことになる。
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