01
結局、一睡もできなかった。
いや、途中眠ったかもしれないがあまりにも浅すぎて記憶が曖昧になっていて自分でもよくわからない。確かに言えるのは、俺は起きたまま朝を迎えたということだ。
「佑樹、俺、佑樹と語り明かすつもりだったのに……」
一番始めに起きてきたのは十勝だった。
そんなことを言い出す十勝に、俺は苦笑を漏らす。
本当に、途中で眠ってくれて助かった。そんなこと、口が裂けても言えないのだが。
「……齋籐?」
十勝の声に起こされたのか、志摩は眠たそうな目を擦りながら小さく唸る。
「おはよう、志摩」俺はベッドの志摩に目を向けた。
「……いま何時?」
「五時」
「もう一回寝る」
既に目を覚ました十勝とは違い、どうやら志摩は寝足りないようだ。
時刻を聞いた途端もぞもぞと布団の中に潜り込む志摩を眺めながら、俺は「おやすみ」と笑う。
「もしかして佑樹完徹?」
「完徹ってわけじゃないけど、あんまり眠れなかった」
「そりゃご愁傷さま」
十勝は他人事のように笑いながら洗面所へ向かう。まあ、他人事なのだけれど。
十勝が洗面所から戻ってくると入れ替わるように、俺は洗面所に入った。
顔を洗ったりと身支度を整え洗面所を出ると、十勝が俺の制服を渡してきた。昨日志摩が洗濯してくれたやつだ。
「洗濯機に突っ込んであった。お前のだろ?」
「うん、ありがとう」
「お礼なら俺じゃなくてあいつに言えよ」
十勝は気恥ずかしそうな顔をし、志摩の眠るベッドに目を向ける。
「そうだね」
どうやら志摩はまだ眠っているようだ。そろそろ起こした方がいいんじゃないかと思ったが、下手に起こして怒らせるのも気が滅入る。
「亮太ならほっとけよ。すぐ起きてくるから」
十勝はそう言って、黒いカーテンの向こう側にある自室へと戻っていく。
昨日、志摩も同じこと言っていたような。思いながら、俺は十勝から返してもらった制服を床に広げ志摩の服からそれに着替える。
他人がいる前で着替えるのは気が引けるが、まだ志摩は眠っているはずだ。
袖に腕を通し、制服に着替えた俺は背伸びする。
「随分と色気がないストリップショーだね」
背後から声がして、俺はビクリと体を強張らせる。志摩だ。
上半身を起こした志摩は、大きな欠伸を噛み締める。
「起きてたの?」
「誰かさんが煩くて満足に眠れなかった」
「言ってくれればいいのに」
志摩が起きていたのなら、場所を変えるというのに。
俺は急に恥ずかしくなって、苦笑を浮かべながら志摩から顔を逸らした。黙って見ているなんて、結構悪趣味な気がする。
「あ、服ありがとう。本当助かった」
「いいよ別に、そんな畏まらなくても。あ、それ洗濯機入れておいて」
「わかった」
志摩は眠たそうな目を擦りながら、ベッドを降りる。
十勝の言う通りだ。心の中で呟きながら、感心したりする。
それからは、志摩が身支度を済ませるのを十勝と他愛もない会話を交えながら待っていた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
いつもの志摩になったところで、志摩はそう俺に声をかける。
志摩がドアノブに手をかけたとき、どこからか無機質な着信音が鳴り響いた。志摩の方からその着信音が聞こえてくる。俺は志摩の顔に目をやった。
志摩は制服から携帯電話を取り出せば、画面を覗くなり小さく舌打ちをする。
「あーごめん、ちょっと外で待ってて」
「え?あ、わかった」
申し訳なさそうな顔をする志摩に、俺は小さく頷いた。相手が誰なのかなんて野暮なことを聞くつもりはない。志摩が携帯電話を耳に当てるのを尻目に、俺は言われた通りに部屋を後にした。
防音の効いた部屋からは志摩の声は聞こえない。
扉に寄り掛かり、俺は小さく息をつく。
その瞬間、頭に向かってなにか重たいものが落ちてきた。というより、飛んできた。
「……っ」
それが遮りとなり、俺の視界が一瞬真っ暗になる。
何事かと心臓を跳ね上げた俺は、自分自身に投げ付けられたそれを手にとった。それは、学校で指定された俺の鞄だ。
あれ?確か昨日どっかで落としたはずなのに。ていうか、どこから飛んで……。
そこまで考えて、近付いてくる人影に思わず体を強張らせる俺。
気付いたときにはもう遅かった。
「よお。忘れ物、届けに来てやったぜ」
すぐ傍から聞こえるねちっこい声に、俺は顔を青くした。
嘘だろ、なんでいるんだ。
阿賀松は呆然とする俺の後頭部に手を置くように乱暴に髪を掴めば、楽しそうに口許を歪めた。
◆ ◆ ◆
「さっさと入れよ」
そう言って、阿賀松は俺の背中を強引に押した。
バランスを崩し、俺は足を縺れさせながらその部屋に入る。
場所は四階にある、阿賀松の部屋らしき場所。
普通の部屋よりも心なしか広く感じたのは、二人部屋を一人で使っているからだろう。
阿賀松の部屋には安久と仁科が居て、俺の姿を見るなり驚いたような顔をした。
「あいつが言っていたこと、本当だったんすか?」
「見てわかんねえの?嘘だったらコイツはいないだろうが」
安久の問い掛けに、阿賀松は俺の首根っこを掴みそう笑った。嫌な汗が全身に滲む。
なんで俺、こんなところまで連れてこられてんだ。
「なあ?」
阿賀松の長い爪で首筋をなぞられ、あまりの不快感に俺は顔を逸らす。
「お前、自分の立場わかってる?」
顔を逸らす俺の顎を撫で、阿賀松は耳元でそう問い掛けてきた。
ねっとりとした低い声が、俺の中の恐怖心を煽る。
嫌なくらい理解しているからこそ、俺は黙り込んだ。どうやら、その態度が気に入らなかったらしい。
阿賀松は小さく舌打ちをすれば、俺の腕を掴む。
「安久、コイツ好きにしろよ」
一瞬、なにを言っているかわからなくて、俺は阿賀松の顔を見上げた。阿賀松の目に俺は映っていない。
いきなり話を振られた安久は、可笑しそうに口の端を吊り上げた。
「いいんですか?僕、伊織さんみたいに優しくできないっすよ」
「だろうな」
阿賀松は目を細めて笑う。
なんのことを言っているのか手に取るようにわかってしまう自分が嫌になる。
俺は慌てて阿賀松から離れようとするが、腕を捻られ小さく唸った。
「せいぜい、会長を喜ばせる顔ぐらいにはしてやらねえと。なあ」
阿賀松は俺を冷めた目で見つめ、小さく笑った。
血が引いていくような寒気が全身に走る。
最悪だ。
俺は阿賀松から目を逸らし、体が震えるのを堪えるように歯をくいしばる。
「こっちに来い」
阿賀松はそう囁けば、俺の腕を強引に引っ張る。
このまま逃げ出したかった。そのせいか、足が思うに動かずに俺は阿賀松に引き摺られるような形で部屋の奥の扉の前までやってくる。
こんな扉、俺の部屋にはなかったんだけど。見慣れない場所に取り付けられた扉を前に、俺は阿賀松が理事長の孫だということを思い出した。
阿賀松は扉を開くと、狼狽える俺を部屋の中に突き飛ばす。バランスを崩した俺は派手に尻餅をつき、顔を歪めた。
薄暗い照明に、キツい香水の匂い。一人で使うには贅沢すぎる大きなベッド。
その部屋は、どうやら寝室のようだ。
阿賀松と入れ違いになるように部屋に入ってきた安久は扉を閉めた。
薄暗い部屋の中、安久は床に座り込む俺を見るなり大きな溜め息をつく。
「僕、ノーマルなんだけど」
俺だってノーマルだ。
思いながら俺は慌てて腰を持ち上げ、安久から逃げるように後ずさる。
こんな部屋に長時間いたら、頭が割れてしまいそうだ。
「本当は僕だってこんなことはしたくないよ。でも伊織さんからの命令だし、ってか大体アンタの自業自得だし」
言い訳めいた言葉を並べながら、安久は俺に近付いてくる。
俺は慌てて逃げようとして方向転換した瞬間、なにかに頭を打った。壁だ。目の前には平らな壁が広がっている。
「………つッ」
ズキズキと痛む鼻柱を押さえ、俺は小さく声を漏らす。つんと鼻が痺れ、じんわりと目頭に涙が滲んだ。想像以上にそれは苦痛だった。
自分のせっかちさと逃げ場のないこの状況に軽く絶望すら覚える。
「恨まないでよね」
背後から安久の声が聞こえ、俺は慌てて振り返った。
安久の手にはなにかもっているのが目に入り、俺は目を細める。
……灰皿?どうして、そんなもの。
安久は、その灰皿を俺の顔面目掛けて振りかぶった。
薄暗い部屋の中、楽しそうに笑った安久の顔が俺の視界に映り込む。
鈍い痛みが、俺の額に走った。
ぐらりと揺らいだ視界。全身の力が抜けたように、俺は壁に凭れた。
「……な、にし」
息があがり、俺は目を見開きじんじんと熱くなる額に恐る恐る手を這わせる。
ぬるりとした黒い液体が指先を濡らした。鼓動が早くなり、目眩がする。
俺はずるりと壁に寄りかかったまま、床に座り込んだ。
「へえ、タフなんだ。それとも、虐められたときに少しは鍛えられたの?」
安久は灰皿を床に落とし、ぐったりと倒れ込む俺の髪を鷲掴みする。
ドクドクと心臓が煩くなって、俺は目の前の安久を見た。
俺は、殺されるのだろうか。
殴られた額の傷口から一筋の液体が流れる。
「ここで寝ないでよ、運ぶのめんどくさいから」
俺の髪を引っ張り、安久は無理矢理俺を立たせる。
足元の感覚があやふやになっているせいか、壁を伝わないとまともに歩けない。俺は安久の腕を振り払った。
「……生意気」
「……ッ」
安久は忌々しそう舌打ちをすれば、俺の胸ぐらを掴み顔を近付ける。間近に迫る安久に、俺は息を飲んだ。
襟首を締め上げるように掴まれ、息苦しくなった俺は顔を歪める。そんな俺を見て安久は鼻で笑い、ベッドの上に押し倒した。
まともに受け身が取れず、俺の体は柔らかいベッドに沈む。ギッとスプリングが軋んだ。
「ぐぅ……っ」
焼けるような痛みに、俺は目をきつく閉じる。
安久は俺の上に覆い被されば、強引にYシャツのボタンに手をかけた。
「お願いだから、も……やめ……っ」
霞む視界、痺れる思考回路。
俺は安久の腕を掴み懇願するがうまく力が入らず、ずるりと滑り落ちるばかりだった。
「死にそう?死んじゃったら全裸にして生徒会室に死体放ってあげるよ」
「……」
冗談じゃない。睨む気力すらなくなった俺は、安久に目をやった。
安久がどんな顔をしているのかもさえわからない。自分の限界が近付いているのを感じ、顔を歪めた。
「は……っ」
うまく呼吸ができなくなって、俺は目を閉じた。
頭がぐらぐらして、気持ちが悪くなる。反応が鈍くなる俺に気が付いたのか、服を脱がせていた安久の手がとまった。
「……ちょっと、まだ寝ないでよ。まだ何もしてないんだけど、ねえったら」
遠退いていく意識の中、安久の苛ついたような声が鼓膜から染み込んでくる。
これ以上酷い目にあうのなら、死んだ方がましだ。一瞬でもそう思ってしまった自分に、俺は後悔する。
無理だ、死にたくない。
暗がりに投げ出される意識の中、俺はそう思った。
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