15
というわけで連理がいなくなったあとの生徒会室。
二人きりになり、一気に静かになったその中「俺達も帰るか」という会長の言葉により俺たちは生徒会室を後にした。
足音が響く通路。すでに窓の外は陽が沈み、赤黒い空がそこに広がっていた。
「あの、会長」
今なら、聞けるかもしれない。誰もいない、今ならば。
血相の変えた五味によって遮られた会長の言葉、それが気になって仕方なかった。
「……灘君が大丈夫って、どうして分かるんですか?」
「ああ、そのことか」
「掘り返してしまって申し訳ないです。……けど、俺は灘君のことが心配で……」
「そうだな……。しかしまあ、君もあいつとは何度か話したことがあるだろう」
「……はい」
「あいつは口が硬い。ちょっとのことで情報を漏らすことはないだろう」
「でも、そのために酷い目に合わされたりでもすれば……」
「その心配もないな。……なんせ、あいつには痛覚がない。痛め付けられてそのことが原因で口を開くことはまずないだろう」
「……え……」
会長の口からさらりと出た言葉に、俺は言葉を失う。
痛覚がない。俺には到底考えられないが、もしそれが本当だというならば会長の考えが手に取るように分かり、嫌な汗が滲む。
灘ならば、痛みを感じないからいくら傷めつけられても構わないということなのだろうか。
確かに、あの時灘も自分が適役だと言っていた。割り切っているのかもしれないが、なんだろうか、人としての大切なものが欠落しているように思えて仕方ない。それは、灘だけではなく、目の前のこの人もだ。
呆れる俺に気付いたのか、会長は笑う。
「まあ、一番の理由は他にあるんだがな」
「……一番の理由って……」
「あいつは逃げ足が早い」
「おまけに、隠れるのも気配を消すのも上手でな。隠れんぼをさせたらあいつが一番強いだろうな」なんて、会長が笑ったとき。背後で、微かに何かが動いたような気がして、咄嗟に振り返る。そして俺は言葉を失った。
「っ、灘君……?」
「どうも」
「ど、どうも……じゃなくて、どうして、ここに」
「……言っただろう、齋藤君。心配はいらないと」
笑う会長に肩を叩かれ、灘は無言で頷く。
いつから後をつけていたのか、それよりもいつから逃げ出していたのか。
分からないが、傷一つない灘を見る限り手荒な真似はさせられていないようで安心する。その代わり、灘の首元、ネクタイが見当たらないことに気付いた。
「灘君、ネクタイどうしたの?」
「ネクタイを掴まれてしまっていたので、外して逃げてきました」
「…………」
ということは、縁に連れて行かれている途中で脱走したということか。
あまりにも早い行動というか、確かに部屋に閉じ込められたらと思うとそれがいいのかもしれないが……随分と行動が早くないか。まるで最初から予想していたかのような冷静な灘と芳川に俺は何も言えなくなる。
「……でも、無事で良かった……」
「ちゃんと撒けたのか」
「はい、少々しつこかったので階段に油撒いてきました」
「油……?!」
「はは、流石だな。勿論後片付けは」
「そのまま放置してきました」
「……階段を封鎖しなければならないな」
痛覚のない、という話を聞いて驚いたが確かに、灘ならば心配はいらないと豪語出来る理由が分かった気がする。
慣れているのだろうか、それともただ単に焦ることがないから冷静に状況判断出来るのか、どちらかは謎だが、その図太さが羨ましくも思える。でも、灘がここにいるということは……縁は灘を探しているんじゃないだろうか。
気になったが、大分時間が経っているのも確かだ。
とにかく、警戒を怠ることは出来ない。
灘も加入し、しかしだからと言って賑わうわけでもなく、俺たちは静まり返った通路を再び歩き出す。けれど、灘の無事を確かめることが出来た御陰で先程まで付き纏っていた不安感は綺麗に吹き飛び、心は確かに軽くなった。
「これから彼を俺の部屋に連れて行くつもりだが灘、お前はどうする」
「腹が減ったので何か食べてきます」
「そうではない。一人で部屋に戻って大丈夫なのかと聞いている。待ち伏せされている可能性は」
「確かに無くもないでしょうが、あの男一人くらいなら大丈夫です。問題ありません」
「そうか、余計な心配だったな」
俺は縁のことを考えていた。俺ならば、真っ先に会長に頼るだろう。その性格が羨ましい反面、当の本人ではない俺が心配してしまう。
けれど、本当に灘ならば難なくこなしてしまいそうな気もするのだ。
◆ ◆ ◆
「俺はここから別行動させていただきます。……それに俺があなた方と一緒にいると知られれば、会長たちに迷惑を掛けてしまいますし」
「ああ、そうだな。何かあれば連絡しろ。夜中でも構わない」
「……ありがとうございます」
学生寮、ロビー。
おやすみなさい、と小さく頭を下げた灘はそのまま売店に向かって歩いていった。
すっかり日も落ち、暗くなった時間帯。
制服から私服へと着替えた生徒たちでそこは賑わっていた。
会長と俺はエレベーターに乗り込み、そのまま会長の部屋がある四階へと向かう。
阿賀松との遭遇が怖かったが、そんなアクシデントもなく俺たちは会長の部屋に辿り着くことになった。
会長の部屋は相変わらず片付いていた。入れと促されるがまま足を踏み入れれば、微かに甘い香りがした。
「悪いな、散らかったままで」
「い、いえ、俺の方こそ急に来ちゃってすみません」
「俺が誘ったんだ、気にするな。……適当に座ってくれ、何か用意してこよう」
促され、俺はソファーに腰を下ろす。
テーブルの上には本や新聞が出しっぱなしになっていて、会長の言っていた散らかったままというのはこれのことだろう。
俺は何気なくその本に目を向ける。
資格試験の参考書のようだ。
やっぱり、会長も卒業後のことを色々考えているのだろうか。
そんなことを考えていると、二人分のコーヒーカップを手にして会長が戻ってくる。
「腹が減ってるだろう。足しにもならないだろうが、おかわりもあるぞ」
「あ、ありがとうございます……」
「勿論、あとから食事も用意させるから安心してくれ」
そんなこと、心配していないというのに気を遣ってくれているのだろう。
コーヒーカップの中にはカフェオレが入っていた。
会長は甘い飲み物も好きなのだろうか、思いながら「ありがとうございます」とそれを受け取る。俺も、甘いものは嫌いではない。
俺が飲み始める前に、会長はテーブルの上の本や新聞を手際よく片付けた。
「会長は、卒業したらそのまま大学に行かれるんですか?」
なんとなく、本当になんとなく、興味本位で尋ねた。
この矢追ヵ丘学園の生徒会長である会長なら、就職活動でも進学でも円滑に進むのではないだろうかと。けれど、その一言に、会長の顔が微かに引き攣るのを俺は見てしまった。
「……大学か、そうだな……行けたらいいだろうが」
「会長なら、学園から推薦受けることも出来るんじゃないですか?」
「それは無理だろうな」
「……え?」
「俺よりも優れた生徒は他にもいる。……それに、俺を推薦したところで学園には何のプラスにもならない」
それどころか、と言いかけて、会長は深く息を吐き出した。
「すまない。忘れてくれ。……今日は色々あって弱気になってしまっているようだ」
「そ、そうですよね……すみません、厚かましいこと言っちゃって、気にしないでください」
「……いや、君は悪くないよ」
会長はそう言って笑ってくれたが、会長の悲しそうな顔が頭に残っていてモヤモヤとした気持ちが晴れることはなかった。
でも、会長みたいな成功を約束されているような人物でも将来を憂うこともあるなんて。
そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。
それから、会長が用意してくれた晩飯を取り、シャワーを借りてから眠ることになったのだけれど。
昨日の今日とは言え、ここは会長の部屋だ。俺は、会長のベッドの前に正座したまま動けなくなっていた。
「どうした、眠らないのか」
「い、いえ……眠ろうと思います……けど、本当に良いんですか?その、ベッドをお借りしてしまって……」
「ああ、俺も眠くなったら昨日のように一緒に入らせてもらう。だから君は先に眠っていてくれ」
やり残したことがあるらしく、会長はまだすぐには寝ないという。
ならば、と思うが、やはりいつも会長がここで眠っているのだと思うと緊張してしまう。
「どうした?……やっぱり、他人のベッドを使うのは気になるか」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「安心しろ、あまり俺はそのベッドを使わないし今朝シーツは変えたばかりだ。なんなら、消臭スプレーを持ってくるか?」
「ち、違うんです。その、匂いとかが気になるんじゃなくて……その……」
「……?なんだ?」
「逆に……か、会長のベッドに……俺の匂いがついてしまったら申し訳ないというか、その」
「……」
ああ、呆れられてるのが分かる。
口ごもれば口ごもるほど自分がボロ出してしまうのが分かり、俺はそのまま押し黙る。顔が熱い。
その時だ。伸びてきた会長の手に頬を触られる。ビックリして顔を上げれば、微笑む会長と目が合った。
「……君は、自分のことを卑下しすぎではないのか?」
「か、会長……」
「少なくとも俺は、君の残り香がついても構わないから君にベッドを貸すことを提案した。そもそも、それすら許せない人間を部屋に招くこともない」
「要するに、考えすぎだ」と、会長は笑い、くしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
「あ、ありがとう……ございます」
「何に対するお礼だ?それは。……俺は、君の匂いなら構わないとかいう男だぞ」
「……え、あ、あの……」
「すまない、からかい過ぎたな。けれど、君は仮にも俺の恋人だ。もう少し図々しくなってくれてもいいんだぞ」
そう言って、会長は俺から手を離してくれた。
会長は、優しい。俺に気兼ねさせないよう、言葉を選んでくれているのが分かる。
会長の気遣いは素直に嬉しかったが、そう言われると、余計変な意識をしてしまって寝にくくなってしまう。
火照ったみたいに熱くなる顔を必死に冷ましながら、俺は会長に「おやすみなさい」と伝え、お先にベッドを遣わせてもらうことにした。シーツは変えたと言っていたが、確かに、ふかふかしたシーツからは洗剤の良い薫りがする。
会長は何してるのだろうか。テーブルの上、スタンドライトの明かりだけで何か作業してる会長の後ろ姿を眺めながら、俺はそのまま目を閉じた。
目を瞑ると、眠るのにはあっという間だった。疲れていたから余計なのかもしれない。眠りについた時、夢うつつに何かが顔に触れるのを感じた。
前髪を掬われ、頬を撫でられ、その感触が唇にへと触れる。
夢なのか、現実なのか分からなかったが眠りの深さから起きることも適わず、結局そのまま俺は朝まで爆睡していた。ただ、朝になっても唇に触れた感触だけはやけに生々しく残っていた。
←back