天国か地獄


 13

 そして、暫く走った頃だった。
 連理の声も聞こえてこなくなった非常階段前。扉を開き、そこへ入り込んだ縁はそこでようやく足を止めた。

「ここまで来たら大丈夫だよね」
「……あの、縁先輩……どうして……」
「言っただろ。君を助けに来たって」

 助けに。
 助け出されるような劣悪な環境に追いやられたわけでもない、明日からは普通に登校出来るようになるはずだったのに。
 芳川会長の顔が過る。窓ガラスを壊されたのを見た会長のことを考えると血の気が引いた。

「ありがとうございます、けど俺……戻ります……っ、会長に見つかったりでもしたら……」
「見つかったりでもしたら?」
「……っ」

 以前見せつけられた栫井の背中が脳裏を過る。無数のミミズが這ったような痛々しい傷跡を思い出しただけで背筋が寒くなった。
 口ごもる俺に、縁は俺の手首を掴んだ。

「……殺される?」

 そう、囁く縁の言葉に一瞬、息が止まる。目を見開き、愕然とする俺に縁はにっと無邪気に笑った。

「大丈夫だよ、君を攫ったのはあいつだ。それなら、元の飼い主の元に戻るのが通りじゃないか?」
「元の、飼い主って……」
「伊織、心配してたよ、君のこと。芳川に虐められてるんじゃないかって」

 嘘だ、と直感で分かった。あの人が俺の心配をするはずがない。それどころか、俺を餌に芳川会長の出方を伺っているのが目に浮かぶようだった。

「……本当に、先輩がそんなこと言ったんですか?」
「信じられない?」
「……ごめんなさい」

 仁科にあんなことを言われた後だから余計、そう感じるのかもしれない。
 阿賀松は利己のためなら簡単に他人を捨てることも出来る男だ。今まで一緒にいて、少なくとも俺はそう感じた。
 押し黙る俺に、縁は不快そうにするわけでもなく、仕方ないというかのように小さく息を吐く。

「悲しいことだろうけど、ま、君に対する言動を考えたらそうなるのも無理もないか」
「……縁先輩……?」
「ああ、嘘だよ。君を助けに来たのは伊織の命令なんかじゃなくて俺の独断。……けど、あんな場所に君を置いておけないって思ったのは本当だよ」

 そう言って、縁は優しく俺の髪に触れる。くるくると毛先を指に絡め、弄びながらも縁は楽しそうに笑った。

「君があそこにいると、動きにくくなりそうだったからね」
「それって、どういう……」
「そのままだよ。君を盾にされたら堪ったもんじゃないって話。伊織はそれでもいいなんて言うだろうけど、俺は君が悲しむ顔は見たくないからな」

 相変わらず冗談とも本気とも取れない調子で続ける縁だが、それでもその目はどことなく優しくて。
 心配してくれている、ということなのだろうか。優しく頭を撫でられたら、一瞬、その目から目を逸らすことが出来なくなる。

「……でも、こんなことしたら先輩、阿賀松先輩からも会長からも……怒られるんじゃ……」
「っ、ぷ……はは!何?怒られるって……本当可愛いなぁ、齋藤君は。ま、怒られる程度で済むんなら寧ろ万々歳だけどね。その点に関しては気にしなくていいよ、齋藤君」
「本当ですか?」
「ああ、こう見えて俺、怒られるのには慣れてるから」

 縁が茶化してるというのはすぐに分かった。
 そんな軽々しい問題ではないというのに、それに縁本人にも害がある可能性もあるのだ。何故そんなに他人事のように笑えるのか俺には理解できなかった。

「先輩……」
「優しいね、齋藤君。俺なんかの心配をしてくれるんだ」
「っ、なんか、だなんて」

「それとも何?俺の身になんかがあったら君が身代わりになってくれるわけ?」

 不意に顔を寄せられ、額と額が軽くぶつかる。キスしそうなその距離で、逃げなければと思うのにこちらを真っ直ぐと見つめてくるその眼から目が逸らせなくて、石になったみたいに足が動かない。
 身代わり。なれるものなら、と、即答することは出来なかった。
 何も言えなくなる俺に、縁はふっと笑う。

「冗談だよ。君を傷付けるような真似はしない。自分のケツぐらい自分で拭うさ」
「……先輩……」
「俺が君を助けたのは君に見直して貰いたかったからっていうことだよ。君に喜んでもらえるなら他の野郎に怒られるくらいどうってことないね」

 どこまで本気か分からない。
 けれど、それでいて躊躇いなく二人を裏切るような真似をする縁に尊敬の念を抱かないといえば嘘になる。誰かを助けるために誰かを敵に回すなんて……俺には出来ないだろう、そんな真似。

「……ありがとう、ございます……」
「お礼は濃厚なキスでいいよ」
「え……っ?」
「ダメかな?」
「っ、何、言ってるんですか……そんなこと……」

 それに、人気はないといえまだ学園の中だ。いつ連理が追いつくのかも分からない。
 そんな場所でキスを強請ってくる縁の神経を疑ったが、縁は頑なに俺を離そうとはしなくて。それどころか。

「じゃあ唇を舐めてくれるだけでもいいよ?」

 なんて言い出す始末だ。せっかく見直したところなのに、尊敬の念を抱いた数秒前の自分を殴りたい。

「出来ません……そんな、それに……もし誰か来たら……」
「そうだな、芳川のやつもトイレに出ていってただけみたいだったしもう生徒会室に戻って君がいないって騒いでるかもな」
「だったら……」
「こんなところでもたもたしててやつらが駆け付けたら、俺、あいつらに何されるか分かんないな。……もしかしたら副会長以上になっちゃうかな?」

 意地の悪い笑みを浮かべ、そんなことを軽々しく口にする縁に俺は言葉を飲む。冗談にしてはタチの悪い。

「……っ」
「ただ唇を重ねるだけだよ?それだけで、俺も君も幸せになれるのにな〜」
「……で、でも……やっぱりおかしいです……」
「勿体ぶるねぇ、齋藤君。君のそういう奥ゆかしいところはとてもいいと思うけど、そろそろ時間切れみたいだね」

 その言葉に、扉の向こう側から聞こえる足音に耳を傾ける。

『まだこの辺りにいるはずだ!探せ!』

 複数の足音とともに芳川会長の声が遠くから聞こえ、堪らず俺は縁の手を掴み返した。
 縁は目を細め、「ほら、早くしないと」と小さく耳打ちをしてくる。
 少なからず俺の為を思って助け出してくれた縁が、俺のせいで見つかる。そう思うと、耐えられなかった。
 たかが唇が触れるくらい、なんだ。縁の言う通りだ。ただ薄皮同士が触れるだけ。それだけで済むのだと考えれば……。

「……っ、先輩は、おかしいです……」
「俺?そーう?変かな?だとしたら君のせいかもしれないね」

 こんな状況だと言うのに焦るわけでもなく、本人以上に焦れてる俺を見てやつは楽しげに口を緩める。
 もたもたしてる暇はないようだ。俺は、「目を、閉じて下さい」と先輩の腕を掴む。こちらを気遣ってくれているのか、小さく屈んだ縁は「はーい」と目を瞑った。

「……」

 すぐ終わる。触れるだけでいいんだ。キスだと考えなければいい、深く考えるな。
 ええいと半ばヤケクソに唇を噛んだ俺はそのまま縁に唇を押し付けた。
 キス、というよりもぶつかったという方が適切かもしれない。縁の唇の感触をぎゅっと噛み締めたそこに確かに感じ、俺は慌てて顔を離そうとする。瞬間、薄く開いた縁の唇から赤い舌が伸び、固く結んだそこにぬるりと触れた。

「っ、ちょ、え」

 驚いて、後退ろうとすれば背後に伸ばされた縁の手に後頭部を抱き寄せられ、そのまま今度は縁の方から唇を押し付けられる。
 話が違う、と咄嗟に縁の胸を押し返すが、それ以上の力で頭を固定され、動けない。

「っ、ん、ぅ……っんん……ッ!」

 唇を舐められ、上唇を甘く噛まれる。唇の感触を味わうかのようにねっとりと這わされる舌の動きに全身が震えた。
 逃げたいのに、逃げられない。こんなことしてる場合ではない。そう思うのに、執拗に唇を愛撫され、外の足音が段々意識から遠退いていってしまう。

「っ、や、ダメ、です……っせんぱ……っんん……」

 拒もうと開いた唇の隙間から割入ってくる縁の舌に、腰を引く。
 舌の付け根から上顎を舌先で擽られ、唾液が口外へと零れ落ちた。
 苦しさよりも、生々しい舌の動きに、響く水音に、脳味噌ごと掻き回されるようなそんな錯覚に陥る。

「っ、んぅ、ふ……っ、ぅ……っ」

 触れるだけでいい、そう言ったのに。いつの間にかに目を開いている縁は、目が合えば反応するように目を細める。
 そして、奥で縮み込んでいた俺の舌に自分の舌を絡めてくる縁に、慌てて俺は首を横に振った。
 これ以上は、と縁の胸を叩けば、やつは何を考えているのだろうか。一度俺の口の中から舌を引き抜いた。
 やつの舌の先と自分の口元に唾液の糸が引き、恐らく俺の唾液だろう、いやらしく開く縁の唇に顔が熱くなる。

「や……も、約束は守ったはずです……っなのに、こんな……んんッ」

 言い終わるよりも先に頬を掴まれ、そのまま唇を再び重ねられた。こいつ、と考えるよりも先に、ジュルルと音を立てて唇ごと唾液を啜られ、ぎょっとする。

「ッ、ん゛、ぅんん゛ッ!」

 息が苦しくて、唇ごと吸ってくる縁に驚いて俺は堪らず縁の肩を叩いた。けれど、相変わらず拘束する力は緩まなくて。
 耐えられず、とうとう舌を出して縁の唇を押し返そうとした瞬間、舌先を絡め取られる。
 ぬるぬると濡れた肉厚の感触に根本から舌先をねっとりと嬲られれば、脊髄が蕩けたみたいに腰が抜けそうになった。

「っ、……ッ、……ッ!」

 声を上げる気力すらなかった。口の中隅々まで犯されるような執拗なキスに全身の力が抜け、縁の肩を掴むことで精一杯だった。
 ほんのりと赤く染まり始める視界の中、指先の力まで抜け落ちてずるずると落ちていく手に気付いたようだ。堪らず目をぎゅっと瞑ったとき、ようやく縁が唇を離してくれる。
 どちらのものか分からない程の唾液で濡れた口元を舐め上げ、俺の目元に唇を寄せた縁はいつの間にかに目尻に滲んでいた涙を舐め取った。

「は……ッ、ぅ……」
「可愛いね、齋藤君。キスだけで腰抜けちゃったの?」
「っ、……ど、して……」

 話が違うじゃないかと掴みかかりたかった。
 けれど、虫の息の俺にはそう尋ねることが精一杯で、そんな俺を見下ろして縁は「君のせいだよ」と悪びれもせずに口にする。

「君があんまり可愛いから我慢できなくなっちゃった」
「っ、そんな……」
「ごめんって、でもお陰で俄然やる気沸いてきたよ」

 なんのやる気だ、と呆れ掛けた矢先だった。いきなり扉を開き、たった今逃げてきたばかりの通路へと戻る縁に目を見開く。

「っ、先輩、何して」

 るんですか、と言いかけた矢先。伸びてきた縁の手に肩を掴まれ、引っ張られるように俺まで学園内通路へと引き戻される。
 そのとき。

「齋藤君!」

 聞こえてきた声に、背筋が凍り付いた。――芳川会長だ。
 たまたまそこにいたようだ、芳川会長とその後方にいた栫井、そして灘は俺達の姿を見るなり驚いたように目を丸くする。それは俺も同じだ。
 わざわざ自ら姿を現していく縁の考えは到底俺には理解できるようなものではなかった。
 そんな俺の気を知ってか知らずか、俺を肩を掴み自分へと寄せる縁は「動くなよ」と声を上げる。

「それ以上動いたら齋藤君の首の骨、折っちゃうよ」

「因みに、これ本当な」と俺の首に手を掛ける縁。
 背後の縁がどんな顔をしてるか分からなかったが、声からして笑っていることだけは分かった。
 どういうつもりなのか分からない。けれど、首筋に這わされる細い指の感触が先程よりも確かに明確な意志を持って皮膚に突き立てられ、ただの悪ふざけなのか分からなかった。

「縁方人……貴様、どういうつもりだ……ッ!」
「どういうつもり?そんなの君のがよく知ってんだろ、芳川。伊織の玩具を勝手に盗んじゃうなんてよくないよなぁ、そんなの。幼稚園で先生に習わなかった?」
「何が玩具だ……齋藤君は所有物ではない、貴様、道徳の授業で習わなかったのか?」
「何言ってんだ?齋藤君は物だよ。伊織の宝物。だけど俺からしてみればどうでもいいガラクタだよ。壊すことだって簡単だ」
「……ッ、齋藤君から手を離せ……!」
「だから動くなって言ってんだろ」
「……っ、ぁ、ぐ……ッ!」

 冗談だろう、と思ったが、実際に首を抑え付けられ、ミシミシと嫌な圧迫感に器官が悲鳴を上げる。
 呻く俺に、芳川会長は眉間に皺を寄せ、そして振り上げかけた手を握り締め、下ろした。
 冗談、じゃ、ないのか?縁の意図が読めず、与えられる苦痛に先程とは違う意味で意識が遠のく。縁は、向かい側に立つ芳川会長を真っ直ぐに見返していた。

「流石、伊織と違って賢いなぁ会長さんは」
「……何が目的だ……」
「交換条件だ、芳川。伊織の宝物が欲しけりゃテメェの宝物を差し出せ。そうすればこいつは返してやるよ」
「宝物だと?」

 その単語に、芳川会長は怪訝そうに眉根を寄せた。
 まさか俺が会長に家族写真を返したことがバレたのだろうか。ヒヤッとしたが、そうではないようだ。縁の視線がゆっくりと会長の背後、栫井と灘に向けられる。

「ああ、そうだな、そこの会計。お前、伊織が気に入っていたなぁ……」

 ゆっくりと指を指したその先にいたのは灘だった。
 ただ一人変わらない無表情のまた佇む灘は縁に指名されても動じることなかった。対照的に、縁の出した条件に芳川会長は嫌悪感を顕にする。

「……ッ貴様、馬鹿なことを……」
「名前なんだっけ?……お前だよお前、聞こえてんだろ。返事しろよ」
「灘、答えなくていい」
「へ〜、後輩思いな会長さんは齋藤君が首なくなってもいいんだってよ?ひでーな」

 笑いながら、首の付け根に指を食い込ませてくる縁。嘘だろ、と目を見開けば、芳川会長は小さく呻く。そのときだった。

「用があるのは俺でしょう」

 首から縁の手が離れた。傍で聞こえてきた声に、咄嗟に顔を上げればそこには縁の手首を掴み上げる灘がいた。

「……灘……っ、お前」
「この場合栫井君より俺の方が適役です、会長」

 呆れたように息を吐く栫井の横、灘に諭された会長は「そうだな」と小さく呟く。

「勝手にしろ。その代わり、約束だ。齋藤君を離せ」

 何を言ってるのだ、この人たちは。
 苦しさはなくなったものの、縁の狙いが見えてきてそれを理解した瞬間、目の前で笑う縁に目の前が真っ暗になる。
 最初から、これが目的だったのか。本当に助けに来てくれたわけじゃなかったのか。
 言いたいことは色々あったが、これは罠だ。そう「灘君、駄目だ」と慌てて手を伸ばし、灘を止める。けれど、

「会長、だめです、こんな……っ先輩!どうして、どうして……っ」

 言い掛けた時、縁に突き飛ばされる。バランスを崩し尻もちを着きそうになったとき、「齋藤君」と会長に抱き留められた。こちらを見下ろした縁は微かに笑い、唇を動かした。
『ごめんね』――そう、動いたように見えたのは気のせいではないはずだ。

「良かったね、齋藤君。精々会長に可愛がってもらいなよ」

 そう手をひらひらと動かし、縁方人は灘のネクタイを掴み「来いよ」と歩き出す。
 駄目だ、やっぱり、こんなこと。慌てて会長の腕から離れようともがくが、出来なかった。

「あいつのことは心配しなくていい、齋藤君」
「っ、でも、それじゃあ……」
「大丈夫だ、それよりも君は自分のことを気にしろ」

「首、痣になっている」そう、悲しそうに眉根を寄せ、俺の首を撫でる芳川会長になにも言えなくなる。何を言ってもダメだと分かったからだ。残された俺は、どうすることもできないまま、ただ灘が無事なことを祈るしかなかった。


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