07
阿佐美が夜中に出かけることも、朝いないことも別に珍しいことではない。
ないはずなのに、何故俺はこんなに焦っているのだろうか。
結局そのまま俺は阿佐美に会うことなく、一人の部屋で制服に着替え、部屋を出た。
部屋の外では当たり前のように志摩がいた。
「おはよう、齋藤」
「志摩……おはよう」
「どうかした? 顔色悪いけど」
「いや、……寝不足かな」
「そのわりにはちゃんとしっかりと寝癖はついてるみたいだけどね」
言われて慌てて後ろ髪を撫でつければ、「嘘だよ」と志摩は笑う。
なんの意味があるのだ、その嘘は。
「それより齋藤、今日は面白いものが見れるかもしれないよ」
「……面白いもの?」
「そう、学園祭よりもずっと面白いもの」
そこを引き合いに出す意味はあまりわからなかったが、そうにっこりと笑う志摩の表情からして恐らくろくでもないことには違いないだろう。
おまけに言うだけ言って肝心の内容は教えてくれないらしい。
「それじゃ、食堂に行こっか」と相変わらずマイペースな志摩になんだかモヤモヤしつつ、俺は「そうだね」とだけ頷いた。
それから俺たちは食堂へと向かうため、三階のエレベーター乗り場へと向かう。
朝から生徒たちの数は多く、なにやら騒がしい。おまけに何故か、俺の姿を見るなりひそひそと話していた生徒たちも黙るのだ。
……なんだろう、この違和感は。
少なくとも気持ちのいいものではないし、生徒たちの表情からしてもどこか憐れむようなものが含まれていることが気になった。
「やっぱり齋藤、注目されてるね」
「……注目、っていうのかな。これ」
「そりゃあね、一応会長さんの恋人なわけだし」
その志摩の言葉に、『なるほどな』と思った。
皆が話してるのは例の流出動画で、それで俺も当事者か、或いは被害者だと思われているということか。
明らかに昨日よりも向けられる視線の数が多いところを見ると、事態はよくないようだ。胃の辺りがぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。
そんなことを考えている内に、エレベーターがやってきた。開いたドアから俺と志摩はエレベーターに乗り込む。
中には意外な先客がいた。明るい金髪とは裏腹にどこか暗い表情のその人は間違いない。
「……仁科先輩」
そう名前を呼べば、どこか疲れ切った顔をした仁科は「よう」とだけ答えるのだ。そしてちらりと俺の隣にいた志摩を見る。
「志摩も一緒か」
「なにか問題でもありますか、先輩」
「ちょ……志摩」
そんな言い方しなくていいだろ、と慌てて志摩の袖を引っ張れば、仁科は「いや、そういう意味じゃない」と慌てて首を横に振った。
「お前が一緒なら、少なくとも齋藤は大丈夫そうだな……って意味だよ」
「それって……」
「その顔、お前もあの流出した動画のこと聞いたのか?」
“も”ということは仁科もそうらしい。
小さく頷き返せば、「そうだよな」と仁科は深く溜息を吐く。目の下の隈も以前より更に濃くなってるようだ。
「あの、」と俺が口を開いた時、隣にいた志摩が「先輩がこの時間帯にここにいるって珍しいですね」と言葉を被せてくる。
「あ……ああ、そうだな」
「もしかして――生徒会絡みですか?」
薄ら笑いを浮かべたまま突っ込む志摩に、仁科の表情筋があからさまに強ばるのを俺は見た。
どうやら図星のようだ。仁科は「参ったな」というかのように髪を掻き上げる。
「誰かから聞いた……わけじゃないな」
「ええ、先輩すごい分かりやすいんで」
「……生徒会の収拾がかかったんだよ。ほら、一応俺も委員長だからってさ」
「こんな朝から? よっぽどなにか重大な事件でもあったんですか?」
「……おい、志摩」
仁科の口がどんどん重くなっていく。咎めるような視線を志摩に投げかける仁科に、志摩は悪びれもせず「すみません、これもしかして箝口令敷かれてるんですか?」と笑った。
そんな志摩に諦めたように仁科は大きな溜息を吐いた。
「そういうの、俺だけにしとけよ。……皆今ピリついてるから」
そう仁科が答えたときだった。
エレベーターは丁度一階に着いたようだ。開いたドアから、仁科は逃げるようにエレベーターを降りる。
それから続いて俺たちもエレベーターを降りた。既に仁科の姿はなく、どこに行ったのだろうと辺りを見渡せば、丁度ロビーから学生寮を出ていくのを見つける。
俺は再び「志摩」と隣の男に目を向けた。
「仁科先輩、困らせるようなこと言っちゃ……」
「大丈夫だよ、あの人に他人を怒るような度量はないから」
「……」
「まあいいや、それじゃ俺たちもそろそろ行こうか」
「……そうだね」
俺は心の中で仁科に謝罪をしながら、一先ず志摩と食堂へ向かうことにした。
――学園内、食堂。
食堂の中は既に生徒で賑わっている。
分かっていたことだが、食堂に足を踏み入れた途端集中する視線は居心地はよくない。
そろそろ慣れた方がいいんだろうが、なんて思いながらもカウンターで朝食を注文した俺と志摩は一番人が少なそうな奥のテーブル席へと向かった。
「ここなら少しは落ち着けそうだね」
「……ごめん、気遣わせちゃって」
「別に今更でしょ? 齋藤は有名人なんだから仕方ないよ」
「……」
言いながら、先に運ばれてきたドリンクを受け取った志摩はそのまま俺の水も一緒にテーブルに置いてくれる。
どうしても志摩の言葉の端々に圧のようなものを感じずにはいられないが、今更だ。なるべく意識しないように、俺は「ありがとう」とグラスを受け取った。
「それにしても、良かったね。俺がいなかったら多分今頃絡まれてたんじゃない? 会長の親衛隊にさ」
「……あ、そうか……」
「そうかってなに? まさか親衛隊のこと忘れてた?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
正直、そこまで考えていなかった。
訳のわからない因縁をつけてくるような人たちというイメージが染み付いているだけに、これから先のことを考えたら気分が落ち込む。
「もしかして、俺のせいだと思われるのかな」
「普通だったらないと思うけどね。普通の、正常な判断ができるような人間だったら」
「……」
相変わらずの物言いではあるが、説得力がある分何も言えなくなってしまう。
ただでさえ会長や生徒会、アンチのことで気もそぞろだというのに、親衛隊までとなると流石に不安にならざる得ない。
そんな俺に気付いたのだろう、よくわからないカラフルなドリンクのストローに口つけた志摩はそのまま一口飲み、それから「まあ大丈夫でしょ」と笑った。にっこりと、いつもの軽薄な笑顔で。
「齋藤がこうして俺と一緒にいてくれたら、少なくとも直接絡んでくるやつはいないだろうからさ」
「志摩と?」
「なに? 文句ある?」
「ち、ちが……でも、志摩も忙しいんじゃ……」
「なに、それもしかして俺に『齋藤のためなら全部なげうって側にいるよ』って言わせようとしてる? ……それとも皮肉?」
つまり、暇だってことか。
相変わらず分かりにくいが、分かりやすくも感じるようになってきた。「どっちも違うよ」とだけ訂正し、俺は続けて運ばれてきたサンドイッチを受け取る。志摩の方にも同じのが運ばれる。
「もしそうだとしたら……志摩も、俺のせいで絡まれたりするんじゃないかって思って」
「……っ、はは」
……志摩が笑ってる。
俺、変なこと言っただろうか。少なくとも志摩を笑わせるようなつもりはなかっただけに、このタイミングで吹き出す志摩に困惑した。
「いいよ、別に。寧ろ齋藤じゃなくて俺に来てくれた方が話は早くて済むからね」
「それってどういう……」
「齋藤のことが好きだよってこと」
「…………」
また適当に話をはぐらかされてしまった。
今はそんな話してなかっただろ、と少し頬が熱くなる。誤魔化すように俺はグラスに残っていたお冷を飲み干した。
他愛ない会話を交わしつつ、各々頼んだものを食べ終えて、そろそろ食堂を出ようかとしたときだった。
いきなり隣の席の椅子が引かれる。え、と驚いたときだった。ダン!と乱暴にテーブルに置かれるトレーにぎょっとした。
ほかほかの湯気を放つポトフのいい匂いと、そして――。
「おはようゆう君、随分と今朝は元気そうだね」
聞こえてきたその通るような声に、背筋が凍り付いていくような感覚だった。
振り返らずとも、そこにいるのが誰なのか。俺には分かってしまった。
「俺と一緒にいるときと違ってさ」
伸びてきた手に肩を掴まれそうになったところで、立ち上がった志摩はそのまま壱畝の手を掴むのだ。脳の処理が追いつかない。壱畝の目がゆっくりと志摩に向けられる。
「やあ、おはよう志摩君も」
「いきなりきて声掛けもなく隣に座るなんて、人としてどうなの?」
普通引くでしょ、と笑う志摩。それは志摩は人のことを言えないのではないか。そう喉まで出かかったが、やめた。
二人の間に冷たい空気が走る。あまりにも突然のことで一瞬声が出なかったが、このときの壱畝は面倒だ。それだけは分かった。
「っ、し、志摩……待って」
このタイミングでは、志摩の存在は火に油を注ぐようなものだった。
そう志摩の制服を掴めば、志摩はこちらに目だけを向ける。
「待つって、なにを?」
「……っ、俺が、自分で説明するよ」
昨夜、一体壱畝が阿佐美から何を言われたのかは分からない。が、その態度からして俺に対する害意を隠すつもりもなくなったらしい。
本当だったら逃げ出したい。けれど、阿佐美の言葉が頭を過るのだ。――逃げ回ったって、なにも解決しないのだと。
「説明って、一体何のこと?」
とぼけたように、作り笑いの下に怒りを必死に抑え込んだ壱畝は尋ねてくる。
「同室のこと」利かずとも分かるくせに、と立ち上がった俺は壱畝に向き合った。
ほんの一瞬、確かに俺と壱畝の目はあった。今までだって目が合うことくらいはあったはずなのに、今までと違って感じたのは恐らく俺がちゃんと壱畝の顔を見ようとしたからだ。
今までは意識してなかったのに、壱畝の少しだけ強張ったような顔を見て妙な感覚に陥った。こんな顔だったのか、なんて思いながら俺は息を吐いた。
「……っ、もう、壱畝君のところには戻れない」
志摩の視線も、壱畝の視線も痛い。
数秒前まで引きつったような笑みを浮かべていた壱畝の表情から確かに笑いが消える。
深く息を吐いた壱畝は、そのままゆっくりと俺に視線を向けた。
「なんで」
「い……一緒にいたくないから」
言った、言ってしまった。
そう思った次の瞬間、ポトフが入った皿を手に取る壱畝。殴られる、と咄嗟に判断し、腕で顔を庇ったときだった。
――いつまで経っても予想していた熱も痛みもこない。
おかしい、と思って目を開けた俺はそのまま目を見開いた。
「し……」
志摩が、俺と壱畝の間に立っていた。ポタポタと志摩の頭から落ちるスープと、そして辺りに転がった料理の残骸。流石に騒ぎに気付いたようだ、どよめく周囲なんて気にせず、頭からポトフを被った志摩はテーブルに置かれてたスプーンを手に取る。
あ、と思ったときだ。咄嗟に俺が志摩の腕を掴んで止めたのとそれはほぼ同時だった。
「おい、なんの騒ぎだ」
低い声が辺りに響く。
右腕には風紀の腕章。どうやら騒ぎを聞きつけたらしい風紀委員の人たちがそこには数人いた。
複数人の風紀委員たちを引き連れたその人は、見たことのない人だった。
強面の威圧感のある長身の男は、志摩の方へと目を向ければ「またお前か」と小さく囁いた。
そんな一瞬の隙きを縫うように、気付けば壱畝はその場からいなくなっていた。どうやら逃げたらしい、数人の風紀委員たちが辺りを探し回っている。
俺はまだ、何が起きたのか上手く飲み込めていなかった。
けれど、志摩にまた助けられたということだけは確かに分かった。
「し、志摩……っ、大丈夫……?」
俺はテーブルに備え付けられていた付近を手に取り、志摩へと駆け寄る。頭から制服まで、ポトフの香りをさせた志摩は壱畝がいなくなった方を睨んでいた。
「……す」
「え……?」
「――あいつ、ぶっ殺す」
そう呟く志摩の顔に笑顔はない。
まずい、本気でキレている。そりゃそうだ、俺はあいつのめちゃくちゃなところには慣れていたが、志摩はそうではない。寧ろ、俺は壱畝が人前で――測らずしもとはいえど第三者に手を出すと思っていなかったから余計困惑した。
「志摩、火傷は? どこか怪我とかは……」
そう恐る恐る声をかければ、志摩はこちらを見てくれた。
「大丈夫だよ、これくらい。ただ、最高に気分は悪いけどね」
「っ、ごめん……」
「なんで齋藤が謝るの」
「俺のこと、庇ってくれたんだよね」
先程志摩と交わした会話を思い返す。それもあったからこそ余計、本来ならば俺が被るべきものを志摩が被ってしまったと考えると申し訳なさが大きかった。
志摩はこちらを見、なにかを言いかけていたが「おい」と声をかけられて口を閉じる。
声のする方向へと目を向ければ、そこには先程の強面の風紀委員の人が立っていた。
「志摩、またお前か。……この騒ぎは何だ?」
「ああ、八木先輩。別に大したことじゃありませんよ、いつもみたいにヒスったやつが勝手に喧嘩売ってきただけなので」
「人が理由もなくヒスったり喧嘩を売ってくるわけないだろ。またなにかしたんじゃないだろうな」
八木先輩、と呼ばれたその男は三年だろうか。なんとなく嫌な言い方をするその男に堪らず俺は「あの、」と間に入る。男よりも隣にいた志摩の方が驚いたような顔をしてこちらを見るのだ。
「あの、俺のせいなんです。……志摩、志摩君はただ、俺を庇ってくれただけで……」
日頃の行いで疑われたとしても、やはりそこだけは訂正しておきたかった。八木に「騒ぎを起こしてすみませんでした」と頭を下げれば、八木は無言でこちらを見ていた。
そして、
「……お前が齋藤佑樹か」
頭の上、落ちてくる八木の声に少しだけぎくりとした。有名人らしい、ということは自覚はあったつもりだが、その八木の声になんだか含んだものがあるように聞こえて身構えずにはいられなかった。
「はい、そうですけど……あの、なにか」
「……まあいい、そこの後片付けはこちらでしておく。それより志摩、お前その格好どうにかしたらどうだ」
「言われなくてもそのつもりですよ」
「齋藤、行くよ」と志摩は俺の手を取ろうとして、汚れると思ったのだろう。伸ばしかけた手を引っ込めようとしてることに気づき、俺はその手を取った。
志摩がこちらを振り返る。
「……うん」
「……」
そう頷き返せば、志摩はなにも言わずに歩き出した。俺は一応八木たちに頭を下げ、足早に食堂をあとにした。
それから、俺達は一度俺の部屋へと戻ることにした。
志摩の部屋でもよかったのだが、志摩が俺の部屋がいいと言い出したのだ。生徒会の件もあるし、あまりこれ以上目立たない方がいいのは確かだ。俺は「詩織いても、喧嘩しないでね」と志摩にはやんわりと伝えたが、「分かってるよ」と笑う志摩の言葉はなんとなく信用することはできなかった。
が、志摩もこのままでは気持ち悪いはずだ。俺としても早く志摩を着替えさせたかったので、渋々部屋へと連れて行くことにする。
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