天国か地獄


 06

 阿賀松たちの仕業ではない。
 確かにそう志摩は言った。
 その言葉の意味を考えたらただ背筋が冷たくなっていく。

「それって、どういう……」
「そのままの意味だよ」

 生徒会に恨みを強く持ち、ここまで手の込んだ陰湿な真似をする連中が阿賀松たちにいるとは考え難い。
 思わず志摩を見上げた時、俺が詳しく聞こうとするよりも先に志摩は「しっ」と呟いた。
 丁度ラウンジの外を通りかかった数人の生徒たちを一瞥した志摩は、いつもの笑顔を顔面に張り付ける。

「まあ、そういうことだから」
「し、志摩……」
「じゃあ今度は齋藤の番かな」

 なんて、ゆっくりと足を組みなおす志摩はテーブルに肘を置き、そのままずい、とこちらへと顔を寄せてくるのだ。

「え、俺の番って……」
「なんで俺に黙ってわざわざ俺じゃなくて阿佐美なんかを頼ったのかって話、まだちゃんと聞いていなかったよね」

 うっすらと目を開いたまま、志摩はこちらにじっとりとした視線を投げかけてくる。
 阿佐美のところに行ったのは志摩も知っていて、その上で一応は了承してくれたのでもう済んだ話だと思っていただけに、今さら掘り返してくる志摩に先ほどとはまた違う嫌な緊張感を覚えた。

「ご、ごめん……」
「謝罪はさっき聞いたよ。俺が言ってるのはなんで俺に一言も話してくれなかったのって話なんだけど」
「……志摩が、」

 ――志摩が、また阿佐美に嫌がらせするんじゃないかと思ってから。
 そう言いかけて、語尾が萎んでいく。
 詰るような志摩の視線がひたすら痛くて、つい俯いてその視線から逃げてしまう。無論、志摩がそれで納得するはずもない。

「なに? 俺のせい?」
「……っ、だって、それは……」

 そうじゃないか、と続けるよりも先にテーブルの下で志摩の靴先が脛の辺りにするりと触れる。最初はただ当たっただけかと思ったがそうではない。故意に脚を絡められ、息を飲む。
 思わず志摩に視線を向ければ、先程変わらず薄い笑みを浮かべたまま志摩は「それは?」と促してくるのだ。

「……っ、志摩が、嫌がると思ったから……」
「へえ、流石齋藤。俺のことよくわかってるね。でも俺がそれよりももっと嫌がることも齋藤は知ってるはずだよね」
「……嘘、吐かれること」

「正解」と志摩は俺の脚を柔らかく踏むのだ。
 本気ではないにしろ、逃さないとでも言うかのように潰される爪先に思わず声が漏れる。「志摩」と名前を呼べば、更に志摩の顔が近付いた。

「普通に考えて、阿佐美のところに逃げたって俺がずっと気付かないとでも思ったの?」
「……思わなかった、けど……その、早く……壱畝から離れたかったから……っ」
「だから、俺よりもあいつを選んだんだ。……確か俺、齋藤にもちゃんと言ってたはずだったんだけどな。こんな状況になる前にさ、『耐えられなかったら俺の部屋に来な』って」

 ぎちぎちと靴の底に力が加わり、靴越し、爪先が柔らかく志摩の足に踏みつけられる。退けようとしても体重をかけられると思うように逃れられない。それよりも、「ねえ、齋藤。ちゃんとこっち見て話なよ」と顎を掴まえられれば、意識を逸らされるのだ。

「一応俺、怒ってるんだよ。なんで俺を頼ってくれなかったんだって」

 真正面、覗き込んでくる志摩の目は完全に笑っていない。
 それを見て、俺は観念した。志摩にはもうこれ以上適当な誤魔化しやその場しのぎの言葉は通用しない。
 第一、それは志摩が望んでいないと分かったから。
 少なくとも、これ以上最悪の展開からはもう逃れることもないだろう。そう俺は息を吐き、自分を落ち着かせる。それから突き刺さるような志摩の視線を受け入れることにした。

「分かってる……けど、これからのことを考えたら阿佐美の部屋に転がり込むのが早いと思ったんだ」
「これからのこと?」
「志摩の部屋に転がり込むのも考えた、けど、ずっと面倒かけるわけにはいかないし……それならいち早く荷物を纏めて阿佐美の部屋に移り込んだ方がいいって」
「……その結果、俺がどんな気持ちになるのか考えなかったの?」
「考えたよ。……けど、志摩は話したら分かってくれるんじゃないかと思ったから」

 ――一応、嘘ではない。
 分かった上志摩がどう受け取ろうが、恐らく俺にはどうすることもできない。だから志摩の気持ちは二の次に自分の保身を優先した。
 自分の受け入れたくない打算的な部分を口にするのはあまり気持ちがいいものではない。けど、志摩相手には腹を割って離すのが一番だと俺は知っていた。
 実際、志摩は俺の言葉を聞いて少しだけだが、俺の靴を踏んでいた踵が軽くなった――気がした。

「……本当、齋藤って最低だね」
「志摩……」
「自分勝手だしさ。……最初に相談するって考えはなかったの?」
「それは……ごめん、俺も、必死で……」
「――そんなに、壱畝遥香から離れたかった?」

 静かに尋ねられ、俺は小さく頷き返す。
 志摩はなにも言わず、代わりに深く息を吐いたのだ。そして、俺から足を離した。

「志摩、」
「今度は、ちゃんと言ってよ」
「……でも、志摩……嫌がるでしょ」
「そりゃ嫌だもん、そもそもあんだけ俺がやめとけって言ってたのに『馬鹿じゃないの?』って呆れるに決まってじゃん」
「……」
「けど、それ以上に勝手に相談もされずに動かれるのの方がよっぽど腹立つ」

 齋藤にはわかんないかもしれないけどね、と志摩は皮肉げに顔を歪めた。
 そんな志摩を見て、俺は胸の奥が僅かにちくりと痛むのを感じた。良くも悪くも、俺は志摩のことを理解したつもりで志摩を傷つけてしまっていたのだろう。
 それを承知の上行動をしてきたところもあったので何も言えないが、志摩の言葉を聞いて改めてそれを再確認させられた。

「……うん、わかった。次は、ちゃんと言うよ」

「ごめんね、志摩」そう志摩に呟けば、志摩は返事はしなかった。代わりにボトルに口をつけ、そのまま殻になったボトルを潰すのだ。
「期待はしないでおくよ」そんな余計な一言を添えて。

「それで、齋藤はこれからどうするの?」
「……一度、部屋に戻ろうと思う」
「阿佐美が待つ部屋にね。まあ、それでもいいんじゃない? こんなところ一人でほっつき歩いているよりかは安全だろうし」

 やはり志摩の言葉には棘がある。
 今に始まったことではないが、それでも珍しく反対してこないのは例の生徒会のスキャンダルがあるからだろう。
 会長たちには悪いが、なんであれ志摩の態度が軟化したのはこちらとしてもありがたい。

「部屋まで送るよ」

 そう立ち上がる志摩。
 相変わらず拒否権はなさそうだ。俺は「ありがとう」とだけ答え、そのまま志摩についていくことにした。


 阿賀松との用事は終わっただろうか。
 そんな心配を胸に、結局部屋の前まで志摩に送ってもらうことになった。阿賀松がいたら鉢合わせになるのは非常に気まずいが、志摩も志摩で俺が部屋に入るところを見届けるまで部屋の前を離れるつもりはないらしい。
「またね」とだけ志摩に声を掛け、俺は事実の扉を開いた。


 ――学生寮・自室。

「……ゆうき君」

 部屋の中は出ていったときと同じままだった。
 唯一変わったことといえば、阿賀松の姿がないことだ。どうやらあの男は帰ったらしい。一先ず安心する。

 ソファーの上、手を組んで座っていた阿佐美はこちらを振り返るのだ。

「ごめんね、出て行ってもらうことになっちゃって」
「いや、大丈夫だよ。……あの、先輩は」
「あっちゃんなら帰ったよ。なんか、用事ができたとか行って」

 阿佐美の言葉に、俺は先程の志摩とのやり取りがどうしても浮かんだ。
 阿賀松たちも生徒会の醜聞のこと、耳に入ってるのだろうか。

「……ゆうき君?」
「あ、や……ごめん。ちょっと考え事してて」
「そっか。……俺も出かけてくるからゆっくりしてていいよ」

 そう、ソファーから立ち上がる阿佐美に思わず「え」と声が漏れた。

「ん? どうかしたの?」
「いや、その……俺のことなら、そんなに気遣わなくてもいいよ」

 もしかして俺を一人にするために部屋を出るのか。そう思って慌てて阿佐美を引き止めようとすれば、阿佐美は「ああ」と納得したように小さく笑った。

「それもあるけど……大丈夫だよ。ちょっと買い物」
「あ、そっか……」
「ごめんね。こっちこそ。……変な気を使わせちゃって」
「い、いや……」

 なんとなく気恥ずかしくなり、俺はそれ以上なにも言えなくなった。それから阿佐美は「じゃあ、行ってくるね」と声をかけて部屋を後にするのだ。
 外にはもう志摩もいないはずだろう。志摩と阿佐美が鉢合わせにならないことを祈りつつ、俺は阿佐美が出ていくのを見送った。


 阿佐美が出ていったあとの部屋の中。
 俺は志摩から聞いた話について考えていた。
 誰の仕業なのかなんて俺が知る由もないが、それでも生徒会の皆が大変な思いをしてると思うとなんとなくそわそわとしてしまう。
 かといって、俺になにか手伝えることもないし。

 考えている内に緊張が抜けたようだ。ソファーに座ってテレビを見ながらうとうとしていた俺は、そのままテレビを消してベッドへと移動する。

 少しだけ昼寝しよう。
 目が覚めたら阿佐美が帰ってきてるだろうし。

 そんなことを考えながらシーツを被り、目を瞑ればあっという間に意識は離れていく。

 そして俺が次に目を覚ましたとき、窓の外はまだ真っ暗だった。消灯時間はとっくに過ぎ、深夜も深夜だ。
 けれど、部屋の中は静まり返っている。

「……?」

 もぞりと身体を起こし、ベッドを降りた。
 どうやら阿佐美は出かけているらしい。部屋の中には誰もいない。

 それにしても随分とぐっすりと眠っていたようだ。俺は小さく伸びをし、デスクの上に置いていた卓上時計を確認した。
 変な時間に起きてしまったらしい。二度寝をするには頭が冴えてしまっている。

 少しだけテレビ見て、それから眠たくなったらまた寝よう。
 そんなことを考えながら俺は取り敢えず冷蔵庫の元まで向かう。冷蔵庫の中を確認すれば、中身がなにも変わっていないことに気付いた。

「……」

 ――もしかして阿佐美、あれから買い物に行ってまだ帰ってきてないのだろうか。

 そんな考えが頭を過ぎった。
 胸の奥がざわつく。思い込みで勝手にマイナス方面に行くのは悪い癖だ。俺は思考を振り払い、残っていた牛乳を手にとってグラスに注いだ。
 けれど、そのとき考えた可能性はあながち間違えではなかった。そう後から俺は知ることになる。

 そしてその日、朝になっても阿佐美が部屋に帰ってくることはなかった。

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