02
結局、阿賀松に提案を受け入れてもらうこともないまま俺は阿賀松と時間を過ごすことになった。
次に、教室で壱畝に合ったらどんな顔をすればいいのだろうか。そんなことばかりを考えていたが、それは同室の相手が阿佐美だったときも同じだ。
とにかく、今の俺は阿賀松の相手をすることでいっぱいいっぱいだった。後先のことなんて考える暇もなく、ただ、どうすれば体の負担が軽くなるだろう。そんなことばっかり考えていた。
気が付いたら、いつの間にか夜になっていた。
窓のない部屋の中、壁に掛かった時計を眺め、俺はゆっくりと体を起こす。
あれから、そのまま玄関で抱き潰されて、それから、奥の寝室に運ばれたのは夢現で覚えているのだけれど……。
本能的に拒んでいるのか、最中のことは記憶があやふやになっていた。
まさか阿賀松と同室になるなんて思わなくて、それで、こんがらがっていたのもあるかもしれない。
そういえば、阿賀松はどこに行ったのだろうか。
辺りを探るが、寝室にはいないようだ。
だとしたら、またどこかに行ってるのだろうか。
あちこちが痛む全身を労りつつ、ベッドを出ようとして自分が下着すら付けていないことに気付き、慌てて布団の中に戻った。
制服は、どこに行ったのだろうか。
探してみるが見当たらない。
弱った。いくら阿賀松の部屋とはいえ、他人の部屋で全裸でうろつくような図太い神経は持ち合わせていない。
俺は大人しく阿賀松が戻ってくるのを待つ。
阿賀松とは、案外早く再会することになった。
「まだ寝てんのか? 寝坊助野郎」
扉が開く音が聞こえてきたと思えば、聞き覚えのある声とともに布団を剥ぎ取られる。
全裸であることを思い出し、慌てて布団を取り返そうと起き上がればそこにはニヤニヤと笑う阿賀松が立っていた。
「先輩……あの、俺の服……」
「クリーニングに出しておいた。だから、ほら」
言うなり、阿賀松は何かを放ってよこす。
それは真っ赤なTシャツだった。
「これ……」
「着とけよ。てめーの体は観賞用には貧相すぎっからなぁ。俺の、貸してやるよ」
驚きのあまり、俺はつい「えッ!」と声を漏らしてしまう。
確かにサイズが大きいように思えたが、まさか、阿賀松が服を貸してくれると思わなかった。
「ありがとうございます……けど、その……上しか見当たらないんですが……」
「はぁ?なんで?」
「な、なんでって……」
「上だけでいいだろ」
「どうせ、すぐに脱がせるんだから」と喉を鳴らして笑う阿賀松。冗談にしては全く笑うところが見当たらないのだが、一向に下に履くものを出してくれない辺り本気でTシャツしか貸してくれないつもりなのだろう。
下着から何まで服一式新品を取り揃えてくれた会長のことを思い出し、今になって会長の優しさと有り難みを感じずにはいられない。
しかし、いつまでもこのままというわけにもいかない。
大きめのサイズの御陰でなんとか股下まで隠すことはできるが、これでは阿賀松のいう『貧相さ』が余計目立つだけではないのだろうか。不安になって阿賀松の顔色を伺えば、じーっとこちらを見ていた阿賀松と目が合う。
「少しは色気が出るかと思ったんだけど、ユウキ君に期待するだけ無駄みてぇだったな」
俺にそんなものを求められてもただ困る。
俺は何も言えず、取り敢えず、阿賀松の視線から逃げるようにベッドの縁へと逃げた。
「あの、先輩……クリーニングってどれくらい掛かるんですか……?」
「そんな掛からねーと思うけど。……なんで?」
阿賀松の目が痛い。
気になって尋ねただけなのに責められるような錯覚を覚えるのは何故だろうか。
どう答えても阿賀松の逆鱗に触れてしまいそうで「ええと」と口籠れば、阿賀松に手を重ねられ、ぎょっとする。
「まさか、服がねぇと出歩けないとか考えてねーよな」
「……っ」
そのまさかだった。
不安になっていたのが伝わったのだろうか、阿賀松に気圧されそうになった時だ。
ぎゅるるると、なんとも情けない音が俺の腹部から発せられる。紛れもない、空腹に嘆く腹の音だった。
しっかり阿賀松の耳にまで届いていたようだ。
「ご、ごめんなさい……っ、俺……」
「なぁんだ、ユウキ君腹減ってんのかよ。……先に言えよ、そういう事は」
てっきり「うるせぇんだよ!」とか「恥ずかしいやつ」だとか言われて馬鹿にされるかもしれないと思っていただけに、阿賀松の言葉に驚いた。
「まあ、俺も腹減ったしなんか頼むか」
「えっ!い、いいんですか……?」
「誰がテメェのも頼むっつったよ。俺の飯だよ、俺の」
や、やっぱりそういうことか。
少しでも阿賀松の優しさを信じた俺が悪いのだが、俺の気持ちを代弁するかのようにまた腹が鳴る。
恥ずかしくなって慌てて自分の腕で腹部を押えた時、携帯を手にした阿賀松と目が合う。
「何が食いたい?」
「……えっ?」
「えっ?じゃねーよ。何が食いたいって聞いてんだよ。早く答えろ」
「え、ええと、その……米が……」
苛ついた阿賀松に促されるがまま、とにかく俺は気分を損なわせないようにと要望を口にする。
阿賀松は「なんだそれ」と笑い、どこかに電話をした。
「よぉ、お前暇だろ。腹減ったからいつもの、用意してきてくれよ。……それと、ライスも。十分以内に持ってこいよ」
いつものってなんなのかとか、誰に電話してるのだろうかとか、色々気になることはあったがすぐにその通話も終わる。受話器から微かに相手の慌てる声が聞こえたところからして、阿賀松が一方的に切ったのは一目瞭然だ。
というよりも、本当に米を頼んでくれるとは……。
咄嗟に答えた俺も俺だが、律儀に白米のみを頼む阿賀松にもう少しまともな返答をしておけばよかったと後悔せずにはいられない。
「あの、今のって……」
「あ?デリバリーサービスだよ。……俺専用の」
いたずらっ子のように笑う阿賀松。もしかして仁科がまた無茶振りをされているのだろうかと思ったが、十分後、指定された時間にやってきた人物に俺は驚くことになる。
寝室の外から微かにインターホンが響いた。
「おー来た来た」と笑う阿賀松は、そのまま寝室を後にした。
誰がやってきたのか気になったが、生憎こんな格好だ。到底人前に出る気にはなれず、俺は寝室で大人しく阿賀松が戻ってくるのを待っておこうと思ったのだけれど。
「おい、ユウキ君。何やってんだよ、あんだけ腹鳴らしておいて食わねぇつもりか?」
出てこない俺を疑問に思ったらしく、寝室の扉を開いて俺を呼びにやってくる阿賀松にぎょっとする。
『えー!何?もしかしてライスって齋藤君の分だったの?』
「は?ちゃんと言っただろうが」
『聞いてないから!そんなことならもっとちゃんとしたの用意してあげるのにさぁ〜』
扉の向こう、聞こえてきた来訪者もといデリバリーサービスの声には聞き覚えがあった。
縁方人だ。まさか縁が来るなんて思ってなかっただけに、余計布団を深く被り直したが「何遊んでんだよ」と寝室に入ってきた阿賀松に布団を引き剥がされる。
「あ……あの、俺、やっぱり後からで……」
「後からってなんだよ。さっさと片付けさせるからテメーも早く食えよ」
「で、でも、あの、俺……こんな格好ですし……やっぱり……」
「ユウキ君を食うわけじゃねえんだから格好なんてどうでもいいんだよ!良いからさっさとしろ!」
「ぅ……うぅ……」
せめて、今のやり取りの間に空気を読んだ縁が部屋を出ていってくれていることを祈るしかなかった。
必死に裾を引っ張って露出部分を減らそうと試みるが、「人の服を伸ばそうとしてんじゃねえよ」と阿賀松に頭を叩かれる。
寝室を出れば、豪勢な料理が並べられたテーブルがまず目に入った。その傍のソファーの上、腰を下ろしてグラスに飲み物を注いでいた縁は俺を見つけるとパッと微笑んだ。
「齋藤君、随分といい趣味の服着せられてんじゃん」
「すみません、こんな格好で……」
「こんな格好って、俺の服なんだけど?」
「あっ、ご、ごめんなさい!……その、見苦しいものをお見せしてしまい……」
「いやいや、俺からしたら寧ろ役得なんだけど?たまには伊織のパシリになってみるもんだね〜」
縁なりに気を遣ってくれているのかただの本音なのかは分からないが、もしここにいるのが安久だった時のことを考えたらまだ好意的に接してくれる縁でよかったのかもしれない。なんて思わずにはいられない。
やはり阿賀松に無茶振りされたようだ。部屋の隅にワゴンを見つけ、食堂からここまで走ってきたのかもしれないと思えば同情を禁じ得なかった。
「ほら、齋藤君俺の隣座りなよ」
「え、ええと……」
「お前堂々と人の恋人に手ェ出そうとしてんじゃねーよ。……おい、お前はこっちだろ、ユウキ君」
そう、縁の向かい側のソファーにどかりと腰を下ろした阿賀松は俺を手招く。
床に座れと言われるのではないかとヒヤヒヤしていたのだが、随分と機嫌がいいようだ。ならばそれを損ねたくわない。
そう、恐る恐る俺は阿賀松の隣に腰を下ろそうとしたのだけれど。
「馬鹿か。……そうじゃねえだろ」
は?と、思った矢先のことだった。
いきなり阿賀松に腕を引っ張られる。
突然のことで、まともに受け身も取れなかった俺は引っ張られるがまま、抱き寄せられた。
ソファーの材質とは違う、体温を持った硬い感触に包まれ、息が止まる。
「お前はここだよ。特等席だろ?」
すぐ耳元で阿賀松の声が聞こえ、心臓がぎゅっと握り潰されるような衝撃を受ける。
振り返れば、すぐそこに阿賀松の顔があるのだ。
特等席、もとい阿賀松の膝の上から慌てて降りようとするのだけれど、腹部に回された腕にガッチリ抑え付けられ、ろくに身動きが取れなかった。
それどころか。
「うっわ、伊織、お前もしかしてもう酔ってる?」
「酔ってねぇよ。なんだよ、俺が自分の恋人可愛がっちゃいけねえの?」
阿賀松が『恋人』とという単語を口にする度に言い知れぬ不安感が胸の奥で燻ぶる。
どういうつもりなのか分からないが、それでも、怒鳴られたり殴られるよりは……ましだ。と、思いたい。
が、縁という第三者がいるというだけでここまで辛くなるものとは思わなかった。
「……お前はその可愛がり方が極端なんだよ。……それで?わざわざ俺をここまで呼び出しておいてまさかソレを見せ付けるだけってわけじゃねーよな」
先程までヘラヘラ笑っていた縁だったが、その表情が一瞬にして引き締まる。
もしかして、何か理由があるのだろうか。なんとなく、ただならぬものを感じ、俺は無意識に息を飲んだ。
「……この前、八木に調べさせておいた『あいつ』のことだよ。蓋を開けてみりゃあ真っ黒だったよ」
八木という聞き慣れない名前も気になったが、それよりもその言葉の内容も気になった。
あいつって誰なのだろうか。阿賀松の調べる程の興味を示す相手となれば芳川会長くらいしか思い浮かばないが……。
だとすると、今俺はとんでもない会話を聞いているのではないだろうか。
阿賀松の膝の上、緊張する俺の向かい側、縁は「へぇ」と目細めて笑う。
「それですぐ使えそうなものは掴めたのか?」
「ねーな。あいつが綺麗な顔した腹黒野郎だって分かっても、実際に繋がるものまでは見つかってない」
「……なるほどねー、『説得力』が揃ったから今度は俺が証拠になりゃ良いわけだ」
用意されたフォークを指先で弄ぶ縁に、背後の阿賀松が笑う気配がした。
「お前、そういうの好きだろ?」
阿賀松がそう尋ねた時、縁はテーブルの上の大皿の上、湯気を立てていたステーキにその先端を突き立てる。
分厚い肉を貫通し、皿にぶつかる耳障りな音ともにソースと肉汁がたっぷり溢れ出した。
そして、ひょい、と大きく切り分けられたステーキを大口開けて飲み込んだ縁に、俺はぎょっとする。
まだ熱いだろうに、あんな量の肉を口にするなんて。
数回の咀嚼の末、ごくりと縁の喉仏が上下した。
そして。
「……ちょー好き」
新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた縁は、油で濡れた唇を舌舐めずりし、笑う。
俺が言われたわけではないのに、何故だがゾクリと全身の毛がよだった。
「了解了解、そういうことなら俺に任しといてよ」
「お前、本当食い方汚えよな」
「伊織のハムスターみたいなにちまちま食うのよりはましだっての。ほら、齋藤君も食べなよ。冷えちゃうよ?」
「え……あ、はい……」
急に話を振られ、つい返答に遅れてしまった。
この二人は何を企んでいるのだろうか。もし会長達の身に何かが起こるかもしれないのなら、早く伝えなければならない。そんなことばかりを考えてしまったせいで、緊張と焦りで箸を持つ手が震えてしまう。
「ユウキ君、手ぇ震えてんじゃん。……俺が食わせてやろうか?」
笑う阿賀松にギクリの体が強張る。
阿賀松に見られている。
俺の反応を観察しているのだろう、背後から突き刺さる視線に、何も考えられなくなってしまい、とうとう俺は箸を落としてしまった。
「あーあ。齋藤君スプーンあげようか?」
「だ……大丈夫です……っ」
「何が大丈夫なんだよ」
床の箸を拾おうと伸ばした手を、阿賀松に掴まれる。重ねられる手に、嫌な汗が滲んだ。
「……ユウキ君、お前さぁ、本当嘘が下手だよな」
耳朶に触れる唇の感触に、吹き掛かる吐息に、心臓が停まるかと思った。
どういう意味か、なんて考えたくもなかった。
「俺は、嘘なんて」
吐いてないです、と口を動かせば、「ふぅん」と意味有りげに阿賀松は笑い、そして、腰に回していたその手が太腿を撫でてくる。
テーブルで見えないとはいえ、縁の前でTシャツの裾を捲り上げようとする阿賀松にギョッとし、慌ててその手を掴んだ。
「いい事教えてやるよ、ユウキ君」
「……いい事……?」
「二週間後だ」
「二週間で、全部ぶっ壊してやるよ」と。
阿賀松は笑い、俺の耳朶に舌を這わせた。ぬるりとした感触よりも、笑えないその言葉に何よりもぞっと背筋が凍り付く。
目を見開く俺に、阿賀松は肩を揺らして笑った。
「おいおい、そんな調子の良いこと言って大丈夫なのかよ」
「俺は有言実行の男だぞ。それに、今年はお前が居るからなぁ、方人。あとは、あいつが戻ってきたら……」
「元通りに、なんて無理だと思うけど」
「馬鹿か。誰が元通りにするっつったよ。全部真っ更な状態に戻して、作り直すんだよ。今度こそ不穏分子は潰してなぁ」
ただならぬ会話が交されてるというのに、俺は、口を挟むことすら出来ずに体に這わされるその指の感触に耐えることしか出来なかった。
阿賀松の言うあいつが誰なのか見当が付かない。
けれど、確実に良くないことが起ころうとしているのは明確で。
「……ユウキ君」
内腿をなぞっていた阿賀松の手が、止まる。
名前を呼ばれ、無意識に息を飲んだ。
「お前は誰のモノだ?」
重るように掌ごと握り締めてくる阿賀松の指。
首を締められてるわけでもなければ殴られてるわけでもない、ただ抱き締められて手を握り締められてるだけなのに、全身の器官を圧迫するような息苦しさが俺を襲った。
それは、部屋の空気がそう思わせてるのだろう。
いつもなら笑って茶化して助けてくれるはずの縁は何も言わずに、俺たちの動向をただ笑って眺めている。
二人に注目されている。その事実が、俺を。
「……俺は……」
ごめんなさい、会長。
けれど、今はまだ俺は阿賀松の傍にいて情報を手に入れることしか出来ない。だから。
「……阿賀松先輩の、恋人です……」
「へぇ、じゃあ俺のお願いも聞いてくれるんだよなァ?」
いつも人の意見も聞かずに力づくで強要してくるくせに、一つ一つ確認してくる阿賀松が厭らしくて堪らない。
その言葉に頷き返す。
それだけで、重い枷がまた一つと手足に嵌められていくような錯覚を覚えずにいられなかった。
そして、そんな俺に、阿賀松伊織は満足そうに笑う。
「なら、今夜芳川知憲の部屋に行って『これ』飲ませてこいよ」
言いながら、何かを取り出した阿賀松はそれを俺の目の前に晒した。
透明な小袋の中には粉薬が入っていて、それがなんなのかは分からないが、良からぬ薬であることは一目瞭然だった。
「……っ、なにを、言って……」
「残念ながら飲んだら即死するような劇薬じゃねーけど、飲んだらぐっすり眠れる良い薬だ。あいつの飲み物に混ぜるくらい簡単だろ」
「……そんなこと、して、何をするつもりなんですか……」
嫌な予感しかしない。
恐る恐る尋ねれば、阿賀松に顎を掴まれ、背後の阿賀松を振り向かさせられる。
目が合って、背筋が凍り付いた。そこに先程までの笑顔はなく、冷たい目が俺を真っ直ぐ捉えていて。
「お前は俺の恋人なんだろ?なら、ごちゃごちゃ言わずに俺に尽くせよ」
「それが役目だろ」と、底冷えするような冷たい声音に俺は何も言い返すことが出来なかった。
『お前はあいつの部屋にいってあいつを眠らせるだけでいい』
『そして、俺に連絡しろ。すぐに部屋に行くからお前は俺を部屋に上げるまでが役目だ』そう、阿賀松は言った。
手渡された薬が本当に睡眠薬かも分からない。躊躇っていると『ならお前が試しに飲んでみたらいいじゃねえの』と奴は笑う。
そして、俺は結局薬を飲めないまま、阿賀松の部屋を出ることになった。
タイミングを見計らったかのようにクリーニングから戻ってきた制服は前よりも皺一つなくなっていて、それが余計落ち着かなかった。
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