天国か地獄


 07

「……よっし、これで全部かな」

 大学に通う名目で、俺は実家から離れた街中のマンションの一室を借り、一人暮らしを始めることになった。
 引越し業者に手伝ってもらったお陰で大分部屋も部屋らしくなり、これからのことに不安と期待でいっぱいになっていた。
 いつ貯金が尽きるかも分からない。親に頼めばいくらでも金を出してくれるだろうが、出来ることならもう実家と関わりたくなかった。
 そのためにも、早くバイトを見つけなければ。

 母親には最後まで反対されたが、父親には『定期的に連絡を入れること』を条件に一人暮らしを許してもらうことになる。
 そして、『これからは自分一人で生きていくこと』。
 困ったことがあればすぐに連絡を寄越しなさいと口煩く言われたが、それも本当ならばしたくなかった。
 一年前の出来事で心配性に磨きを掛けた両親を説得出来ただけでも成果だ。
 監視の目がないというだけでこれ程まで清々しくなるものなのだろうか。
 ぐっと背伸びをした俺は、自分の頬を叩いた。これからが正念場だ。

「……志摩」

 この一年間、無駄に過ごしたつもりはない。
 一度だって、志摩のことを忘れた日はなかった、と思う。
 志摩を探そう。そう思い立ったはいいが、俺と志摩の共通点といえばあの学園でのことくらいしかない。
 それでも、去年のあの日、既に志摩は退学になっている。
 だとしたら今あの学園に戻ったところで出会える可能性は低いだろう。
 以前、志摩に栫井と一緒に連れて行ってもらったあの料亭のことを思い出すが、あそこにもあまり戻っていないようだったし……。
 よく考えてみれば、俺は志摩の私生活のことを知らない。どう思い出そうとも、あの学園での志摩との思い出ばかりが蘇るのだ。
 他に何か、志摩のいそうな場所と言えば。と、思考を張り巡らせた時だ。

『俺の兄貴はこの四階に入院してるんだよ』
 阿賀松の親族が経営しているという、あの病院。
 志摩自身のことを初めて語ってくれたあの場所なら。
 確証はない。それでも、志摩の行方を辿ることが出来るならば。
 実家から持ってきたパソコンを取り出し、俺は、あの病院の場所を調べる。
 幸い、学園の近くでもありすぐに特定することは出来た。表示された住所をメモした俺は、すぐに家を飛び出した。

 ◆ ◆ ◆

 電車に揺らされること数時間。
 窓の外、見知った風景が流れ込んでくるのを眺めていた。
 どこもかしこも懐かしかった。
 どこかに志摩がいるんじゃないだろうか。
 なんて思いながら辺りを見回しながら歩いていたが、どこにもそれらしき影はない。
 休日の昼間ということもあってか人の影は多かったが、以前のような恐怖心はなかった。人の目を気にする暇もないくらい、俺は志摩のことを見つけるのでいっぱいいっぱいだったのかもしれない。

 何度か道を迷うこと更に数時間後、目的地の病院にたどり着いた時は明るかった空に朱が差し始めていた。

 以前に来たときと印象が違って見えるのは、あの時俺が見たのは深夜に佇む病院だったからだろう。
 入院患者の家族で賑わう病院前。
 なんだか場違いだな、俺。なんて思いながらも辺りを探っていたが、やはりどこにも志摩の姿はない。
 やっぱり、こんなに都合よくいるわけないか。
 それに、ここは阿賀松の親戚が経営してる病院だ。いくらなんでも志摩が自分から来るわけ……。

「わ……っ」

 不意に、背後の影に気付かずにぶつかってしまう。
 慌てて振り返れば、そこには車椅子に乗った男性がいた。

「悪い、大丈夫か?お兄さん」
「い、いえ、こちらこそ……」

 申し訳ございません、と慌てて謝る。
 俺は何をしてるんだ。怪我人にぶつかってしまうなんて迂闊にも程がある。ペコペコと謝っていた俺だったが、不意に、男と視線がぶつかった。瞬間、言いしれぬ既視感に思わず息を呑んだ。

「……え?」

 目が、似ていた。優しげな目元が。
 口が、似ていた。自信たっぷりに弧を描いたその口元が。
 声も、喋り方も違う。けれど、俺は目の前の男に志摩亮太の面影を重ねてしまったのだ。
 呆気に取られる俺に、「どうかしたか?」と不思議そうに男はこちらを覗き込んでくる。
 そこでハッとする。いくらなんでも、人の顔を見て固まるなんて失礼だ。

「いえ、なんでも……」
「ちょっと、病人のくせにさっさと行こうとしないでよ!」

 ないです、と言いかけて、俺は今度こそ言葉を失った。
 車椅子の男を追い掛けるようにやってきたそいつの姿に、一瞬幻覚だろうかと思った。だって、そうだろう。
 まさか、志摩が、本当に、ここにいるなんて。

「おお、悪い悪い、外は久し振りだったからな!」

 笑いながら手を振り返す男の横、俺は、手が震えるのを感じた。
 あの頃の面影を残したまま、以前よりも髪は短くなっていたがそれでもすぐに分かった。
 だって、ずっと夢に見ていたのだから。

「……っう、そ………」

 堪らず、口にする俺に、やつも俺に気付いたようだ。
 目を見開き、一瞬にしてその血相が変わる。

「お前……」
「志摩……?」

 恐る恐る、その名前を口にした時だった。
 志摩は、踵を返し、病院へ戻ろうとする。
 それを慌てて追い、俺は志摩の腕を掴み、全体重を掛けて引き止める。

「っ、志摩、待って、志摩だよね……!」

 こちらを向こうとしない志摩だが、その反応で充分だった。俺の会いたかった志摩が、目の前にいる。
 けれど、その手もすぐに振り払われる。乾いた音ともに手を叩き落とされる。
 痛みはなかった。それ以上に再会出来たことが嬉しかったからだろう。
 けれど、志摩の顔は、嬉しさよりも怒りの色の方が濃く滲んでいて。
 胸倉を掴まれる。

「なんだよ、急にいなくなったくせに……いきなり、こんな、なんで……ッ」
「……ごめん、けど、もう、大丈夫だから……俺、やっと、志摩に会えるようになって……」
「ふざけんなよ……ッ!」

 また背の伸びたのだろう。志摩に至近距離で睨まれれば、その勢いに気圧されそうになる。
 怒鳴り声に反応した周囲が、色めき始めた。

「ようやく、忘れられると思ったのに……こんな、っ……こんなの、ずるいよ……ッ」
「……し、ま」

 その目に涙が滲むのを見て、俺は、何も言えなくなる。
 俺は、一人で覚悟して一人で頑張っていた気になっていた。
 けれど、何も告げずに去られた志摩はどうだったのだろうか。覚悟する暇もなく、受け入れることしか出来なかった志摩の歯がゆさを考えると、気休めの言葉なんて意味がないだろう。
 けれど、それと同時に俺のことを忘れないでいてくれた。その事実が素直に嬉しくて。

「お、おい?なんかよく分からんけど亮太、そういう言い方はよくないと思……」

 後を追い掛けてきた、志摩の知り合いらしき車椅子の男が仲裁に入ろうとする。
 それを躱して、俺は志摩の背中に腕を伸ばした。
 広く見えた背中は、思っていたよりも細い。痩せたのかもしれない。腕に収まった志摩に、俺は、その肩口に頬を寄せる。

「……っ、ごめん、ごめんね、何も言わずにいなくなって……」
「ふざけるなよ……ッ」

 瞬間、肩を掴まれ、引き剥がされた。
 拒絶されたのかと、目を丸くする俺に、志摩は唇を重ねてきた。
 別の意味で騒がしくなる周囲なんて目もくれず、志摩は俺の唇を貪り、舌を這わせ、その感触を確かめるように何度も唇を重ねる。

「っ、し、ま……」
「許さないから、絶対……許さないよ。……死ぬまで根に持つから」

 背中に回された腕に骨が折れそうになるほどの力で抱き締められる。息苦しさがないわけでもない。実際に痛い。けれど、今は、その息苦しさが心地よかった。

 ◆ ◆ ◆

 あのあと、場所が場所だということに気付いた俺はなんとか志摩を落ち着かせて抜け出すことに成功する。
 そして、取り敢えずゆっくり話すために俺達はとある病室へとやってきた。

「それじゃあ、貴方が志摩のお兄さんなんですね」
「ああ、志摩裕斗っていうんだ。君は噂の齋藤君だろ?亮太からは耳がタコになるくらい聞いてるぞ!」
「うっさい、っていうか馴れ馴れしく齋藤と握手しないでよ。本当図々しいんだから」

 志摩のお兄さん、志摩裕斗の病室内。
 志摩裕斗が目を覚ましたのは去年、志摩が退学になって間もない時だと言う。
 最初の頃は喋ることすら儘ならなかったというが、今の志摩に似て饒舌な志摩裕斗を見てると信じられないというか、なんというか。
 顔はなんとなく雰囲気が似てるが、やはり並んでる二人を見れば見るほど似ていない。
 どちらかと言えばネガティブというかひねくれた思考の志摩とは対照的に、志摩裕斗は朗らかな人だった。
 だってそうだろう、弟とキスかました俺に握手を求めてくるのだから。

「本当、あいつもうざいよね。芳川が使い物にならなくなったらもーどうでもいーでーすって感じで掌返すし本当うざいったらありゃしないし。何あれ、偽善者ぶってんの?」

 あれから、志摩は阿賀松と連絡を取り合っていたようだ。
 もしかして縁と会ったのだろうかと心配になったが、単刀直入に聞けるような話題でもない。
 俺は、まずは阿賀松のことについて尋ねることにする。

「あの、あれから阿賀松先輩は……」
「さあね。興味ない。けどもう暫く会ってないし、ねえ兄貴、もうこっちにいないんだっけ?」
「ああ、そうだな。どこ行ったか忘れたが、詩織も一緒みたいだから多分大丈夫だろ」

「しっかし、たまには顔を見せろっつってんのにあいつ、見舞いの一つ来ないんだからな。本当、薄情なやつだ」と不貞腐れる志摩裕斗。
 そういえば、志摩裕斗は阿賀松と阿佐美と仲がいいという話を聞いていた。
 阿佐美はともかくあの阿賀松と志摩裕斗が仲良いというのがあまり想像出来ないが、阿賀松のことを話す志摩裕斗から阿賀松に対する信頼感が垣間見えるのも事実だ。

 阿賀松たちが留学してる。
 もう、阿賀松の影に怯えることがないと思うとほっとする反面、おかしな話、一抹の物寂しさを覚えた。

 でも、本当に全部終わったというのだろうか。
 芳川会長にもまだ会えていない。恐らく、これからも会長に会うことはないだろう。
 そんなことを、一人で考えていたときだった。

「ねえ……齋藤、喉渇かない?」

 突然、立ち上がる志摩に尋ねられる。

「え?別に俺は……」
「俺が喉渇いたの。……着いてきなよ」

 有無を言わせぬ強引な物言いも健在していた。
 迷う隙を与えない志摩の言葉は、今の俺には有り難かった。

「う、うん……」

 促され、立ち上がる俺に、ベッドの上の志摩裕斗はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。

「そんなしなくても別に邪魔しねーっての」
「あんたがいるだけで邪魔なんだよ」
「へーよくもこんな冷たい弟に育ったもんだ」
「煩いよ。ほら、齋藤、行くよ」

 そして、俺は志摩裕斗に見送られるがまま病室を後にした。
 そして、やってきたのは病室から離れたラウンジだ。
 殆どの見舞い客も帰っていったそこは閑散としており、その静けさが今は丁度良かった。
 自販機で飲み物を買い、俺と志摩は一番奥の席に向かい合って腰を下ろす。

「ったく本当あの減らず口、もっと眠ってたらよかったのに」
「でも、良かったじゃないか、お兄さんが目を覚まして……」
「どうだか。余計な手が掛かってこっちは迷惑だよ」
「そっか」

 実の兄に対していつも以上に刺々しい志摩の態度だが、その吐き出される毒が志摩の愛情表現だと知った今微笑ましく感じる。
 死んでもいいと言っていたが、やはり、目が覚めて嬉しいのだろう。事実、笑う志摩の表情が以前よりも柔らかく感じるのだ。
 俺の知らない志摩がいるのだと考えると寂しかったが、これは喜ぶべきなのだろう。複雑だな、と思いながら志摩の顔を眺めていると、不意に視線がぶつかった。

「齋藤は、変わらないね」
「え?」
「最初見た時は少しは大人っぽくなったなって思ったけど、困ったら俯くところとか、全然変わってないね」

 まじまじと観察され、なんだか気恥ずかしくなる。
「そう、かな」と、赤くなった顔を隠すように俯けば、「ほら」と志摩は笑う。

「安心した。俺だけが変わってないのかって思ってたから」
「そんなの、俺もだよ。志摩、髪短くなってるし、その……なんか、格好良くなってるし……」
「へぇ……何?それは誘ってるの?」
「そ、そうじゃなくて!……だから、その、喋ってみたら俺の知ってる志摩のままだったから」

 しどろもどろ、なんとか弁解すれば志摩は目を伏せる。
 そして「そうだね」と小さく笑った。
 その言葉はどこか自嘲的で、言い方が悪かったかもしれない、そう後悔する俺を他所に志摩は言葉を続ける。

「方人さんとは、あれから会ってないよ」
「え?」
「気になってたんでしょ、その顔」

 どうやら、気付かれていたみたいだ。
 ギクリとする俺に、志摩は「わかり易すぎるんだって」と溜息を吐く。

「どこで何してるのかも知らない。噂では阿賀松と一緒にいるのを見掛けたってのも聞いたけど、ここ一年はそんな話も聞かないからね。……俺としてはこのまま野垂れ死んでくれれば有り難いんだけど」

 そう言うものの、志摩は複雑そうな面持ちだった。
 少なからず志摩と縁には交友関係があった。それがどんだけ歪で全うとはいえないものではあっても、縁のことを気にしていた志摩のことを考えるともしかしたら心配なんじゃないだろうかと思ったが、俺は敢えて何も言わないことにした。

「そう……そっか……」
「安心した?」
「……分からない、けど、またどこかで会うかもしれないと思ったら正直安心出来ないよ」

 出来ることなら二度と会わないことを願いたい。
 でないと、縁と再会した俺は何をするか分からない。
 そんな予感がしたから。

 語尾を濁す俺に、何かを感じたのかもしれない。
 志摩は、俺の手を握り締める。
 骨ばった感触に包み込まれ、驚く俺に志摩はにっこりと笑った。

「大丈夫だよ、齋藤なら。……死んでも俺が守るから」

 何でもないように、志摩は言う。
 あの学園にいた時と変わらない、嘘偽りのない言葉で。
 志摩は本気で守ってくれるのだろう。
 けれど。俺は。

「死んだら、意味がないよ。……志摩も、一緒じゃないと意味がないよ……っ」
「これは、随分と情熱的な告白だね」
「冗談じゃない」

「俺はやっぱり、志摩がいないとダメなんだ。一人でも意味がない。この一年間、ずっと、今と一緒になれることだけを考えて勉強してきたんだ。……だから……」この病院には志摩のお兄さんだっている、我慢しないといけない。そう思っていたのに、今まで堰き止めていたやり場のなかった思いがどっと溢れ出しては止まらなくなる。
 上手く言葉が見つからなくて、歯がゆくなっていると視界が一瞬翳った。柔らかい感触が唇に触れる。今度は、触れるだけの優しいキスだった。
 唇を離した志摩は目を細め、微笑んだ。

「愚問だよ、齋藤」
「……志摩」
「前から言ってるよね、俺は、齋藤を一人にするつもりはないって」

 いつもと変わらない軽薄な口調で、それでも、俺にとってはとても重たく、求めていたものだった。
 目を丸くする俺に、志摩はわざとらしく溜息を吐き、頭を掻く。

「……本当は、こっちから齋藤の家に乗り込むつもりだったのにな」
「え?」
「疑ってる?まあ、そりゃ兄貴が生き返ったお陰でバタバタしてたからね……本当は放っておきたかったけど、だって、齋藤も悪いんだよ?俺を置いていくから」

 バツが悪そうに、志摩は続ける。
 本当か冗談か相変わらず分かりにくいが、それでも、そこまで考えてくれていたのだと思うと嬉しくて、志摩も俺と同じ気持ちでいてくれたのだと思えば、なんかもうダメだった。志摩との再会で渇いていたと思っていた涙腺は弛み切り、じーんと熱くなった目頭に涙が滲む。

「……あ、あり、がとう」
「本当、齋藤ってすぐ泣くよね。ほら、コーラ飲みなよ。美味しいよ」
「ん、んぐぐ……」
「そんなに慌てなくて飲まなくても俺は逃げないって。……それに、時間はまだたくさんあるんだから」

「そうでしょ、齋藤」と、楽しそうに笑う志摩。
 ああ、そうか。もう、俺達は何も気にする必要はない。これから志摩と一緒にいることが出来ると思うと、一気に目の前が明るくなるようだった。


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