天国か地獄


 23

 ゆっくりと、一つ一つの単語を紡いでいくように慎重に阿佐美は俺に話してくれる。
 俺の替え玉を用意したこと。
 相手は多額の報酬を用意を条件に引き受けてくれて、既に整形を終えたあとだと。
 多少言動声が違っても交通事故に遭って入院していたその後遺症だと説明するつもりだということ。
 ――そして、その替え玉のことは阿賀松も知っているということ。

「俺の身代わりを引き受けてくれる相手だ。ちゃんと会って礼を言いたい」と思い切って訪ねてみるが、阿佐美は首を縦に振ろうとしない。

「それだけはゆうき君の頼みでも駄目だ」
「どうして?」
「俺が、嫌だからだよ」

 心を開いたと思うが、一つの錠が外れただけで扉までもは頑なだ。……余程踏み込まれたくないのだろう、それでもこれだけ分かれば十分だ。

「ありがとう、詩織。ちゃんと話してくれて」

 酷く疲れたような顔をする阿佐美の頬にそっと触れれば、阿佐美は目を伏せた。
 そして、手のひらで包み込むように俺の手を握るのだ。

「っ、ゆうき君……俺はゆうき君に許してほしいと思わない。恨まれても仕方ないと思ってる」
「…詩織」
「……ごめん、頭の中ぐちゃぐちゃで自分でも何言ってるかわからない。これでいいはずなのに……ゆうき君にそんな風にされると分からなくなる」
「…………」

 ごめん、と絞り出すように阿佐美は俺の手を離した。
 そして、ふらりと立ち上がる。

「ゆっくり休んでて。また、会いに来るよ」
「……うん」

 ありがとう、という言葉は出てこなかった。そのまま力なく病室を出ていく阿佐美から視線を外し、俺は掌を眺めた。

 替え玉の居場所まで突き止めることはできなかったがこの病院のどこかにはいるはずだ。
 ……阿賀松がいつ来るかもわからない。病室を偽装してるというのならその辺りは阿佐美ならば抜かりないだろう。
 改めて聞いて、ショックだった。ただのそっくりさんではない、阿佐美が作り変えたのだ。俺のために一人の人間の存在を歪めた。
 その条件を飲んだ替え玉も替え玉だと思ったが、もしかしたら不当な手段で連れて来られた可能性だってある。そう思えば他人だとは思えなかった。

 ベッドに横になる。色々考え事していたせいだろうか、本格的に知恵熱が出てきたようだ。
 取り敢えず、今は体を休めよう。
 ……今すぐ替え玉を探しに行きたいが無理を通せるほどの体力もない。
 そのまま目を瞑る。
 手足を伸ばし、柔らかいベッドの上で眠る。以前なら当たり前だと思っていたのに今や有り難いと思える自分に苦笑すらでない。
 その日は夢を見ることすらなく、泥のように眠りについた。

 ◇ ◇ ◇

 ……どれほど経ったのだろうか。
 なにが額に触れている。前髪を撫でられるような感触に驚いて目を開けば、まず目に入ったのは掌だった。

「悪い、起こしたか?」

 掌越し、こちらを見下ろしていた裕斗と目が合い、裕斗は申し訳なさそうな顔をする。
 正直驚いたが、そこにいたのが裕斗であることに安堵した。

「いえ……大丈夫です」
「そろそろ腹減ったんじゃないかって思って飯持ってきたんだけどどうだ?食えそうか?」

 正直まだ固形物を食べる気分ではないが、流石に何かを腹に入れないとまずい気がしてきた。
 頷き返せば、裕斗はベッドに取り付けられていたボードの上に病院食が載せられたトレーを置くのだ。

「無理はいなくていい。けど、水分は取れよ」
「ありがとうございます」
「詩織だ」
「……え?」
「詩織が心配していた。お前が具合悪そうだって。けど、自分がいるせいで余計ストレスになるかも知れないって」

「だからこれだけ届けてさっさと帰っていったぞ」あいつらしいけどな、と笑う裕斗に俺は昨日眠る前阿佐美と交わしたやり取りを思い出す。

「……そう、でしたか」
「詩織とは話せたのか?」

 水が注がれたカップを手に取る。
 話せた、と言っていいのだろうか。全てを話してくれたわけではないが、それでも聞き出せた情報は確かにある。
 頷き返せば「へえ」と裕斗は驚いたように目を開いた。

「あいつ、よっぽどお前のことが好きなんだな」

 裕斗が笑う。
 その言葉に心臓がぎゅっと苦しくなる。
 好きだから何をしてでも助けたい。でも自分の立場もある。ああ、と思った。……同じだ。

「裕斗先輩は、会ったんですよね。俺の替え玉の人に」
「ああ、そうだ。この目で確認したよ。初めて見たときは本当にビックリしたが……今思えば全然だな、顔の造形は同じでも仕草や表情がまるで違う」
「いつのことですか、それ」
「……詩織がお前をここに連れてくる二、三日前だったはずだ。今は会えないと思うぞ」
「会えない?」
「暫く安静にするようにと言われてるらしい。面会謝絶だ」

 どうして、と尋ねれば裕斗は「さあな」と肩を竦める。

「病室は分かるんですか?」
「会いに行くつもりか?」

 こくりと頷き返せば、裕斗は何か言いたそうにする。そして、やがて諦めたように深く息を吐いた。

「正直、俺はオススメしない。言っただろ、詩織にも漏れる可能性もある」
「詩織には、お礼をちゃんと言いたいから会わせてほしいと伝えました」
「了承を得られたのか?」

 首を横に振れば、「だろうな」と裕斗は息を吐いた。

「けど、俺がたまたま出会ったことにすれば……」
「……会ってどうするんだ?」
「お礼を言います」
「齋藤……お前、嘘が下手だな」

 ふは、と吹き出したように笑う裕斗はすぐに真っ直ぐに俺を見据えた。
 茶化していない真剣な目だ。

「本音を言えばお前には危ない橋は渡ってほしくない」
「……はい」
「けど、俺が止めても聞かないんだろ?」
「…………」
「その沈黙って肯定ってことか?」

「本当、こんな体じゃなければお前を捕まえられたんだろうけどな」滅多に弱気なことを言わなかった裕斗がこんな風に弱音を吐く姿は酷く悲しくなる。歯痒い気持ちが伝わるし、裕斗がこうなったのも全部俺のせいだから、余計。
 けれど、だからこそ俺はここで折れる気にはなれなかった。裕斗が危ない目に遭うことだけは避けなければならないと思えたからだ。

「……先輩」

 そっと裕斗の手を握り締める。まるで力が入らないその手は、指先でそっと押し返すように俺の手に触れた。その硬い指先に俺は自ら指を絡め、ぎゅっと力を入れる。……熱い、裕斗の熱が流れ込んでくる。

「無理だと思ったら諦めて他の方法を考えます。……だから」

 俺を信じてください。
 その言葉までは出なかった。

「……本当に、嘘が下手だ」

 何も言えなくなる俺に、裕斗は笑って頬に触れるだけのキスをする。唇が離れ、思わず裕斗を見上げたとき。

「この上の階だ。面会謝絶の札が掛かってるからすぐに分かるはずだ。……詩織の名前を出せば向こうも分かるだろうな」
「……っ、裕斗先輩……」
「俺も行く」

「お前にばかり任せてられないからな」そう笑う裕斗に、笑顔に、以前の裕斗が思い浮かんだ。
 胸の内側にじんわりと熱が広がる。裕斗がいれば下手な真似はできないと分かっていたが、それでも一緒に来てくれる裕斗に安堵する自分もいたのだ。

「ありがとうございます、先輩」

 一人ではないのだと、裕斗がいるのだと思えば気持ちが軽くなる。……やれることはやるし、裕斗に危険な目は遭わせない。
 しっかりしなければ、と改めて気を引き締め、俺は裕斗から聞いた替え玉の部屋へと向かうことにした。
 久し振りにちゃんと地に足をつけて歩いているような気がした。
 裕斗に支えられそうになり、流石に後遺症もまだ残ってる裕斗に甘えるわけにはいかないと断れば「そんなこと気にするな」と裕斗は笑うのだ。……気にするなという方が酷な話ではないだろうか。

 病院内は恐ろしく静かだった。そしてそこは病院と呼ぶにはあまりにもイメージが掛け離れていた。以前入院させられていたところとはまた違う、テナントビルのような寂れた通路を歩いていく。それほどの広さもなければ窓すらない。
 なんとなく嫌な空気が漂っているのが肌で感じた。
 看護婦や他の患者も見当たらないその通路の奥、エレベーターを見つける。裕斗はその前まで行き、なにやらカードキーで操作してエレベーターを呼んだ。
 その間俺達の間に会話はない。どこで阿佐美に聞かれてるのかもわからない。もしかしたら裕斗も同じことを考えていたのかもしれない。
 エレベーターの中は広い。担架で運ばれる患者を乗せるためなのだろうか。床がところどころ黒ずんでいるのを見つけ、思わず目を逸した。
 ここは四階。裕斗は五階を押す。
 目的の階にはすぐに着いた。先に降りる裕斗、俺はその後を追う。

 ――病院内、五階。
 通路の先には四階と似た、どこか冷たく湿ったような空気が流れていた。

 先へと進んだ裕斗は、とある閉じた扉の前まで向かう。そして、「ここだ」と俺を呼んだ。
 その扉には何か張り紙がされているようだ。――面会謝絶の四文字が書き殴られたその張り紙を無視して、裕斗は扉をノックした。

「俺だ、今大丈夫か?」

 そう裕斗か声を掛ければ、扉の向こうで物音が聞こえたような気がした。
 そして、暫くしない内に静かに扉が開く。

「またお前か。いい加減に――」

 現れた人物に、俺は思わず息を飲んだ。そして、それは相手も同じだった。
 同じ目線の高さ、そしてそこにいるのは間違いなく俺の顔だ。目元、鼻から口の形。情けなく垂れた眉、鏡で見ていた自分がそこにはある。けれど、圧倒的に違うのがあった。……目だ。
 最初驚いたように開かれていた目だったがすぐに訝しげに細められる。そして、俺から隣の裕斗へとぎろりと睨むように視線が動いた。

「……おい、どういうつもりだ?」

 そして不機嫌そうな低めの声。俺はこんな風に人を威圧するような空気も出せないだろう。裕斗が似ていないと言った意味がすぐに理解できた。

「こいつがあんたに会いたいって聞かなかったんだよ」

 はあ、と面倒臭そうに深く溜息を吐く。歓迎されるわけがないというのは重々承知だ。それも、自分が成り代わる予定の相手だ。
 分かっていたが、ここで引かれてはおしまいだ。それに、阿佐美に嘘を吐いてまでここに来たのだから何か成果を残さなければ。

「あ、あの……初めまして。俺……」
「名前は言わなくていい、知ってる。齋藤だろ」
「……っ!」
「それで、何か用があるんだろ?今更やめてくれって言われても聞けないからな」

「こっちにはもう後がないんだ」と、目の前の男は鷹揚のない声で続けるのだ。くすりとも笑わない。諦めたような、あしらう態度。
 ……これは手強そうだ。

「あの、阿佐美から話は聞きました。……それでちゃんとお礼を言いたくて来たんです」

 理由はなんだってよかった。
 とにかく引き留められれば何でも良かった。阿佐美の名前を出せば、ぴくりとやつの眉が動いた。そして扉を閉めようとしていた手を止める。

「……ふーん」
「少しだけ……お時間良いですか?」
「お礼なら別に必要ない。感謝されるようなこともしてないし」

 いけるか、と思ったがやはり男の態度は頑なだった。ここまでか、と思ったときだった。つん、と裕斗に肩を突かれた。何ごとかとちらりと見上げたとき、ほんの一瞬裕斗が笑った。
 どうしたのかと思ったときだ。

「っ、ぐあ……ッ!!傷が……ッ!!」

 急に隣で苦しみ出す裕斗。腹部を抑え、蹲る裕斗に驚き、焦ったが……もしかしてさっきのアイコンタクト、と思い出す。

「おい……」
「裕斗先輩……ッ!ちょっと待ってください、横になれるところ……」
「は、いやこれどう見ても……」
「すみません、部屋失礼します……!」

 何か言おうとする替え玉の男を無視し、俺は蹲る裕斗の脇を抱えるようにしてそのまま開きっぱなしの部屋の中へと引きずっていく。……なかなか重い。「おい!」と男に止められるが、ここは勢いだ。扉を閉め、バレないように内側から鍵を掛けた。
 そして。

「おっ?なんだ?急に腹痛治ったな」

 ベッドの上、腰を下ろした裕斗は何事もなかったように笑う。そんな裕斗に「お前……」と替え玉の男は忌々しげに舌打ちをするのだ。

「話には聞いていたけどまさかここまでとはな。そりゃ、あの男が怖がるわけだな」
「失礼な真似をしてしまいすみません。……あの、お名前を聞いてもいいですか」
「聞いてどうする?」
「どうお呼びすればいいのか」
「そこまで仲良くするつもりはない。それに、呼び名なら好きにすればいい」
「じゃあ偽齋藤でいいんじゃないか?」
「……」
「ゆ、裕斗先輩……」

 悪気はないのだろうが見て分かるくらい苛ついてる目の前の男にひやりとした。

「……サイトウ」
「え?」
「分かりやすい方がいいだろ?」

 お互い、とニヒルな笑みを浮かべる替え玉の男――もといサイトウ。
 明らかな偽名だ。本名を教えるつもりはないということか。この人のことを知れば知るほど自分の相違点を知る。
 けれど、俺に呼び名を与えてくれただけでも一歩前進した。……そんな気がした。

「……サイトウさん」
「で?本当は何の目的だ?お礼なんてする行儀いい子は仮病使ってまで押しかけようとしないだろ」
「……っ、……」

 やっぱりお見通しのようだ。
 この男には下手な駆け引きや誤魔化しは不要のようだ。ならば、と腹を括る。

「単刀直入に言います。……サイトウさんには俺と成り代わるフリをお願いしたいです」

 サイトウの目がこちらを向く。
 その口元に呆れたような乾いた笑いが浮かんだ。

「一応、理由を聞いといてやる」
「無関係な方を俺のせいで巻き込ませたくないからです」
「俺はそれを踏まえた上『それでもいい』とここまで来たやつだぞ、分かってんのか?」
「……でしたら、成り代わるフリの方がサイトウさんにとっても俺にとっても最善です。阿佐美には秘密にします。報酬はそのまま手に入る。……悩む必要はないと思いますが」
「確かに聞こえだけならな。けど、それがお前にとってなんのメリットになるんだ?お互いとは言ったがお前は損しかないだろ」

 当たり前のようにサイドボードの引き出しからタバコを取り出すサイトウはそのまま俺たちの目の前で火を付けた。タバコの火を見て全身に嫌な汗が滲む。思考が乱されそうになるのを堪え、俺はサイトウに目を向けた。

「俺には、やり残したことがあるので」
「……そうか」

 若いな、とサイトウが笑う。自分と同じ顔でそんなことを言われると変な感じだ。
 そもそも、一体この人は何歳なのか。素性も本名も知らない。顔こそは同じだがけれど仕草や態度からして歳上なのだろうというのはわかった。

「志摩、お前ちょっと外で待ってろ」

 サイトウの言葉に、裕斗が俺を見る。大丈夫だと頷き返せば、裕斗は「齋藤のこと虐めるなよ」と軽口叩いて外へと出た。
 二人きりの病室の中、サイトウは「さて」とタバコの灰を灰皿代わりの缶に落とす。

「阿佐美が言っていたぞ。もしお前に何か取引を持ち掛けられても絶対に応じるなってな」

 内心ぎくりとした。……阿佐美は最初から予感していたのだ。俺がこの男に近づく事を。そして予防線を張っていたとなると正直複雑だった。

「そうだと思います。あいつは、俺を助けたいと言ってました」
「なら言うことを聞いてやればいいだろ。やり残したことが気になるなら俺が代わりにしておくこともできる」
「自分でしなきゃいけないことなんです」
「……そうだな。けど、お前がそう考えるように俺にだって俺の事情があるんだ」

 まるで子供に諭すような口ぶりだった。
 サイトウの唇から煙が吐き出される。濁った空気の部屋の中、煙る視界。サイトウの目がじっとこちらを伺っていた。

「俺は自分の名前も家も何もかも捨てたくて阿佐美の言葉に乗ったんだよ。……なのに、成り代わったフリしてせっかく乗りかけた船から降りろって?俺にとってはそれは本意じゃない」

 何もかもを捨てたかった。そして別人として生きていく。それの先が天国なのかも地獄なのかもわからなくても、いやこの男ならば現実よりはましだと思えたのかもしれない。

「理由を、聞いてもいいですか」
「さあな。そんなに知りたいなら阿佐美から聞けよ」

 言うつもりはない、ということだろうか。それでも、こうして本心を話してくれたということは少しは俺に心を開いてくれたのだろうか。

「お前だって何もかも捨てて逃げ出したいって思わなかったのか?それも、赤の他人にわざわざここまでお膳立てしてもらえる程だろ?」
「……なかった、わけじゃないです。何度も思いました」
「けど、現実になったらそれは違ったのか?」

 サイトウの問いかけに頷き返した。
 あまり余計なことを話すべきではないと理解していた。けれどこの男が俺と同じ顔をしているからか、それともこの男が持ってる独特の雰囲気のせいか、それともこの男が本当に部外者だからか――おそらく全てだろう、なんだか口が軽くなってしまうのだ。

「恐らく、俺とあんたの違いはそこだな。……俺だったら享受する。手放しで顔でも指紋でもイジらせた」
「……サイトウさん」
「齋藤、俺は別にどうでもいいんだよ。そりゃ新しい人生には興味あった。けど、そこまで固執してなけりゃ阿佐美にも恩義があるわけではない」

 サイトウの言葉にそれほど驚くことはなかった。寧ろ今まで彼と話しててわかった。……熱を感じないのだ、言葉にも、目にも。

「そんなに言うなら乗ってやるよ、お前の言うことに」
「……っ、サイトウさん」
「……はあ、だからお前とは話したくなかったんだよ。何も知らないままのが何も考えなくて楽だったのに」

 ぼりぼりと後頭部を掻き毟るサイトウ。
 嬉しいはずなのに、喜ばしいはずなのに、喜びの感情よりもある懸念が胸を過るのだ。

「……貴方は、どうするんですか?」

 尋ねれば、サイトウは笑った。
 それは引き攣ったような自嘲的な笑みだった。

「今度は邪魔するやつがいないからな……楽に逝けるだろうな」

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