天国か地獄


 21

 これは本当に現実なのか。
 裕斗に触れても、それでもまだ信じられなかった。まさかまた俺は幻覚を見てるのではないか、そう不安になる度に裕斗は俺の手を握り締めてくれた。

「……ゆ、うと先輩……」
「取り敢えず、ちゃんと説明しとかないとな。……あの後のこと」

 あの後――俺が志摩に刺されたあと、何があったのか。
 恐ろしくて聞きたくなかった。
 けれど、逃げてばかりではいけない。目を逸してはいけない。……全て自分が引き起こしたことなのだ。

「……っ、教えてください……お願いします」

 無意識に感覚が拳に力が入った。
 それに何故裕斗がここにいるのか、状況が飲み込めていない現状だ。情報が欲しかった。それに――純粋に裕斗のことが知りたかった。知らなければならないと思ったのだ。

「……そうだな、まず何から説明したらいいかな。……あのあと亮太にぶっ刺されたあと、気が付いたら俺はこの病院のベッドだ。それで、病室にいた詩織から聞いたんだよ。
 ――……齋藤、お前が死んだって」

 その時のことを思い出したのか、苦虫を噛み潰したように続ける裕斗。
 その言葉に内心ぎくりとした。

「本当、いくらなんでも酷いよな。俺が病室から抜け出さないようにって言ったけど、いくらなんでもそれはねえ。それだけはねえだろ……本当」

 息を吐き出すように続ける裕斗の表情には疲労がありありと現れてる。
 恐らくそのときのことを思い出しているのだろう、裕斗の気持ちは痛いほど分かった。……俺も同じだった。裕斗が死んだと伝えられたとき、目の前が真っ暗になった。何も喉を通らず、気が気でなかった。
 けれど、まさか裕斗も同じことを伝えられていたとは思わなかった。……それも、阿佐美に。

「それで……亮太に刺されたときどうやら場所が悪かったらしくてな、……まあこのザマだ。動こうと思っても動けねえし、詩織のやつは何も話さないし、本当どうにかなるかと思ったよ」

「けど、傷も塞がってある程度動けるようになったときだ。……聞いたんだよ、詩織が伊織と電話で話てんの。お前の名前出てきたから問い詰めたんだ」それから先は、俺の知らないことばかりだった。
 結論からすれば、阿佐美は裕斗に事情を説明したようだ。
 時期は俺が縁に唆されて阿賀松の部屋へと行ったあとのことのようだ。――それから、閉じ込められていた頃。
 阿佐美は阿賀松のことを危惧していたらしい。
 止めたかった、けれど阿賀松に表立って逆らうことはできない阿佐美は裕斗に漏らしたのだ。
 それどころか、裕斗はそのとき知ったらしい。自分がこの病院にいることを意識が目覚めたことも阿佐美は阿賀松に伝えていないと。阿賀松は裕斗が別の病院で重篤状態で面会謝絶になっていると思っている。
 阿佐美が何を考えているのか分からない、けれど、しようとしていたことは分かった。
 阿佐美は裕斗を庇ったのだろう――阿賀松から。
 話を聞けば聞くほど阿佐美がどれほど危険な橋を渡っているのか分かった。いつかバレてしまう。そうなればどうなるのか、考えただけでゾッとした。

「俺はまだいい。……――けど問題はお前だ、齋藤。遅かれ早かれお前が伊織に……」

 あいつに、と言い掛けて裕斗は奥歯を噛み締めた。ぎゅう、と手のひらに重ねられた裕斗の手が俺の手のひらを強く握りしめる。その目にはいつもの笑みなどない。

「……詩織からは、聞いたんだろ。話は」

 尋ねられ、一瞬言葉に詰まる。
 意識が途切れる直前の阿佐美とのやり取りを思い出す。
 ――整形して別人として逃げろ。
 そう阿佐美は言った、切羽詰まった様子で断れば殺すとまで示唆された。
 まさか、裕斗も知っているのか。思いながらも小さく頷き返せば、裕斗の目が細められた。

「……あれは、俺が詩織に言ったんだ」
「――え」

 一瞬、裕斗の言葉の意味が理解できなかった。
 殴られたようなショックを覚え、呆然と顔を見上げれば、真剣な顔をした裕斗が俺をただじっと見据えていた。

「……ここから先、今から俺が言うことは詩織には言っていない。……お前だから話すことだ、齋藤」

 嫌な予感に胸の奥がざわつく。
 裕斗が何を考えているのか分からない。

「詩織はここでお前の体調が万全になれば整形手術に移すつもりだ。……そうさせるようにここに連れてきてもらったわけだしな」
「……っ、裕斗先輩……」
「お前が言いたいことは分かってる。……当たり前だ、俺はお前がコソコソ逃げ隠れしなきゃいけない理由はないと思ってる。けれど、詩織の手前こうするしかあいつは動かないだろうからな」

「悪かった」と裕斗は申し訳なさそうに目を伏せるのだ。ああ、と胸が軽くなっていく。もし、俺は裕斗にまで別人として過ごせと言われたと思うとぞっとしなかった。
 安心のあまり目頭が熱くなる。じわりと歪む視界の端、伸びてきた指先に滲む涙を拭われた。ごめんな、と申し訳なさそうに俺の頬を撫でる。
 そして、ゆっくりとその目を開き、こちらをじつと覗き込んでくるのだ。

「……俺は、伊織を許すつもりはない。勿論、亮太も……――方人もだ」

 その言葉に一切の迷いはない。
 裕斗が怒っているのが肌で分かった。びり、と空気に触れた箇所に無数の針が刺さるようなそんな気迫に思わず息を飲む。

「裕斗先輩……っ、でも……」
「一番厄介なのは伊織だろうな。……亮太のことも、方人のことも詩織は何も言わない。けど、あいつらが何かを隠そうとしてるのは間違いない」

「つまり、伊織を叩けば必ずボロは出るはずだ」心臓が加速する。じとりと全身に嫌な汗が滲んだ。
 裕斗がしようとしていることを理解してしまったからこそ、余計。

「阿賀松伊織を告発する」

 その一言に体の芯がびりびりと痺れるようだった。ずっと、出来たらいいと思っていた。けれどそれは不可能に等しいと諦めていた。何よりも報復が怖かったからだ。
 ……それを、裕斗は簡単に口に出すのだ。

「……っ、だ、めです……」

 咄嗟に、口から出た言葉を飲み込むことはできなかった。駄目です、裕斗先輩、それは、駄目です。首を横に振り、懇願する。けれど、裕斗の目は変わらない。決意は揺るがないのだ。

「裕斗先輩まで……っ、今度こそ、何かあったら……」
「……お前は本当泣き虫だな、齋藤」
「先輩……ッ」

 今そんなこと言ってる場合ではない、そう顔を上げたとき、頭をそっと撫でられる。抱き締めるように後頭部の輪郭をなぞるようにそっと手のひらで撫でられるのだ。

「詩織だってお手上げなんだ。……だったら、誰があいつを止められるんだ?」
「っ、それは……」
「それとも、齋藤……お前はいいのか?一生あいつらのせいで自分の名前も捨てる羽目になって逃げ続けることになっても」
「……ッ、……」

 良いはずなんてない。
 それが嫌だから阿佐美に抵抗したのだ。
 けれど、けれどだ。裕斗に危険な目に合ってほしくない。裕斗にだけは、もう。

「お前は本当に泣き虫だな、齋藤」
「……っ、裕斗先輩……俺は……嫌です、反対です……っ、先輩がやるくらいなら、俺が」

 俺がします、と言い掛けて「駄目だ」と言葉を遮られる。
 聞いたことないほどの強い語気だった。

「……お前は駄目だ、齋藤」
「っ、どうして……」
「お前には別にやってもらいたいことがあるからだ」

「頼めるやつはお前しかいない、齋藤」裕斗の指がサラリと髪を掬う。先程よりも穏やかで、優しい目はじっと俺を見据えるのだ。
 それがなんだか無性に嫌で、嫌で、堪らなく恐ろしかった。今ならその理由がよくわかった。裕斗という人間を知っていたから、余計。

「齋藤、お前には万が一のために記録に残してもらう。そして、然るべきところにその記録を持っていくんだ」

 どくんと脈が大きくなる。子供に言い聞かせるような優しい声で、裕斗は恐ろしいことを口にしたのだ。

「俺が囮になってあいつを現行犯で捕まえさせる」

「警察が動かないなら、新聞社でもどこでもいい。あいつの凶行を周知させろ」迷いのない目。その口から紡がれるその言葉に息が、呼吸が詰まった。

「……っ、そ、れは……」

 それは、それはつまり。裕斗が。
 俺が言わんとしたことに気付いたのだろう、それでも裕斗は撤回しない。俺の手をきつく握り締めたまま、静かに続けるのだ。

「こんな体だ。前ならまだしも、この状態であいつに殴り合いで真っ向から勝つことは無理だろうな。これが一番手っ取り早い」
「……っ、まだ、治るかもしれない……それなのに、そんな……」

 リハビリすれば、時間さえかければ以前のように生活できるようになると裕斗は言っていた。
 それなのに、と奥歯を噛み締める。

「けど、お前には時間がない」
「……ッ」
「詩織、あいつはお前の代替を用意してる。最初見たとき俺も驚いたよ、一番顔貌が似てる人間を作り上げたんだよ。あいつも、お前のことを思ってるんだ?けど、そのやり方はあまりにも偏執的過ぎるんだ」

 阿佐美の顔が浮かぶ。
 ずっと裏切られたのだと思っていた。見限られたのかと思っていた。
 けれど、実際は違ったのだ。阿佐美は阿佐美なりに俺が助かる道を模索して、裕斗を頼った。

「最初から替え玉は用意してたらしい。……あまりにも長期的にお前が姿を消すと怪しまれるからとな」
「…………」

 俺の知らないところで、俺が動けない裏で何もかもが動いていた。ぞっとした、自分のいた場所に他人が居座っているなんて。声でバレるのではないかと思ったが、そこまで念入りに仕込む阿佐美たちのことだ。なんらかの理由をこじつけ声が変わった設定に仕立て上げるのかもしれない。
 本来ならば無理だと思うが、それでも阿賀松たちならば可能にするのだ。

「……そ、その……替え玉の人に本当のことを言ってもらったらいいんじゃないですか、全部命じられたことだって」
「無理だな。……金で買われ自分を売ったようなやつだ、話がまともにできない。下手すれば俺たちの目論見も露呈する羽目になる」
「……っ、けど詩織なら、ちゃんと話し合えば……」

 言いかけて、思い出す。
 ここへ来る直前、眼前に突き付けられた銃口のことを。言い掛けて、その先は言葉にならなかった。そんな俺を見て、裕斗は無言で頷いた。

「あいつは、言っちゃ悪いが今正常ではない状態だ。……それに、伊織のことになると何を仕出かすかわからない」
「……っ」

 でも、だからといって裕斗を囮に使うなんて。
 下手すれば今度こそ裕斗が死ぬかもしれない。そう考えただけで動悸が乱れ、苦しくなる。
 他に、他に何かないのか。考えろ、もっと他の方法を。

「齋藤」
「っ、きっと……他にもっといい方法があるはずです、こんなことしなくても済む……方法が……」
「…………」
「他の……ッ」

 考えろ。ギチギチと張り裂けそうになる胸を掴み、必死に宥める。冷房の利いた部屋は涼しいのに、体の熱はどんどん増すばかりだった。考えろ。流れる汗が額から頬、顎先へと流れ落ち、寝巻き代わりの患者服を濡らすのだ。
 ――考えろ。

「齋藤、俺はお前のためになるならどうなってもいいと思ってる。寧ろ、本望だ」
「……ッ駄目です」
「齋藤」
「駄目です、駄目です……ッ、それだけは……お願いだから……」

 頭の奥がズキズキと痛む。答えのない問題式を見ているようだった。阿賀松が刺したくなるような相手、阿賀松が許せない相手を差し向ければいい。
 裕斗、俺……縁、そして――芳川会長。
 そこまで考えて、冷や汗が滲み出た。阿賀松を嵌めるとなれば会長は賛同するだろうか、嫌がることはないだろう。そこまで思考し、自分が恐ろしいことを考えていることに気付いた。枠組みを立てろ。阿佐美は阿賀松を助けようとする。
 このままでは阿佐美は俺の整形手術を進めるはずだ、先に止めるとならば阿佐美が優先だろう。
 阿佐美が裏切ったことを阿賀松に伝えて仲違いさせる?
 どくんどくんと鼓動が加速する。運が良ければ阿賀松は阿佐美に手を出すかもしれない。いや、駄目だ。阿佐美は俺を助けようとしてくれた。
 ……本当にか?
 俺の意思を無視して逆らえば殺すと言った阿佐美を信じれるのか?

 考えれば考えるほど雁字搦めになっていく。
 自分の足が泥濘に沈んでいくのがわかった。それでも、裕斗が間接的な死を選ぶくらいならば。

「……ッ、先輩、俺に……考えがあります」

 あまりにも危険な綱渡りだ。
 これでも駄目なら、最終手段が裕斗の作戦になるだろう。それでも何もしないよりかはましだ。
 ただ指を咥えてじっとしてるよりもよっぽど。

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