20
阿佐美が何を言ってるのかまるで理解できなかった。単語としての意味はわかるのに、まるで飲み込めない。咀嚼すらすることを脳が拒否しているのだ。
「し、おり……な、にいって」
「……ずっと、ずっと……ずっと考えていた。けど、俺にはこうすることしかできない」
「限界なんだ、なにもかも」俺の肩を掴む指に力が籠もる。息が浅くなる。
「……ゆうき君、ゆうき君のためなんだ。このままじゃ本当にゆうき君が死んでしまう、俺は、それだけはしたくない」
「けど」と言い掛けて、阿佐美は口を噤んだ。
言いかけたその言葉の先は想像ついた。
……けど、阿賀松が命じたのなら。
「……せ、いけいって……」
「伝手はある。……全部、ゆうき君が心配することは何もない。あとは俺が全部するから、ゆうき君はただじっと……何も考えずに居てくれたらいいんだ」
どこか、聞き覚えのある言葉だ。そうだ、阿賀松に電話越しで阿佐美が言っていた言葉だ。
「ま、って……詩織……」
「……駄目だ時間がない。俺もずっとゆうき君の側にいられない。だから……」
「っ、待って……ッ」
喉の奥、渇いた喉にひび割れるような痛みが走る。大声が辺りに響き、阿佐美は咄嗟に俺の口を塞いだのだ。
「っ、……ゆうき君、頼むから言うことを聞いて。……君を助けるためなんだ」
「っ、ん、ぅ……ッふ、ぐ……ッ」
「……なんで」
阿佐美の大きな手のひらが口元、鼻ごと顔半分を覆い隠すのだ。息苦しさにたまらず唇に触れていた阿佐美の指に思いっきり噛み付けば、阿佐美の顔が強張った。
何故、嫌がるのだと。そんな顔だ。
「っ、詩織……離して……ッ」
なけなしの力だった。ここから逃げられるわけがないとわかっていた。けれど、ここで諦めたら本当に阿佐美は俺を整形させるつもりなのだとわかったから、余計耐えられなかった。
阿佐美の手が離れたほんのその隙きを狙って声を声を荒らげれば、阿佐美の視線が揺れる。
「……っ、どうして……抵抗するの?ゆうき君が……君のためにはこれしかないんだよ」
違う、そうではない。これは阿佐美の中の最善だ。阿賀松に逆らうことができない阿佐美の精一杯の抵抗だ。俺を助けると阿佐美が言うが、阿佐美のその行動で一番助けられてるのは誰だ。
阿佐美が庇おうとしてるのは俺ではない。
「違う……ッ、そんなこと、俺は頼んでない」
「……ッ」
「……ッ俺は、一人だけ助かりたくなんてないし、のうのうと暮らしてなんかいけない」
あの地獄から助け出してくれたのは本当に有り難い。下手していたら死ぬというのもわかっていた。けれどそれは、俺一人が逃げ果せるのが目的ではない。
「詩織のお陰で助かった。……けど、そこまでしなくていい。せめて、学園に……」
帰してくれ、と言いかけた時だった。
石のように硬直していた阿佐美はふらりと後退る。力なく項垂れる阿佐美に思わず息を飲む。
わかってる。俺は阿佐美の決死の助けも全て無碍にしようとしてると。それでも、阿佐美ならば……まだ俺を助けてくれようとしてくれた阿佐美なら。そう思っていた。
「――……そう。ゆうき君は、そう、なのか……」
瞬間。額にごり、と何かが押し当てられる。
暗くてよく見えないが、それでも伸ばされた右腕、その先に握られたものがなんなのか感触から理解した。
……理解してしまったのだ。
「……悪いけど、ゆうき君をこのままあの町に帰すことはできない」
「この案を受け入れてくれないなら口封じするまでだよ」それは、先程までとは違う感情を感じない冷たい声だった。
突き付けられた銃口は逸らされない。
こっちが本性なのか、それとも、演技か。わからない。
それでも突き付けられたその銃にもう先程の震えも迷いもなかった。
阿佐美は俺を殺すつもりだ。阿賀松の名誉を、言いつけを守るため。
悲しくないわけではない、けれど、これではっきりした。
阿佐美にとって俺は阿賀松に比べて取るに足らない存在だと、そう文字通り突き付けられたのだ。
阿賀松に突き付けられたときの恐怖が蘇る。
冗談だろ、なんて言えるわけがない。本気だと肌で感じたからだ。そもそも阿佐美はこんな冗談を言わない。
「……ッ、し、おり……」
逃げないと。逃げないと。ドクドクと脈打つ鼓動。血管の下、流れる血液がマグマのように熱くなる。吹き出る汗、指先が自分のものではないように冷たくなる。もうだめだ。そう嫌でも自分の置かれた状況を理解してしまった瞬間腹部に裂けるような激痛が走る。
「ッ、う……ぐ……ッ!」
先程まで薄れていた痛みも、感覚も、熱もじわりじわりと全身を蝕んだ。下腹部を獣かなにかに噛み千切られるような激痛に耐えられず、その場に蹲る俺を見て阿佐美の顔から血の気が引いた。
「……っ、ゆうき君……ッ!」
「っ、ぁ、ぐ……ッ」
「……っ、やっぱり駄目か……」
舌打ち混じり、体に触れた阿佐美が何かを呟いた。そして手にしていた銃を仕舞うのだ。
「……っ、ゆうき君、口開けて」
何を、と阿佐美を見上げれば伸びてきた指に顎と頬を掴まれ、そのまま口を開かされる。わけもわからぬまま錠剤を口の中に放り込まれたと思えば、俺が吐き出す暇もなく阿佐美は開いた水の入ったボトルを俺の唇に押し当てる。
「ッ、ん、ぅ……ぐ……ッ!」
「……大丈夫、痛みを和らげる薬だから。麻酔が切れたんだろうね」
本当は毒薬なのかもしれない。そう吐き出そうとするが、パニック状態に陥っていた俺はそれを拒むことができなかつた。ごく、と喉の奥へとごろごろとした錠剤が水とともに流れていくのを感じ、血の気が引いた。
阿佐美は俺の口を開き、中が空になっているのを見て安堵したように息を吐く。
「……っ、ゆうき君……」
吐き出したかった。けれど、手も使えない今腹の中に溜まっていく冷たい水の感触に怯えることしかできない。
そんな俺を見て、阿佐美はなにか言いたげにする。詩織、と言い掛けて、その先は言葉にならなかった。強烈な睡魔に襲われたからだ。
掠れていく視界の中、阿佐美がバックドアを閉めた。
――駄目だ、ここで眠ってしまってはいけないのに。
それなのに、抗うことができない。痛みが薄れていく代わりに泥のように崩れていく自我の中、とうとう俺は意識を手放した。
……。
…………。
……………………。
夢を見ることすらなかった。
どれほど眠っていたのかもわからない。
次に目を冷ましたときは見慣れない個室だった。
白い部屋の中、形は違えどもう嗅ぎ馴れたこの薬品の匂いと清潔感のある内装からして病室であるということに気付く。
そして、右手に違和感を感じた。
まるで誰かに手を握られているような違和感に気付き、目を向ければ誰かが俺のベッドにうつ伏せになるように眠っていた。
見覚えのある背格好、その頭に、心臓が停まりそうになる。
「……ん、ぅ……?」
飛び上がりそうになる俺に気付いたらしい。
その男はぴくりと反応し、そしてゆっくりと起き上がるのだ。俺の手を握り締めたまま。
「……っゆ、うと……先輩…………」
その名前を口にしたとき、裕斗の目が見開かれる。そして、愕然とした俺の顔を見た瞬間、視界が揺れる。
軋むベッド、乗り上げてきた裕斗に全身を抱き締められている。
何が起こっているのかまるで俺には理解できなかった。
「……っ、良かった。気付いたんだな、齋藤」
耳障りのよくハキハキとした声も、普通の人間よりやや高めの体温も、薬品が混ざったような匂いも、力強い腕も……何もかもが俺の知っている裕斗だった。
今度こそ俺は死んだのか、だからこんな風に都合のいい夢を見てしまうのか。
……それでも、良かった。なんだってよかった。
裕斗に会いたかった、ずっと、裕斗に会いたかった。会って謝りたかった。お礼も言いたかった。けれど、言葉が出てこない。
「……っ、ぁ……あ……」
「……ごめんな、心配掛けて。俺のこと、ずっと気にしてくれてたんだろ?」
「……ッ、ぅ、そ……」
「嘘じゃない。……ほら、俺だ。それとも、もう忘れたのか?」
からかうような笑い方も記憶と変わらない。
クシャクシャに頭を撫でられ、頬に、額に唇を押し付けられ、そのまま更に抱きしめられる。くっついた頬が熱い。
自分がどれほどまでに酷い顔をしてるのかわからなかったが、裕斗はそんな俺を見詰めて微笑むのだ。ごめんな、と何度も。なんで、なんで謝るんだ。裕斗先輩は何も悪くないのに。悪いのは全部……。
「話は詩織から聞いた。齋藤のことも、方人のことも……――伊織のことも」
どくん、と心臓が大きく跳ね上がる。
「……ど、して……」
「そうだな、お前にもちゃんと全部話しておかないとな」
子供宥めるような優しい声。
体を離す裕斗に、俺は気付いた。
裕斗の右腕の動きがぎこちないことに。
俺の視線に気付いたのだろう、裕斗は困ったように笑った。
「ああ、これか。少しは動くようになったんだがな、どうにも前みたいに力が入らない。……まあ、リハビリを真面目に続けていけば日常生活に支障出ない程度までいけるようだ」
「だから、そんな顔をするな」齋藤と、俺の名前を呼ぶ裕斗。不全麻痺、なんて言葉が過る。そして、最後に裕斗を見たときの光景を思い出したのだ。背後に立った志摩が振り下ろしたナイフが鋭く光るのを。
「……っ、ご、め……」
「お前のせいじゃない。俺が引き起こしたことだ。……自分の弟でありながらあいつを止められなかったのは俺の責任だ」
違う、違うのだ。そう首を何度も横に振るが、裕斗はそれを無視して俺を抱き締めた。左手に比べて力は弱いが、それでも右手でぎこちなく俺の頬に触れてみせた。濡れる頬を撫でられ、裕斗の方を見据えさせられる。
「……っ、お前が……生きてて良かった」
裕斗のこんな顔を見たのは初めてだった。
今にも泣き出しそうな裕斗の顔を見て俺は堪らず裕斗を抱き締めていた。
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