天国か地獄


 19

 ◇ ◇ ◇

 伊織は俺にとって掛け替えのない存在だった。
 産まれたときからずっと一緒だった。
 瓜二つの顔、声、けれど何もかもが違う。
 あいつは俺にできないことをなんでも簡単にやってのけたのだ。
 そして、俺を引っ張ってくれた。

 親はいない。物心ついたときから俺たちの家は施設だった。
 だから、自分が幸せなのか不幸なのかもよくわからない。ただそういうものだと思っていた。
 似たように家に戻れない子供や身寄りのない子供が集まる施設とは建前だ。
 簡素な食事に泣いたら殴られ罵倒される。我儘は勿論楯突くことも許されなかった。
 見張られる中食事をする。一度も味を感じたことはない。それは伊織も同じだろう。
 それでもそんな境遇の中、伊織は他の子供たちから一目置かれていた。というよりも、施設長に可愛がられていたのだ。
 記憶力がよく、頭の回転も早い。何よりも伊織は他人に気に入られる方法をよく理解していた。
 伊織は誰もいなくなった遊戯部屋で独学で覚えたオモチャのオルガンでよく俺に曲を弾いて聞かせてくれた。俺はその時間が好きだった。

 そんな関係が変わったのも九歳の誕生日を迎えた頃だ。
 伊織の引き取り手が現れた。
 現在の理事長、その阿賀松家長男――現在の義父が伊織を引き取ると言い出したのだ。裏でどんな取引が交わされたのか知らないが、施設側は二つ返事でそれを了承する。
 伊織は最初申し出を渋った。
 早くこの施設から出ていくと言っていた伊織がだ。

『詩織ちゃんが一緒じゃないなら嫌だ』

 俺は生きてきた中で初めて聞いた伊織の我儘だった。
 当時俺達は阿賀松家の内情等まるで知らない。けれど今ならば分かる。男兄弟、それも二人も必要ないのだ。ペット代わりではなく跡取りとして迎え入れるつもりなのだと。

『あっちゃん、あのね……俺、一人でも大丈夫だよ』
『嘘だ。お前俺がいないとなんもできないだろ』
『うん、だから……俺、一人でもなんでも出来るように頑張るから。……だから、そのとき迎えに来てよ』

 大人になって、独り立ちしたら。
 もそりと布団から頭を出した伊織は『約束だからな』と俺に何度も確かめた。
 そして、伊織が引き取られてから月日が経つ。
 伊織が側にいなくなって俺は本当に自分が何もできないことを知った。
 伊織が側にいないと人と話すこともできなかった。全部、伊織が俺の言いたいことを話して、理解してくれてたからだ。
 伊織がいなくなった施設はいっときこそは経済が潤ったらしく空気は良かったが、それでも時間が経てば以前の息苦しい場所となる。
 伊織がずっと守ってくれていたのだ。何も出来ずグズな俺は格好の標的になった。
 悲しい気持ちもなかった。泣くこともない。けれど、こんなところを伊織に見せたくなかった。
 だから本を読んだ。ろくに学ぶこともできない環境、ひたすら本を読み、近所の図書館で時間を潰した。

 伊織も頑張ってるんだ。俺も、恥ずかしくないようにならないと。
 約束したのだ、また会うと。

 人と話すことはなかった。
 成長期に入り、身長が伸びるようになると周りの大人たちに露骨に因縁掛けられることもなくなった。それでも裏で何を言われていたのかは分かる。
 陰気だ、不気味だ。気持ち悪い。
 ……その辺りだろうか。

 どうだってよかった。外野の声など興味ない。
 ただ、伊織のことを考えていた。血の繋がっていない人間ほど信用ならない。それをこの施設で俺達は嫌というほど叩き込まれた。
 それでも伊織ならきっと、大成できる。簡単な道のりではないだろうがこんな腐った環境で燻るよりも裕福な家に引き取られた方が伊織にとって幸せになれるから。

 …………。
 ……。

 伊織が阿賀松伊織になってからどれほど経つのだろうか。いくつもの季節を過ごし、当時のスタッフもいなくなった施設には平穏が取り戻していた。
 十六歳になった俺の前に現れたのは赤い髪の男だった。派手なピアス。黒塗りの車の中から降りてきたそいつは俺を見て『よぉ』と笑うのだ。

『迎えに来てやったぜ、詩織ちゃん』

 この男が誰なのかはすぐに分かった。
 毎朝鏡の中で見る俺の顔に瓜二つのそいつは間違いない、伊織――あっちゃんだった。

『引受人は俺だ……って言いたいところだけど、俺のジジイが許してくれたんだよ。俺の好きにしていいって』
『……あ、のさあ……』
『挨拶なんていらねえだろこんな豚箱みてえなところに。ほらさっさと車に乗れよ。手続きは済ませてっから』
『っ、あっちゃん……!待ってってば……!』
『――……もう十分待っただろ』

 会話なんて俺達の間では無意味だった。
 何もない。ここに、執着するものもなにもない。
 初めから選択肢は決まっていた。
 伊織が来いと言うなら俺はそれに着いていくだけだ。

 伊織が俺の全てだった。伊織は決して善人ではない。けれど、伊織の言うことを間違っていると思ったことはなかった。だから俺は伊織に付いていった。
 伊織に用意してもらった名字と部屋で学生として過ごしていた。夢だった。教室で授業を受けるのが。制服を着るのが。それも全部諦めていた。けれど、伊織が全部俺のために用意してくれたのだ。
 伊織一人の力ではどうにもならないこともあっただろう。それでも伊織が俺のためにしてくれたのものだと思ったらそれだけで嬉しかった。
 だからそれに応えたかった。

『……あっちゃん?……何、してるの?』

 ……それに応えたかっただけなのだ。

『入って来んなって言ったはずなんだけどなぁ?……まあいいや』

 男子生徒が倒れてる。
 縛られて、ところどころ骨折してるのか異様なほどに腫れ上がってる。顔はもっと酷い。目の位置が分からないほど腫れ上がっていた。
 誰もいない部屋の中、そこにいたのは伊織とその生徒だけだ。
 部屋の中に充満した嫌な匂いが血と精液の匂いだと理解した瞬間、血の気が引いた。吐き気が込み上げた。
 何をしていたのだ、ここで。

『……っ、伊織……』
『安心しろ。死んでねえよ。……ただちょっと可愛がってやっただけだ』

 なあ?と転がる男子生徒の腹を革靴の爪先で抉るように蹴り上げる。びくんと大きく跳ね上がったその生白い体はそのまま痙攣する。それが震えによるものだと理解した。

『詩織ちゃん、お前も混ざれよ』
『……い、おり……ッ』
『なんでも経験だろ?お前、まだ童貞だよな。……なあ、オナニーのときのオカズはなんだ?お前は安っぽいAVで抜けるか?』
『……ッ、な、に……』
『俺のオカズはなあ、ブッサイクな面で泣いてる野郎なんだわ』

 知らない伊織がそこにいた。
 見たことのない顔で笑う伊織がいた。
 俺の知っている伊織はこんな顔で笑わない。愉しそうに他人を甚振らない。
 何が、どうして。そんなこと考えずともわかった。
 会えなかった空白の時間、なにかがあったのは明白だ。

 ――俺の、せいで。
 ――俺が伊織を送り出したから。

『……混ざれよ、詩織』

 俺達はなにかがあるとすぐに共有していた。
 面白いものも、楽しいことも、全部。
 ならば伊織が今俺と共有しようとしているのはなんなのか。

『……わかった』

 一心同体。
 伊織の苦痛も苦悩も被せられてきた泥もなにもかも俺が半分背負うことで軽減させるなら本望だった。
 これは、俺にしかできないことだから。
 ……そのために俺が産まれてきたのだと思えたからだ。

 ◇ ◇ ◇

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