天国か地獄


 18

 眠っていると胃液が込み上げてくる。
 胃の中で膨らむ違和感に耐えられず、逆流する吐瀉物を堪えることもできずに俺は頭だけ起こして床の上に『それ』を嘔吐する。
 大量の唾液で濡れたそれは茶色く、原型は留めていない。こんな吐瀉物は見たことない。
 何を食べたか思い出そうとし、そこで俺は記憶を取り戻す。
 そうだ、確か阿賀松に……――。
 咄嗟に辺りを見渡せば気付けば阿賀松の姿はなかった。
 どこからが夢でどこまでが現実か最早わからない現状だが、『これ』はドッグフードで間違いないだろう。
 まだ胸焼けするようだった。溜まっていた違和感を吐き出した今でも気持ち悪い。
 服は脱がされたままだ。
 痛む全身を起こそうとして、腹部が引き攣る。腹部の傷口には血が滲んでいる。恐らく痛みの原因はこれだろう。

「は……ッ」

 阿賀松に従順になっていれば安全だと思っていた。
 けれど、明らかに日々エスカレートする行為に体の方がついて行けなくなっていってるのがわかっている。
 阿賀松は俺を試そうとしているのだ。だとすると、行為を辞めるどころか悪化するのは目に見えている。
 今回はドッグフードだった。でも次は?
 土やカッターの刃を食わされる可能性を考えれば阿賀松の言いなりになっているのが得策とは思えなかった。
 ……どうすればいい。
 考え事をしていた。どれほど経ったのか、あるいは数分しか経っていないのかもわからずただ嘔吐物の匂いが充満する部屋の中でぼんやりと天井のカメラを眺めていたとき、扉が開いた。
 逃げ出す気力もなかった。……阿賀松、ではないだろう。なんとなく、阿佐美な気がしたのだ。

「……ゆうき君」

 ……ああ、やっぱり。
 服を着ることもできずにいた俺を見て、特に取り乱すわけでも驚くわけでもなく阿佐美は俺の元にやってくるのだ。
 着替えと食事、そして飲み物。トレーには薬が置いてあるのもわかった。

「……戻したんだね。吐き気は大丈夫?」
「…………」
「いい、わけないよね……そうだよね」

 何も答えないでいると長い前髪の下、阿佐美の視線が揺れた。
 阿佐美が目を伏せた瞬間だ。
 床の上に置かれたトレー、それに置かれた水のたっぷり入ったグラスを手に取る。

「ゆうきく……――」

 そして、俺は中の水ごとグラスを床に叩き付けた。
 水の飛び散る音ともにグラスは砕ける。阿佐美は俺の意図に気付いたのだろう。その顔色が変わるが俺の行動の方が早かった。
 目に見える範囲で一番大きなガラスの破片を手に取り、俺は阿佐美の首にその切っ先を突き付けた。

「……ッ、ゆうき君」
「……ごめん、詩織」

 許してくれ、というつもりはない。鋭いガラス片、そこに反射した自分の顔はあまりにも酷い顔だった。
 俺に残された手段はこれしかない。なんとしてでもここから出るためだ。そう自分に言い聞かせ、更にガラス片を押し付ける。
 本当に傷付けるつもりはなかったが指先が震えてしまい、傷付けてしまった阿佐美の首の薄皮に一本の赤い線がぷつりと走る。それなのに阿佐美は、何も抵抗しなかった。

「……いいよ、やりなよ」

 そして、俺にだけ聞こえるくらいの声量で囁かれるその言葉に息を飲む。
 耳を疑った。今なんて、と阿佐美を見上げたとき、阿佐美の手が俺の手首を掴んだ。

「早くしなよ。……あいつが来る」

 そして、そう確かに阿佐美の唇が動いた。ぐっと掴まれた手首、指先のガラス片が更に阿佐美の首筋に埋まる。

「ぁっ、し、おり……」

 先程よりも深く傷ついた阿佐美の首から赤い一筋の血が流れる。血が。赤い血が。広がる赤にいつの日かの残状と重なり、心臓が爆発しそうなほど大きく脈打った。
 駄目だ、駄目だ。違う。こんなことがしたいわけじゃない。脅すだけなのだ。
 警笛を打つ頭の中、予想だにしてなかった阿佐美の反応に恐怖と動転のあまり俺は咄嗟にガラス片を離してしまった。
 瞬間。

「……ごめん、時間切れだ」

 次の瞬間、ばちりと大きな音ともに大きく全身が痙攣した。脳が揺さぶられる。そして遅れて激痛が走った。何が起こったのかもわからない。ぐるりと揺れる視界の中、こちらを見下ろす阿佐美と、腹部に押し当てられた黒い塊のような何かを見た。
 それがなんなのか俺には知る由もなかった。
 ただ、最後に確かにこちらを憐れむように見ていた阿佐美と目が合ったのだ。

 …………。
 ……………………。
 ………………………………。

 夢現の中声が聞こえた。
 これが現実か夢なのかどうかすらわからない。

『ゆうき君は死んだよ』

 聞こえてきたのは阿佐美の声だ。
 聞き慣れた優しくて柔らかい声ではない、鷹揚のないどこか事務的な感情のない声だった。
 そして俺は真っ黒な闇の中、体を丸めるようにしてその声を聞いていた。

『俺が殺した』

 俺は、死んだのか。
 だとしたらここが天国というのか。

『元々精神面も、肉体も疲弊しきっていた。最期、ゆうき君は俺を殺そうとしてきた。勝てるはずもないのにね。……最初は気絶させるつもりだった。けど、そのショックは衰弱しきっていたゆうき君にとっては致命的だった』

 ……ああ、そうだ。
 確かに俺は自分でも己の限界を感じていた。
 長くは保たないとわかっていた。

『ゆうき君を殺したのは俺だ。伊織は何も悪くない。……伊織にも迷惑を掛けない。だから、この後始末は俺にさせてくれ』

 遠くから聞こえてくる阿佐美の声に、俺は夢現ながらも気を失う直前のことを思い出す。
 何か黒い物体を押し付けられた瞬間、体と意識を強制的に切り離されたのだ。
 ……あれが死んだということなのだろうか。
 ならば、俺はなんなんだ?

『芳川知憲にはゆうき君に似た別人を当てればいい。……心当たりはあるんだ。ああ、……伊織の邪魔はしない』

 がさりと近くで音がした。何かが体に触れるようだった。まるでゴムのようななにかが押し当てられるような違和感のまま、体が浮遊する。
 視界は相変わらず暗いままだ。体も鉛のように動かない。指先にも感覚がないようだった。
 遠くでガチャリと音がし、そして何かが開く音がした。

『……全部、俺に任せて』

 どさりと体を何かに押し詰められた。
 そして、その阿佐美の声を最期にバタンと扉が閉まる音がすぐ耳元で響いたのだ。
 ……それからまた静寂が流れた。

 夢なのか現実なのかも分からぬまま、ただ意識だけがそこにあった。
 それもすぐに理解することになる。
 次第にはっきりとしていく意識の中、俺は確かに震動を全身に感じていた。
 違う、これは……車だ。自分がどのような状況かはまだ飲み込めなかったが、すぐ体の下から聞こえてくる音は間違いないだろう。
 しかし理解したところで体は動かない。
 これは、夢でも何でもない。俺は死んでない。生きている。
 ならばさっきの阿佐美の声は、会話は、なんだったんだ。
 目を開こうとしても何も見えない。
 目隠しをされているのかもわからない、それとも何かに詰め込まれてるのか。

 そこまで考えて嫌な想像が頭の中に走った。
 まさか、阿佐美は俺を遺棄するつもりか?
 ……いや、まさかそんなわけがない。思いたいのに、そう言い切れなかった。

「……ぅ……ッ」

 腕も縛られてるのかびくともしない。足を折り曲げられた体制のママ縛られてるのか、足元を蹴り上げることすらも構わない。
 手足も出ない、とはこのことだろう。汗が滲む。酸素の薄い箱の中に詰められてるのもあるだろうが、それ以上にこの俺を乗せた車がどこに行くのか分からなかったからこそ余計恐ろしかった。
 何度も体を捻り、暴れようとするが全て徒労に終わる。痛みを感じないことが唯一の救いだと思いたかった。
 どれほど経ったのかもわからない。自分の吐息、心臓の音だけがやけに煩く聞こえる中、時間だけが進んでいく。
 どこまで行くのか、どこへ向かってるのかもわからない。けれど、眠っては駄目だ。そう自分を言い聞かせるようにして俺はじっと待ったのだ。
 やがて車が停車する。そして遠くで、恐らく運転席の方からドアが開く音が聞こえた。ややあってバン、と今度はドアが閉まる。それから外に降りたらしいそいつの足音がこちらへと近付いてくるのだ。
 ……阿佐美、なのか。
 信じたくなかった。それでも全てが夢ではなく現実だというのなら、あのとき聞こえてきた声は阿佐美で間違いない。そして阿佐美は阿賀松に対して俺は死んだと伝えたのだ。
 足音がすぐ側で止まった。ドアが開かれる音が聞こえてきた。体に伝わるほどの振動に思わず息を乗む。
 湿気を帯びたむわりとした夏の空気が全身を包み込んだ。そして、視界に光が差す。

「……ッ」

 思わず眩しさに目を細めそうになるのを堪えた。
 月明かりを背にそこに立っていたのはやはり、阿佐美だった。俺にされていたらしい目隠し代わりの布を手に、俺に意識があることに気付きながらも特に驚くわけでもなく阿佐美は俺を見ていた。長い前髪の下、隠された表情からは感情は読みにくい。

「……ごめんね、ゆうき君。キツかったでしょ、ここ」
「……っ、し、おり……」
「喉、乾いたよね。……はい、水。ここなら誰の目がないから大丈夫だよ」
「…………」
「……ごめん、手、使えないんだったね。……ほら、ゆうき君」

 そう、俺の代わりにボトルのキャップを外す阿佐美だったが俺は差し出されたそれを飲む気にはなれなかった。喉が乾いていないわけではない。寧ろ、粘膜がカラカラに乾き唾液すらも出なくなってる状態だ。そんな俺を見て、阿佐美は「そうだね」と一人なにかに納得したように頷くのだ。
 咄嗟に辺りを見るが、既に夜も回ってるらしい。久し振りに見たあの白い部屋以外の景色というのもあったが、明らかにそこは俺の知らない場所だった。どこからか潮の匂いがする。暗くてよく見えないが、酷く静まり返ったそこは海の近くなのだろうか。月しか灯りという灯りがないこの場所では異様に月明かりが眩しく思えるほどだった。

「多分、混乱してるんだよね。分かるよ。……酷い真似も、勝手な真似もした。けど、これしか方法がなかったんだ」
「……どういう、意味……」
「俺は、ゆうき君がこれ以上酷い目に遭うのは耐えられない。……けど、無理なんだ。俺には伊織のことは止められない」

「他のやつらみたいに扱われるゆうき君を見たくないんだ」そう静かに、それでいて選ぶように言葉を紡ぐ阿佐美に俺はますます混乱する。
 どこまでが本当かわからない。以前の阿佐美ならば俺は阿佐美のことを信じれただろう。
 けれど目の前にいる阿佐美が優しいだけの人間ではないと知ってしまった。
 人に銃口を向けることをなんとも思わない人間だと知ってしまった。

「……ゆうき君、ゆうき君は……死んだ。俺が殺した」

 感覚のない手を握られる。そこで自分が縛られていたわけではないとわかった。ゴムのように冷たい阿佐美の手のひらに、全身が強張った。

「ゆうき君、君は……このまま逃がす。一生伊織の目に付かないように、遠くへ。そして顔も名前も全部作り変えて……あいつらの手を届かない場所でしがらみからも開放されて暮らしていくんだ」

 俺にはその手助けしかできない。
 そう、息を吐くように口にする阿佐美。握られた掌からは微かに阿佐美の震えが伝わってきた。

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